空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』奈須きのこ
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◆ 空虚に巣食う魔 ◆
―― 笠井潔と『空の境界』奈須きのこ
アレクセイ(田中幸一)
話題の新人作家のデビュー作『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読みはじめて、いきなり「文章」に引っ掛かってしまった。一家をなしたベテラン批評家である笠井潔から、上下巻にわたる長文の解説をもらうという「破格の配慮」をうけた「(読書界では)無名の新人作家」の作品だったから、ことさら評価が厳しくなった、というわけではない。むしろ奈須きのこは、笠井潔に見込まれ(巻き込まれた)人なのだろうから「彼には、何の罪咎もない」と私は考える。だから、奈須に「破格の配慮」に値する力量 があろうとなかろうと、彼に厳しくあたろうなどという気は、私には微塵もなかった。……なのに、いきなり文章に、ひっかかってしまった。
有り体にいえば、文章が下手なのである。いかにも同人作品らしく、文章が生硬で、読んでいてひどく抵抗を覚えてしまう。はたして、上下巻を読み通 せるか、と不安になった。
奈須きのこ(『空の境界』)の文章について、賛否両論のあることは、既に承知していており、私は事前に次のように書いている。
『 「講談社ホームページ」の「試読本」のページや、amazon.co.jp「空の境界(上)」やamazon.co.jp「空の境界(下)」などのページをちょっと覗いてみた範囲で言いますと、『空の境界』の評価は「キャラが立っていて、独自の世界観があり、とても素晴らしい」という意見と、「ペダンチックな作風で、文章が読みにくく、私には合わなかった」という意見の、二つの立場に大別 できるように思います。
「ペダンチックな作風で、文章が読みにくい」という評価は、奈須が笠井潔や竹本健治のファンであることを考えれば、容易に納得のいくことです。なぜなら、笠井や竹本自体が、その初期には「悪文」呼ばわりされることも、ままあったからです。したがって、奈須の文章が読みにくいという意見は、むしろ読者の方が『たぶん読書慣れしていないための感想だろう。』とする擁護論も、あながち外れてはいないと思われます。エンターティンメントしか読まない読者にとっての「良い文章」とは、まず何よりも「読みやすい(リーダビリティーの高い)」文章ということになるのでしょうが、ことはそんなに単純ではありません。個性の強い、一般 には「読みにくい(悪文)」とされるであろう文体だからこそ、開示できる世界というものも確実にあり、それゆえに文学の世界は、奥深くもあるのですからね。』
(「暗い波及効果 」より)
と書いて、(断定は避けたものの)どちらかと言えば、奈須を擁護する側に立っての文章論を展開した。
しかし、『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもなかった。文章が下手だとは言っても、先般 、『葉桜の季節に君を想うということ』で日本推理作家協会賞を受賞した歌野晶午の、デビュー作(『長い家の殺人』)当時の文章に比べれば、数段マシだとも言える。歌野がその後、目を見張るような成長的変貌を遂げたように、奈須きのこも今後、小説を書き続けていく中で、文章もこなれて、次第に上達していくのは、ほぼ間違いのないところであろう。
だが、この時点での客観的評価としては「奈須きのこは、文章が下手である」としか言いようがなかった、というのも偽らざる事実なのである。
もちろん、「うまいか下手か」ということを、主観的に語ってみても仕方がない。そこで、以下に具体例を示して、説明を加えていきたいと思う。
○
(1) 投身自殺に行き会わせた体験を語る、作中人物 黒桐幹也の語り(一人称の短文)が、第1章第1節の前に掲げられている(P8)。
「私」がそれに行き会わせた状況と、その変死体の状況を叙した後、
その一連の映像は、古びた頁に挟まれ、
書に取り込まれて平面になった押し花を幻想させた。
と、その変死体の印象を記している。
平たく言えば、地面に叩きつけられて、ぺしゃんこになった死体が「古い本の頁に挟まれた、押し花のように見えた」という意味なのだが、この悪凝りした文章は、あまりに幼なすぎて、「いかにも同人誌的」という印象しか、私にはあたえない。特に『古びた頁に挟まれ』というのは、たぶん「古びた本の頁に挟まれ」という意味だろうから、「古びた」という形容詞のかかる先がおかしい。またここで「本」とか「書物」と書かず、わざわざ『書』と書いているのも、「書画骨董」の「書」を連想させるだけで、不適当であろう。さらに、単に変死体が『押し花』を「連想させた」だけなのに『幻想させた』と表現するのも、大仰すぎて滑稽ですらある。
(2) 第1章第1節の冒頭部である(P9)。
『 八月になったばかりの夜、事前に連絡もなく幹也がやってきた。
「こんばんは。相変わらず気怠そうだね、式」
突然の来訪者は玄関口に立って、笑顔でつまらない挨拶をする。
「実はね、ここに来る前に事故に出くわしたんだ。ビルの屋上からさ、女の子が飛び降り自殺。最近多いって聞いてたけど実物に遭遇するとは思わなかったな。―――はいこれ、冷蔵庫」』
まず『八月になったばかりの夜』という表現の意味するところは「八月になったばかりの(とある日の)夜」という意味なのだろう。この省略表現は、間違いとまでは言えないものの、「夜が、八月(や九月に)になる」かの印象を与えるので、あまり適切な省略だとは言えない。そのせいで、文章全体がぎくしゃくした印象を与える結果 となっている。
また、ここでの黒桐幹也のセリフは、本来区切られるべきセリフをひとまとめにしているため、とても「説明的」な印象をあたえる。名探偵の謎とき(のセリフ)などのように、場合によっては、「説明的」なセリフも不都合ではないが、この程度の日常会話(雑談)で、「説明的」な印象を与えるのは、小説のセリフ文(科白)として失敗している、と言っても過言ではなかろう。
(3) 黒桐幹也という人物を紹介した、両儀式(人物名)の一人称の語り(P10)。
『 数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代の若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。』
ここでも形容の対象が、曖昧にしか指示されていない。つまり『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』というのが『現代の若者』のように読めてしまう。作者は『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』という言葉を『現代』にかかる形容としているつもりなのだろうが、とてもそのようには読めない。作者の意図を正確に反映しようとすえば、この文章は、
「数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代に生きる若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。」
とでも、すべきであろう。
(4) 「飛び降り自殺」についての会話(P12)。
『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』
二人が、何を議論しているのか、すぐには呑み込めなかった。が、要するに作者は、『事故』という言葉の意味を知らないのである。それを知らないでいて、『飛び降り自殺』は『事故』か否かという不毛な議論を、作中人物たちにさせているのである。あたかも、その議論が哲学的に奥深い意味でも有しているかのように、思わせぶりに。
「事故」とは『(多く「ことゆえなく」の形で)さしさわり』のことである。つまり、「故なく、生じた差し障り」のことなのだから、『飛び降り自殺』は議論の余地なく『事故』ではない。『自殺』には曖昧なものではあれ「故意」が介在するからで、それは本人の意志にかかわらない、「事故」や「過失死」や「病死」とは、明確に区別 される。
作者は、『飛び下り自殺』という行為の「故意の有無」の部分と『高い所から落ちる』という現象面 を切り離して、前者を「非・事故」的、後者を「事故」的であると評価しているので『他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね』などという意味不明な言葉を書きつけてしまうのである。
しかし、言うまでもなく、『飛び下り自殺』は、『他殺』ではなく「自殺」であり、『事故死』ではなく「自殺死」である。『高い所から落ち』ようが、首をくくろうが、それは「(自殺死の)手段」の違い(バリエーション)に過ぎない。
したがって『他殺でもなく事故死でもない』というのは『曖昧』でも何でもない。『曖昧』なのは作者の「日本語」理解なのである。
(5) 第1章第2節の冒頭部(P14)。
『 八月も終りにさしかかった夜、散歩をする事にした。』
この文章のぎこちなさも、これまでと同様「主語の曖昧さ」によるものである。普通 に読める文章にしようと思えば、
「 八月も終りにさしかかった、とある夜、私は散歩に出ることにした。」
ということになろう。この書き換えで、原文の魅力を損なったとは思えない。そもそも原文には、その読みにくさに値するほどの魅力などないと、私は思う。
(6) 散歩途上の風景描写(P14)。
『 夏の終わりにしては外気は肌寒い。終電はとっくに過ぎていて、街は静まり返っていた。
静かで、寒くて、廃れきった、見知らぬ死街のようでもある。』
『死街』というのは「死骸」と「市街」の掛け言葉なのだろうが、そんな「誰も見たことがないもの」の『よう』だと言われても、言葉が意味をなさない。これでは、幼いまでの「思いつきの濫用」としか評価のしようがない。
ついでに言うと、ここは『散歩』のシーンなのだから、『外気は』という主語は無用であり、余計ですらある。さらに言うと、『外気は肌寒い』では「外気は肌寒い(と感じている)」という意味にも取れる。もちろん、正しくは「外気は(私によって)肌寒(く感じられるほど低)い」のである。だから、どうせなら、
「夏の終わりにしては、外気は肌寒く感じられた。」あるいは「夏の終わりにしては、外気は肌寒いくらいだった。」とでもすべきであろう。前者には「私に」が省略され、後者のは「低い」が省略されている。もちろん、最初に指摘したとおり、もっとシンプルに「夏の終わりにしては肌寒い。」で充分である。「夏の終わりにしては外気が肌寒い」でもいい。
(7) 同じく散歩途上の風景描写(P14)。
『 そんな真夜中でも歩けば人と出会った。
俯いて、ただ早足で進んでいく誰か。
自販機の前でぼんやりとする誰か。
コンビニの明かりに集う、幾多もの誰か。』
『幾多もの』などという日本語はない。ここは「幾多の」(人々)で充分。『幾多もの』という表現は、「無限もの」とか「無数もの」という表現と同じで、誤った強調表現である。『幾多』というのは「無限」「無数」などと同じく「数えきれない(計り知れない)ほど」多いという意味だから、その多さを重ねて強調しても無意味なのだ。つまり、無限を何倍しても無限にしかならないということ。「究極の無限」「数えきれないほどの無数」などといった表現が「形容矛盾」に近い「無意味な過剰形容」であるのと同じことなのである。
以上、わずか10ページほどの中に、おかしな表現が(目立ったものだけでも)こんなにあった。これでは、この先の文章に期待せよという方が無理だろうし、上下巻あわせて850ページにも及ぶ大作を読みとおすのに、不安を覚えるなという方が無理であろう。
前述したように、まだ若い作家だから、文章が下手なのは我慢しよう。それ以外の部分で、小説としての魅力を持っていれば、そこを評価することに吝かではない。しかし、冒頭10ページを読んだ時点で既に判明したと言ってよい、「(奈須きのこは)文章が下手である」という事実評価を、ここに明記しておく必要はあるだろう。これは、私の予想に反して、「好みの問題」というレベルの話ではなかったのである。
○
『空の境界』の文章が、壊滅的に酷いものであるという事実については、すでに実例を挙げて証明しておいた。しかしそれは、『空の境界』の冒頭10ページほどを読んだだけの段階でのことである。
「だから」と言うべきか、「それでも」と言うべきか、ともかく私は、このデビュー即ベストセラーになった新人作家の小説を、いちおうは最後まで読んで、きちんと評価してみたいと、その段階では考えていた(上下各巻の帯には、それぞれ『これぞ新伝綺ムーブメントの到来を告げる、傑作中の傑作』『これぞ新伝綺ムーブメントの起点にして到達点』という惹句が躍っている)。
しかし、その意欲は、冒頭30ページまで読むにいたり、あっさりと挫折してしまった。あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さに、それ以上は読むに堪えなくなったのである。
私は、笠井潔の俗物性を憎みこそすれ、奈須きのこを憎む理由など少しも持たない。奈須きのこが、笠井潔の推輓をえてデビューした作家だからといって、彼に八つ当たりするほど、私はつまらない人間でもなければ、党派的な人間でもないつもりである。しかし、下手なものは下手、ダメなものはダメとしか評価のしようがない。これは、笠井潔云々以前の話なのである。
なぜ、笠井潔はこの程度の作品を持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者(笠井潔を含む)とって、『空の境界』の文章は、あまりに酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。
ともあれ、笠井潔の「解説」では、まったく言及されることのなかった『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』について、ここでもう少し、実例に則して説明を加え、その上で、この点に口を閉ざした笠井潔による「解説」の意味を、後で問うてみたいと思う。
前回は、目次や扉ページを除いて、実質的に本編がはじまるP9からP17の章の区切り部分までを対象として、目につく「おかしな文章」を取り上げたわけが、ここでは、それ以降、P33の第1章第2節の最後までを対象とする。ここまで読んで、私は通 読を断念したのである。
(8) 風景描写。(P17)
『 行儀よく同じ高さのビルが道に並んでいる。ビルの表面 は一面の窓ガラスで、今はただ月明りだけを反射していた。』
『ビルが道に並んでいる』わけはない。道に「沿って」並んでいるのである。また、ここは深夜のビル街の散歩シーンなのだから、そもそも『道に』は不必要だろう。誰も、ビルが林や田んぼのなかに並んでいる情景を思い浮かべたりすることはない。つまり「行儀よく同じ高さのビルが並んでいる。」で充分でなのある。
『ビルの表面は一面の窓ガラスで』……言いたいことはわかるが、日本語になっていない。作家が言いたいのは「ビルの壁面 は一面ガラス張りで」ということなのであろうが、「壁」がガラスで出来ている以上、そこには「窓」という設備は存在しない。したがって、ガラス壁のガラスを『窓ガラス』と形容するのは間違いなのである。
(9) 意味不明な形容。(P17)
『 その時―――つまらない影が網膜に映りこんだ。
人型らしいシルエットが視界に浮ぶ。』
『つまらない影』とは、いったい何なのか? もちろん例外的には「面 白い影」もあるだろうが、普通、影は面白くもおかしくもないものだから、『つまらない影』などという「意味をなさない日本語」を書く者は、まずいない。小説家では皆無と言ってもいいだろう。
(10) 人形の描写。(P20)
『 それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。人間をそのまま停止させたようなそれは、同時に、決して動かない人型である事を明確に提示していたと思う。
明らかに人ではなく、同時に人にしか見えないヒトガタ。
今にも息を吹き返しそうな人間。けれど初めから命などない人形。生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。
その二律背反に、僕は虜になった。』
この作家は『二律背反』が好きである。しかし、彼の言う『二律背反』とはたいがい『二律背反』ではなく、単なる「論理的混乱」に過ぎない。この作家の非論理性については、「自殺-事故死-他殺」をめぐる議論で指摘済みである。
この「人形」をめぐる議論でも、同種の「言葉の混乱」による「論理の混乱」が見られる。だが、それがそのまま、「思わせぶり」な議論として、ヌケヌケと読者の前に放置されてもいる。しかし、『道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど』などという恥ずかしい日本語や、『生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。』というほとんど意味不明な文章に、その誤謬は明らかである。
『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』を、普通 に(論理的に)意味の通る日本語に訂正すると、
(A) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫った、すごく精巧な人形だった。
(B) それは道徳の限界ぎりぎりに迫る、すごく精巧な人形だった。
(C) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったと思えるほど、すごく精巧な人形だった。
となるだろう。
『迫ったほど』などという表現は、『幾多もの』という表現同様、論理矛盾を来たしたものなのである。
ちなみに、「人間そっくりの人形を作ること」が、どうして「道徳」と関係してくるのかだが、これは「人形づくり」が「神の御技」の僭越な模倣であるという意味において、「反道徳的」だと考えることができるのである。
だが、この作者にそこまではっきりした認識があって、『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』などと書いたかどうかは、はなはだ疑わしいと言わざるをえない。むしろ「人形づくりとは、背徳的で甘美な魅惑に満ちた行いである」といった、使い古されて言い回しを、無自覚になぞっただけなのではないかと、私には感じられる。
この作家の論理レベルから推せば、こうした「思わせぶり」な表現は、内容を欠いたその「思わせぶり」による「朦朧」性にこそ、価値があるのではないか。つまり、「無意味(無内容)」だからこそ、非論理的な読者からは「過大評価」という「誤解(妄想)」呼び込むこともできる、ということなのではないか。
京極夏彦風に言えば「その箱は、からっぽだった。そこに魍魎が湧いた。魍魎とは、空虚のことだった。――なんだか、ひどく疲れた」とでもなろうか。
(11) 連続飛び降り自殺事件に関する警察の動きについての、黒桐幹也の意見。(P23)
『「……だって遺書が公開されてないでしょう。六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしい物を公開してもいいだろうに、それをひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」』
