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もし彼女がお笑い芸人になったら(上) 作者:ムーン・エム
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笑いに学ぶ自己啓発

もし彼女がお笑い芸人になったら(上)

   ――笑いに学ぶ自己啓発――









1、上手に話す


 漂うコーヒーの香り、適度な喧噪、一人でくつろげるカウンター。心のリハビリに、うってつけの場所だった。会社帰りにこの駅前コーヒー店で熱いやつを一杯すするのが、オレに唯一残された贅沢だ。大きな窓ガラスに反射した自分の姿が、スケルトンになっている。空っぽの抜け殻だ。色をなくしたできごとを思い浮かべて自分色に塗り直し、なんとか持ちこたえる。

「どうだ。コーヒーでも飲んでいくか」
 今日、オレは退社時に、二人の若手男性社員に声をかけてみた。
「すみません。ちょっと用事があるので」
 すげなく断られた。
「キャバクラにでも連れてってくれるんならハナシは別ですけどね」
 ピアスをしたもう一人にも断られ、笑われてばつの悪い思いをした。オレは反射的に胸に手を当てた。良心に問いただしたわけではない。スーツの上から財布に手を当ててみたのだ。沈黙せざるを得ない理由がそこにあった。
 カネがない。借金の返済に追われていて、キャバクラどころではなかった。
『カネがないのは首のないのに劣る※』
 落語の死神※にでてくる台詞が浮かんできた。(女房に叱られた亭主が首をくくろうとしたとき死神が現れる古典落語の名作)
 オレはまるで無力だ。
 現場からデスクに異動させられてから、会社での居場所がなくなり、部下さえコントロールできずにいた。カネもなければコネもない。酒も飲めず、家に帰れば女房とも不仲。もう疲れた。窓ガラスに映る自分に、もう一度ため息を吐いた。首でもくくりたい。
 そのとき、オレは目を疑った。ガラスの向こうに死神が現れたのだ。しかも酔っぱらっている。オレにとっての死神、小百合さゆりだ。
 この女が株取引のデイトレードをギャンブルのように繰り返し、預金通帳をゼロにして借金までこしらえたのだ。借金の額を聞かされ、オレは打ちのめされた。必死で金策に走り、年老いた親の財産まで抵当に入れたというのに、この女は性懲りもなくパチンコをやり、タバコを吸い、浴びるように酒を飲む。ギャンブル依存症、ニコチン依存症、アルコール依存症と、依存症の三冠王。そのくせ亭主のオレにはちっとも依存せず、なつきもしない。
 千鳥足の女房は、よろけて街路樹に手をかけ、背中を丸めてうずくまった。吐しゃ物が見えたが、爽快でさえあった。そこへ後ろから男が重なるように屈みこみ、背中をさすり始めた。
 二人は男女の妖しい関係なのか、と見ているとバッグを二人で引っ張りあいだした。女房お気に入りのトートバッグでスヌーピーの絵が描いてあるやつだ。強く引っ張られて、スヌーピーがカマキリみたいになった。
 ひったくりだ。
「うぉらぁ」
 言葉にならない声を発して勢いよく飛びだしたつもりが、足がもつれ、ヒザが裏返ってガクガクし、実際にはヨロヨロと外へ出た。
 一方、気丈な女房は金切り声を上げてバッグを離さなかったので、強奪をあきらめた男が雑踏に逃げ去った。
「だいじょうぶか」
「あっ、あなた。あなた、あなた 、ひったくり。ひったくりぃ」
 地べたに腰を下ろした女房がオレを指さし、ひったくり、ひったくりと、わめき続けたので、オレはとおりがかりの人たちに遠巻きに囲まれてしまい、「すみません、うちの家内なんです。夫婦です」と、ひたすら頭を下げて誤解をとかなければならなかった。
 バッグから飛散した品物を集めようとしたところ、意外なものが見えてきた。オレがいぶかったのは吐しゃ物ではなく、もっと変なものだった。扇子、手ぬぐい、浴衣、鉄道のレールに似た、着物の帯※まである。大学ノートも落ちていて、、手書きで〈落語啓発教室〉と書いてあった。
「おい、お前。今度は落語を習っているのか」
「テケテンテンテ~ン」
 女房は口三味線を弾くと、青ネギが挟まった歯をむきだしにしてゲラゲラ笑いだした。

 ヘベレケに酔った彼女を連れて、やっとのことで我が家にたどり着いたが、そこは相変わらずのゴミ屋敷で、ドアを開けたとたんに異臭が鼻をついた。足がもつれてゴミ袋の上に二人で倒れると、腐った食べ物が飛びだし、酸っぱいニオイが広がった。
 女房がもらってきたばかりのアメリカンショートヘアの子猫が、部屋の奥から怯えた声で鳴いた。
 その声を聞くやいなや、女房はブーツをはいたまま、戦場へ出た新兵のように這いつくばって寝室の万年床にたどりつき、「ブーちゃん、ブーちゃん」と子猫を抱いてなでていたが、オレがスーツをハンガーにかけたときにはもう高いびきをかいていた。にがいという字は苦しいと書くのね----という古い歌の歌詞をふと思い出した。
 室内着に着替え、食卓について習慣的にお茶を入れ、テレビをつけた。凶悪事件が今日も起こっていた。世の中が殺伐としてきて、身近で騒ぎが起きる時代になってきた。それにしても、まさか自分の女房がひったくり犯に狙われるとは。
「落語教室か。いい気なものだ」
 オレはトートバッグの汚れたスヌーピーの顔を見て、小声でイヤミを言ってみた。
 カルチャースクールへかようのが趣味とはいえ、すべて中途半端に終わらせているところが腹立たしかった。部屋には、茶道教室で購入した七宝焼きの茶碗だとか、華道教室で道具にした剣山、切り絵教室で使ったゾーリンゲンのハサミなどがゴロゴロある。習い事をするたび、講師の推薦でいろいろなものを買わされたあげく、結局はゴミにしてしまうのだ。落語グッズだって、今回の教室で買わされたものなのだろう。彼女の最大の欠点は飽きっぽい性格にあった。
落語啓発教室
 取り出した大学ノートの表紙にはそう書いてあるが、<落語啓発教室>とは落語を通じて自己啓発を学ぶ教室なのだろうか。それとも落語自体を啓発するものなのだろうか。
 ページをめくると、膨大な量の文字が並んでいた。小百合の自筆であろうが、その量に本気度が見て取れた。この女をのめりこませているものの正体が知りたくて、少し読んでみようかと思った。そして、目についたのが『上手に話す方法』という項目だった。


【上手に話す方法】
うまい落語家を目指すなら、うまい落語家から教わるのが鉄則。下手から習うと下手になる。最良のお手本をマネするのが、上手への近道。落語に限らず、習いごとはうまい人から習わなければいけない。あとは稽古けいこあるのみ。うまくしゃべるためには、同じ台詞を暗記し、繰り返し、繰り返し、声をだす。努力なくして上達なし。水の一滴、岩をも砕く。努力を重ねた人が、最後は名人になる。


 オレは職場の上司の顔を思い浮かべて笑った。ダメな人に教えられるとダメな仕事しかできなくなるのは確かだ。下手から習うと下手になる。・・・これはおもしろい。
 引きこまれたオレは、『話し上手は聞き上手』と書かれた項目にも目を通してみた。


【話し上手は聞き上手】
つまらない人のつまらない話をじっと聞ける人は、話し上手の素質がある。反対に人の話をろくに聞こうともせず、一方的に言葉を並べたてる人は単なるおしゃべりであり、話し上手とはいえない。話し上手とは、コミュニケーションの達人ことである。プロレスと同様に、相手の技を受け止めるべき。具体的にはあいづちを打ち、相手が発した言葉を繰り返す。「いい天気ですね」とあいさつされたら、「そうですね。いい天気ですね」と。もしここで「天気なんかどうでもいい」などと口にすれば状況は一変するだろう。人は否定されるのをいやがるからだ。よい人間関係を保持するには、議論しないのがコツである。


 極論が書かれているような気もしたが、ハートマークが二つ描かれている部分に違和感を持った。
〈大笑い。師匠おもしろすぎ??〉
 推測すると、ここで落語の実演があったらしい。『幇間腹(たいこばら)※』という演題が記されていた。(たいこもち※がヨイショしまくる落語)
 その隣の『ヨイショは接客術の基本』という項目は、実に興味深く、読まずにいられない見出しではないか。


【ヨイショは接客術の基本】
たいこもちのように、言葉で相手を気分よくさせるのは大切な接客術。お世辞、あるいは相手を持ち上げるところからヨイショするという。日本人は総じて不得意な分野であろう。私は自分の師匠から「ワシを言葉で喜ばすこともできず、お客さまを喜ばすことができるか」と、叱られた経験がある。ちなみに欧米人の夫婦は「愛しているヨ。キミはステキだヨ」と毎日ヨイショしあわないと、幸せな生活を営めないという。文化のちがいといえばそれまでだが、身近な人を日常的にヨイショしている人間は、ごく自然にヨイショの達人になれる。たとえ口先だけだとしても、家でムスッとされるよりはるかにマシなのでは。
                           ↑うちの旦那がこれ!


