12年ぶりで訪れた東エルサレム南郊の「ハルホマ」の風景は一変していた。
小高い丘を覆っていた豊かな緑は消え、代わりに4、5階建ての住宅が丘一面を埋め尽くしている。「売り物件」として掲げてある電話番号に問い合わせると、売値は135平方メートルで160万シェケル(約3750万円)。高級住宅の価格だ。
ハルホマはイスラエルが67年の第3次中東戦争で占領したパレスチナの一部だ。97年3月、右派政党リクードのネタニヤフ政権が、ここにユダヤ人入植地の建設を許可した。
戦争で支配した占領地に、自国民の入植地をつくることは、国際法に違反する。むろんアラブ諸国が反発し、欧州からも批判が上がった。国連安全保障理事会では建設計画の撤回を求める非難決議案が出された。が、米国が拒否権を行使した。
リクードは、イスラエル労働党のラビン首相が95年11月にユダヤ人の極右青年に暗殺された後の総選挙で勝利した。93年9月に労働党政権がパレスチナ解放機構(PLO)と暫定自治協定(オスロ合意)に合意して始まった和平プロセスは、合意に反対していたネタニヤフ首相の登場で逆コースに向かう。その象徴がハルホマ入植地の着工だった。
93年9月13日。私はワシントンの米ホワイトハウスで行われたオスロ合意の調印式にいた。
クリントン大統領に促され、満面に笑みをたたえたアラファトPLO議長が、硬い表情のラビン首相と握手した。「歴史は変わるかもしれない」。私は確かにそう思った。
翌94年5月、ガザと西岸のエリコからパレスチナ自治が始まった。カイロ特派員として、毎月のようにガザに行き、自治の始まりを取材した。ところがオスロ合意から7年後の00年秋、パレスチナ人のイスラエルに対するインティファーダ(民衆蜂起)が始まる。今度はエルサレム特派員として、02年春の西岸の自治区に対するイスラエル軍の大侵攻を取材した。記者として、和平の希望が生まれて無残に打ち砕かれるまでを目撃することになった。
あのアラファトも、ラビンも、もうこの世にはいない。
アラファトは04年11月に病気のためにヨルダン川西岸から搬送されたパリの病院で死亡。パレスチナ自治区ラマラの墓に眠る。「エルサレムを取り戻す」と訴え続けた彼は、結局、エルサレムにたどりつくことはなかった。大理石製で立方形の墓を訪れると、衛兵が2人、24時間態勢で立ち、墓石には「ここに殉教者・故アラファト議長が永眠する」と刻まれていた。
一方の立役者、ラビンの墓は西エルサレムを見下ろすヘルツェル山国立墓地にある。
いま、パレスチナ情勢はかつてないほど厳しい。昨年12月末に始まったイスラエル軍のガザ攻撃でパレスチナ人1300人が死んだ。イスラエル軍はいったん撤退したが、2月10日に行われたイスラエル総選挙で、リクードや極右政党など右派が過半数を占め、ネタニヤフが首相に返り咲く公算が大きい。パレスチナではイスラエルの存在そのものを否定するイスラム過激派ハマスが、ガザを支配し、西岸でも支持を伸ばしている。
(文中敬称略)