この論理的混乱は、黒桐幹也をことさら「頭の悪い人物」として描いているせいではなかろう。問題は、作者のほうにある。
遺書の残された自殺があった場合、「警察」がその遺書を公開することは、まずない。これは件数には関係がない。なぜなら、それはそれぞれが、死者の「プライバシー」の無用の侵害にしかならないからである。「警察」が遺書を公開するとすれば、それはその「自殺」が疑われている場合であろう。つまり「自殺」ではなく「偽装殺人」なのではないかなどと疑われる場合に、遺書の信憑性が問題となるから、裁判などでそれが「証拠資料」として取りあげられ、その過程でマスコミに公開される場合もある、というだけの話である。
したがって、明らかに自殺だと認識されている場合には、「警察」は「自殺者」の遺書を公開したりはしない。「遺族」が、マスコミの要請に応じて公開することはあっても、「警察」が勝手に公開するようなことはありえない。これは『数』の問題ではないから『六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに。』ということにはならないのである。
無論、「公開しない」ということと『ひた隠し』にするということは、同じではない。同様に「非公開」と『隠蔽』は、同じ意味ではない。当たり前の話なのだが、その区別 が、作者にはついていない。だから、読者に好感をもたせてしかるべき「主要な登場人物であり、語り手」である黒桐幹也に、バカ丸出しのことを語らせてしまう。
また、『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに』という文章は、「主語」が曖昧である。公開するのは「警察」なのか、それとも八人の「自殺者」のうちの『一人(ぐらい)』なのか。――もちろん、死者である「自殺者」は遺書を公開できないから、公開するのならば「警察」か「遺族」ということになろう。ここでも文脈から言えば「警察」のことを言っているのは明らかである。しかし、
『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもしてもいいだろうに』
という文章では、どう読んでも『公開』するのは「自殺者」本人ということになってしまう。だから、この文章は本来なら、
「それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを残していてもいいだろうに、それを(警察が)ひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」
とすべきところなのである。しかし、遺書の存在そのものが公にされていないのだから、こうした議論自体そもそも成り立たない。つまり、作者はここで、「遺書の存在」の問題と「遺書の公開」の問題を混乱させて、話を「思わせぶり」にしているだけなのである。――このことは、この先のところで、黒桐幹也が、
『「……遺書は公開されないんじゃなくて、初めから用意されてないって事ですか?」』
という科白を吐くことからも明らかである。これは、黒桐幹也が気づかなかったことに気づく、蒼崎橙子の知的鋭さを強調する場面 なのだが、その橙子の説明も見事なまでに非論理的で、ほとんど『ドグラ・マグラ』のワンシーンを連想させるほどである。曰く、
『だから、それが関連性だ。いや共通 点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』
なにが『故に』なのか、まったくわからない。何の論証にもなっていないのだ。
自殺者に、ハッキリとした動機が発見されないというのは、ごくありふれたことである。それこそ、遺書が残されておれば、そこに理路整然と自殺の理由がしたためられているといった「例外的な事例」もあろうが、遺書が残されていてさえ、自殺の理由がハッキリしないことなど、世の中には幾らでもあるのだ。芥川龍之介だって『漠然たる不安』によって自殺したんだなどと言われているではないか。
なのに蒼崎橙子は、死者たちの投身時の状況が自殺としか思えないことと、『彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もない』といった事実だけで、死者たちの死の理由が『極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』と断言する。
自殺の理由など、それこそ露見していないだけで、じつは会社の金を横領していたとか、失恋や友人の裏切りといった、ハッキリとしたものなのかも知れないではないか。それをどうして、こうもあっさり『自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』などと断言できるのか。
――答えは、その方が事件自体を「思わせぶり」なものとして演出できるし、断定的口調が蒼崎橙子の頭の良さを表現し(え)ていると読者に誤解させることができる、と作者が考えているからである。つまり、作者によって想定される読者の知的レベルは、極めて低いと言えよう。私から見れば、蒼崎橙子はバカそのものである。
(12) 蒼崎橙子の言葉についての黒桐幹也の内的思考。(P24)
『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
遺書のない自殺。
遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
ではなにか。考えられる理由は一つ。
つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』
『遺書がないのはなぜだろう。』――蒼崎橙子の無根拠な断定を鵜呑みにしている。バカである。
『遺書がないのでは、人は自ら死なない。』――まるで逆である。遺書があるから、人は自殺するのではない。自殺する者が、遺書を書いたり書かなかったりするだけの話である。黒桐幹也は、単に頭が悪いだけではない。彼には因果 律すら存在しないのである。だから、論理的思考などできようはずもない。
ここでの黒桐幹也の内的思考のデタラメさについて、逐一解説する気には到底なれない。私が説明しなくても、わかる人にはわかるし、わからない人には説明そのものが理解できないに決まっているからである。
ただし、大まかにだけ説明しておくと、 黒桐幹也の思考は、「極論」が「スタンダード」にすり変わり、個人的な「感想」や「仮定」がいつのまにか「定義」になり、やがて単なる「思いつき」が「確信」へと妄想的に変移して「断定」に結果 する、といった態の「蒙昧」そのものなのである。
もしかすると、――笠井潔は、この小説をちゃんと読んでないんじゃないか、と思ってしまう。それなら幸いなのだが、そういうことでもないらしいのが、かえって恐ろしい。笠井は(頭が)どうかしてしまったのだろうか?
(13) 両儀式の「飛行」に関する見解。(P25)
『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』
『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。』――意味不明である。
『人間だけの力で飛行』というのは、「人力だけ」という意味で「動力を用いない」ということなのか、それとも「一切の道具」を用いず「裸一貫」で飛ぶということなのか。
言うまでもなく、人間は「動力」を用いずに空を飛んでいる。「ハングライダー」での飛行は、立派に「無動力」飛行である。それとも両儀式は、「ハングライダー」という道具を用いているから『人間だけの力で飛行』したとは言えないとでも言うのだろうか。それならば不可能なことはわかり切っている。『過去』も『未来』もありはしない。話にならない。
『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――日本語ではない。イヤになる。いきおい文章がぶつ切れになってきた。
『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――頭が痛くなりそうである。吐き気を催しそうだ、と言っても良い。
これも書くのなら、
・ 飛行という言葉と墜落という言葉は一対のものだ。
・ 飛行と墜落とは、観念連合を為している。
といったところだろう。
『だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』――言うまでもなく『空に憑かれた者』ほど『欠落』させているのは、「飛行と墜落とは一対のものだ」という「認識」であって、『事実』ではない。だから、事実として『墜落』することがあるのである。
(14) 地面についての蒼崎橙子の説明。(P32)
『しかし、君が水平と思っている地面 も不確かな角度なんだぞ。』
『地面』は、確かか不確かかにかかわりなく『角度』なんかではない。それも言うなら、
「しかし、君が水平だと思っている地面も、厳密に言えば、いくらかの角度はついてるんだぞ。」
これで、もう充分に『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』を立証できたと思うが、いかがであろう。
ともあれ、たかだか30ページほど読んだだけで、こんなに引っ掛かるところがあるのだから、私が、上下巻で約850ページの通 読を断念した気持ちは充分に理解してもらえようし、こんな作者に期待できないという気持ちも理解してもらえると思う。
見てのとおり、笠井潔が推薦した新人だから腐している、というわけでは断じてない。これは、そのずっと以前の話なのである。
○
さて、『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』については、ここまでの実例批判で十二分に証明できたかと思う。この小説はたしかに、読むに堪えない文章と思考力によって書かれた小説である。
だが、笠井潔は、上下巻にわたる長文「解説」の冒頭部で、この作品を、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証することにしよう。』(上巻P409)
と書いている。
言うまでもなく、笠井潔によってこの「解説」が書かれた段階では、『空の境界』は「同人小説として、異例に良く売れた」という実績しか持っていない。したがって、笠井の言う『伝奇小説に新地平を拓いた』というのは、「内容的には」拓いたと言ってよい新しさがあると「笠井潔が(個人的に)評価した」ということに過ぎず、現に『伝奇小説に新地平を拓いた』というわけではない。それはまだ、「解説」執筆段階においては、「笠井潔の頭の中だけに存在する、可能性」であるに過ぎない。つまり、まだ『秘められている』に過ぎないのである。それを、あたかも「実現」したものであるかのごとく『伝奇小説に新地平を拓いた』と書いてしまうところに、笠井潔の評論の『偽史』性があると見てもよい。
この「解説」を読んだ者のなかには、笠井潔のこの断言から、あたかも『空の境界』が『伝奇小説に新地平を拓いた』結果 、それに続く「新伝綺」小説が陸続と生み出されて、『八〇年代伝奇小説』ブームを思わせるような活況をひき起している――かのような「幻想」を、そこに見た者も少なくなかろう。
私がすでに指摘した、「文章のまずさ」や「非論理性」にまったく気づかない読者が、『空の境界』という作品の人気を支えているのだとすれば、そうした読者が、笠井潔の「解説」が描き出した「解釈」や「仮説」や「幻想」を、そのまま「事実」だと信じ込む可能性も、充分に高いと言わねばならない。それはまた、この「解説」を書いた笠井潔自身にも、あらかじめ推測され、期待されていたことなのであろう。
笠井潔による、上下巻にわたる「解説」は、
上巻解説 : 山人と偽史の想像力
下巻解説 :「リアル」の変容と境界の空無化
と題され、先の引用文にもあるとおり、上巻解説は『『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証』した、笠井潔流の「八〇年代伝奇小説 概論」であり、『空の境界』の独自性が論じられるのは下巻解説においてである。
笠井潔は「八〇年代伝奇小説 概論」たる「山人と偽史の想像力」において、「八〇年代伝奇小説」ブームを支えたものを、次のように説明してみせる。
『一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備したところの、天皇の想像的な再中心化というフィクションが、八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した。第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説が、未曾有のブームを巻き起こしたのも当然であろう。しかし伝奇小説のジャンル的繁栄は、八〇年代とともに終る。
一九八九年一月、昭和天皇の死に直面した八〇年代伝奇小説は、急激な失速と空転の過程に入った。東アジアの占領地で大量 虐殺を繰り返した皇軍の大元帥という魔的なイメージが、伝奇小説的な想像力を裏側から支えていた。魔王としての昭和天皇の生物学的な消滅は、天皇を最大最兇の敵役に祭りあげていた伝奇小説的な想像力に、回復不能ともいえる深刻な打撃をもたらしたのだ。
差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』(上巻P430~431)
なるほどよくできた「仮説」である。つまり、「物語」的に「よく描けた絵」だ、という意味である。
たしかに、
『差異の解体を利潤に転化する資本主義の徹底化した高度資本主義は、上下の垂直的差異(階級社会)を横並びの水平的差異(総中流社会)に平準化する。八〇年代の高度資本主義は「消費する『階級』の解体」を促進し、総中流社会を実現した。しかし八〇年代の総中流社会とは、三島由紀夫が予見した無差異性の凡庸な地獄の完成でもある。他人と同じであるという凡庸性に、人間は耐え続けることができない。』(上巻P429)
という状況から、人々は「個性」を主張しようと、様々なものにものに憑依した。その多くは「ブランド」品と呼ばれるもので、ブランドの権威がそれを身に纏う者の「個性」を保証してくれるという「幻想」に、多くの人たちは賭けたのである。「オタク」という生存様式もまた、同様の心理から生み出されてきたものなのかも知れない。「物」であれ「情報」であれ、人並み外れて徹底的に「保有」することにより、他人との差異化を図ったというわけである。――無論、こうした「差異化の欲望」というものは、自身の「身の安全の保証」ということを大前提としており、自己の他者との差異化とは、常に自己が他者の優位 (上位)に配置されるものでなければならなかったのは、断るまでもないことである。
ともあれ、『空の境界』の「解説」において笠井潔は、「ブランド」への憑依などといった個別 の対応では解消しきれなかった「差異化の欲望」をタイミングよく捉えたのが『第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説』であった、と主張しているのである。
「天皇」という絶対的な「差異」を持ち出すことにより、平準化されきった『無差異性の凡庸な地獄』に「起伏のある物語性」を回復し、その後、固定してしまっては困る「天皇」の抑圧的な差異性を、「天皇」の対極的な存在である「山人と偽史」の想像力をぶつけることで中和化し脱中心化する、という便利で安全なシステムが「伝奇小説」というものであったから、八〇年代には「伝奇小説」が一大ブームとなったのだ、――というのが笠井潔の立論なのだ。
笠井潔の、この立論は、3つの仮説によって構成されている。それは、
(1) 八〇年代状況論
(2) 「天皇の虚構的中心化」論
(3) 「山人と偽史の想像力」の勃興論
である。
私は、(1)と(3)については、おおむね承認できる。(1)は、その時代を生きた者として、実感的に承認しうるし、(3)については、笠井潔の「解説」にも引用される、山口昌男などの「文化人類学」などの成果 が象徴的に示したように、「豊かになり中心的な存在になったものは、逆に貧しきものや非中心的なものに、ある種の怖れを交えつつ、魅了される」という傾向があるからである。
つまり、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった人たちは、心のどこかで「貧しきものや非中心的なもの」を恐れつつも、それに惹かれていたのではないか。そうしたものが、栄華を誇る自分たちに襲いかかるのを恐れる反面 、貧しくとも自由かつ個性的であり、そもそも「個性」などということに拘泥する必要もない彼らの生き方に、どこかで憧憬めいた感情をもっていたのではあるまいか(事実、『清貧の思想』という本が、ベストセラーになった)。だからこそ、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった八〇年代の小説読者が、「山人」などに象徴される「まつろわぬ 」人々と、心理的に「同一化」しようとしたことは、想像に難くない。「実生活」は『高度資本主義』社会の繁栄の真只中においたまま、「想像の世界」では、そこから自由な「野生(非社会)」の存在として、世界を自由に(越境的に)駆けめぐり、時にはそんな存在を捕えて「社会化」しようとする「敵(悪)」と戦い、これを粉砕するヒーローとなるのである。
このように考えた場合、笠井潔の言う「天皇の虚構的中心化」というのは、八〇年代における伝奇小説ブームを説明する上で、ほとんど必然性を欠いてしまう。
実際、特に「伝奇小説」ファンであったとは言えなくとも、若き読書人の端くれとして八〇年代を生き、荒俣宏の『帝都物語』の熱心な読者ではあった私には、当時「天皇」とは、ほとんど意識にのぼらない、日常的には「たいへん印象の希薄な存在」でしかなかったように思う。
『帝都物語』でも描かれるとおり、「天皇」の存在が多くの日本国民の目にクローズアップされるのは、昭和天皇の病状が悪化し、日々その様態をつたえる「下血と輸血」報道が繰り返されるようになってからではなかったか。それまでの「天皇」は、一部「左翼」や「右翼」を除いた、多くの国民にとって「天皇と呼ばれる、人の好さそうな老人」としか映っておらず、善かれ悪しかれ「戦争の記憶」からは切断されて(「戦後は遠くなりにけり」で)、およそ「魔王」性を喚起するような存在ではなかったのではあるまいか。
そうした意味で、私は笠井潔の主張する(2)の要素、つまり八〇年代において「天皇の虚構的中心化」がなされたという主張は、どうにも「疑わしい」し「話を作り過ぎている」としか思えない。
たしかに(1)と(3)の要素だけでは、「絵(仮説)」としての中心性を欠いてしまい、お世辞にも「魅力的な仮説」とは言えなくなるだろう。しかし、我々がここで問うているのは、「八〇年代伝奇小説」ブームというものの「現実的な意味内容」であって、後から付与される「魅力的な意味づけ」ではないのである。
だが、私がこれまでに何度となく指摘してきたとおり、笠井潔は「小説家にしては批評家的に過ぎ、批評家としては小説家的に過ぎる」のである。つまり、「小説」においては、その「意義」「意味」を優先してしまうあまり、実質のともなわない「頭でっかちの小説」になってしまうし、現実的な「批評対象」の現実的な「内実」を剔抉すべき「批評」にあっては、その本分を放逐した「大向こうを唸らせる(大向こうに受ける)」ことだけを目的とした批評、すなわち「批評対象の現実」に忠実たらんとする初心を欠いた「エンターティンメント的批評(仮説)」の構築に腐心する傾向が顕著なのである。