 〈家でムスッ〉という箇所へ矢印を向け、「うちの旦那がこれ!」と強い筆圧で書かれた女房の字を目にして、反射的にノートを閉じた。ハートマークではなくて、ビックリマークがついていた!
 布団へ横になったオレの動きを、キャットタワーから子猫が見ていた。警戒して見ている飼い猫と、歯ぎしりをはじめた女房を眺めているうちに、オレはなんだか悲しい気分になってきた。
 こんなはずではなかった。相手が折れないから、お互いに意地を張っているだけなのだ。
「そうだろぅ」
 とオレはつぶやいた。
 それにしてもひどい歯ぎしりをする女だ。ひょっとするとこの女は悪い魔法使いに魔法でもかけられたのかもしれない、とぼんやり思った。ヒキガエルみたいな姿になったのは、魔法をかけられたせいなのだ。その魔法をとく役がこのオレ、王子様の仕事。愛の力で人間に戻すために、そっと口づけを・・・。
 女房の寝顔をみたら、口づけする勇気がわかなかった。それはミニクイからではない。吐しゃ物のせいでもない。おそろしいほど、彼女は酒癖が悪いのだ。もし機嫌悪く目を覚ませば、ひどいDVを受けるのは明白だった。それが恐いのだ。
 キスしないで魔法をとくには・・・。
 オレは自虐的に、大学ノートにあった一文を女房の耳元へささやいてみた。
「愛してるヨ」
 即座に彼女は、ギリギリギリと強烈な歯ぎしりを返してよこした。










2、居場所をつくる方法


 女房がひったくり未遂にあってから、一カ月たった。オレは相変わらずの貧食(ひんしょく)もあり、借金が発覚してから五キロ減量できていた。いうなれば〈生活苦ダイエット〉である。
 今夜の晩ご飯のオカズは、女房が食べ残した餃子の破片だったが、文句などあろうはずもない。油の浮いた酢醤油を白米にぶっかけてかっこんでいた。
 そこまではよかったのだが、食卓の左隣で缶ビールを飲み、お笑い番組を眺めている女房のせいで一悶着持ち上がった。こともあろうことか、亭主の食事中にタバコを吸い出したのである。
 オレはテーブルに箸をバシッと叩きつけた。予想以上の音の大きさと、彼女の袖口に飛び散ったラー油のせいでドギマギした。小百合は酔うと凶暴になり、モノを投げつけてくる。そのせいで結婚してから二度、警察に通報されている。オレはそんなトラウマにおびえていた。
「あのね」
 低いトーンの声に、胃のあたりがヒヤリと冷たくなった。
「な、なんだよ」
「わたし、落語教室にかよっていたの」
 ラー油のハナシではなかったので、オレはひとごこちした。まだ本格的には酔っぱらっていないようで、トロンとした優しい目をしており、灰皿や食器類を投げつけられる心配はなさそうだ。
「そんなの知ってるよ。カルチャースクールだろ」
「教えてたっけ。それならいいけど。・・・先月、卒業したのは言ってたかな」
「いや。それは知らなかった。卒業したのか。珍しく最後までやり遂げたんだね。偉いっ。ああ~、ひょっとしてひったくりにあった、あの日か」
 オレたちは共通の思い出を笑った。時間がたてば、たいていのことは笑い話に変わる。
 彼女は新たな缶ビールのリングプルを空け、オレはお茶を入れ直した。
「それでね、今度本当に入門したの」
「本当に入門ってなんだよ・・・。前はお試しコースだったって意味か」
「違う、違う。その落語教室の講師だった三龍亭鹿乃助さんりゅうていしかのすけ師匠に弟子入りしたの」
 オレはお茶をこぼしそうになった。
「・・・」
「芸名もつけてもらったの」
 女房はさも芸名を聞いてもらいたそうにだまりこんだ。らちがあかないので、「どういう芸名?」と聞いてみた。
「三龍亭さゆり」
 そう名乗った彼女は、とても晴れがましい顔をした。
「小百合って本名だろ」
「ひらがなで、さゆり。前座見習いってそんなものなのよ。スタート地点だから。ここから出世して、ブリがハマチになるように芸名も変わっていくの」
 女房の瞳が輝いた。
 ハマチがブリに出世するんだ。ブリがハマチになったら退化じゃないか。と、やりこめたかったが自重することにした。
 それにしても、三龍亭鹿乃助といえば、ドラマで俳優もこなす売れっ子の若手落語家だ。あんな有名人の弟子になって芸名までつけてもらうなんて、オレのような一般人にとってはあり得ない話だ。
 そうか、とオレは合点した。大学ノートにあったクソまじめな言葉の数々は、彼の教えだったのか。さもありなん、と古典風に納得してみたが、どうにも女房のうっとりとした目つきが気になる。ハートマークをダブルでつけていたのだから。
「鹿乃助って、あのキザ男か」
 オレはわざと挑発した。
「それがちがうのよ。芸風だからそうしているだけで、本当はおもしろくて、やさしくて、ダンディなのよね」
 案の定、ムキになって反論してきた。これはいよいよ怪しいぞ。しかも〈ダンディ〉なんて江戸時代に流行ったような英単語をつかわれると違和感ありありだ。
「あいつ、独身じゃなかったか」
「よく知っているわね。彼って西新宿の高級マンションに一人暮らしだから、誘惑されるのよね。ついこの前もファンの女が廊下をうろついていたから、わたしは鹿乃助の隠し妻でございますがなにかご用? オッホッホッと追払ってやったわ」
 女房の鼻が膨らんだ。快感を覚えたときに出るクセだった。
 オレが言うのはなんだが、小百合はぽっちゃり系で男好きするタイプなのだ。いつ、たぶらかされるかわかったものではない。
「オレは許さないからな」
 ドンとテーブルを叩くと、お茶が波打った。
「許さないってどういう意味よ」
「許さない・・・というか、やめてほしいというオレからのお願いだ。お前に落語家は向いていないと思うよ」
「向いている、向いてないは関係ないの。人生はたった一度だけ。やるか、やらないか。こわがらないで飛びこんでいけば、才能はあとからついてくるんだから!」
 小百合は自信満々に言いきった。そして〈落語啓発教室〉と書いてある例の大学ノートを取り出して、パラパラめくりだした。
「あった」
 と指した指先に、『才能はあとからついてくる』という項目が見えた。

【才能はあとからついてくる】
恵まれた才能を持つ人は世の中に多くいる。しかし才能と合致した環境にいなければ、その力は活かされない。水泳の潜在能力がいくら高くても、泳ごうとしなければその能力は開花しない。逆に、たとえ平凡な能力だったとしても、その世界で努力を積み重ねていけば、いずれ花開く。環境が才能を身につけさせるのだ。そのためには、まず自分が欲する世界を見つけること。そしてその世界に飛びむ。才能に乏しい人は最初は揉まれて苦労するだろうが、やがて知識や技術を習得し、経験を積んでプロになる。飛びこむ勇気さえあればたいていの夢は叶う。たった一度の人生だからこそ、チャレンジする意義がある。おそれることはない。才能はあとからついてくる。


