■ 熊野の説話 |
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◆ 平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流 |
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治承元年(1177年)、大納言藤原成親(なりちか。1138〜79)を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは、形にならぬうちに平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ、処罰されます。いわゆる鹿の谷(ししのたに)事件です。 南海の孤島、鬼界ケ島に流された成経、康頼、俊寛の3人。 藤原成経(生年未詳〜1202)は、陰謀の首謀者・成親の嫡男。この事件当時、右近衛少将&丹波守。清盛の弟の教盛(のりもり)の娘を妻にしているため、教盛に救われ、死罪を免れました。 平康頼(生没年未詳)は、「今様狂い」の後白河上皇の今様(当時の流行歌)の弟子のひとり。『梁塵秘抄口伝集』にもその名が見られ、熊野御幸にも従っています。康頼の今様の実力については「美しい声で、細く清らかな上に、人前でもあがることなく、息が強い」などと後白河院も高く評価しています。父親の名は中原頼季といい、康頼がなぜ平氏を称したのかはわかっていません。 俊寛僧都(1143〜1179頃)は、法勝寺(ほっしょうじ)の執行(しゅぎょう)。法勝寺は京都市岡崎にあった白河院の勅願寺。執行は寺務を取り締まる上位の役僧。 この3人の鬼界ケ島での生活が、巻二の「康頼祝の事」に描かれています。 さて、鬼界ケ島の流人どもは、露の命は草葉の末にかかって、惜しく思うということではないけれども、丹波の少将(成経)の舅・平宰相教盛の所領肥前国鹿瀬の庄(佐賀市嘉瀬町)より衣食を常に送られてきたので、それによって、俊寛も康頼もどうにか生きて過ごしていた。
丹波の少将と康頼入道は、もとから熊野信心の人々でいらっしゃったので、「どうにかして、この島の内に熊野三所権現を勧請し奉って、都に帰れるように祈ろう」ということになったが、俊寛は、天性、信仰心のまったくない人であって、これを受け入れなかった。 南を望むと、海は果てしなく広がり、雲や煙のような波が深く、北をかえりみると、高く険しい山岳から百尺(約30m)の瀧の水がみなぎり落ちている。瀧の音はことに凄まじく、松風の神さびた景色が飛瀧権現(那智の滝を神格化したもの。那智の地主神)のおはします那智の御山にいかにも似ていた。そこで、やがて、そこを那智の御山と名付けた。 「この嶺は新宮、あれは本宮、ここはどこそこの王子、あの王子」など、王子王子の名を申して、康頼入道の先達で丹波の少将を引き連れつつ、毎日、熊野詣の真似事をしては帰洛のことを祈った。 日数が経つと替えるべき浄衣もないので、麻の衣を身にまとい、沢辺の水で身を浄めては、熊野の岩田川の清き流れと思いをめぐらし、高い所に上っては、ここが発心門(ほっしんもん。熊野権現の総門)と思って観じた。 康頼入道は参るたびごとに、熊野権現の御前で祝詞を奏上したが、御幣紙もないので、花を手折って捧げつつ、 「これ、年のめぐりは治承元年丁酉(ひのととり)に当たる、十二ヶ月、三百五十数日ある中で吉日を選んで、口に出していうのもかたじけないことながら、日本第一霊験、熊野三所権現、飛瀧大サッタの教令(サッタは菩薩のこと。教令は忿怒の相のこと。飛瀧権現の本地は忿怒身の千手観音)、尊殿の御前で、信心の大施主の羽林(うりん。近衛)藤原成経ならびに沙弥性照(康頼)が一心清浄の誠を誓い、身体・言葉・精神の調和の志をぬきんでて、謹んで敬い申し上げます。 これによって、上は天皇から下は万民にいたるまで、ときには現世安穏のため、ときには後生善所(死後に極楽浄土に生まれること)のために、朝には浄水を掬って煩悩の垢をすすぎ、夕方には深山に向かって仏の名号を唱えるのに、感応が起こらぬことはありません。 よって、證誠権現、飛瀧大サッタ(サッタは菩薩のこと)、おのおの青蓮(しょうれん。仏の眼は青蓮に喩えられる)慈悲のまなじりを並べ、小鹿のように注意深い御耳を振り立てて、我らの真心を知見して、ひとつひとつの願いを納受したまえ。 このようなゆえに、苦果を受けることに定まっている業因も、観音を信じれば転ずることができ、長寿を求める礼拝に訪れるものは袖を連ねて捧げものが欠ける暇がない。袈裟を重ね、花を仏に捧げて、神殿の床を動かし(真摯な祈りで神仏の感応を得ることのたとえ)、信心を水のように澄まして、利生の池を湛えています。神様が納受しなされば、どうして願いが成就しないことがありましょうか。 成経と康頼の2人は、熊野信仰を心の支えに孤島生活を耐えていたのでした。物語を続けます。「卒塔婆流しの事」。 そういった次第で、二人の人々は、普段は熊野権現の御前に参り、通夜するときもあった。 沖から白い帆をかけた小舟が一隻、汀に漕ぎ寄ってきて、舟の中から紅の袴を着た女房たち二十、三十人が渚に上がり、鼓を打ち、声を整えて、
と、くり返しくり返し三度、歌い、歌い終えると、かき消すように失せてしまった。 こういう夢を見た。康頼入道は夢から覚めて後、奇異の思いにとらわれながら、 またある夜、二人が参って通夜したときの夢に、 沖から吹いてくる風が、木の葉を二つ、二人の袂に吹きかけてきた。なんとなく、これを取って見ると、御熊野のなぎの木(熊野三山に多く見られた木)の葉であった。その二つのなぎの葉に、一首の歌を虫喰いの文字が書き付けてあった。
康頼入道は、あまりの都恋しさに、せめてもの謀であろう、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字、年号、月日、仮名、実名、二首の歌を書きつけて、海に流すことを考えついた。
この卒塔婆を浦に持って出て、 この一本の卒塔婆を、康頼に縁のある僧が拾い、康頼の老母・妻子のもとに届けたました。このことが後白河院の知るところとなり、重盛、清盛にも伝えられ、さすがの清盛も、哀れに感じ入ったそうです。 そののち、高倉天皇の后になっていた清盛の次女・徳子(のちの建礼門院)が懐妊します。それを知った清盛は、高僧貴僧に命じて皇子の誕生を祈らせますが、産み月が近づくにつれ、徳子は体調を崩してしまいます。 恩赦が行われ、鬼界ケ島の流人、熊野権現に帰洛のことを祈り続けた成経と康頼の二人も赦免されます。しかし、俊寛僧都だけは赦されませんでした。一人残されることとなった俊寛僧都は、嘆き悲しみ、半狂乱になります。二人が島を出ていき、一人取り残された俊寛は、やがて食を断ち、弥陀の名号を唱え、死んでいきました。 その後の藤原成経と平康頼について。 2015.8.26 更新 (てつ) ◆ 参考文献・参考サイト
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