それはすでに、幾人かから批判の声のあがっている「大量死」理論に基づく「大戦間本格ミステリ論」と、現代における「本格ミステリ」の優越性という笠井の議論にも顕著である。たしかに、サブカルチャーの片隅におかれていた「ミステリ」を、それまでは無縁とも言えた「現代世界史」や「現代思想史」にからめて「意義づけ」れば、対外的には権威に無縁であった「ミステリ」ファンは大喜びをして、それを支持するだろう。しかし、笠井潔がそういう作業を開始したのは、「新本格ミステリ」ブームが定着した後なのだから、これはブームにコミットするための「恣意的なゴマスリ」であり「ウケ狙いの後づけの理屈」だという色合いは否定できない。
また実際、この「新本格ミステリ」ブームが翳りを見せ始めると、笠井潔は『空の境界』の出現に、「伝奇」小説ブームの新たな到来を示唆的に予告し、その文章の中で、あれだけ口を極めて褒めちぎっていた「本格ミステリ」の意味を、
『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』
と、愛想も小想もなく語ってしまう。
ここで語られている「本格ミステリ」の意義とは、「伝奇小説が昭和天皇の消滅により機能しなくなった時、その穴を埋めるものとして登場したのが、より完成度の高い、つまり自己完結性の高いオナニズム装置としての本格ミステリであった」ということでしかないのである。
いったいなぜ、笠井潔の「本格ミステリ」への語り口は、こんなにも冷めてしまったのだろうか。――それは「新たに時代を制するもの」の出現を本格的に語るためには、「老いたる王」は廃棄されなければならないからである。つまり、「八〇年代伝奇小説」の衰退をうけて必然的に成り上がってきたのが「新本格ミステリ」であるのならば、その「次なる王者」である「新伝綺小説」の登場は、その登場の大前提として「老いたる王」としての「新本格ミステリ」の「過去」性が語られなければならないからである。
もちろん、この『空の境界』の「解説」において、笠井潔は「新本格ミステリ」ブームの終焉を、直截に語ってはいない。しかし、「八〇年代伝奇小説」の『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』解消機能を、より完全化したものとして「新本格ミステリ」を捉えた場合、
『 八〇年代伝奇小説が描いた境界性には、この(※ 『空の境界』の)ような複雑きわまりない屈折は見られない。中心に対する周縁、日常に対する非日常の境界という具合に、境界性は明確なものとして把握されていた。キャラクターとして幾重にも境界的な要素を畳みこまれていたヒロインは、八〇年代「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論から、決定的なまでに逸脱している。いまや探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界、つまり「空の境界」なのだ。』(下巻P460)
という笠井潔の現在の見地からすれば、「新本格ミステリ」は最早「過去のもの」と看做されなければならない、ということになるのである。
しかし、この一見もっともらしい「仮説」も、現実には「個人的延命」という姑息な意図に由来する、本末転倒した、つまり「因果 」を転倒させた「後づけの屁理屈」でしかないのは、笠井潔の動きを観察してきた者の目には、明らかなことであろう。
すなわち、「新本格ミステリ」ブームの行き詰まりということは、『空の境界』の出現を待つまでもなく、ここ数年、多くの業界関係者の間で、実感をもって語られてきた既成の事実なのである。私はこのことを、「笠井潔が、真に望んだこと。」のなかで、
『(※ 笠井潔は)綾辻行人のデビュー以来の長らく続いた「本格ミステリ」の行き詰まりが囁かれる中、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている「新感覚」派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばしており、「本格推理小説」の延命を図っている。』
と書いているし、おおよそその意味するところは、ホランドこと碧川蘭が、
『 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。
法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。
でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。』
(「おずおずと世代論を(2)」)
と説明しているとおりなのである。
ちなみに、今や私の認識は、上記論文「笠井潔が、真に望んだこと。」執筆時とは違い、後者碧川蘭の認識に近いものになっている。
すなわち、笠井潔は『「本格推理小説」の延命』を図って、「清涼院流水以後」の若い世代の作家に接近しているのではなく、もはや「自分一個の延命」を図って、それをしているのだ、ということである。――つまり、笠井潔の内部では、すでに「新本格ミステリ」は、切り捨てられている可能性が高い、ということのだ。
だからこそ、笠井潔は接近する若手作家の範囲を「ミステリ作家」に限定することを止めて、「ジャンルX」の若手作家全体にまで広げはじめたのではないか。そして、その結果 として必然的に出てきたのが、「新伝綺」作家だとして持ち上げられる、奈須きのこのデビュー作への、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
という「過剰なまでの支援」なのである。
つまり、話を戻すと、『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』の解消装置としての「八〇年代伝奇小説」や、それをより完全化したものとして「新本格ミステリ」を、根本的に超えるものとして『空の境界』を捉える、という笠井潔の立論は、実際には、「新本格ミステリ」の衰退という事実をうけて、後からひねり出され虚構された、「青田刈り」を狙った「後づけの理屈」に過ぎないのである。
「八〇年代伝奇小説」から、上手に「新本格ミステリ」に乗り移った際に用いた「後づけのヨイショ」という手管を、今回は、過去の経験を生かして、ちょっと早めに使ってみた、というのが、奈須きのこの『空の境界』に対する過剰なまでのバックアップの、本当の意味なのである。
つまり、このことを言い換えれば、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。
笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。
そこでピックアップされた若者は、たとえ彼がどれほどの器であろうとも、ひとまず周囲が最大限に騒ぎ立て、過剰な宣伝と演出と優遇で、世間に彼を「スター(の器)」として認知(または、誤認)させねばならなかった。「才能があるんだから、放っておいても頭角を現してくるよ」というのとは正反対に、「黒い鴉も白い」と思わせようとする、本人をなかば置き去りにしての「売り込み」こそが、奈須きのこのデビューにあたって採用された「無名の新人のデビュー作の限定豪華版を、普及版の刊行に先立って刊行する」とか、「ミステリ界の大御所的評論家である笠井潔に、上下巻にわたる異例に長文の解説書かせる」といった「奇妙な動き」の意味だったのである。
これがうまくいけば、講談社は「新本格ミステリ」ブームの衰退傾向にともない傾きつつある講談社ノベルスを、「新伝綺」という新しいブランドで盛りかえすことができるだろうし、笠井潔は「先見の明のある優れた評論家」として、また「新世代の良き理解者」として、あるいは「新本格ミステリ」ブームで担ったのと同じ「党派理論家」としての立場を、「新伝綺」ブームにおいても担えると算段したのであろう。
もちろん、笠井潔としては、「佐藤友哉へのコミット」に際しての「隠された政治性」を、東浩紀から鋭く指摘された時(往復書簡『動物化する世界の中で』)と同様、私のこのような読みを『邪推』だと否定することだろう。
笠井潔は、東浩紀の「笠井潔=度しがたい党派人間」説が、『邪推』だとする根拠を、
『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品性や性格の問題というよりも、もう少し構造的なものがある。簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。市場のヤスリにかけられているかどうかは、決定的な相違ですから。プロとして顧客に商品を売って生活をしている以上、ほとんどが大学教授のアマチュア・ライターで占められている特殊な世界のように、「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』
(前記往復書簡、笠井潔・第一二信「言論的「禁治産者」の独り言」P163 より)
と、東浩紀が所属する『現代思想の小世界』の規模の小ささにおいて、東の見解を否定してみせた。
しかし、「業界の規模」ということで言うのなら、私が先の「笠井潔が、真に望んだこと。」で、
『笠井は、かつて東の所属した「現代思想の小世界」を『タコツボ』と見下し、現在みずからが所属する「本格ミステリの小世界」を『現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。』と言う。そして、その根拠が『簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。』と言うのは、まさに世に言う「目くそ、鼻くそを笑う」であり、いかにも「文筆業という小世界=タコツボ」に生きる人間らしい「視野狭窄」だと言えよう。いったい笠井潔が、その知名度に比して、どれだけ「稼いでいる」と言うのであろうか?
笠井本人は、現在、日本のエンターティンメント文学界の主流である「本格ミステリ」に属しており、しかも斯界の理論的リーダーだというのが自慢なのかも知れないが、京極夏彦や森博嗣、有栖川有栖といった、ごく限られた「売れっ子作家」を除けば、本格ミステリ作家の年収など、さほどのものでないというのは、文筆業界の現実を多少とも知る者にとっては「常識」の範疇に入る事実であろう。
そうした自らの現実を棚上げにして、銭儲けにならない「現代思想(=批評)の小世界」を嗤うというのは、なんとも「党派的」で「厚顔無恥」に過ぎるのではなかろうか?
さらに言えば、かつて笠井潔は、島田荘司との対談の中で、「ミステリ」から「SF・伝奇アクション」の方へと「転向」した理由は、彼の「ミステリ」作品に何の反響もなかったからだと言っている。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった「初期の名作」は、さほど売れなかったし、反響もなかった。つまり、当時の笠井潔は『市場のヤスリにかけられて』いない「アマチャア作家」であり、その当時の『傷』が、今の「メジャー指向の文壇政治屋」としての彼をつくった、とも言えるのである。つまり、東浩紀にかんして、笠井潔は「自分がそうだから、人もそうだ」と思ったのであろう。
ともあれ、実売部数において「エロマンガ」「エロ同人誌」の足下にも及ばない、ごく稀に一万部刷るか刷らぬ かというような(笠井潔の本は、大半が再刷されていない)「通俗作家(職業作家)」が、身の程知らずに「偉そうなことを言うな。このバカタレが」……というのが、私の正直な感想なのである。』
と嘲笑したとおりで、到底、人のことを言えた義理ではないのである。
今や笠井潔は、「同人小説」としては例外的によく売れた、という実績しかない新人作家のデビュー作を持ち上げて、『空の境界』の上巻「解説」を、
『『空の境界』講談社ノベルス版の刊行は、注目に価する「事件」である。
二〇〇〇年冬のコミックマーケットで公開されたノベルゲーム『月姫』の作者として、奈須きのこはわれわれの前に初登場した。質量 ともに同人ゲームの水準を超えた『月姫』が、コミケ的なオタクカルチャー界に巨大な旋風を巻き起こしたのは記憶に新しい。
『月姫』公開以前、一九九八年から九九年にかけて奈須は、ホームページ「竹箒」に長編小説を分割掲載している。コミケで販売された結末部分を加え、長編としての結構を整えた『空の境界』は、二〇〇一年十二月に自費出版された。伝奇美少女ゲーム『月姫』に続いて新タイプの伝奇小説『空の境界』も、コミケや同人ショップでの自主販売という制約にもかかわらず、空前の大量 読者を獲得することになる。』(上巻P408)
と、思いきり大仰に語りはじめている。『事件』『巨大な旋風』『空前の大量 読者』という修辞は、なるほど、こと「粗製濫造ぎみの美少女ゲーム業界(同人も含む)」にあっては、事実だと言えるかも知れない。しかしそれが、ジャンルを越えるだけの質を保証するものかどうかは、また別 問題であり、そこに批評家としての言明の慎重さも求められるべきなのだ。例えば、このような『事件』『巨大な旋風』『空前の大量 読者』といったことは、出版業界に限ってさえ、年々歳々いくらでも存在する(『世界の中心で愛を叫ぶ』などのベストセラー)のだが、笠井潔がそうした作品を、その「人気」において、こうも無条件に賞揚してみせることは、これまでほとんど無かったのである。――すなわち、こうした恣意性とは「そ知らぬ 顔で過去の持論(立場)を放棄できる」ペテン師ならではものだと言えるのである。
笠井潔が、ここまで新人作家を持ち上げる「根拠」とは、結局のところ「数字」に他ならない。理屈はどうあれ、笠井潔の著作よりも、ずっと「売れた」という事実において、奈須きのこは笠井潔より上だし、『空の境界』は『哲学者の密室』よりも上なのである。結局はそうとしか言い様のない「拝数主義」に笠井は囚われているからこそ、このような臆面 もない「ヨイショ」も可能となるのである。
しかし、笠井潔ほどの実績を残した作家が、いまさらそこまで「数字」に拝跪するものだろうか、との疑問を持つ人も少なくなかろう。これは、当然の疑問である。
けれどそれも、先に紹介した「笠井潔が、真に望んだこと。」に書いたとおりで、笠井潔が「売れない作家」として舐めてきた辛酸と、それに由来するトラウマというものを知っておれば、決して理解できないことではないのである。
例えば、上記論文にも詳述したとおり、笠井潔は「新本格ミステリ」に「党派イデオローグ」としてとり憑くことで、作家として一定の位 置を占めるにいたった。しかし、笠井は「文学賞」というわかりやすい「勲章」を持たないに等しかったし、「売れない作家」であることに変わりはなかった。だからこそ、彼は「探偵小説研究会」を発展させて「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げ、さらにこの団体が主催する「文学賞」というかたちで「本格ミステリ大賞」を立ち上げ、自分の帰属する「本格ミステリ」業界の「ミステリー」文壇における覇権を強めるとともに、いずれは自分がその賞を取って、「名誉と売り上げ」を一気に手に入れようと画策したのである。
しかし、時すでに遅し。「文学賞」が濫立し、年末の「年間ベストテン本」が氾濫する現状では、笠井の看板シリーズの新作であり、渾身の力作でもあった『オイディプス症候群』(光文社)が、笠井自身がリーダーである「探偵小説研究会」の編著になる『2003本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で「第1位 」を勝ち取ってみても、さらにその延長線上で「本格ミステリ大賞」に選ばれてみても、せいぜい一度だけ版を重ねる程度で、期待したほどの効果 は、まったく得られなかったのである。
この厳しい現実は、翌年の「本格ミステリ大賞」受賞作である歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』(文藝春秋)の売り上げ部数に、如実に現れている。この作品は、刊行直後から評判が良く、書店などの推薦本として草の根レベルでたいへん評価の高い作品であったが、それが売り上げに結びつくことはなかった。しかし、その不遇な作品も、当初からマニアックなところで注目されていたおかげで、『2004年度版 このミステリーがすごい!』(宝島社)と『2004本格ミステリ・ベスト10』で堂々の第1位 に選ばれ、「本格ミステリ大賞」と「日本推理作家協会賞」の2賞まで獲得し、名実共にその年の「ベストミステリ」として方々に取りあげられ、一般 にも広く認知される作品となったのである。
しかし、その結果それなりに版を重ねた、この傑作の売り上げが、たかだか11万部に止まっている(讀賣新聞2004年6月18日付「ミステリー界 なぜか似通う 賞の結果」)というのだから、知名度において圧倒的に劣る笠井潔の『オイディプス症候群』の売れ行きがどの程度のものであったかは、推して知るべしであろう(未確認だが『オイディプス症候群』は3刷まで。一方、『葉桜』は2004年5月30日現在で13刷)。
つまり、笠井潔はこうした経験から、もはや「本格ミステリ」に拘泥、あるいは、義理立てしていたのでは、『文の商人』として生き残る(面 目を保つ)ことは不可能だ、という現実に直面 したのであろう。ならば、どうするか? その答えは、これまでの経験からもおのずと明らかなとおり「有望なジャンルに鞍替えすることだ」ということだったのである。
では、その「鞍替え」先は、いったいどこにすべきなのか? これは、生き残りを賭けた難問である。そこでまず、笠井潔の目に止まったのは、「本格ミステリ」との絡みで注目していた「ジャンルX(※ アニメ、マンガ、ライトノベルズ、フィギュアなどの、オタク系新世代カルチャー)」関連の「新世代」小説であった。
しかし、いくらそのあたりが流行っているとはいっても、笠井潔の個性とは相容れない「セカイ系」小説や「恋愛」小説では、コミットしそこなうのは目に見えている。ならば、できるだけ自分の従来の守備範囲に近いところから「鞍替え」先を、と捜してみた場合、「ミステリ」はダメ、「スパイ・謀略小説」的なものもダメとなれば、おのずと残るのは「伝奇小説」あたり、ということだったのであろう。
つまり、笠井潔は、自身が長文の「解説」を書き与えて、最大限の祝福をした新人作家奈須きのこに、自身の旧作の伝奇小説『ヴァンパイヤー戦争』の文庫に推薦文を書かせたり、『空の境界』と同じイラストレーターに『ヴァンパイヤー戦争』の装丁画を書かせたりしたことからもわかるように、自身いつまでも「新伝綺」小説の「よき理解者」や「イデオローグ」に止まるつもりはなく、ゲーム作家としての奈須きのこら(TYPE-MOON)の人気に便乗して、いずれは「新伝綺」ブームを支える「現役」の「伝奇小説家」として活躍するつもりなのである。
したがって、「新伝綺」に、時代的必然があるというのは「嘘」である。たしかに「ジャンルX」全体の流行傾向には時代的必然はあろうが、その中でも、今回特に「伝奇」小説をクローズアップしてみせたのは、そこに「特別 な時代的要請」があったということではなく、「笠井潔の個人的都合」があったというに過ぎないのである。