 もし才能はあとからついてくると自分を信じ、ミュージシャンになっていたらオレはどうなっていたのだろう。と、一瞬妄想したが瞬時に拒絶した。それはあり得ない。勤め人の道を選んだのが現実なのだから。今さら自分の人生を否定してなんになる。これからもサラリーマンとして働くしかないのだ。でも、それで幸せなのか。このままでいいのか。
「わたしが落語家の弟子になると決心したのは、自分の居場所をつくりたかったから。なにをやっても自分の人生にしっくりこなかったの。いろんなカルチャースクールにかよってみたけど、これというものに巡りあえなかった―――」
「オレだって」
 オレはその先の言葉を飲みこんだ。
「・・・オレだって、なんなの?」
「いや、それよりお前だ。考えてみればすごい行動力だと思うよ。オレにはできない。いいさ、お前の好きにすれば。そうだよな、たった一度の人生なんだからな。自由にすればいい」
「わかってくれてありがとう。これって運命なの。運命を感じたのよ。落語教室で鹿乃助師匠に手ほどきを受けるうち、きっとこの人の弟子になるために生まれてきたんだって、ビリビリッとひらめいたの。この人の胸に飛びこんでみようと」
 オレは内心おだやかではなかった。彼女がどこまで本気なのかこわくなってきた。
「鹿乃助って、弟子は何人いるんだ」
「わたしが一番弟子ぃ」
「うそだろ」
「本当よ。はじめのうちは、自分はまだ弟子はとらないって断られていたんだけど、しつこくマンションに押しかけているうち、最後はわたしの美ぼうに負けたのかな。預かり弟子にしてもらえたの」
「預かり弟子ってどういうことだよ」
「鹿乃助師匠の、そのまた師匠。わたしからみて大師匠にあたる三龍亭大鹿おおじか師匠の、高円寺のお宅にかよって、前座見習いからはじめてみなさいって」
「厄介払いされたみたいだな。弟子のようでいて弟子じゃないってね」
「ちがう、ちがう。たとえよそへ預けられても、わたしが一番弟子」
「だけどオオジカなんて落語家は聞いたこともないぞ」
「…わたしも知らなかったけど、偉いみたいだよ」
「何歳ぐらいの人?」
 女房は残りのビールを飲み干して、「八七歳」と答えた。
 オレは安心して笑った。八七歳の老人の家に行くのならエッチの心配はなかろうと。
「足腰が不自由で正座は難しいみたい。家の中は歩行器で、外出は車椅子。でもドスケベだから、油断してるとすぐおっぱいにさわってくるの」
「エッチだな」
 小百合ははじけるように笑ってから、愉快そうに話した。
「いつだったか思いっきり胸をまさぐられて、思わずビンタしちゃったのね。そうしたら、入れ歯が半分飛びだしてびっくり。大師匠も驚いたみたいで二度とおっぱいにさわってこなくなったの。今はお尻専門。わたしも、お尻くらいならなでられてもいいかなって」
「よくない、よくない。っていうか、お前、高齢者にビンタしちゃだめだろ」
「あなたとちがって肉の弾力性がないから、乾し肉を叩いたみたいな感触だった」
 乾し肉をビンタしたことがあるのかよ、とオレは心の中で突っこんだ。
「ひょっとしてそのジイさん、色ボケか」
「う~ん。アルツハイマー型の脳萎縮で要介護一。しっかりしてるようでしっかりしてないかな。さすがに口は達者なんだけど、寄席にはしばらく出ていないみたい」
「なるほど、読めた。たぶんお前はだまされている。介護ヘルパーがわりにこきつかわれているだけじゃないのか」
「そんなことないってば。でも万が一そうだったとしても、たとえだまされているとしても、それでもいい。だって週に一度は、愛おしい鹿乃助師匠と高円寺でお会いできるんですもの」
 女房の黒目が大きくなった気がした。
「ほれてるのか」
「あなたになんか、ほれていない」
「オレじゃないよ。キザ野郎にだよ」
 お茶をグイッとあおると空だった。その空の湯飲み茶碗を勢いよく食卓に置いたのを合図に、しばし沈黙の時間が流れた。
「対等だから、いつもこうなるのよ、きっと」
 口火を切った彼女は、妙なことを言いだした。
「どういう意味だよ、それ」
「落語家の香盤こうばんって知ってる?」
 オレは首を横に振った。
「香盤はいうなれば序列制度。あなたの勉強にもなると思うんだけど、一門というか、組織の中では自分のポジションの確認が大切でしょう」
 オレは無言でうなずいた。
「上下関係があやふやな組織は、たいてい人間関係もあやふや。でも香盤で縦の関係が明確だとブレないのね。今は平等平等と親も子も、先輩も後輩も、上司も部下も、仕切り線がない状態。だから目上に対する礼儀がおろそかになって組織力の低下につながるわけ」
 オレは身を乗りだして聞いていた。まさに悩みの核心が語られていたからだ。
 すかさず彼女はノートの、『香盤』と記された項目を読みだした。


【香盤】
落語界における香盤とは、入門日による序列といえる。『一日ちがえば虫けら同然』とも表現される。厳密にいえば、一日でも早く入門した人がそれだけ長いキャリアを積むことになるため、兄弟子になる。香盤は基本的に年齢差より入門日が優先するため、縦の序列が明確になり、命令も服従もしやすくなる。真打ちの昇進時に『何人抜き』という表現が使われことがあるが、それは香盤を何人飛び越したかという意味にあたる。八人抜けば、香盤が八人分上になり、出演時の出番が深くなる。だが表向きの香盤が変化しても、入門日のちがいによる兄弟子と弟弟子の香盤は変わらないのが普通。


 なるほど、香盤というシステムを使えば〈プライド〉という障壁がなくなりそうだ。そうすれば、命令も服従もしやすくなるだろう。社内の対人関係がすっきりしないのは、能力差や年齢差が主なのだ。年上の部下には命令しづらいし、年下から命令されるとしゃくにさわる。しかし、もし入社日の早い順に上下関係を定めれば、解決するのではなかろうか。大先輩のオレに向かって、「キャバクラにでも連れてってくれるんなら話は別ですけどね」なんて口を叩くのは百年早いのだ。香盤からいえば、「土手っ腹蹴破って汽車ぁ叩っこむぞ※」と、オレに怒鳴られてもしかたない状況だったはずだ。ふざけやがて・・・。
「恐い顔でひとりごとをいって、どうしたの。まさか落語の稽古じゃあるまいし」
「・・・会社の若いやつらのことを思いだしたら腹が立ってさ。オレが入社したころは、先輩からの理不尽な命令でもハイと即座に二つ返事したもんだ」
 小百合は鼻から薄い紫煙を吐き、言い聞かせるようなしゃべりかたをした。
「どの世界でも難しいのは人間関係だよね。特に落語家の世界は理不尽だらけ。自分の選んだ師匠が、右といえば右にいくしかない。それは当然としても、たまたま兄弟子になっただけの人にまで理不尽な命令をされるのは腹が立つ。それでもとりあえず従うのは、香盤が決まっていて、他の落語家もそうしているから。それで当たり前だと思う人だけで構成されている古い社会なのよね」
 うんうんとうなづいていたオレは、ひっかかる部分があったので聞いてみた。
「師匠からエッチするように求められたらどうする」
「そういう関係になる一門もあるみたい」
「ど、どこの一門だ」
「それはいえない。と、兄弟子がいってた」
「ちぇっ。つごうの悪いことは兄弟子のせいか」
「師匠選びも芸のうちというけど、そういう師匠を選んでしまったら自己責任。もちろん、うちの一門はそんなことしないよ。・・・大師匠はドスケベだけど八七歳だし」
 オレはバカ受けした。大師匠のキャラが国宝級に思えた。
「だからね、我が家に香盤を作ったら二人の関係がすっきりするんじゃないかなって。そう思うんだけど、どうかなぁ」
 人差し指でタバコの灰を落としながら、小百合がずるそうな顔つきをしたので、オレは警戒モードに入った。
「要するに、そういうことか。オレより香盤を上にしたいと。そして理不尽な命令に従わせたいと」
「そんなハナシはしていない。なりたいなら、あなたが上の香盤で文句はないわ。そのかわり上の人の責任ってすごく重いから覚悟しといてね」
「ちょっ、ちょっと待った」
 オレは左手で制して時間を作り、責任の重さについて考えた。そういう方向へもっていきたかったのか。
 この女が再び借金をこしらえたら、オレに全責任をかぶせようというこんたんか。いや、ひょっとするとすでに新たな借金をつくったのかもしれない。株の次はなんだ? パチンコか?
 煙が目に染みるのか、小百合は長いマツゲをしばたいていた。
「責任についてだけど、香盤は関係なく、それこそ自己責任にしよう。なにかまずいことをしたら、その本人が単独で責任をとるべきだ」
「それだったら」と女房は続けた。「結婚している意味もなくなるね」
 しまった。離婚という結論にもっていく作戦だったのか。ここ半年、小百合の態度がおかしいとは感じていたが・・・。
 だめだ。そんなことさせるもんか。
「だめだよな、そんなの。だってオレたち夫婦だから。共同責任しかないよな。共同責任だけど、香盤が上の人の責任は大きい・・・。なんだかよくわからないなぁ。香盤が上なのと下なのと、どっちが得なんだ?」
「損得じゃないのよ。その人の柄」
「ガラ?」
「上に立つ柄か、下が居心地いいか。柄にあわない地位につくと、あとあと大変になるわよ」
 まだ馴染めずにいる社内での〈地位〉を連想してしまい、爪をかんでいることに気づいた。
「わかった。小百合が上になってくれ。オレは下っ端でいい」
 オレは身も心も彼女に預けることにした。
「オッケー。それで決まりね。でも、考えてみると前からわたしのほうが命令してた気もするけど」
「まぁね」
 オレは頭をかいた。
「では決定。さゆり一門の大将はわたし。二番目がブービィ。三番目があなた」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。ブービィは猫だろ。オレは猫より下なのか」
「だってしかたないじゃん。名前がブービィなんだから。わかったわね、あんちゃん」
「あんちゃん?」
「下の人間は、あんちゃんって呼ばれるのよ」
 オレは爆笑した。いい歳こいて、あんちゃんだなんて。
「あんちゃん、トイレ掃除してきて」
「えっ」
「え、じゃないの。え、え、え、って絵が多けりゃマンガだよぉ。え~、って()が長いとヒシャクだよぉ※」
「なに、それ」
「落語の浮世床※。さぁ早く。あんちゃん、トイレの掃除。一番下っ端が一番働くの」
「だって夜中だぜ。夜の十一時に便所掃除させる気か」
「アネサンの命令には逆らわない。それが香盤制度」
 缶ビールが彼女の手の中でつぶされて、バキバキといやな音をたてた。

