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序話 「アリーナ」 3
大きな屋敷も寝入っているのか、廊下はしんと静まり返っている。この時間に起きているのは見回りの警備員たちとジェンティーレたちだけだろうか。もっと小さい頃はそんな暗闇が怖かったが、年を重ねるごとに鷹揚とした性格になっていった今はそれほど恐怖はない。それどころか、隣にいるアリーナとの会話が楽しくてむしろうきうきとしている。
声を潜めながら台所に着くまでの会話を興じていると、不意にアリーナが足を止めた。その際にジェンティーレは腕を引かれ、彼女の後ろに隠される。
「アリー」
名前を呼ぼうとしたジェンティーレは、止められるでもなく自然とその口を閉じた。手にしたランプに照らされたアリーナの横顔が、これまでほとんど見たことがないほどに険しくなっている。そして数少ないその過去を思い出せば、この表情をしている時は決まって近くにあるのだ。――脅威となる出来事、もしくは存在が。
「……お嬢様、足音を立てないようにお部屋へ。慌てないでも大丈夫ですので、どうぞ落ち着いて」
普段の柔らかい声音からは考えられないほどの硬い声に、ジェンティーレは頷くしか出来ない。表情も滅多に見ないものだが、これほどまでに警戒を強めた声もはじめて聞く。
素直に従い来た道を引き返そうと踵を返した。その直後だ。
「お嬢様走ってください! 誰かっ、誰か来てください! あぁっ」
背後でアリーナの叫ぶ声がする。かと思うと、突き飛ばされたような鈍い音が聞こえてきた。走れ、と言われたジェンティーレだが、咄嗟に振り向いてしまう。そしてそこに見たのは、床に倒されたアリーナと、その彼女を床に押し付けている闖入者。アリーナより一回りほど大きな闖入者の性別は知れない。顔を隠しているからではない。顔を見ても分からないからだ。
僅かに破れた人の服をまとった闖入者は、二本足で立ち二本の腕でアリーナを押さえつけている。しかし、その皮膚は短い体毛で覆われ、押さえつける手は人のものとは異なり、頭は猫科の獣――豹のものだ。
「首輪してない……の、野良の人獣……?」
人獣。それは過去の〝とある事象〟以降に生まれるようになった、他の生き物と人が混ざって生まれた存在。彼らは奴隷身分に置かれ、人に所有されることが義務化されている。その証が、種族や主の情報が刻まれたエンブレムがついた首輪だ。もちろん、ジェンティーレの生家であるカウジオ家もその例にもれない。カウジオ家の使用人となっている人獣たちは首輪をつけられている。つまり、それをしていない眼前の豹の人獣は、この屋敷の使用人でなければこのように動き回っていい存在でもない。
震えた声でジェンティーレが呟くと、豹の人獣の細まった瞳孔が向けられた。
「カウジオ家の娘か……乗っ取りがあったって聞いてたが、ただの噂みたいだな。お前を連れて行けば金目のもの奪っていくより多く身代金取れそうだ」
どうやら強盗らしい豹の人獣は男の声でそう呟くと、猫科特有の残虐性を含んだ笑みを浮かべた。床に転がったランプに斜めから照らされたその表情が、見開かれた目が、口から覗く牙が、ジェンティーレを恐怖に包み全身を粟立たせる。
「っ、主も持たない下種の分際でっ! お嬢様に近付くなっ」
豹の人獣が意識を主に向けたと察したアリーナが叫んだ言下、彼女の変化は表れる。
両手の先から皮膚に青寄りの灰色の体毛が生え、それは一気に腕に上がった。身を包む白いドレスが下から何かに突き上げられるように膨らむ。遠吠えを上げるのと同時に人の姿が歪み、頭が、手が、足が、体が、獣の身へと変質した。
ほんの僅かな間で、そこにいるのは人間の女性ではなく一頭の狼へと変わる。そう、アリーナは――狼の人獣だ。
この変身は人獣の特性。パターンとしては、人型、豹の人獣のように一部だけを動物の姿に変えた状態、完全な獣型、の三つがある。どの形態でいるかは本人、または主の意思によって変わるためどれがデフォルトというわけではない。しかし、アリーナに関して言うならば、自ら獣の姿に変わるのはジェンティーレを慰める時か戦うときだけだ。そして今は、当然ながら後者である。
アリーナの完全な攻撃意識に当てられた豹の人獣はすぐに飛び離れた。しかし、アリーナは地面を蹴って最後に残った足に容赦なく噛み付く。狼最大の武器である牙を突き立てられた豹の人獣は悲鳴を上げて転んだ。かと思うと、そちらも獣型に姿を変える。中間型は獣の特性と人の器用さを併せ持つが、戦いとなっては人の弱さが足を引っ張り致命的な遅れにつながるのだ。
だが判断はすでに遅かった。豹の人獣が獣の姿になったとほぼ同時に、アリーナの牙はその喉元に突き立つ。豹の人獣は何とかそれを退けようと唸り声を上げながら転げまわった。それでもなお離れないアリーナの体に、狼の短い爪と違い十分に武器となる鋭いそれが食い込み、皮膚と肉を切り裂く。
「アリーナッ!」
ジェンティーレが悲鳴のような声を上げるが、当のアリーナは低い唸りを上げるだけで顎の力を緩めようとしない。彼女は分かっているのだ。群れで狩りをする狼と違い、豹は単独で狩りを行う獣。まして彼はオス。もしも噛み付く力を少しでも緩めてしまえば、アリーナに勝ち目はない。そうなればどうなるか。アリーナの命だけで済めばいい。もしもジェンティーレに少しでも危険が及んだら――そう考えただけでアリーナは頭がおかしくなりそうだった。
一目見た時から(、、、、、、、)命を懸けられると思った大切な主人のため、アリーナは一層強く噛み付く。それを退けようと豹は何度も爪を突き立てた。どちらの息にも血が絡み、おかしな音が聞こえてくる。
その様子をただ見ているしか出来ないジェンティーレの呼吸は徐々に短く浅くなっていた。目をそらすことも出来ない。逃げることも出来ない。大声を出したくても声が出ない。
周囲に満ちていく鉄の匂いに意識が混濁していく。その頭に、誰かの声が聞こえてきた。遠くのような、近くのような、不思議な響き。ジェンティーレの唇は無意識のうちに開き、声が囁く言葉を音にしようと舌が動く。
「『我が――』」
「いたぞっ、ここだ! 急げっ」
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