実際、大した前兆現象もなく、新人作家のデビュー作ただ1作だけをとらえて「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」と言われても、たいていの人には、ピンと来なかったはずだ。それもそのはず、「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」という断言の内実は、じつのところ「ここから、伝奇小説ブームをふたたび巻き起こそう。巻き起こってもらわなければ困る」ということに過ぎなかったのである。
このあたりの「読み」が『邪推』でないということを証明する根拠を、もうひとつ挙げておこう。それは、私が『空の境界』の文章を検証した際に呈した、
『なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者(笠井潔を含む)とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。』
という「疑義」にかかわる。
(※ 上が、TYPE-MOONの竹による「講談社文庫版」
下が、生頼範義による初版「角川ノベルス版」)
たしかに笠井潔は、小説の「意義」や「意味」にこだわる評論家である。しかし、それは「文章」を軽視するということと、同じではない。笠井自身、小説家である以上、小説とは「文章」化されて初めて「小説」になる、ということは十二分に理解しているし、そのことを自身語ってもいる。
具体的に言えば、笠井の「岡島二人」論である。笠井の岡島二人論「余は如何にしてミステリ作家となりしか」(『模倣における逸脱』所収)は、岡島二人という「合作作家」を分析することで、普遍的な「小説家の誕生の秘密」に迫ろうとするものだが、「小説家の誕生の秘密」のもっとも重要な要因として、この評論で提示されるのが「小説の本体は、実際の文章化の中で顕現するものであり、プロットやアイデアや主題といったものは、小説のきっかけでしかなく、副次的な意味しか持ちえない」とする「文章化」の問題であった。
『 暗記するまでに練りあげられた「ストーリー」(作者はストーリーにプロットの意味を込めて使用しているが)であろうとも、小説作品はそれ自体とは等置されえない点で、それも一種のネタであるに過ぎない。そして繰り返すまでもないだろうが、「ネタと小説はまるで別 のものなのだ」。』(P166)
文中の『作者』とは、 自伝的長編エッセイ『おかしな二人 岡島二人盛衰記』の作者である、岡島二人の片割れ、井上夢人のことである。ちなみに、井上は、笠井潔と同世代で、笠井の仲の良い友人で、「e-NOVELS」の共同経営者でもある。
『(※ データを客観的に伝えることを目的とし、文章がネタに従属する「報道文」とは違い)小説の場合には、その論理が逆転せざるをえないだろう。トリックに対してストーリー、ストーリーに対してプロット、プロットに対してディテールなどなど、「語られる対象」は「語りの効果 」に従属しなければならないのだ。「この女は、どういう服装をしているのだろう」という自問を、作家に強いるだろうディテールでさえも、最終的な次元ではありえない。「赤い服を着ている女」という意味(ネタ)は、比喩の効果 において無限に多様な文に変奏されうる。その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。それが報道文とは性格の異なる、小説を書くという行為に固有の意味である。データがあるのに「書けない」という理由で、度はずれな困難を味わう新聞記者や週刊誌記者は稀だろうが、おなじ理由で発狂したり自殺したり、そこまで行かないにしても筆を折ったような小説家は無数にいる。』(P167~168)
「トリック」だけを取り出して、その「固有の面白さ」を論じることの可能な(そのような特異な習慣をもつ)ミステリマニアには理解しにくい話かも知れないが、笠井潔がここで語っている小説観は、非常に常識的であり真っ当なものである。
つまり、「魅力的な女」というだけでは小説にはならないから「空手の達人で美人」だとするが、では具体的に「どんな風に戦うのか」「どんなふうに美人なのか」「性格は」「しゃべり方は」「服装は」ということが具体的に「小説の文章」とならないかぎり、それらはすべて「ネタ」にとどまり、「小説」にはならない。また、その時、主人公が「赤い服」を着ているか「紅い服」を着ているか、あるいは、主人公の通 りがかった場所に、たまたま立っていたのが「アベック」なのか「学生の二人連れ」なのか、といったことは、たいていの場合、『客観的な理由』はなく、作家の『主観性』(主観的選択)に委ねられている。
だが、優れた小説作品においては、作家によって主観的に選ばれた要素が「計算し尽されたかのような(客観的)効果 」を担っている場合が少なくない。だから読者は、そこに「作者の計算」と「必然的(論理的)選択」見るのだが、往々にして作者は「そこまで考えてはいなかった」ということにもなるのである。つまり、こうした作家と読者の齟齬の存在は、作家の「文章選択」における「直観」のような部分にこそ、「作家的才能」の本体がある、という事実を示唆しているとも言えるのである。
「同じトリック」「同じプロット」を使っても、別の作家が書けば、別の作品になって、おのずと作品としての出来不出来の差も生じてくる。同じようなキャラクター設定をしても、作家の文章力によって、そのキャラクターはまったくの別 物になってしまう。――小説は、そういうものなのである。
つまり、たとえ大変「重要な意味」が語られていようとも、それが作家の直観によって適切に選択された文章によって表現され「肉化」されていないかぎり、その小説は「駄 作」であり「失敗作」だということなのだ。
例えば、「人類愛」や「世界平和」というのは、重要な問題であり、重要な小説的主題ともなりうるけれど、それが小説として適切に文章化されないかぎり、それは「駄 作」であり「失敗作」となってしまう。「重要な主題をあつかった駄作」であり「頭でっかちの失敗作」ということになってしまうのだ。
そこで話を『空の境界』へ戻すと、笠井潔は『空の境界』という作品の「意義」であり「存在価値」を、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
という点に求め、そうした価値が、この作品の奈辺に存するのかを、次のように説明している。
『 (※「八〇年代伝奇小説」のような)「中心―周縁」論的な伝奇小説では、制度化され権力に支配された日常世界が敵である。都の権力にまつろわぬ 鬼や妖怪たちの物語として、伝奇小説は成立してきた。しかし『空の境界』では、古典的な伝奇小説の構図が逆転している。味方は日常、敵が非日常なのだ。八〇年代伝奇小説にとって最後の可能性だった、宗教的根源の探求者が最大の敵という役割を演じる。『空の境界』は半村、五木的な伝奇小説の構図を一気に裏返し、これまで誰も想像したことのない可能性を拓いた。
しかし『空の境界』の達成を、「日常―非日常」や「中心―周縁」という図式の優位 項と劣位項の逆転に見るわけにはいかない。そもそも映画や小説のパニックものでは、平穏な日常に襲いかかる非日常の脅威という構図はありふれている。『空の境界』の独自性は、「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。
「空の境界」としての式は、日常と非日常という二つの世界を往還する。日常的存在としての式に侵犯された非日常性を、荒耶宗蓮は人格的に体現している。根源を求める欲望は「悪」として否定される。宗教的根源ではない、「血」としての根源にしても同様だ。他方、非日常性としての式を容認することで、日常性もまた必然的に変容する。日常化された非日常と、非日常化された日常。中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界では、非日常も日常も根本的な変質をとげざるをえない。』(下巻P468)
『空の境界』の「新しさ」とは、『「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。』と笠井潔は言う。『空の境界』という小説が『中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界』を描いている、と笠井潔は言うのである。
しかし、そもそも山口昌男らの唱えた「中心―周縁」理論とて、「中心」と「周縁」が固定的なものとして捉えられていたわけではない。それらは、刺激しあい補い合う「二極」としてイメージされていただけで、その「中味」は、決して固定されていたわけではないのだ。
例えば、山口昌男が愛用したのが「トリックスター」という概念である。「トリックスター」は、「日常―非日常」「中心―周縁」を往還して、双方を「掻き回し」、そのことによって固定し衰弱することが定めの「日常―非日常」「中心―周縁」を「生気返し」し「更新」する、「境界」的存在なのである。
つまり、『空の境界』の主人公である両儀式の存在形式は、なんら新しくないのだ。
山口昌男は、読者の側に立って「非日常の侵犯により、日常が活性化される」「周縁的なものの侵犯により、中心的なものが活性化され更新される」と語ったけれども、これは逆の言い方、つまり「日常との接触により、非日常が活性化される」「中心的なものとの接触により、周縁的なものが活性化され更新される」ということを否定するものではない。鬼や妖怪といった「それまで」は「非日常=周縁」の側に属すると認識されていたものが、「商業的消費」という日常性にさらされて「陳腐化」し、「日常=中心」の側に取り込まれる、というのは常識的な認識であろうし、その場合、「非日常=周縁」の側は、わかりやすい「鬼や妖怪」といった「反体制」の象徴ではなく、「ストーカー」や「理解不能なアンダー14」や「北朝鮮」等といった「新たな周縁」を見い出し、自ずと変化していくだろう。この程度のことは、山口昌男の昔に、すでに認識されていたことなのである。
ところが笠井潔は、こうした先達の達成を、故意に図式化して「硬直した、ものの見方」であるかのように語り、その上で、特に新しくもないものを新しいと、「小説」家的「文章(レトリック)」を駆使して、大仰に語ってみせるのである。
したがって、『空の境界』という作品に、笠井潔が言うような「中味(意義・意味)」は存在しない。それは笠井潔が「ある」と語った段階で、読者の内部に発生した「幻想」でしかないのだ。そして、その「事実」を裏づける証拠とは、他でもない、『空の境界』のあの「下手くそな文章」なのである。
笠井潔が岡島二人論で語ったとおり、「ネタ」は「小説」ではない。つまり、その「小説」にどのような「意義」や「意味」が込められておろうと、あるいは発見されようと、その「意義」や「意味」が十全に「文章化」され表現されていないかぎり、その小説は『「重要な主題をあつかった駄 作」であり「頭でっかちの失敗作」』でしかありえない。つまり、百歩譲って、笠井潔の発見が、単なる「恣意的な意味づけ」ではなく、それなりに根拠のあるもの(まったく無根拠でもないもの)だったとしても、
『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』(『空の境界』上巻P12)
や、
『だから、それが関連性だ。いや共通 点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』(『空の境界』上巻P23)
や、
『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
遺書のない自殺。
遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
ではなにか。考えられる理由は一つ。
つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』(『空の境界』上巻P24)
といった、「頭が悪い」としか言い様のない「議論」にしか「文章化」できない作者、つまり「適切な文章を選択する直観的能力」の欠落した作者の「小説」に、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
などと、笠井潔が煽り立てるほどの「実質」がないのは、理の当然なのである。つまり、「小説」とは、そんな甘いものではない。それは笠井潔自身が、
『その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。』
と語ったとおりなのだ。
では、なぜ、笠井潔のこんな妄言を、少数とは言え、何となく納得してしまう人が出てくるのであろうか。――それは、私がその文章を検討することによって証明した、『空の境界』という作品の「中味のない朦朧性」のせいなのである。
人間は「よくわからないこと」に対しては、どうしても「過大な幻想」を抱きがちである。素直な人間ほど「良くわからないけど、きっと、ものすごく深遠なことを語っているんだろうな」などと思ってしまう。それは、自分の理解能力の低さに対する「引け目」から、相手を過大評価してしまう、ということでもある。相手が桁外れの存在であれば、自身がそれを理解しえなくても、それは「当然」だ「普通 」なのだと、自身を慰めることができるからなのだ。
また、人間のそうした「心理的弱点」を知り尽しているからこそ、ペテン師はそこを突いてくる。怪しげな健康食品を売り込むのに、「○○大学名誉教授」などといった肩書きをひけらかし、一般 人が理解できない数字を並べ立て、とんでもない価格の商品を売りつける。「教養」や「学歴」に劣等感をもっている者は、こういう手口に、あっけないほど簡単に引っ掛かる。「○○大学名誉教授」と実在の大学名を出す以上、「まさか偽者ではあるまい」と思い、「そんな偉い先生の出すデータならば信用できるのであろう」と考え、そしてそのデータからすれば「むしろ、その価格は安い」などと考えてしまう。
たしかに「はったり」や「ペテン」というものは、「見るからに、根も葉もないデタラメ」ではまずい。けれども、それらしい形式さえ整っておれば、「空中楼閣」で充分なのである。つまり、「蓮実重彦東大教授」を騙るのは、バレる可能性が高いからまずいけれど、「○○大学名誉教授」を騙っても、まずはバレない。要は、その場で真偽を見抜かれるような、ハッキリとしたデータを提供せず、どうとでも取れる曖昧さ(朦朧性)のなかで「幻想」を見せればよいというのが、ペテンの常道なのである。
そうした意味で、『空の境界』(の「文章」)は「ペテン」の道具にピッタリだったのである。つまり、奈須きのこや『空の境界』は、単に「明晰さを欠いた」凡庸な作家であり作品なのであって、それを利用して「ペテン」をかましたのは、あくまでも笠井潔なのである。
つまり、奈須きのこや『空の境界』は、「からっぽな器」であり「空虚な匣」に過ぎないのだが、そこに笠井潔という「魔」が巣食ったために、奈須きのこや『空の境界』は、新たな「伝奇小説」ブームに延命を賭ける笠井潔によって、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
に祭り上げられた、というわけなのだ。
何も無いところに「幻想」を充填することで、その「空虚な容れ物」に、もともと何か重大な意味があったかのように誤認させる「ペテン」。これは、たしかに、笠井潔独特の「意味」「意義」偏重(観念指向)から出てきたことなのだが、しかし、そんなものが一定の説得力を持つというのは、読者の側にもそういう意味づけを求める「欲望」があったからなのであろう。
実際に、それが「価値のあるものかどうか」ではなく「価値のあるものと思えれば、実際なんてどうでもいい」という態度。これは、昔からある「どうせ私を騙すなら、死ぬ まで騙して欲しかった」という恋愛心理に近いものがある。所詮、現実とは「認識の総体」でしかないのだから、死ぬ まで騙されるのなら、少なくともその騙された本人にとってそれは「真実」になる――という考え方もある。しかし、こういう人は、そういう「騙されたい願望」に引き摺られて、一生「騙され」「裏切られ」「泣き言」を言わなければならないのではなかろうか。
私は「宗教」というものを信じていないけれども、「宗教」に「実感」を持っている人たちが大勢いるという「事実」を否定しない。そして、間違った「実感」であろうとも、それが感じられる人間が、そうした「幻想」を信じ込んでしまうのも、なかばやむを得ないことだと思っている。しかし、事そこにいたる前に、人は自身の願望を直視するべきであろう。「自分は、信ずるに値するものを信じるのか。それとも、信じられるものでさえあれば、それで充分だ、というだけのことなのか?」と。
このことは、当然のことながら「小説」の評価にも当てはまるだろう。「優れた作品を優れた作品として妥当な評価し、楽しみたいのか。それとも、客観的には駄 作であろうと何だろうと、自分がそれを面白いと思えれば、それを傑作だと評価するのに吝かではない、という態度を選ぶのか」ということである。
もちろん、私の立場は前者である。私は、自分が個人的に面白いと思っても、客観的に不出来な部分は不出来な部分として評価し、そうした点を含めて総合的に評価した結果 、その作品が客観的には「駄作」「失敗作」の部類だと思えば、そのように認めるのも吝かではない。ただ「駄 作」であろうと「失敗作」であろうと、「好き」なものは「好き」だという事実に変わりはない。つまり、「客観と主観」は区別 するし、「主観から逃れられない」というのは当然の前提として、だからこそ「客観を大切にしたい」し「そこにこそ価値がある」と考えるのである。
このことを言い換えれば、次のようなことにもなろう。
『「前に聞いたことがあるんだな、私は。ウチの先生の談に依ると、予感てェのは中から湧くものだから駄 目だと。外から来なきゃ本当じゃないだろうと云う。善く解らないと云ったらですな、中にあるものなんか何でもアリで面 白くないだろうがと云って散散馬鹿にされたですよ。」
寅吉は両手で湯飲みを包み込むようにしてふうふう吹いた。
解るような。
解らないような。
いや、解らない。解るべきではない。
榎木津の発言を難なく理解できるようになってしまったら、それはもう手遅れと云う感じがする。そうなってしまったら既に一般 人ではない。立派な一味だ。だから理解しようと努力する前に、解らないと放棄した方が、より普通 なのだ。
サッパリ解りませんと云った。
「それで――」
凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通に振る舞うべきなんだ。』
(京極夏彦『百器徒然袋 ― 風』所収、「雲外鏡 薔薇十字探偵の然疑」より)
つまり、私が要求しているような理解は、『一般 人』つまり、榎木津礼二郎の言う『下僕』たちには、困難なことなのかも知れない。「一般 人」は、自身の「内的衝動」にふりまわされて、「幻想」に執着しつづけるのが「分相応」なのかもしれない。つまり「一般 人」とは、「ペテン」の被害者であることに喜びを感じるような、「変態」なのかも知れない。
――だが、その「実像」、つまり「外」から来る「自身の肖像」を見た(見せられた)以上、人は純粋に『凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通 に振る舞う』ことはできない。いや、振る舞うことは可能だが、それで「幸福な痴愚」としての「一般 人」に立ち戻れはしない。だから、そういう人は、内と外の「境界」で立ち往生し、中味のない中途半端な存在として、ふらふらするしかない。彼は、自身、虚しい「空の境界」として「ペテン」の被害にあい、あるいは利用されるしかないのである。