 しかし、いざ深夜のトイレ掃除をしてみると、屈辱感がまるでなかった。ほんのりバラの花の香りがするトイレ洗剤を隅に戻して、便座の上に腰を下ろしたオレは、改めて香盤について考えてみた。アネサンと、あんちゃんという歴然とした身分差がそうさせるのだろうが、命じられると、そうしなければならないと受け入れる本能的なものが存在するのである。
 これは会社で使えるかもしれない、とオレは思った。
 戦後世代は徹底的に平等教育を叩きこまれてきた。そのせいもあり、たとえ上司であろうとも、人としては平等という意識が根底にある。絶対服従というものに対して免疫がないのではなかろうか。もし、徒弟制度のような環境を構築すれば、みんな素直に従うのではなかろうか。この考えかたのどこか延長線上に、答えがありそうだ。とにかく、しばらくはさゆり姉さんにつきあってみよう。
 布団に横になると、ブービィが枕元へやってきた。首筋をなでると、目を細めてノドをゴロゴロ鳴らす。そのまましばらくオレたちは、うっとりした時間をすごした。
 ブービィと違い、小百合のノドから出るいびきはうるさかった。知りあったころの小百合の首筋は鶴のように細く、きゃしゃな体型だったのに。結婚を機に、戸塚(横浜市)から東中野(中野区)に引っ越させたのが悪かったのだろうか。彼女の人間関係や生活環境を激変させたのだから、思えばかわいそうなことをした。寂しかったのだろう。こんなことならオレが横浜へ越せばよかったのかもしれない。
 まぶたが重くなったオレは、ブービィに「おやすみ」と言ったあとで、小百合の耳元に「愛しているヨ」と、ささやいた。
 ひょっとすると、この呪文は彼女の魔法を解くのではなく、自己暗示という魔法を自分自身にかけているだけなのかもしれない、と考えながらオレはバラの花に包まれ、愛で満たされた気分で眠りについた。










3、お金より大事なものを見つける方法


 真新しいキセルに葉タバコを詰め、マッチで火をつけた小百合は、「いい香り」と目を細めた。
 硫黄の刺激臭がツンときて、オレは息を止めた。もちろん禁煙中のオレにとっては、タバコも不快なニオイにすぎない。
「あんちゃんさぁ」
「なっ、なんだよ」
 彼女はオレの顔にドバッと煙を吹きかけて、「おこづかい減らさせてもらうからね」と言った。
 オレはゴホゴホむせ、涙目になった。
 小百合が作った借金返済のため、すでにギリギリまでこづかいを削られている。健康のために禁煙したと周囲に言っていたが、〈生活苦禁煙〉だった。生活費を切り詰めるには禁煙するしかなかったのだ。それなのにこの女は禁煙もせず、挑発的に煙りを顔へ吹きかけ、そのうえオレをド貧困に追いこもうとしている。
「レジ打ちのバイトをやめちゃったからしかたないの」
「ふざけるな。なんでやめたんだよ」
「だって前座はバイト禁止だから」
「うそつけ」
「ほんとだってば。落語修行に専念しなくちゃいけない期間だから」
「それならお前のこづかいを減らせばすむことだろう」熱いお茶を勢いよくすすってしまい舌先をやけどしたようだが、オレはそれに耐えて続けた。「だいいち、レジ打ちのかわりに落語の仕事をしているんだったら、そっちの稼ぎがあるだろう」
「あのね、見習い前座って、お給金もらえないの」
「そうなの?」
「常識。丁稚奉公(でっちぼうこう)だもの。江戸時代と同じ徒弟制度なんだから」
 昭和生まれのオレに江戸時代の制度を常識といわれても困るけど、金を巻き上げようとウソをついているわけではなさそうだった。
 というか、ウソどころか、それからおそるべき落語界の給料制度を聞かされた。


前座見習い(三カ月から半年)ただ働き。
前座(三年から五年)一日千円程度。
二ツ目(五年から八年)寄席で一席やって千円程度。
真打ち(降格はないので死ぬまで真打ち)寄席で一席やって二千円程度。


「びっくりしたな、もぉ。生活保護受給者どころじゃないね」
「世の中、お金ばかりじゃないからね」
「そんなきれいごとをいったってけっきょくはカネだろう」
「あんちゃん、最低。キミは夫婦関係でさえ金銭で片づけようとするからね。それってまちがっている。あなたの考えでいくと、お金の切れ目が縁の切れ目になってしまうよ」
 女房は芸者みたいな台詞を吐いた。しかし、そもそも借金を作って夫婦関係をギクシャクさせているのは、彼女なのだ。
「お前の身勝手な理屈には、あきれ果てて言葉もでないよ」
「わたしが身勝手だなんてよくいえるわね。あきれ返って、そっくり返って、天神さまの脇差し※」
「ちぇっ」
 どうせ落語にでてくる言いまわしなのだろうと、オレは相手にしなかった。
 小百合は足下にすり寄ってきた子猫を「ブーちゃん、ブーちゃん」とひょいと左手で抱え上げ、右手のキセルを灰皿に置いた。「キミはいつも会社のことをこぼすけど、その会社だってどうせ給料目当てで就職したんでしょ。会社がどれだけ儲かっているかということを尺度に就職して、給料のためにずっと働いてきたのなら、人間関係に行き詰まるのは当然よ。人間関係よりお金が大事だと思っているヤツを守銭奴っていうのよ。ははんっ」
「ううっ」
 返す言葉もなかった。この女は金にからんだハナシになるとますます能弁になる。
「お金はね、使うための道具なの。物やサービスと交換する道具。増やしたり減らしたりさせて感情を起伏させる道具。でもね、そんな道具を手に入れても、手元に置いて眺めているだけでは宝の持ち腐れ。貯めれば死に金、使えば生き金。金は天下のまわりものなんだから、経済をまわすためにジャンジャン使うべき。江戸っ子は宵越しの銭を持たないのよ」
 オレは咳払いして彼女のおしゃべりを止めた。
「なんで江戸っ子なんだ。オレは栃木っ子だよ。そもそもお前が借金をこしらえたからカネでもめているんだからな」
 ブービィを床に下ろし、キセルを片づけながら、彼女はよそよそしい口調で言った。
「どうしてそういうことになったのか考えてみたことあるのかな」
「そういうことって?」
「どうして借金することになったのか、その原因」
 株式の信用取引で追い証※をくらったからだろう、と非難したいのはやまやまだったが、彼女の目がすわっていたので無言で首を横に振った。
「あなたは仕事で夜中まで帰ってこない。帰ってくると会社の悪口ばかり。わたしのことをちっとも気にかけてくれない。・・・さみしくて、さみしくて」
 もう、うんざりだった。好きこのんで遅くまで働いているわけではない。帰れない立場にあるのだ。仕事を放り投げて帰ったらリストラされてしまう。家庭を守るために仕事をしているのだと、何度説明しても彼女は受け入れてくれない。
「またそのハナシか。オレをまるで理解してくれないんだな」
「順番がちがうのよ。あなたがわたしを先に理解してくれないと」
「・・・なにをいってるんだ」
「相手を理解してあげるのが先決。その次に自分を理解してもらう。これが相互理解の順序」
 小百合は大学ノートをパラパラめくって、今言ったとおりの項目を見せた。