2004年11月8日
◆ 空虚に巣食う魔 ◆
―― 笠井潔と『空の境界』奈須きのこ
アレクセイ(田中幸一)
話題の新人作家のデビュー作『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読みはじめて、いきなり「文章」に引っ掛かってしまった。一家をなしたベテラン批評家である笠井潔から、上下巻にわたる長文の解説をもらうという「破格の配慮」をうけた「(読書界では)無名の新人作家」の作品だったから、ことさら評価が厳しくなった、というわけではない。むしろ奈須きのこは、笠井潔に見込まれ(巻き込まれた)人なのだろうから「彼には、何の罪咎もない」と私は考える。だから、奈須に「破格の配慮」に値する力量 があろうとなかろうと、彼に厳しくあたろうなどという気は、私には微塵もなかった。……なのに、いきなり文章に、ひっかかってしまった。
有り体にいえば、文章が下手なのである。いかにも同人作品らしく、文章が生硬で、読んでいてひどく抵抗を覚えてしまう。はたして、上下巻を読み通 せるか、と不安になった。
奈須きのこ(『空の境界』)の文章について、賛否両論のあることは、既に承知していており、私は事前に次のように書いている。
『 「講談社ホームページ」の「試読本」のページや、amazon.co.jp「空の境界(上)」やamazon.co.jp「空の境界(下)」などのページをちょっと覗いてみた範囲で言いますと、『空の境界』の評価は「キャラが立っていて、独自の世界観があり、とても素晴らしい」という意見と、「ペダンチックな作風で、文章が読みにくく、私には合わなかった」という意見の、二つの立場に大別 できるように思います。
「ペダンチックな作風で、文章が読みにくい」という評価は、奈須が笠井潔や竹本健治のファンであることを考えれば、容易に納得のいくことです。なぜなら、笠井や竹本自体が、その初期には「悪文」呼ばわりされることも、ままあったからです。したがって、奈須の文章が読みにくいという意見は、むしろ読者の方が『たぶん読書慣れしていないための感想だろう。』とする擁護論も、あながち外れてはいないと思われます。エンターティンメントしか読まない読者にとっての「良い文章」とは、まず何よりも「読みやすい(リーダビリティーの高い)」文章ということになるのでしょうが、ことはそんなに単純ではありません。個性の強い、一般 には「読みにくい(悪文)」とされるであろう文体だからこそ、開示できる世界というものも確実にあり、それゆえに文学の世界は、奥深くもあるのですからね。』
(「暗い波及効果 」より)
と書いて、(断定は避けたものの)どちらかと言えば、奈須を擁護する側に立っての文章論を展開した。
しかし、『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもなかった。文章が下手だとは言っても、先般 、『葉桜の季節に君を想うということ』で日本推理作家協会賞を受賞した歌野晶午の、デビュー作(『長い家の殺人』)当時の文章に比べれば、数段マシだとも言える。歌野がその後、目を見張るような成長的変貌を遂げたように、奈須きのこも今後、小説を書き続けていく中で、文章もこなれて、次第に上達していくのは、ほぼ間違いのないところであろう。
だが、この時点での客観的評価としては「奈須きのこは、文章が下手である」としか言いようがなかった、というのも偽らざる事実なのである。
もちろん、「うまいか下手か」ということを、主観的に語ってみても仕方がない。そこで、以下に具体例を示して、説明を加えていきたいと思う。
○
(1) 投身自殺に行き会わせた体験を語る、作中人物 黒桐幹也の語り(一人称の短文)が、第1章第1節の前に掲げられている(P8)。
「私」がそれに行き会わせた状況と、その変死体の状況を叙した後、
その一連の映像は、古びた頁に挟まれ、
書に取り込まれて平面になった押し花を幻想させた。
と、その変死体の印象を記している。
平たく言えば、地面に叩きつけられて、ぺしゃんこになった死体が「古い本の頁に挟まれた、押し花のように見えた」という意味なのだが、この悪凝りした文章は、あまりに幼なすぎて、「いかにも同人誌的」という印象しか、私にはあたえない。特に『古びた頁に挟まれ』というのは、たぶん「古びた本の頁に挟まれ」という意味だろうから、「古びた」という形容詞のかかる先がおかしい。またここで「本」とか「書物」と書かず、わざわざ『書』と書いているのも、「書画骨董」の「書」を連想させるだけで、不適当であろう。さらに、単に変死体が『押し花』を「連想させた」だけなのに『幻想させた』と表現するのも、大仰すぎて滑稽ですらある。
(2) 第1章第1節の冒頭部である(P9)。
『 八月になったばかりの夜、事前に連絡もなく幹也がやってきた。
「こんばんは。相変わらず気怠そうだね、式」
突然の来訪者は玄関口に立って、笑顔でつまらない挨拶をする。
「実はね、ここに来る前に事故に出くわしたんだ。ビルの屋上からさ、女の子が飛び降り自殺。最近多いって聞いてたけど実物に遭遇するとは思わなかったな。―――はいこれ、冷蔵庫」』
まず『八月になったばかりの夜』という表現の意味するところは「八月になったばかりの(とある日の)夜」という意味なのだろう。この省略表現は、間違いとまでは言えないものの、「夜が、八月(や九月に)になる」かの印象を与えるので、あまり適切な省略だとは言えない。そのせいで、文章全体がぎくしゃくした印象を与える結果 となっている。
また、ここでの黒桐幹也のセリフは、本来区切られるべきセリフをひとまとめにしているため、とても「説明的」な印象をあたえる。名探偵の謎とき(のセリフ)などのように、場合によっては、「説明的」なセリフも不都合ではないが、この程度の日常会話(雑談)で、「説明的」な印象を与えるのは、小説のセリフ文(科白)として失敗している、と言っても過言ではなかろう。
(3) 黒桐幹也という人物を紹介した、両儀式(人物名)の一人称の語り(P10)。
『 数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代の若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。』
ここでも形容の対象が、曖昧にしか指示されていない。つまり『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』というのが『現代の若者』のように読めてしまう。作者は『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』という言葉を『現代』にかかる形容としているつもりなのだろうが、とてもそのようには読めない。作者の意図を正確に反映しようとすえば、この文章は、
「数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代に生きる若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。」
とでも、すべきであろう。
(4) 「飛び降り自殺」についての会話(P12)。
『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』
二人が、何を議論しているのか、すぐには呑み込めなかった。が、要するに作者は、『事故』という言葉の意味を知らないのである。それを知らないでいて、『飛び降り自殺』は『事故』か否かという不毛な議論を、作中人物たちにさせているのである。あたかも、その議論が哲学的に奥深い意味でも有しているかのように、思わせぶりに。
「事故」とは『(多く「ことゆえなく」の形で)さしさわり』のことである。つまり、「故なく、生じた差し障り」のことなのだから、『飛び降り自殺』は議論の余地なく『事故』ではない。『自殺』には曖昧なものではあれ「故意」が介在するからで、それは本人の意志にかかわらない、「事故」や「過失死」や「病死」とは、明確に区別 される。
作者は、『飛び下り自殺』という行為の「故意の有無」の部分と『高い所から落ちる』という現象面 を切り離して、前者を「非・事故」的、後者を「事故」的であると評価しているので『他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね』などという意味不明な言葉を書きつけてしまうのである。
しかし、言うまでもなく、『飛び下り自殺』は、『他殺』ではなく「自殺」であり、『事故死』ではなく「自殺死」である。『高い所から落ち』ようが、首をくくろうが、それは「(自殺死の)手段」の違い(バリエーション)に過ぎない。
したがって『他殺でもなく事故死でもない』というのは『曖昧』でも何でもない。『曖昧』なのは作者の「日本語」理解なのである。
(5) 第1章第2節の冒頭部(P14)。
『 八月も終りにさしかかった夜、散歩をする事にした。』
この文章のぎこちなさも、これまでと同様「主語の曖昧さ」によるものである。普通 に読める文章にしようと思えば、
「 八月も終りにさしかかった、とある夜、私は散歩に出ることにした。」
ということになろう。この書き換えで、原文の魅力を損なったとは思えない。そもそも原文には、その読みにくさに値するほどの魅力などないと、私は思う。
(6) 散歩途上の風景描写(P14)。
『 夏の終わりにしては外気は肌寒い。終電はとっくに過ぎていて、街は静まり返っていた。
静かで、寒くて、廃れきった、見知らぬ死街のようでもある。』
『死街』というのは「死骸」と「市街」の掛け言葉なのだろうが、そんな「誰も見たことがないもの」の『よう』だと言われても、言葉が意味をなさない。これでは、幼いまでの「思いつきの濫用」としか評価のしようがない。
ついでに言うと、ここは『散歩』のシーンなのだから、『外気は』という主語は無用であり、余計ですらある。さらに言うと、『外気は肌寒い』では「外気は肌寒い(と感じている)」という意味にも取れる。もちろん、正しくは「外気は(私によって)肌寒(く感じられるほど低)い」のである。だから、どうせなら、
「夏の終わりにしては、外気は肌寒く感じられた。」あるいは「夏の終わりにしては、外気は肌寒いくらいだった。」とでもすべきであろう。前者には「私に」が省略され、後者のは「低い」が省略されている。もちろん、最初に指摘したとおり、もっとシンプルに「夏の終わりにしては肌寒い。」で充分である。「夏の終わりにしては外気が肌寒い」でもいい。
(7) 同じく散歩途上の風景描写(P14)。
『 そんな真夜中でも歩けば人と出会った。
俯いて、ただ早足で進んでいく誰か。
自販機の前でぼんやりとする誰か。
コンビニの明かりに集う、幾多もの誰か。』
『幾多もの』などという日本語はない。ここは「幾多の」(人々)で充分。『幾多もの』という表現は、「無限もの」とか「無数もの」という表現と同じで、誤った強調表現である。『幾多』というのは「無限」「無数」などと同じく「数えきれない(計り知れない)ほど」多いという意味だから、その多さを重ねて強調しても無意味なのだ。つまり、無限を何倍しても無限にしかならないということ。「究極の無限」「数えきれないほどの無数」などといった表現が「形容矛盾」に近い「無意味な過剰形容」であるのと同じことなのである。
以上、わずか10ページほどの中に、おかしな表現が(目立ったものだけでも)こんなにあった。これでは、この先の文章に期待せよという方が無理だろうし、上下巻あわせて850ページにも及ぶ大作を読みとおすのに、不安を覚えるなという方が無理であろう。
前述したように、まだ若い作家だから、文章が下手なのは我慢しよう。それ以外の部分で、小説としての魅力を持っていれば、そこを評価することに吝かではない。しかし、冒頭10ページを読んだ時点で既に判明したと言ってよい、「(奈須きのこは)文章が下手である」という事実評価を、ここに明記しておく必要はあるだろう。これは、私の予想に反して、「好みの問題」というレベルの話ではなかったのである。
○
『空の境界』の文章が、壊滅的に酷いものであるという事実については、すでに実例を挙げて証明しておいた。しかしそれは、『空の境界』の冒頭10ページほどを読んだだけの段階でのことである。
「だから」と言うべきか、「それでも」と言うべきか、ともかく私は、このデビュー即ベストセラーになった新人作家の小説を、いちおうは最後まで読んで、きちんと評価してみたいと、その段階では考えていた(上下各巻の帯には、それぞれ『これぞ新伝綺ムーブメントの到来を告げる、傑作中の傑作』『これぞ新伝綺ムーブメントの起点にして到達点』という惹句が躍っている)。
しかし、その意欲は、冒頭30ページまで読むにいたり、あっさりと挫折してしまった。あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さに、それ以上は読むに堪えなくなったのである。
私は、笠井潔の俗物性を憎みこそすれ、奈須きのこを憎む理由など少しも持たない。奈須きのこが、笠井潔の推輓をえてデビューした作家だからといって、彼に八つ当たりするほど、私はつまらない人間でもなければ、党派的な人間でもないつもりである。しかし、下手なものは下手、ダメなものはダメとしか評価のしようがない。これは、笠井潔云々以前の話なのである。
なぜ、笠井潔はこの程度の作品を持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者(笠井潔を含む)とって、『空の境界』の文章は、あまりに酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。
ともあれ、笠井潔の「解説」では、まったく言及されることのなかった『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』について、ここでもう少し、実例に則して説明を加え、その上で、この点に口を閉ざした笠井潔による「解説」の意味を、後で問うてみたいと思う。
前回は、目次や扉ページを除いて、実質的に本編がはじまるP9からP17の章の区切り部分までを対象として、目につく「おかしな文章」を取り上げたわけが、ここでは、それ以降、P33の第1章第2節の最後までを対象とする。ここまで読んで、私は通 読を断念したのである。
(8) 風景描写。(P17)
『 行儀よく同じ高さのビルが道に並んでいる。ビルの表面 は一面の窓ガラスで、今はただ月明りだけを反射していた。』
『ビルが道に並んでいる』わけはない。道に「沿って」並んでいるのである。また、ここは深夜のビル街の散歩シーンなのだから、そもそも『道に』は不必要だろう。誰も、ビルが林や田んぼのなかに並んでいる情景を思い浮かべたりすることはない。つまり「行儀よく同じ高さのビルが並んでいる。」で充分でなのある。
『ビルの表面は一面の窓ガラスで』……言いたいことはわかるが、日本語になっていない。作家が言いたいのは「ビルの壁面 は一面ガラス張りで」ということなのであろうが、「壁」がガラスで出来ている以上、そこには「窓」という設備は存在しない。したがって、ガラス壁のガラスを『窓ガラス』と形容するのは間違いなのである。
(9) 意味不明な形容。(P17)
『 その時―――つまらない影が網膜に映りこんだ。
人型らしいシルエットが視界に浮ぶ。』
『つまらない影』とは、いったい何なのか? もちろん例外的には「面 白い影」もあるだろうが、普通、影は面白くもおかしくもないものだから、『つまらない影』などという「意味をなさない日本語」を書く者は、まずいない。小説家では皆無と言ってもいいだろう。
(10) 人形の描写。(P20)
『 それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。人間をそのまま停止させたようなそれは、同時に、決して動かない人型である事を明確に提示していたと思う。
明らかに人ではなく、同時に人にしか見えないヒトガタ。
今にも息を吹き返しそうな人間。けれど初めから命などない人形。生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。
その二律背反に、僕は虜になった。』
この作家は『二律背反』が好きである。しかし、彼の言う『二律背反』とはたいがい『二律背反』ではなく、単なる「論理的混乱」に過ぎない。この作家の非論理性については、「自殺-事故死-他殺」をめぐる議論で指摘済みである。
この「人形」をめぐる議論でも、同種の「言葉の混乱」による「論理の混乱」が見られる。だが、それがそのまま、「思わせぶり」な議論として、ヌケヌケと読者の前に放置されてもいる。しかし、『道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど』などという恥ずかしい日本語や、『生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。』というほとんど意味不明な文章に、その誤謬は明らかである。
『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』を、普通 に(論理的に)意味の通る日本語に訂正すると、
(A) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫った、すごく精巧な人形だった。
(B) それは道徳の限界ぎりぎりに迫る、すごく精巧な人形だった。
(C) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったと思えるほど、すごく精巧な人形だった。
となるだろう。
『迫ったほど』などという表現は、『幾多もの』という表現同様、論理矛盾を来たしたものなのである。
ちなみに、「人間そっくりの人形を作ること」が、どうして「道徳」と関係してくるのかだが、これは「人形づくり」が「神の御技」の僭越な模倣であるという意味において、「反道徳的」だと考えることができるのである。
だが、この作者にそこまではっきりした認識があって、『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』などと書いたかどうかは、はなはだ疑わしいと言わざるをえない。むしろ「人形づくりとは、背徳的で甘美な魅惑に満ちた行いである」といった、使い古されて言い回しを、無自覚になぞっただけなのではないかと、私には感じられる。
この作家の論理レベルから推せば、こうした「思わせぶり」な表現は、内容を欠いたその「思わせぶり」による「朦朧」性にこそ、価値があるのではないか。つまり、「無意味(無内容)」だからこそ、非論理的な読者からは「過大評価」という「誤解(妄想)」呼び込むこともできる、ということなのではないか。
京極夏彦風に言えば「その箱は、からっぽだった。そこに魍魎が湧いた。魍魎とは、空虚のことだった。――なんだか、ひどく疲れた」とでもなろうか。
(11) 連続飛び降り自殺事件に関する警察の動きについての、黒桐幹也の意見。(P23)
『「……だって遺書が公開されてないでしょう。六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしい物を公開してもいいだろうに、それをひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」』
この論理的混乱は、黒桐幹也をことさら「頭の悪い人物」として描いているせいではなかろう。問題は、作者のほうにある。
遺書の残された自殺があった場合、「警察」がその遺書を公開することは、まずない。これは件数には関係がない。なぜなら、それはそれぞれが、死者の「プライバシー」の無用の侵害にしかならないからである。「警察」が遺書を公開するとすれば、それはその「自殺」が疑われている場合であろう。つまり「自殺」ではなく「偽装殺人」なのではないかなどと疑われる場合に、遺書の信憑性が問題となるから、裁判などでそれが「証拠資料」として取りあげられ、その過程でマスコミに公開される場合もある、というだけの話である。
したがって、明らかに自殺だと認識されている場合には、「警察」は「自殺者」の遺書を公開したりはしない。「遺族」が、マスコミの要請に応じて公開することはあっても、「警察」が勝手に公開するようなことはありえない。これは『数』の問題ではないから『六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに。』ということにはならないのである。
無論、「公開しない」ということと『ひた隠し』にするということは、同じではない。同様に「非公開」と『隠蔽』は、同じ意味ではない。当たり前の話なのだが、その区別 が、作者にはついていない。だから、読者に好感をもたせてしかるべき「主要な登場人物であり、語り手」である黒桐幹也に、バカ丸出しのことを語らせてしまう。
また、『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに』という文章は、「主語」が曖昧である。公開するのは「警察」なのか、それとも八人の「自殺者」のうちの『一人(ぐらい)』なのか。――もちろん、死者である「自殺者」は遺書を公開できないから、公開するのならば「警察」か「遺族」ということになろう。ここでも文脈から言えば「警察」のことを言っているのは明らかである。しかし、
『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもしてもいいだろうに』
という文章では、どう読んでも『公開』するのは「自殺者」本人ということになってしまう。だから、この文章は本来なら、
「それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを残していてもいいだろうに、それを(警察が)ひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」
とすべきところなのである。しかし、遺書の存在そのものが公にされていないのだから、こうした議論自体そもそも成り立たない。つまり、作者はここで、「遺書の存在」の問題と「遺書の公開」の問題を混乱させて、話を「思わせぶり」にしているだけなのである。――このことは、この先のところで、黒桐幹也が、
『「……遺書は公開されないんじゃなくて、初めから用意されてないって事ですか?」』
という科白を吐くことからも明らかである。これは、黒桐幹也が気づかなかったことに気づく、蒼崎橙子の知的鋭さを強調する場面 なのだが、その橙子の説明も見事なまでに非論理的で、ほとんど『ドグラ・マグラ』のワンシーンを連想させるほどである。曰く、
『だから、それが関連性だ。いや共通 点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』
なにが『故に』なのか、まったくわからない。何の論証にもなっていないのだ。
自殺者に、ハッキリとした動機が発見されないというのは、ごくありふれたことである。それこそ、遺書が残されておれば、そこに理路整然と自殺の理由がしたためられているといった「例外的な事例」もあろうが、遺書が残されていてさえ、自殺の理由がハッキリしないことなど、世の中には幾らでもあるのだ。芥川龍之介だって『漠然たる不安』によって自殺したんだなどと言われているではないか。
なのに蒼崎橙子は、死者たちの投身時の状況が自殺としか思えないことと、『彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もない』といった事実だけで、死者たちの死の理由が『極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』と断言する。
自殺の理由など、それこそ露見していないだけで、じつは会社の金を横領していたとか、失恋や友人の裏切りといった、ハッキリとしたものなのかも知れないではないか。それをどうして、こうもあっさり『自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』などと断言できるのか。
――答えは、その方が事件自体を「思わせぶり」なものとして演出できるし、断定的口調が蒼崎橙子の頭の良さを表現し(え)ていると読者に誤解させることができる、と作者が考えているからである。つまり、作者によって想定される読者の知的レベルは、極めて低いと言えよう。私から見れば、蒼崎橙子はバカそのものである。
(12) 蒼崎橙子の言葉についての黒桐幹也の内的思考。(P24)
『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
遺書のない自殺。
遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
ではなにか。考えられる理由は一つ。
つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』
『遺書がないのはなぜだろう。』――蒼崎橙子の無根拠な断定を鵜呑みにしている。バカである。
『遺書がないのでは、人は自ら死なない。』――まるで逆である。遺書があるから、人は自殺するのではない。自殺する者が、遺書を書いたり書かなかったりするだけの話である。黒桐幹也は、単に頭が悪いだけではない。彼には因果 律すら存在しないのである。だから、論理的思考などできようはずもない。
ここでの黒桐幹也の内的思考のデタラメさについて、逐一解説する気には到底なれない。私が説明しなくても、わかる人にはわかるし、わからない人には説明そのものが理解できないに決まっているからである。
ただし、大まかにだけ説明しておくと、 黒桐幹也の思考は、「極論」が「スタンダード」にすり変わり、個人的な「感想」や「仮定」がいつのまにか「定義」になり、やがて単なる「思いつき」が「確信」へと妄想的に変移して「断定」に結果 する、といった態の「蒙昧」そのものなのである。
もしかすると、――笠井潔は、この小説をちゃんと読んでないんじゃないか、と思ってしまう。それなら幸いなのだが、そういうことでもないらしいのが、かえって恐ろしい。笠井は(頭が)どうかしてしまったのだろうか?
(13) 両儀式の「飛行」に関する見解。(P25)
『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』
『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。』――意味不明である。
『人間だけの力で飛行』というのは、「人力だけ」という意味で「動力を用いない」ということなのか、それとも「一切の道具」を用いず「裸一貫」で飛ぶということなのか。
言うまでもなく、人間は「動力」を用いずに空を飛んでいる。「ハングライダー」での飛行は、立派に「無動力」飛行である。それとも両儀式は、「ハングライダー」という道具を用いているから『人間だけの力で飛行』したとは言えないとでも言うのだろうか。それならば不可能なことはわかり切っている。『過去』も『未来』もありはしない。話にならない。
『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――日本語ではない。イヤになる。いきおい文章がぶつ切れになってきた。
『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――頭が痛くなりそうである。吐き気を催しそうだ、と言っても良い。
これも書くのなら、
・ 飛行という言葉と墜落という言葉は一対のものだ。
・ 飛行と墜落とは、観念連合を為している。
といったところだろう。
『だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』――言うまでもなく『空に憑かれた者』ほど『欠落』させているのは、「飛行と墜落とは一対のものだ」という「認識」であって、『事実』ではない。だから、事実として『墜落』することがあるのである。
(14) 地面についての蒼崎橙子の説明。(P32)
『しかし、君が水平と思っている地面 も不確かな角度なんだぞ。』
『地面』は、確かか不確かかにかかわりなく『角度』なんかではない。それも言うなら、
「しかし、君が水平だと思っている地面も、厳密に言えば、いくらかの角度はついてるんだぞ。」
これで、もう充分に『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』を立証できたと思うが、いかがであろう。
ともあれ、たかだか30ページほど読んだだけで、こんなに引っ掛かるところがあるのだから、私が、上下巻で約850ページの通 読を断念した気持ちは充分に理解してもらえようし、こんな作者に期待できないという気持ちも理解してもらえると思う。
見てのとおり、笠井潔が推薦した新人だから腐している、というわけでは断じてない。これは、そのずっと以前の話なのである。
○
さて、『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』については、ここまでの実例批判で十二分に証明できたかと思う。この小説はたしかに、読むに堪えない文章と思考力によって書かれた小説である。
だが、笠井潔は、上下巻にわたる長文「解説」の冒頭部で、この作品を、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証することにしよう。』(上巻P409)
と書いている。
言うまでもなく、笠井潔によってこの「解説」が書かれた段階では、『空の境界』は「同人小説として、異例に良く売れた」という実績しか持っていない。したがって、笠井の言う『伝奇小説に新地平を拓いた』というのは、「内容的には」拓いたと言ってよい新しさがあると「笠井潔が(個人的に)評価した」ということに過ぎず、現に『伝奇小説に新地平を拓いた』というわけではない。それはまだ、「解説」執筆段階においては、「笠井潔の頭の中だけに存在する、可能性」であるに過ぎない。つまり、まだ『秘められている』に過ぎないのである。それを、あたかも「実現」したものであるかのごとく『伝奇小説に新地平を拓いた』と書いてしまうところに、笠井潔の評論の『偽史』性があると見てもよい。
この「解説」を読んだ者のなかには、笠井潔のこの断言から、あたかも『空の境界』が『伝奇小説に新地平を拓いた』結果 、それに続く「新伝綺」小説が陸続と生み出されて、『八〇年代伝奇小説』ブームを思わせるような活況をひき起している――かのような「幻想」を、そこに見た者も少なくなかろう。
私がすでに指摘した、「文章のまずさ」や「非論理性」にまったく気づかない読者が、『空の境界』という作品の人気を支えているのだとすれば、そうした読者が、笠井潔の「解説」が描き出した「解釈」や「仮説」や「幻想」を、そのまま「事実」だと信じ込む可能性も、充分に高いと言わねばならない。それはまた、この「解説」を書いた笠井潔自身にも、あらかじめ推測され、期待されていたことなのであろう。
笠井潔による、上下巻にわたる「解説」は、
上巻解説 : 山人と偽史の想像力
下巻解説 :「リアル」の変容と境界の空無化
と題され、先の引用文にもあるとおり、上巻解説は『『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証』した、笠井潔流の「八〇年代伝奇小説 概論」であり、『空の境界』の独自性が論じられるのは下巻解説においてである。
笠井潔は「八〇年代伝奇小説 概論」たる「山人と偽史の想像力」において、「八〇年代伝奇小説」ブームを支えたものを、次のように説明してみせる。
『一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備したところの、天皇の想像的な再中心化というフィクションが、八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した。第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説が、未曾有のブームを巻き起こしたのも当然であろう。しかし伝奇小説のジャンル的繁栄は、八〇年代とともに終る。
一九八九年一月、昭和天皇の死に直面した八〇年代伝奇小説は、急激な失速と空転の過程に入った。東アジアの占領地で大量 虐殺を繰り返した皇軍の大元帥という魔的なイメージが、伝奇小説的な想像力を裏側から支えていた。魔王としての昭和天皇の生物学的な消滅は、天皇を最大最兇の敵役に祭りあげていた伝奇小説的な想像力に、回復不能ともいえる深刻な打撃をもたらしたのだ。
差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』(上巻P430~431)
なるほどよくできた「仮説」である。つまり、「物語」的に「よく描けた絵」だ、という意味である。
たしかに、
『差異の解体を利潤に転化する資本主義の徹底化した高度資本主義は、上下の垂直的差異(階級社会)を横並びの水平的差異(総中流社会)に平準化する。八〇年代の高度資本主義は「消費する『階級』の解体」を促進し、総中流社会を実現した。しかし八〇年代の総中流社会とは、三島由紀夫が予見した無差異性の凡庸な地獄の完成でもある。他人と同じであるという凡庸性に、人間は耐え続けることができない。』(上巻P429)
という状況から、人々は「個性」を主張しようと、様々なものにものに憑依した。その多くは「ブランド」品と呼ばれるもので、ブランドの権威がそれを身に纏う者の「個性」を保証してくれるという「幻想」に、多くの人たちは賭けたのである。「オタク」という生存様式もまた、同様の心理から生み出されてきたものなのかも知れない。「物」であれ「情報」であれ、人並み外れて徹底的に「保有」することにより、他人との差異化を図ったというわけである。――無論、こうした「差異化の欲望」というものは、自身の「身の安全の保証」ということを大前提としており、自己の他者との差異化とは、常に自己が他者の優位 (上位)に配置されるものでなければならなかったのは、断るまでもないことである。
ともあれ、『空の境界』の「解説」において笠井潔は、「ブランド」への憑依などといった個別 の対応では解消しきれなかった「差異化の欲望」をタイミングよく捉えたのが『第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説』であった、と主張しているのである。
「天皇」という絶対的な「差異」を持ち出すことにより、平準化されきった『無差異性の凡庸な地獄』に「起伏のある物語性」を回復し、その後、固定してしまっては困る「天皇」の抑圧的な差異性を、「天皇」の対極的な存在である「山人と偽史」の想像力をぶつけることで中和化し脱中心化する、という便利で安全なシステムが「伝奇小説」というものであったから、八〇年代には「伝奇小説」が一大ブームとなったのだ、――というのが笠井潔の立論なのだ。
笠井潔の、この立論は、3つの仮説によって構成されている。それは、
(1) 八〇年代状況論
(2) 「天皇の虚構的中心化」論
(3) 「山人と偽史の想像力」の勃興論
である。
私は、(1)と(3)については、おおむね承認できる。(1)は、その時代を生きた者として、実感的に承認しうるし、(3)については、笠井潔の「解説」にも引用される、山口昌男などの「文化人類学」などの成果 が象徴的に示したように、「豊かになり中心的な存在になったものは、逆に貧しきものや非中心的なものに、ある種の怖れを交えつつ、魅了される」という傾向があるからである。
つまり、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった人たちは、心のどこかで「貧しきものや非中心的なもの」を恐れつつも、それに惹かれていたのではないか。そうしたものが、栄華を誇る自分たちに襲いかかるのを恐れる反面 、貧しくとも自由かつ個性的であり、そもそも「個性」などということに拘泥する必要もない彼らの生き方に、どこかで憧憬めいた感情をもっていたのではあるまいか(事実、『清貧の思想』という本が、ベストセラーになった)。だからこそ、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった八〇年代の小説読者が、「山人」などに象徴される「まつろわぬ 」人々と、心理的に「同一化」しようとしたことは、想像に難くない。「実生活」は『高度資本主義』社会の繁栄の真只中においたまま、「想像の世界」では、そこから自由な「野生(非社会)」の存在として、世界を自由に(越境的に)駆けめぐり、時にはそんな存在を捕えて「社会化」しようとする「敵(悪)」と戦い、これを粉砕するヒーローとなるのである。
このように考えた場合、笠井潔の言う「天皇の虚構的中心化」というのは、八〇年代における伝奇小説ブームを説明する上で、ほとんど必然性を欠いてしまう。
実際、特に「伝奇小説」ファンであったとは言えなくとも、若き読書人の端くれとして八〇年代を生き、荒俣宏の『帝都物語』の熱心な読者ではあった私には、当時「天皇」とは、ほとんど意識にのぼらない、日常的には「たいへん印象の希薄な存在」でしかなかったように思う。
『帝都物語』でも描かれるとおり、「天皇」の存在が多くの日本国民の目にクローズアップされるのは、昭和天皇の病状が悪化し、日々その様態をつたえる「下血と輸血」報道が繰り返されるようになってからではなかったか。それまでの「天皇」は、一部「左翼」や「右翼」を除いた、多くの国民にとって「天皇と呼ばれる、人の好さそうな老人」としか映っておらず、善かれ悪しかれ「戦争の記憶」からは切断されて(「戦後は遠くなりにけり」で)、およそ「魔王」性を喚起するような存在ではなかったのではあるまいか。
そうした意味で、私は笠井潔の主張する(2)の要素、つまり八〇年代において「天皇の虚構的中心化」がなされたという主張は、どうにも「疑わしい」し「話を作り過ぎている」としか思えない。
たしかに(1)と(3)の要素だけでは、「絵(仮説)」としての中心性を欠いてしまい、お世辞にも「魅力的な仮説」とは言えなくなるだろう。しかし、我々がここで問うているのは、「八〇年代伝奇小説」ブームというものの「現実的な意味内容」であって、後から付与される「魅力的な意味づけ」ではないのである。
だが、私がこれまでに何度となく指摘してきたとおり、笠井潔は「小説家にしては批評家的に過ぎ、批評家としては小説家的に過ぎる」のである。つまり、「小説」においては、その「意義」「意味」を優先してしまうあまり、実質のともなわない「頭でっかちの小説」になってしまうし、現実的な「批評対象」の現実的な「内実」を剔抉すべき「批評」にあっては、その本分を放逐した「大向こうを唸らせる(大向こうに受ける)」ことだけを目的とした批評、すなわち「批評対象の現実」に忠実たらんとする初心を欠いた「エンターティンメント的批評(仮説)」の構築に腐心する傾向が顕著なのである。