【相互理解の順序】
自分はみんなから理解してもらえないと悩む人がいる。自分の思いどおりにならない状況が歯がゆいからだ。たいていそれはわがままに映る。握手してもらいたければ、自分から手を差しだすこと。愉快になりたければ、自分から笑顔を向ければよいだけのこと。自分がしてもらいたいことは、先に相手にしてあげる。理解して欲しいなら、まず相手を理解してあげること。それが相互理解への第一歩。


「わたしたちはすれちがい夫婦。それはあなたがわたしという人間を軽視しているから。ろくにハナシを聞こうともしないで、自分の都合のいいように頭の中で解釈して、まるでわかったつもりになっている。それで自分の思いどおりにならないと、かんしゃくを起こす。わたしはあなたのロボットじゃないんだからね」
 鼻先に指を突き立てられ、思わずのけぞった。
「先にわたしを理解してください、というのはそういうこと。・・・ここまでは納得?」
 オレは無言でうなずくばかりだった。
「あなたとわたしは世の中のとらえかたからして、かみあっていないのよね。第一に、お金のとらえかた。世の中は、あんちゃんみたいに、お金お金という人ばかりじゃないのよ。ちがうことに喜びを感じる人もいるんだから。落語家がまさしくそれなのよ。お金が目的じゃないの。やりたいからやる。落語をやりたいから落語家になる。夢を叶えたいだけなのよ」
 彼女は自分の言葉に感極まって、瞳をうるませた。
 食卓の下で、ブービィがオレの靴下の先っちょをくわえて引っ張るので、くすぐったくてたまらなかった。
「わかった、わかった」
 早口でブービィに訴えた。
 すると、小百合が笑顔を向けてきたので、ハッとした。こっちが先に笑顔になったから、彼女も笑顔を返してくれたということなのか。なるほど、相互理解の順番はあるのかもしれない。そう気づかせてくれた食卓の下のブー姉さんには、感謝だった。ただし、次の台詞を聞くまでだったが・・・。
「だからあんちゃんは、たとえわずかでもおこづかいをもえらるだけでありがたいと思わないとね」
「そこがおかしいんだよ」と、親指に力が入ったところをブービィにひっかかかれ、鬼の形相で怒鳴ってしまった。「お前みたいな守銭奴が、落語家になるってのがまちがってる!」
 椅子から腰を浮かせ、飛んでくるスプーンやフォークに身備えたが、彼女は微動だにしなかった。以前だったらDVものだったのに。
 中腰のオレは決まりが悪く、ゆるんだ靴下を引き上げ、ついでに冷蔵庫からアイスキャンディーを一本とって口に入れてみた。
「わたしは守銭奴なんかじゃないわよ。あなたがそうだっていってるの。わたしは、お金なんかいらない。そういう生きかたが理想なんだもの。お金より大切なものを知っている。そこを理解してほしいの」
 女房は真顔でそう言った。だがその言葉は空虚に聞こえた。
「お前、変な宗教にはまって寄付金を貢いだんじゃないだろうな。それとも変な占い師にーー」
「つまらない冗談はやめて」オレの言葉を制して、彼女が言った。「たとえば、感謝の気持ちとかは、本来お金じゃなくて体で伝えるべきものなのよね」
「かっ、体でだとぉ。やっぱりあいつと浮気してたのか」
 アイスの木のスティックがつぶれるほど、奥歯に力が入った。
「しょうがない人ね」小百合は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。「どうして浮気のハナシになっちゃうのかな」
「心配なんだよ」
 オレはゴミ箱からあふれているビールの空き缶の山を眺めてそう言った。
「わたしはあなたのほうが心配。性根を叩き直されないと、このまま埋もれてしまいそうで」
 なんだかわからなくなった。国立大学を卒業しているオレが、年下の女房に性根を叩き直されなければいけないレベルだというのか。
「あなたは頭がいい。記憶力は優秀よ。でも、生きかたがつまらない。まじめさは大切だけど、つまらない人間になると、尊敬されないし、うとんじられるのがオチ。そいう人が亭主だとわたしも悲しくなる。だからこそ、価値観の異なる世界を少しでも知ってほしい。もちろん、それがわたしのいる世界」
 オレは小百合を唖然として眺めた。社会不適合者は、彼女のほうではないか。  
「たとえばお中元とかお歳暮だけどね」
 おかましなしに、三龍亭さゆりはお金にまつわる逸話をとうとうと語りはじめた。
「前座が買うのは千円程度の品物と内々で決められているの。で、その千円の商品を真打ちの皆さんに持参すると、ポチ袋に入った二千円のお返しをもらえるから、電車賃を差し引いても損にはならないわけ。ここで大切なのは老舗デパートの包装紙にするということ。わざわざあのデパートへ行ってきたのだな、という労力を誠意として認めてもらうためにね。それなら二千円払ってもいいか、と。これがもし、近くのコンビニで間にあわせたものなら、こいつは義理できているだけだなと判断されてハイ終わり。そうなると、お互いに時間とお金の無駄でしかなくなるわけ」
 彼女はおつまみのクラッツを噛み砕き、ビールでノドに流しこむとなおも続けた。
「ある前座が、お中元を用意するお金さえなかったのね。で、その前座は知恵を絞ったわけ。『師匠、夏のごあいさつに参りました。アタシからのお中元は、靴磨きです。靴を磨かせてください』と、靴磨きの道具を持っていったそうよ。もちろん相手側の真打ちもバカウケ。『あいつはおもしろいやつだ』と気に入られ、それから仕事をたくさんもらえるようになったんだって。
 感謝を体で伝える。誠意を示す。それがお金に勝る場合もあるのよ。そういう世界を理想にしているわたしを、わかってちょうだい。あなたが幸せになりたいのなら、こんなわたしを理解して、幸せにしてほしいの。女房が喜ぶ姿をみた瞬間に、亭主は幸せを感じる。そういうふうに人間はできているんだから」
 最後のつけ足し部分は安っぽかったが、小百合のいわんとすることは伝わってきた。つまり、価値観の相違を認めて、彼女の側にあわせなければ家庭崩壊するかも、という脅しなのだろう。
 部屋中を狂ったように走り回っていたブービィがやっと落ち着いて、砂場におさまって用を足している。それも気になったが、靴磨きの青年が誰なのか気になった。さぞかし、今は名のある芸人になっているにちがいない。
 そうたずねたところ、彼女は「そこなのよ」と顔を前に出した。
「そこがハナシのオチ。忙しくなってお金が入りだしたら、急に生意気になって評判が悪くなったんだって。それが原因かどうかわからないけど、もう廃業したそうよ。見返りを求める悪癖がついちゃったのね。だから、ほうびはやらないほうがいいときもある」
 女房のおつまみを口にほうばっていたオレは、意外な結末を聞かされて黙っていた。
「たとえばキミが毎晩、部屋の掃除をする。それはやって当然なのよ。というか、ほめたらだめ。わたしがなまいきだからほめないというわけではなくて、そういうアレ・・・。ちょっと待ってね」
 大学ノートをめくって開いたページには、『アンダーマイニング効果』という項目が書いてあった。