それはすでに、幾人かから批判の声のあがっている「大量死」理論に基づく「大戦間本格ミステリ論」と、現代における「本格ミステリ」の優越性という笠井の議論にも顕著である。たしかに、サブカルチャーの片隅におかれていた「ミステリ」を、それまでは無縁とも言えた「現代世界史」や「現代思想史」にからめて「意義づけ」れば、対外的には権威に無縁であった「ミステリ」ファンは大喜びをして、それを支持するだろう。しかし、笠井潔がそういう作業を開始したのは、「新本格ミステリ」ブームが定着した後なのだから、これはブームにコミットするための「恣意的なゴマスリ」であり「ウケ狙いの後づけの理屈」だという色合いは否定できない。
また実際、この「新本格ミステリ」ブームが翳りを見せ始めると、笠井潔は『空の境界』の出現に、「伝奇」小説ブームの新たな到来を示唆的に予告し、その文章の中で、あれだけ口を極めて褒めちぎっていた「本格ミステリ」の意味を、
『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』
と、愛想も小想もなく語ってしまう。
ここで語られている「本格ミステリ」の意義とは、「伝奇小説が昭和天皇の消滅により機能しなくなった時、その穴を埋めるものとして登場したのが、より完成度の高い、つまり自己完結性の高いオナニズム装置としての本格ミステリであった」ということでしかないのである。
いったいなぜ、笠井潔の「本格ミステリ」への語り口は、こんなにも冷めてしまったのだろうか。――それは「新たに時代を制するもの」の出現を本格的に語るためには、「老いたる王」は廃棄されなければならないからである。つまり、「八〇年代伝奇小説」の衰退をうけて必然的に成り上がってきたのが「新本格ミステリ」であるのならば、その「次なる王者」である「新伝綺小説」の登場は、その登場の大前提として「老いたる王」としての「新本格ミステリ」の「過去」性が語られなければならないからである。
もちろん、この『空の境界』の「解説」において、笠井潔は「新本格ミステリ」ブームの終焉を、直截に語ってはいない。しかし、「八〇年代伝奇小説」の『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』解消機能を、より完全化したものとして「新本格ミステリ」を捉えた場合、
『 八〇年代伝奇小説が描いた境界性には、この(※ 『空の境界』の)ような複雑きわまりない屈折は見られない。中心に対する周縁、日常に対する非日常の境界という具合に、境界性は明確なものとして把握されていた。キャラクターとして幾重にも境界的な要素を畳みこまれていたヒロインは、八〇年代「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論から、決定的なまでに逸脱している。いまや探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界、つまり「空の境界」なのだ。』(下巻P460)
という笠井潔の現在の見地からすれば、「新本格ミステリ」は最早「過去のもの」と看做されなければならない、ということになるのである。
しかし、この一見もっともらしい「仮説」も、現実には「個人的延命」という姑息な意図に由来する、本末転倒した、つまり「因果 」を転倒させた「後づけの屁理屈」でしかないのは、笠井潔の動きを観察してきた者の目には、明らかなことであろう。
すなわち、「新本格ミステリ」ブームの行き詰まりということは、『空の境界』の出現を待つまでもなく、ここ数年、多くの業界関係者の間で、実感をもって語られてきた既成の事実なのである。私はこのことを、「笠井潔が、真に望んだこと。」のなかで、
『(※ 笠井潔は)綾辻行人のデビュー以来の長らく続いた「本格ミステリ」の行き詰まりが囁かれる中、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている「新感覚」派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばしており、「本格推理小説」の延命を図っている。』
と書いているし、おおよそその意味するところは、ホランドこと碧川蘭が、
『 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。
法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。
でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。』
(「おずおずと世代論を(2)」)
と説明しているとおりなのである。
ちなみに、今や私の認識は、上記論文「笠井潔が、真に望んだこと。」執筆時とは違い、後者碧川蘭の認識に近いものになっている。
すなわち、笠井潔は『「本格推理小説」の延命』を図って、「清涼院流水以後」の若い世代の作家に接近しているのではなく、もはや「自分一個の延命」を図って、それをしているのだ、ということである。――つまり、笠井潔の内部では、すでに「新本格ミステリ」は、切り捨てられている可能性が高い、ということのだ。
だからこそ、笠井潔は接近する若手作家の範囲を「ミステリ作家」に限定することを止めて、「ジャンルX」の若手作家全体にまで広げはじめたのではないか。そして、その結果 として必然的に出てきたのが、「新伝綺」作家だとして持ち上げられる、奈須きのこのデビュー作への、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
という「過剰なまでの支援」なのである。
つまり、話を戻すと、『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』の解消装置としての「八〇年代伝奇小説」や、それをより完全化したものとして「新本格ミステリ」を、根本的に超えるものとして『空の境界』を捉える、という笠井潔の立論は、実際には、「新本格ミステリ」の衰退という事実をうけて、後からひねり出され虚構された、「青田刈り」を狙った「後づけの理屈」に過ぎないのである。
「八〇年代伝奇小説」から、上手に「新本格ミステリ」に乗り移った際に用いた「後づけのヨイショ」という手管を、今回は、過去の経験を生かして、ちょっと早めに使ってみた、というのが、奈須きのこの『空の境界』に対する過剰なまでのバックアップの、本当の意味なのである。
つまり、このことを言い換えれば、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。
笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。
そこでピックアップされた若者は、たとえ彼がどれほどの器であろうとも、ひとまず周囲が最大限に騒ぎ立て、過剰な宣伝と演出と優遇で、世間に彼を「スター(の器)」として認知(または、誤認)させねばならなかった。「才能があるんだから、放っておいても頭角を現してくるよ」というのとは正反対に、「黒い鴉も白い」と思わせようとする、本人をなかば置き去りにしての「売り込み」こそが、奈須きのこのデビューにあたって採用された「無名の新人のデビュー作の限定豪華版を、普及版の刊行に先立って刊行する」とか、「ミステリ界の大御所的評論家である笠井潔に、上下巻にわたる異例に長文の解説書かせる」といった「奇妙な動き」の意味だったのである。
これがうまくいけば、講談社は「新本格ミステリ」ブームの衰退傾向にともない傾きつつある講談社ノベルスを、「新伝綺」という新しいブランドで盛りかえすことができるだろうし、笠井潔は「先見の明のある優れた評論家」として、また「新世代の良き理解者」として、あるいは「新本格ミステリ」ブームで担ったのと同じ「党派理論家」としての立場を、「新伝綺」ブームにおいても担えると算段したのであろう。
もちろん、笠井潔としては、「佐藤友哉へのコミット」に際しての「隠された政治性」を、東浩紀から鋭く指摘された時(往復書簡『動物化する世界の中で』)と同様、私のこのような読みを『邪推』だと否定することだろう。
笠井潔は、東浩紀の「笠井潔=度しがたい党派人間」説が、『邪推』だとする根拠を、
『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品性や性格の問題というよりも、もう少し構造的なものがある。簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。市場のヤスリにかけられているかどうかは、決定的な相違ですから。プロとして顧客に商品を売って生活をしている以上、ほとんどが大学教授のアマチュア・ライターで占められている特殊な世界のように、「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』
(前記往復書簡、笠井潔・第一二信「言論的「禁治産者」の独り言」P163 より)
と、東浩紀が所属する『現代思想の小世界』の規模の小ささにおいて、東の見解を否定してみせた。
しかし、「業界の規模」ということで言うのなら、私が先の「笠井潔が、真に望んだこと。」で、
『笠井は、かつて東の所属した「現代思想の小世界」を『タコツボ』と見下し、現在みずからが所属する「本格ミステリの小世界」を『現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。』と言う。そして、その根拠が『簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。』と言うのは、まさに世に言う「目くそ、鼻くそを笑う」であり、いかにも「文筆業という小世界=タコツボ」に生きる人間らしい「視野狭窄」だと言えよう。いったい笠井潔が、その知名度に比して、どれだけ「稼いでいる」と言うのであろうか?
笠井本人は、現在、日本のエンターティンメント文学界の主流である「本格ミステリ」に属しており、しかも斯界の理論的リーダーだというのが自慢なのかも知れないが、京極夏彦や森博嗣、有栖川有栖といった、ごく限られた「売れっ子作家」を除けば、本格ミステリ作家の年収など、さほどのものでないというのは、文筆業界の現実を多少とも知る者にとっては「常識」の範疇に入る事実であろう。
そうした自らの現実を棚上げにして、銭儲けにならない「現代思想(=批評)の小世界」を嗤うというのは、なんとも「党派的」で「厚顔無恥」に過ぎるのではなかろうか?
さらに言えば、かつて笠井潔は、島田荘司との対談の中で、「ミステリ」から「SF・伝奇アクション」の方へと「転向」した理由は、彼の「ミステリ」作品に何の反響もなかったからだと言っている。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった「初期の名作」は、さほど売れなかったし、反響もなかった。つまり、当時の笠井潔は『市場のヤスリにかけられて』いない「アマチャア作家」であり、その当時の『傷』が、今の「メジャー指向の文壇政治屋」としての彼をつくった、とも言えるのである。つまり、東浩紀にかんして、笠井潔は「自分がそうだから、人もそうだ」と思ったのであろう。
ともあれ、実売部数において「エロマンガ」「エロ同人誌」の足下にも及ばない、ごく稀に一万部刷るか刷らぬ かというような(笠井潔の本は、大半が再刷されていない)「通俗作家(職業作家)」が、身の程知らずに「偉そうなことを言うな。このバカタレが」……というのが、私の正直な感想なのである。』
と嘲笑したとおりで、到底、人のことを言えた義理ではないのである。
今や笠井潔は、「同人小説」としては例外的によく売れた、という実績しかない新人作家のデビュー作を持ち上げて、『空の境界』の上巻「解説」を、
『『空の境界』講談社ノベルス版の刊行は、注目に価する「事件」である。
二〇〇〇年冬のコミックマーケットで公開されたノベルゲーム『月姫』の作者として、奈須きのこはわれわれの前に初登場した。質量 ともに同人ゲームの水準を超えた『月姫』が、コミケ的なオタクカルチャー界に巨大な旋風を巻き起こしたのは記憶に新しい。
『月姫』公開以前、一九九八年から九九年にかけて奈須は、ホームページ「竹箒」に長編小説を分割掲載している。コミケで販売された結末部分を加え、長編としての結構を整えた『空の境界』は、二〇〇一年十二月に自費出版された。伝奇美少女ゲーム『月姫』に続いて新タイプの伝奇小説『空の境界』も、コミケや同人ショップでの自主販売という制約にもかかわらず、空前の大量 読者を獲得することになる。』(上巻P408)
と、思いきり大仰に語りはじめている。『事件』『巨大な旋風』『空前の大量 読者』という修辞は、なるほど、こと「粗製濫造ぎみの美少女ゲーム業界(同人も含む)」にあっては、事実だと言えるかも知れない。しかしそれが、ジャンルを越えるだけの質を保証するものかどうかは、また別 問題であり、そこに批評家としての言明の慎重さも求められるべきなのだ。例えば、このような『事件』『巨大な旋風』『空前の大量 読者』といったことは、出版業界に限ってさえ、年々歳々いくらでも存在する(『世界の中心で愛を叫ぶ』などのベストセラー)のだが、笠井潔がそうした作品を、その「人気」において、こうも無条件に賞揚してみせることは、これまでほとんど無かったのである。――すなわち、こうした恣意性とは「そ知らぬ 顔で過去の持論(立場)を放棄できる」ペテン師ならではものだと言えるのである。
笠井潔が、ここまで新人作家を持ち上げる「根拠」とは、結局のところ「数字」に他ならない。理屈はどうあれ、笠井潔の著作よりも、ずっと「売れた」という事実において、奈須きのこは笠井潔より上だし、『空の境界』は『哲学者の密室』よりも上なのである。結局はそうとしか言い様のない「拝数主義」に笠井は囚われているからこそ、このような臆面 もない「ヨイショ」も可能となるのである。
しかし、笠井潔ほどの実績を残した作家が、いまさらそこまで「数字」に拝跪するものだろうか、との疑問を持つ人も少なくなかろう。これは、当然の疑問である。
けれどそれも、先に紹介した「笠井潔が、真に望んだこと。」に書いたとおりで、笠井潔が「売れない作家」として舐めてきた辛酸と、それに由来するトラウマというものを知っておれば、決して理解できないことではないのである。
例えば、上記論文にも詳述したとおり、笠井潔は「新本格ミステリ」に「党派イデオローグ」としてとり憑くことで、作家として一定の位 置を占めるにいたった。しかし、笠井は「文学賞」というわかりやすい「勲章」を持たないに等しかったし、「売れない作家」であることに変わりはなかった。だからこそ、彼は「探偵小説研究会」を発展させて「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げ、さらにこの団体が主催する「文学賞」というかたちで「本格ミステリ大賞」を立ち上げ、自分の帰属する「本格ミステリ」業界の「ミステリー」文壇における覇権を強めるとともに、いずれは自分がその賞を取って、「名誉と売り上げ」を一気に手に入れようと画策したのである。
しかし、時すでに遅し。「文学賞」が濫立し、年末の「年間ベストテン本」が氾濫する現状では、笠井の看板シリーズの新作であり、渾身の力作でもあった『オイディプス症候群』(光文社)が、笠井自身がリーダーである「探偵小説研究会」の編著になる『2003本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で「第1位 」を勝ち取ってみても、さらにその延長線上で「本格ミステリ大賞」に選ばれてみても、せいぜい一度だけ版を重ねる程度で、期待したほどの効果 は、まったく得られなかったのである。
この厳しい現実は、翌年の「本格ミステリ大賞」受賞作である歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』(文藝春秋)の売り上げ部数に、如実に現れている。この作品は、刊行直後から評判が良く、書店などの推薦本として草の根レベルでたいへん評価の高い作品であったが、それが売り上げに結びつくことはなかった。しかし、その不遇な作品も、当初からマニアックなところで注目されていたおかげで、『2004年度版 このミステリーがすごい!』(宝島社)と『2004本格ミステリ・ベスト10』で堂々の第1位 に選ばれ、「本格ミステリ大賞」と「日本推理作家協会賞」の2賞まで獲得し、名実共にその年の「ベストミステリ」として方々に取りあげられ、一般 にも広く認知される作品となったのである。
しかし、その結果それなりに版を重ねた、この傑作の売り上げが、たかだか11万部に止まっている(讀賣新聞2004年6月18日付「ミステリー界 なぜか似通う 賞の結果」)というのだから、知名度において圧倒的に劣る笠井潔の『オイディプス症候群』の売れ行きがどの程度のものであったかは、推して知るべしであろう(未確認だが『オイディプス症候群』は3刷まで。一方、『葉桜』は2004年5月30日現在で13刷)。
つまり、笠井潔はこうした経験から、もはや「本格ミステリ」に拘泥、あるいは、義理立てしていたのでは、『文の商人』として生き残る(面 目を保つ)ことは不可能だ、という現実に直面 したのであろう。ならば、どうするか? その答えは、これまでの経験からもおのずと明らかなとおり「有望なジャンルに鞍替えすることだ」ということだったのである。
では、その「鞍替え」先は、いったいどこにすべきなのか? これは、生き残りを賭けた難問である。そこでまず、笠井潔の目に止まったのは、「本格ミステリ」との絡みで注目していた「ジャンルX(※ アニメ、マンガ、ライトノベルズ、フィギュアなどの、オタク系新世代カルチャー)」関連の「新世代」小説であった。
しかし、いくらそのあたりが流行っているとはいっても、笠井潔の個性とは相容れない「セカイ系」小説や「恋愛」小説では、コミットしそこなうのは目に見えている。ならば、できるだけ自分の従来の守備範囲に近いところから「鞍替え」先を、と捜してみた場合、「ミステリ」はダメ、「スパイ・謀略小説」的なものもダメとなれば、おのずと残るのは「伝奇小説」あたり、ということだったのであろう。
つまり、笠井潔は、自身が長文の「解説」を書き与えて、最大限の祝福をした新人作家奈須きのこに、自身の旧作の伝奇小説『ヴァンパイヤー戦争』の文庫に推薦文を書かせたり、『空の境界』と同じイラストレーターに『ヴァンパイヤー戦争』の装丁画を書かせたりしたことからもわかるように、自身いつまでも「新伝綺」小説の「よき理解者」や「イデオローグ」に止まるつもりはなく、ゲーム作家としての奈須きのこら(TYPE-MOON)の人気に便乗して、いずれは「新伝綺」ブームを支える「現役」の「伝奇小説家」として活躍するつもりなのである。
したがって、「新伝綺」に、時代的必然があるというのは「嘘」である。たしかに「ジャンルX」全体の流行傾向には時代的必然はあろうが、その中でも、今回特に「伝奇」小説をクローズアップしてみせたのは、そこに「特別 な時代的要請」があったということではなく、「笠井潔の個人的都合」があったというに過ぎないのである。
実際、大した前兆現象もなく、新人作家のデビュー作ただ1作だけをとらえて「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」と言われても、たいていの人には、ピンと来なかったはずだ。それもそのはず、「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」という断言の内実は、じつのところ「ここから、伝奇小説ブームをふたたび巻き起こそう。巻き起こってもらわなければ困る」ということに過ぎなかったのである。
このあたりの「読み」が『邪推』でないということを証明する根拠を、もうひとつ挙げておこう。それは、私が『空の境界』の文章を検証した際に呈した、
『なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者(笠井潔を含む)とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。』
という「疑義」にかかわる。
(※ 上が、TYPE-MOONの竹による「講談社文庫版」
下が、生頼範義による初版「角川ノベルス版」)
たしかに笠井潔は、小説の「意義」や「意味」にこだわる評論家である。しかし、それは「文章」を軽視するということと、同じではない。笠井自身、小説家である以上、小説とは「文章」化されて初めて「小説」になる、ということは十二分に理解しているし、そのことを自身語ってもいる。
具体的に言えば、笠井の「岡島二人」論である。笠井の岡島二人論「余は如何にしてミステリ作家となりしか」(『模倣における逸脱』所収)は、岡島二人という「合作作家」を分析することで、普遍的な「小説家の誕生の秘密」に迫ろうとするものだが、「小説家の誕生の秘密」のもっとも重要な要因として、この評論で提示されるのが「小説の本体は、実際の文章化の中で顕現するものであり、プロットやアイデアや主題といったものは、小説のきっかけでしかなく、副次的な意味しか持ちえない」とする「文章化」の問題であった。
『 暗記するまでに練りあげられた「ストーリー」(作者はストーリーにプロットの意味を込めて使用しているが)であろうとも、小説作品はそれ自体とは等置されえない点で、それも一種のネタであるに過ぎない。そして繰り返すまでもないだろうが、「ネタと小説はまるで別 のものなのだ」。』(P166)
文中の『作者』とは、 自伝的長編エッセイ『おかしな二人 岡島二人盛衰記』の作者である、岡島二人の片割れ、井上夢人のことである。ちなみに、井上は、笠井潔と同世代で、笠井の仲の良い友人で、「e-NOVELS」の共同経営者でもある。
『(※ データを客観的に伝えることを目的とし、文章がネタに従属する「報道文」とは違い)小説の場合には、その論理が逆転せざるをえないだろう。トリックに対してストーリー、ストーリーに対してプロット、プロットに対してディテールなどなど、「語られる対象」は「語りの効果 」に従属しなければならないのだ。「この女は、どういう服装をしているのだろう」という自問を、作家に強いるだろうディテールでさえも、最終的な次元ではありえない。「赤い服を着ている女」という意味(ネタ)は、比喩の効果 において無限に多様な文に変奏されうる。その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。それが報道文とは性格の異なる、小説を書くという行為に固有の意味である。データがあるのに「書けない」という理由で、度はずれな困難を味わう新聞記者や週刊誌記者は稀だろうが、おなじ理由で発狂したり自殺したり、そこまで行かないにしても筆を折ったような小説家は無数にいる。』(P167~168)
「トリック」だけを取り出して、その「固有の面白さ」を論じることの可能な(そのような特異な習慣をもつ)ミステリマニアには理解しにくい話かも知れないが、笠井潔がここで語っている小説観は、非常に常識的であり真っ当なものである。
つまり、「魅力的な女」というだけでは小説にはならないから「空手の達人で美人」だとするが、では具体的に「どんな風に戦うのか」「どんなふうに美人なのか」「性格は」「しゃべり方は」「服装は」ということが具体的に「小説の文章」とならないかぎり、それらはすべて「ネタ」にとどまり、「小説」にはならない。また、その時、主人公が「赤い服」を着ているか「紅い服」を着ているか、あるいは、主人公の通 りがかった場所に、たまたま立っていたのが「アベック」なのか「学生の二人連れ」なのか、といったことは、たいていの場合、『客観的な理由』はなく、作家の『主観性』(主観的選択)に委ねられている。
だが、優れた小説作品においては、作家によって主観的に選ばれた要素が「計算し尽されたかのような(客観的)効果 」を担っている場合が少なくない。だから読者は、そこに「作者の計算」と「必然的(論理的)選択」見るのだが、往々にして作者は「そこまで考えてはいなかった」ということにもなるのである。つまり、こうした作家と読者の齟齬の存在は、作家の「文章選択」における「直観」のような部分にこそ、「作家的才能」の本体がある、という事実を示唆しているとも言えるのである。
「同じトリック」「同じプロット」を使っても、別の作家が書けば、別の作品になって、おのずと作品としての出来不出来の差も生じてくる。同じようなキャラクター設定をしても、作家の文章力によって、そのキャラクターはまったくの別 物になってしまう。――小説は、そういうものなのである。
つまり、たとえ大変「重要な意味」が語られていようとも、それが作家の直観によって適切に選択された文章によって表現され「肉化」されていないかぎり、その小説は「駄 作」であり「失敗作」だということなのだ。
例えば、「人類愛」や「世界平和」というのは、重要な問題であり、重要な小説的主題ともなりうるけれど、それが小説として適切に文章化されないかぎり、それは「駄 作」であり「失敗作」となってしまう。「重要な主題をあつかった駄作」であり「頭でっかちの失敗作」ということになってしまうのだ。
そこで話を『空の境界』へ戻すと、笠井潔は『空の境界』という作品の「意義」であり「存在価値」を、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
という点に求め、そうした価値が、この作品の奈辺に存するのかを、次のように説明している。
『 (※「八〇年代伝奇小説」のような)「中心―周縁」論的な伝奇小説では、制度化され権力に支配された日常世界が敵である。都の権力にまつろわぬ 鬼や妖怪たちの物語として、伝奇小説は成立してきた。しかし『空の境界』では、古典的な伝奇小説の構図が逆転している。味方は日常、敵が非日常なのだ。八〇年代伝奇小説にとって最後の可能性だった、宗教的根源の探求者が最大の敵という役割を演じる。『空の境界』は半村、五木的な伝奇小説の構図を一気に裏返し、これまで誰も想像したことのない可能性を拓いた。
しかし『空の境界』の達成を、「日常―非日常」や「中心―周縁」という図式の優位 項と劣位項の逆転に見るわけにはいかない。そもそも映画や小説のパニックものでは、平穏な日常に襲いかかる非日常の脅威という構図はありふれている。『空の境界』の独自性は、「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。
「空の境界」としての式は、日常と非日常という二つの世界を往還する。日常的存在としての式に侵犯された非日常性を、荒耶宗蓮は人格的に体現している。根源を求める欲望は「悪」として否定される。宗教的根源ではない、「血」としての根源にしても同様だ。他方、非日常性としての式を容認することで、日常性もまた必然的に変容する。日常化された非日常と、非日常化された日常。中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界では、非日常も日常も根本的な変質をとげざるをえない。』(下巻P468)
『空の境界』の「新しさ」とは、『「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。』と笠井潔は言う。『空の境界』という小説が『中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界』を描いている、と笠井潔は言うのである。
しかし、そもそも山口昌男らの唱えた「中心―周縁」理論とて、「中心」と「周縁」が固定的なものとして捉えられていたわけではない。それらは、刺激しあい補い合う「二極」としてイメージされていただけで、その「中味」は、決して固定されていたわけではないのだ。
例えば、山口昌男が愛用したのが「トリックスター」という概念である。「トリックスター」は、「日常―非日常」「中心―周縁」を往還して、双方を「掻き回し」、そのことによって固定し衰弱することが定めの「日常―非日常」「中心―周縁」を「生気返し」し「更新」する、「境界」的存在なのである。
つまり、『空の境界』の主人公である両儀式の存在形式は、なんら新しくないのだ。
山口昌男は、読者の側に立って「非日常の侵犯により、日常が活性化される」「周縁的なものの侵犯により、中心的なものが活性化され更新される」と語ったけれども、これは逆の言い方、つまり「日常との接触により、非日常が活性化される」「中心的なものとの接触により、周縁的なものが活性化され更新される」ということを否定するものではない。鬼や妖怪といった「それまで」は「非日常=周縁」の側に属すると認識されていたものが、「商業的消費」という日常性にさらされて「陳腐化」し、「日常=中心」の側に取り込まれる、というのは常識的な認識であろうし、その場合、「非日常=周縁」の側は、わかりやすい「鬼や妖怪」といった「反体制」の象徴ではなく、「ストーカー」や「理解不能なアンダー14」や「北朝鮮」等といった「新たな周縁」を見い出し、自ずと変化していくだろう。この程度のことは、山口昌男の昔に、すでに認識されていたことなのである。
ところが笠井潔は、こうした先達の達成を、故意に図式化して「硬直した、ものの見方」であるかのように語り、その上で、特に新しくもないものを新しいと、「小説」家的「文章(レトリック)」を駆使して、大仰に語ってみせるのである。
したがって、『空の境界』という作品に、笠井潔が言うような「中味(意義・意味)」は存在しない。それは笠井潔が「ある」と語った段階で、読者の内部に発生した「幻想」でしかないのだ。そして、その「事実」を裏づける証拠とは、他でもない、『空の境界』のあの「下手くそな文章」なのである。
笠井潔が岡島二人論で語ったとおり、「ネタ」は「小説」ではない。つまり、その「小説」にどのような「意義」や「意味」が込められておろうと、あるいは発見されようと、その「意義」や「意味」が十全に「文章化」され表現されていないかぎり、その小説は『「重要な主題をあつかった駄 作」であり「頭でっかちの失敗作」』でしかありえない。つまり、百歩譲って、笠井潔の発見が、単なる「恣意的な意味づけ」ではなく、それなりに根拠のあるもの(まったく無根拠でもないもの)だったとしても、
『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』(『空の境界』上巻P12)
や、
『だから、それが関連性だ。いや共通 点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』(『空の境界』上巻P23)
や、
『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
遺書のない自殺。
遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
ではなにか。考えられる理由は一つ。
つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』(『空の境界』上巻P24)
といった、「頭が悪い」としか言い様のない「議論」にしか「文章化」できない作者、つまり「適切な文章を選択する直観的能力」の欠落した作者の「小説」に、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
などと、笠井潔が煽り立てるほどの「実質」がないのは、理の当然なのである。つまり、「小説」とは、そんな甘いものではない。それは笠井潔自身が、
『その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。』
と語ったとおりなのだ。
では、なぜ、笠井潔のこんな妄言を、少数とは言え、何となく納得してしまう人が出てくるのであろうか。――それは、私がその文章を検討することによって証明した、『空の境界』という作品の「中味のない朦朧性」のせいなのである。
人間は「よくわからないこと」に対しては、どうしても「過大な幻想」を抱きがちである。素直な人間ほど「良くわからないけど、きっと、ものすごく深遠なことを語っているんだろうな」などと思ってしまう。それは、自分の理解能力の低さに対する「引け目」から、相手を過大評価してしまう、ということでもある。相手が桁外れの存在であれば、自身がそれを理解しえなくても、それは「当然」だ「普通 」なのだと、自身を慰めることができるからなのだ。
また、人間のそうした「心理的弱点」を知り尽しているからこそ、ペテン師はそこを突いてくる。怪しげな健康食品を売り込むのに、「○○大学名誉教授」などといった肩書きをひけらかし、一般 人が理解できない数字を並べ立て、とんでもない価格の商品を売りつける。「教養」や「学歴」に劣等感をもっている者は、こういう手口に、あっけないほど簡単に引っ掛かる。「○○大学名誉教授」と実在の大学名を出す以上、「まさか偽者ではあるまい」と思い、「そんな偉い先生の出すデータならば信用できるのであろう」と考え、そしてそのデータからすれば「むしろ、その価格は安い」などと考えてしまう。
たしかに「はったり」や「ペテン」というものは、「見るからに、根も葉もないデタラメ」ではまずい。けれども、それらしい形式さえ整っておれば、「空中楼閣」で充分なのである。つまり、「蓮実重彦東大教授」を騙るのは、バレる可能性が高いからまずいけれど、「○○大学名誉教授」を騙っても、まずはバレない。要は、その場で真偽を見抜かれるような、ハッキリとしたデータを提供せず、どうとでも取れる曖昧さ(朦朧性)のなかで「幻想」を見せればよいというのが、ペテンの常道なのである。
そうした意味で、『空の境界』(の「文章」)は「ペテン」の道具にピッタリだったのである。つまり、奈須きのこや『空の境界』は、単に「明晰さを欠いた」凡庸な作家であり作品なのであって、それを利用して「ペテン」をかましたのは、あくまでも笠井潔なのである。
つまり、奈須きのこや『空の境界』は、「からっぽな器」であり「空虚な匣」に過ぎないのだが、そこに笠井潔という「魔」が巣食ったために、奈須きのこや『空の境界』は、新たな「伝奇小説」ブームに延命を賭ける笠井潔によって、
『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』
に祭り上げられた、というわけなのだ。
何も無いところに「幻想」を充填することで、その「空虚な容れ物」に、もともと何か重大な意味があったかのように誤認させる「ペテン」。これは、たしかに、笠井潔独特の「意味」「意義」偏重(観念指向)から出てきたことなのだが、しかし、そんなものが一定の説得力を持つというのは、読者の側にもそういう意味づけを求める「欲望」があったからなのであろう。
実際に、それが「価値のあるものかどうか」ではなく「価値のあるものと思えれば、実際なんてどうでもいい」という態度。これは、昔からある「どうせ私を騙すなら、死ぬ まで騙して欲しかった」という恋愛心理に近いものがある。所詮、現実とは「認識の総体」でしかないのだから、死ぬ まで騙されるのなら、少なくともその騙された本人にとってそれは「真実」になる――という考え方もある。しかし、こういう人は、そういう「騙されたい願望」に引き摺られて、一生「騙され」「裏切られ」「泣き言」を言わなければならないのではなかろうか。
私は「宗教」というものを信じていないけれども、「宗教」に「実感」を持っている人たちが大勢いるという「事実」を否定しない。そして、間違った「実感」であろうとも、それが感じられる人間が、そうした「幻想」を信じ込んでしまうのも、なかばやむを得ないことだと思っている。しかし、事そこにいたる前に、人は自身の願望を直視するべきであろう。「自分は、信ずるに値するものを信じるのか。それとも、信じられるものでさえあれば、それで充分だ、というだけのことなのか?」と。
このことは、当然のことながら「小説」の評価にも当てはまるだろう。「優れた作品を優れた作品として妥当な評価し、楽しみたいのか。それとも、客観的には駄 作であろうと何だろうと、自分がそれを面白いと思えれば、それを傑作だと評価するのに吝かではない、という態度を選ぶのか」ということである。
もちろん、私の立場は前者である。私は、自分が個人的に面白いと思っても、客観的に不出来な部分は不出来な部分として評価し、そうした点を含めて総合的に評価した結果 、その作品が客観的には「駄作」「失敗作」の部類だと思えば、そのように認めるのも吝かではない。ただ「駄 作」であろうと「失敗作」であろうと、「好き」なものは「好き」だという事実に変わりはない。つまり、「客観と主観」は区別 するし、「主観から逃れられない」というのは当然の前提として、だからこそ「客観を大切にしたい」し「そこにこそ価値がある」と考えるのである。
このことを言い換えれば、次のようなことにもなろう。
『「前に聞いたことがあるんだな、私は。ウチの先生の談に依ると、予感てェのは中から湧くものだから駄 目だと。外から来なきゃ本当じゃないだろうと云う。善く解らないと云ったらですな、中にあるものなんか何でもアリで面 白くないだろうがと云って散散馬鹿にされたですよ。」
寅吉は両手で湯飲みを包み込むようにしてふうふう吹いた。
解るような。
解らないような。
いや、解らない。解るべきではない。
榎木津の発言を難なく理解できるようになってしまったら、それはもう手遅れと云う感じがする。そうなってしまったら既に一般 人ではない。立派な一味だ。だから理解しようと努力する前に、解らないと放棄した方が、より普通 なのだ。
サッパリ解りませんと云った。
「それで――」
凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通に振る舞うべきなんだ。』
(京極夏彦『百器徒然袋 ― 風』所収、「雲外鏡 薔薇十字探偵の然疑」より)
つまり、私が要求しているような理解は、『一般 人』つまり、榎木津礼二郎の言う『下僕』たちには、困難なことなのかも知れない。「一般 人」は、自身の「内的衝動」にふりまわされて、「幻想」に執着しつづけるのが「分相応」なのかもしれない。つまり「一般 人」とは、「ペテン」の被害者であることに喜びを感じるような、「変態」なのかも知れない。
――だが、その「実像」、つまり「外」から来る「自身の肖像」を見た(見せられた)以上、人は純粋に『凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通 に振る舞う』ことはできない。いや、振る舞うことは可能だが、それで「幸福な痴愚」としての「一般 人」に立ち戻れはしない。だから、そういう人は、内と外の「境界」で立ち往生し、中味のない中途半端な存在として、ふらふらするしかない。彼は、自身、虚しい「空の境界」として「ペテン」の被害にあい、あるいは利用されるしかないのである。
2004年11月8日
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