【アンダーマイニング効果】
アンダーマイニング効果とは、自発的行為に対してほうびを与えたり、お金をあげると自発性が薄まってしまう、といった負の効果を示す。むずかしくいえば、内発的動機づけで始まった行為に、代価を与えるなどの外発的動機づけを行うと、動機づけが低下する現象。これを会社にあてはめれば、部下の自発的な仕事ぶりをほめると、その部下はほめられないと自発的に仕事をしなくなる。家庭においては、妻の手料理を一度ほめてしまうと、次からもほめ続けなければ妻は不満を抱くようになる。ボランティア行為に対して報酬を支払うと、無償奉仕活動への充実感が薄まる。急に自分から勉強しだした子どもにおこづかいをあげると、お金をもらわないと勉強しなくなる。


「ねっ。アンダーマイニング効果。靴磨きで思いがけないほうびをもらってしまうと、他の真打ちがそうしてくれない場合、否定的な気分になっちゃうのね。わたしは大師匠の家を無償で掃除していて、叱られこそすれほめられたためしはない。やって当然というか、むしろやらせていただくって感覚ね。稽古をつけてくれてありがとうございます、着物のたたみかた、礼儀作法、名人がきら星のこどくいた時代の寄席の楽屋話、みんな無料で教えてくださってありがとうございます、と。昨日はありがとうございました、今日もよろしくお願いします、と。掃除したり、肩をもんだり、ヨイショしたりして、大師匠や兄弟子に喜んでもらう。少しでも恩返しになればいいな、と。それが感謝を体であらわすという意味。滅私奉公。ところが感謝の気持ちをお金に換算して現金を支払ったりすれば、それはもうビジネスになってしまうのね。『師匠、稽古ありがとうございました。五千円払います』となれば、それで五千円の価格になってしまう。五千円払ったから貸し借りなしですね、ということ。お金がからむと、ほんとうのものが見えなくなってしまうのよ。それがわたしとあなたの今の関係だっていってるの。だからこそ香盤を決めて、お金の発生しないしっかりしたキズナを築こうとしているんじゃない。それなのに、あんちゃんと呼ばれるのはいやだとか、そんな細かいこといわれたら、それこそこっちがいやになってしまう」
 やっと独演会を終わらせた小百合は、ノドをグビグビ鳴らしてビールを飲み干し、「ふぅ~」と満足しきった息をついた。そして最後に一言。「あんちゃん、風呂入れてきて」
 オレは湯飲みを力いっぱい握りしめたが、缶ビールのようにバキバキ音を立てて凹むはずもなかった。
「返事はどうしたの?」
「ぐぐぐ」

 だがしかし、バスタブをスポンジでこすって、泡を洗い流すうちに心が安らいでいくのだった。モウモウと湯気を立て、バスタブにドボドボたまっていく流動体のお湯を見つめながら、お金より大事なものについて考えてみた。小百合のような専業主婦の立場と、一家の生計を担う亭主の立場では根本的なものがちがうと思う。彼女がなんといおうとお金なしで生きていくのは辛いものだ。愛する人を不幸にしたくないからこそ、お金を稼ぎたくなる。問題なのは、生活費を稼ぐための仕事、ライス(RICE)ワークが楽しくないこと。お金のためにしぶしぶ働くから、仕事を辛く感じる。しかも、稼いだお金はつかえばすぐに減り、減ったらまた稼がなければならないという心理的な負のスパイラルが渦巻き、愛する人の存在さえうっとうしくなるという流れにいたる。
 だが、愛する人へ捧げるのがお金ではなく、愛情だとしたらどうだろう。愛情を注ぐために働くのだと考えるのだ。これならお金とちがい、使っても数量的に減らず、それどころか逆に増えていくにちがいない。
 いきつくところ、理想的な仕事とは精神的な喜びを得られるものなのではなかろうか。そんな仕組みを提供すれば、社員は豊かな気持ちで働けるはずだ。その仕組みとは、きっと感謝のようなものだろう。身を粉にして働いて、〈よかった〉と思えるもの。たとえば、帰り際の社長からのハグ。いや、それだと一歩まちがえればパワーハラスメントか―――。
 お湯がバスタブの目盛りへ達したので蛇口を絞めた。シーンとバスルームが静まりかえり、行き場を失った蒸気が体にまとわりつく。
 ふとわれに返ればそもそもオレは経営者ではない。単なる従業員なのだ。こんな立場のオレができることは、家庭を愛情でいっぱいにして、職場にその幸せを報告する程度で十分なのかも。給料のおかげでこのとおり幸せに暮らしています、ありがとうございます、と会社へ感謝の気持ちを伝えるのだ。まずは社員側から先に会社側へという順序で。それが相互理解への第一歩かとオレは思った。










4、人に喜ばれる方法


 女房が見習い前座になってから二ヶ月が経った。
 帰宅して玄関のドアを開けると、子猫の甘い声が聞こえた。トコトコ出迎えにきて、ひときわ高くミャーと鳴いた。
「ただいミァ」
 と、オレはささやいた。
「ミャー」
 と、ブービィが見上げた。
「ただいミァ」
「ミャー」
 オレの「ただいまコール」に、返事してくれるのはブー姉さんだけだった。
 ふと、玄関になにやらよそよそしさがあることに気づき、てオレは目を疑った。なんと女房の履き物がきちんとそろえられているではないか。普段は脱ぎっぱなしの自由人なのに、珍しいことがあるものだ。
 食卓で缶ビールを飲んでいる小百合の背中に、「ただいま」と一応声をかけてみたが、むろん返事などあるはずがない。そのかわり、チョロチョロついてきたブービィが、「ミャー」と鳴いてくれた。律儀なやつめ。
「だれかお客さんでもきてったの?」
「なにが」
 女房はテレビに向かって、そう言った。
「玄関のクツがそろえてあったから、お客さんでもきてったのかなと思ってさ」
 女房はガッハッハと、豪快に笑った。
 小百合の説明を聞くと、お客さんはやってこず、履き物を整理したのは、前座修行で身についたクセなのだという。
なんという奇跡だろう。修業という教育は素晴らしい。このガサツ女に整理整頓をしこむとは。近いうちに、「おかえりなさい」という声を聞けるかもしれない。
「ありがたいね」
「なにが?」
「玄関がきれいになっていると、ありがたい」
「そんなものなの?」
 小百合は不思議そうな顔を向けてきた。
「もちろんさ。帰ってきてドアを開けたとき、ゴミのニオイがするとイヤな気分になる。だけど今日みたいにきれいになっていると最高に嬉しいよ」
「そんなに嬉しいものなの?」
「・・・嬉しい」
 とは言ったものの、考えてみれば実際にゴミ袋を片づけているのはオレだった。
「そういわれると、わたしも嬉しくなる」
「アンダーマイニング効果うんぬんってのを教えてもらったことがあるけど、ありがとうくらいは口で伝えたいよね」
「そこなのよ」
 女房は手招きして椅子に座らせ、オレの首に手を伸ばしてきた。首を絞められると思ってのけぞったが、ネクタイをゆるめてくれるのだという。
「な、なんだよ。慣れないことしやがって。なんかこんたんでもあるのか」
「オッホッホ」
 女房はしなをつくってわざとらしく笑い、三年ぶりにお茶を入れてくれた。
 こ、これは新たな問題を起こしたに違いない、と不安がよぎった。
「ちょうど今日、大師匠からお茶のハナシを聞いたの」
 お茶をすすると、ぬるすぎた。落胆したが文句など言える雰囲気ではなく、これからなにが始まるのかとオレは身構えた。
「ハナシカ家業は、人に喜こんでもらってナンボなのよね」
「・・・ん?」
「身内さえ喜ばせられず、お客さんに喜んでもらえるかっていうハナシをしてもらったの。高座にでて一席しゃべる前、すでに楽屋でそれははじまっているのだぞってね」
「どういうこと?」
「楽屋でお茶を入れる場合、この師匠は熱め、あの師匠はぬるめ、この兄さんは濃いお茶と覚えておいて、気分よく高座へ送り出すのも前座の仕事」
「わっ。めんどくさ。落語家ってそんなに細かいのか」
「昔の前座は、そこまで気をつかっていたという例で教えてくれたの。今の時代、楽屋でだされたお茶に、いちいち文句をつけるちっちゃい人間なんかいないってば」
「お茶がぬるい」と文句を言わなくてよかったと、胸をなで下ろした。もう少しでちっちゃい人間だと責められるところだった。
「だからね、あんちゃんも、さゆり姉さんにもっと気をつかってくれないと」
「ちょっと待った。さんざんやってるだろ。玄関のゴミ袋はオレが片づけているんだ。トイレだって寝る前に毎晩きれいにしているのはオレだし、バスタブだってオレが洗ってお湯を張ってる。会社から帰ってきたばかりなんだから、飯だって食いたいし、ゆっくり風呂にも入りたい。それなのに気をつかえ、気をつかえって。いいかげんにしてくれよ」
「まぁまぁまぁ。ムキにならないで。おなかがすいて、いらだっているのかな。ご飯、すぐ食べたい?」
「腹が減って死にそうだ」
「だったら、そこにあるわよ」
 と、小百合が言って微笑んだ。
「えっ。今晩も支度してくれたの? ごめん、ごめん。気づかなかったよ。って、これは猫の餌だろ」
「だいじょうぶだよぉ。お前さんが食べたあと、お皿を洗っておけば、猫はニャンともいわないから※」
 猫の落語ネタでからかわれたんだろうが、口ではそう言いながらも、冷凍ピザをオーブンに入れて温めてくれていたので、怒りがチーズのようにとろけていった。昨夜に続く連夜の冷凍ピザではあるが、あのしびれるほどのうまさなら歓迎だ。毎晩ピザでもかまわない。
「でもね、あなたはつくづくラッキーだよね。こんなに愛する人がいて」
 女房はまた勝手なことをほざきだした。
「はい、はい。ラッキー、ラッキー」
「愛する人がいるからこそ、その人のためにがんばれる。誰かのためにがんばれるというのは実に幸せなことなのよ。・・・って、これも大師匠の受け売りなんだけどね。人は誰かに喜んでもらわないと幸せを感じることができない生き物だって、そういうのよ。がんばれない人は、喜ばせたい人を早く見つけなさいって。そして前座は楽屋で師匠に、高座ではお客さんに一所懸命つくして、みなさんに喜んでいただきなさいって」
「いいこというね、大鹿師匠は」
「さすが虎之助が師事する人だよね」
「でもね、虎之助ってどこか商業的っていうか、営利的な臭いがするよね。計算して見返りを求めて動くって感じで」
 小百合は猛烈に反論してきたが、オレはそれを制して誤解を解いた。
「勘ちがいしないで。虎之助批判じゃないんだよ。てきかくな分析力は、会社でも応用できるっていう意味。昨日の教えだって感心したよ」
 オレは食器棚から大学ノートを取り出し、昨日小百合が披露してくれただばかりの項目をあたふた探した。それは、『喜びを与えあう理想の上下関係』というタイトルだった。


【喜びを与えあう理想の上下関係】
人をコントロールする基本は貸しを作ること。そのなかでもわかりやすいのがご馳走を与えて飼い慣らす術。ペットに餌を与えるのと理屈は同じ。実はこれが主従関係を築く正攻法。人に快楽や喜びを与え、貸しを作って支配力を高めていく。アメとムチで表現するなら、アメの部分にあたる。逆に、ご馳走になる側は、その危険性を本能的に察してワリカンを望む場合がある。しかし、目下の者は誘われたらご馳走になるのが礼儀。そしてご馳走になるときには、お酌をしたり、ヨイショしたり、ごきげんをうかがって勘定代のかわりに、相手へつくすのが定石。ちなみにお笑いの世界では、先輩が後輩を飲食に連れ歩くしきたりがあり、声をかけてもらった後輩の役目は、おもしろネタ、業界の悪口、あるいは女の子を集めてその場を盛り上げること。このように、ご馳走される側も自分の立場と役割を把握していれば、ウィンウィンの関係になる。だが今は、喜んでご馳走になるという礼儀が失われつつある。お金を出してもらうのに、いやいやついていくなど無礼の極みである。


「昨日、これを耳にして、胸のつかえが取れたんだ」
 コーヒーをご馳走するといってもついてこない後輩は、先輩を喜ばせようという礼儀を心得ていない愚か者なのだ。断られた側が、どれほど気分を害するか想像さえできずにいる。相手の立場になって考えるという教育をされていないのだろう。そういう人間が今はどこにでもいるのだと知り、逆にホッとしたのである。若い社員をまとめきれないのは、オレの資質によるものではなかったのだと。
 小百合が小鼻を膨らませたのを確認してから、オレは続けた。
「相談なんだけどね。お前くらいの年齢の、会社の若いやつらに受け入れられるにはどうすればいいかな。カネはないし、酒も飲めないから、飲みに誘いづらいんだよね」
 と、その件について、詳しいいきさつを話した。
「それはあんちゃんのほうが、だめだめ」
 聞き終えた彼女は、意外にも後輩側を批判しなかった。
「うそっ。オレのほうがだめだめなのか」
「だって会社帰りに上司とコーヒーを飲みにいってどうするの。リラックスできないってば。しかもカフェインだし」と、一人でゲラゲラ笑って続けた。「今はノンアルコールビールだってあるんだし、安くてかまわないから、やっぱりアルコールのある飲食店に誘うべきよ」
 たとえ格安の居酒屋だとしても、オレ一人の支払いでさえ厳しいのだが、「なるほど」とか、「そうだね」とか、「今度そうしようかな」なんて、てきとうな相づちを打って、右の耳から左の耳へ聞き流した。相談するのはいいが相談相手を間違えるな、という鉄則を思い出し、心の中で舌打ちした。彼女がしゃべっている内容は正論かもしれないが、お金で苦労をかけている元凶がほざいているのだからアホらしくなる。
「ちょっと待ってくれ。そもそもオレには自由に使えるこづかいがないんだよ。そこを前提に考えてもらえないかな」
「あのね、お金にとらわれたらだめ。もっと肝心なものに目を向けないと」
「もっと肝心なものって具体的になんだよ」
「人間の・・・喜びかな」
「くさいねぇ。人間の喜びときたか」
「くさくない。恥ずかしくないよ。共に喜びあえるのが本当の幸せだと思う。そういうのに向きあおうとしない人って、わたしは好きになれないかも」
 女房は『人の力を借りて喜びを倍にする』という項目を開いてノートをよこすと、オレを飼い慣らすために焼き上げた冷凍ピザを皿にのせた。


【人の力を借りて喜びを倍にする】
結婚披露宴のあいさつで「喜びは倍に悲しみは半分に」という名台詞があるが、人は共有することに喜びをいだく生き物である。一人で完結させると一人の喜びでしかなくなるが、たとえ最後のひと押しだけでも仲間の力を借りて完成させれば、喜びは倍増する。周りの人に少しばかりの負担をしいたり、迷惑をかけたほうが結びつきは強まり、それがキズナになる。デキの悪い生徒ほどかわいいというのも、共有のひとつ。つまり人から愛されるタイプは、どこか助けたくなる部分を持った人。すなわち、隙を見せたほうが人に好かれる。助けあう行為をつうじて、人は共有の喜びを見いだすからだ。自分の不足部分を明らかにして、埋めてもらうのが成功への近道。逆に、非の打ち所のない人へは親近感を抱けないものだ。


 日課のトイレ掃除を済ませて寝室へ入ると、女房はパン食い競争のように口を開けて、高イビキをかいていた。首に肉がつきすぎだと思ったが、とらえようによってはそれも親近感といえなくはなかった。
 万年布団に横たわると、尻尾をピンと上げてブービィがやってきた。枕元で伏せて、盛大にノドを鳴らしている。オレがゆっくりまばたきすると、ブービィもゆっくりとまばたきを返してきた。猫と感情のやりとりは可能なのだ。
 オレは猫と喜びを共有する方法を会得しているのだ。次は人間と喜びを共有する方法を会得しなければ。
 目を閉じて、会社のことを考えてみた。オレが抱えている重要な仕事を部下に与え、完遂させることで喜びを共有できたら、まとまりがよくなる気がした。部下が仕事に悩んだり、逆に素晴らしい仕事を成し遂げたら、強制的にでも居酒屋やカラオケ店へ連れていってねぎらい、ごちそうして、連帯感を深めるべきだと思った。悲しみを半分に、喜びを倍にするために。少しくらい借金が増えても、今の社内環境を変えられるなら本望だ。なにしろ現状は針のむしろなのだから。
 ふと目を開けると、ブービィがまだオレを見つめていた。満一歳に満たないブー姉さんは、その小さな体でオレを守ろうとしていた。
「愛しているヨ」
 今夜はブービィに、魔法の言葉を捧げた。










5、夢を叶える方法


 女房が見習い前座になってから五ヶ月が経った。
 土曜日の朝、すがすがしい気分で散歩から帰ってきたオレは、畳に寝っ転がって缶ビールを飲んでいる女房を見て、背筋に悪寒を走らせた。女房の悪いは六十年の不作※というが、さてはもとの鬼娘※に戻ったのか、と不安がよぎった。
「お前、どうして高円寺の大師匠のところへ行かないんだ。まさか落語家をやめたわけじゃないだろうな」
「やめないってば。今日は久しぶりのお休みなの」
 オレは安堵した。芸人を目指してからの小百合は明らかに変わった。こんなに品行をよくしてくれるんだったら、義務教育のカリキュラムに前座修行を取り入れてもらいたいくらいだ。
 しかし考えてみると、どんな修行をしているのか、その内容までは知らなかった。知っているつもりでも、わからないことは山ほどある。相手を知る努力を欠かしてはいけないのだ。彼女を知り己を知れば百戦あやうからず。
「今、ハナシていいかな」
 小百合は油断のない目つきでオレを見上げた。
「離婚による財産分与のおハナシですか」
「バカいえ。そんなのじゃないよ。前座修行の一日を聞かせてもらいたくてさ」
「なんだ、そんなことか」
 機嫌がいいとみえ、彼女は「お安いご用でぃ」と歌舞伎役者みたいな節まわしでおどけた。
 オレも女房のそばに寝っ転がって思いきりノビをしてみた。右の脇腹が吊ったが、その激痛はおくびにもださなかった。「歳だね」と、一まわり年下のこいつに言われるほど、しゃくにさわるものはない。
「まぁまぁ、えんりょせず飲みたまえ」
 小百合はえらそうに、飲みかけの缶ビールを差しだしてきた。まさかゲコというのを忘れたわけではなかろうが、挑発されて辞退するのもなんだから二口飲んでみた。
 胃の中に冷えたビールが入っていく。粘っこい泡が逆流し、グフッとホップの苦さが鼻腔を突き抜けた。ゴロンと大の字になると、さらに気分がよくなった。
「いつもだいたい同じ。ルーティンね。朝、八時に高円寺に行ったら、まず大師匠を起こして、歩行器でトイレまで連れていくの」
 彼女は話している間にブリッジした。
「どうしてブリッジするわけ」
「退屈だから」
 オレとサシで話すときは、ブリッジでもしていないと退屈らしい。
「たまにはエビぞりして背筋をきたえておかないと、腰の入ったビンタを張れないしぃ」
 オレは無意識のうちに左のほっぺたに手を当て、防御態勢を取っていた。
「大師匠は一人暮らしだったよな」
「そうだよ。その独居老人をトイレにつれていってから、部屋の掃除と庭掃除」
「ちょっと待った」オレは驚きの声を上げた。「庭があるのか」
「狭いけど池もあるよ」
「高円寺に豪邸かっ」
「豪邸じゃないよ。あばら家の背骨家※。小さい庭に池の跡があるんだけど、その昔は鯉を育てて釣っていたらしいよ」
「自宅で釣り堀とは優雅だな」
「兄弟子がいうには、養殖していたって」
「養殖?」
「うん。小さいのを飯田橋のお堀ですくってきて、池で大きく育てて食べていたらしいけど、信じるか信じないかはあなた次第っていわれた」
「都市伝説かっ」
「今は水がないからゴミがたまるのよね。そこが庭掃除のメイン」
「掃除ぎらいのさゆり姉さんにとっては、朝から辛い修行だな」
「う~っ」彼女はブリッジをほどいて低くうめいた。「ブリッジは辛い。だけど前座修行は辛くない。だって夢を叶えてもらっているんだもの。掃除ぐらいして恩返しさせてもらわないと。無料で稽古をつけてくれるのよ。プロがプロを育てるということは、自分のライバルを増やすということなのに、お金をとらずに育ててくれる。しかもご飯まで食べさせてくれるんだから、すごいよね、落語の世界って」
「月謝ぐらいとればいいのに。固定資産税を払うのだってたいへんだろうに」
「わたしも、月謝を払わせてくださいって大師匠にいったことがあるんだけど、そんなのいらないって。落語界に育ててもらったから、自分も弟子を育てて落語界に恩返しするだけだ、お金は受け取れないって。先人たちから受けた恩は、後人に返す。かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め※」
「それにしても、高円寺に一軒家とは」オレは土地資産価値のほうに固執していた。「貧乏長屋に住んでいるイメージだったけど・・・。大師匠って売れていたのかな」
「芸歴長いからね。終戦直後は、落語家って大師匠も含めて三十人そこそこだったらしいの。だからラジオ全盛期とか、テレビ創世記は引っ張りだこだったみたい。そこそこ有名だったから、弟子も二人きたんじゃないのかな」
「なるほど」オレは同意してから質問した。「二人の弟子はやってこないのか」
「通うのは基本的に前座だけ。でも、一のつく日に弟子は全員集合。一日、十一日、二一日の三日間に集まるわよ」
「スーパーのポイント還元日みたいだな」
「集まってもポイントはもらえないけど、集まらないと叱られるの。そういうしきたりが昔からあるみたい。その、一のつく日に虎之助師匠に稽古をつけてもらえるんだ」
 小百合の顔が生き生きして見えた。
「そうか。今、どんな落語を習ってるの?」
「錦明竹※」
「きんめいちく?」
「そう。ひょーごろ、ひょーごろっていう前座バナシ。こっけいバナシ。オウム返し」
「ん~、なにをいってるのかまるでわからん」
「一般的にだけど、前座がするハナシと真打ちがするハナシはちがうの。真打ちにならないと、人情バナシはやらせてもらえない。こっけいバナシはテクニックがなくてもハナシのおもしろさで、お客さんに喜んでもらえるから、前座でもできる」
「ふむ。伝統芸能は深い」
「うちの一門が最初に教えるのが錦明竹と、寿限無(じゅげむ)※。半年で一席マスターしないと、前座にしてもらえない。前座見習いのままだと、お客さんの前で落語ができないの」
「きびしいね。入門半年で適正を判断するってことか」
 その半年が長いのか短いのか見当もつかなかった。
「夢を叶えるには期間の区切りが必要なのよね。だめだったらすっぱりあきらめて、次の夢を見つけるもよし・・・」
 小百合は飲み干した缶ビールを穴があくほど見つめた。そして、ふと我に返ると伝家の宝刀である大学ノートをだして、『夢を叶える方法』と書かれた項目をかみしめるように読み上げた。


【夢を叶える方法】
夢を叶える道は、夢を見つけることから始まる。見つけたら行動あるのみ。行動しなければいつまでたっても可能性はゼロ%。そしていざ動きだしたら、一期一会で縁あるものすべてに全力で接すること。全身全霊で向き合っていれば、将来悲観にくれることはなくなる。なぜなら積み重ねた経験が財産になるからだ。夢は年々形を変えていくものだが、経験という財産はなくならない。苦労してもそれを苦労と思わない人は、きっとどこかで成功をつかむだろう。落語の名人になる夢を叶えたいなら、落語だけ上手にしゃべろうとしてはいけない。説得力を持たせるには、お客さんに負けない体験を積まなければならないから、もし楽屋でお茶を入れる係になったら、おいしいお茶を入れるプロになり、着物をたたむ係についたら、誰より早く、美しくたたむプロになり、雑用という試練を与えられても腐らず、なんでも誠実に行うべき。そうすれば、きっと何かが手に入る。もし手抜きばかりしていると、手抜きした芸歴を積み重ねてしまうことになる。


 ほどほど主義ではいずれ通用しなくなる、ということか。それが今のオレのありさまだった。自分が歩んできた生ぬるい人生を恥じるしかなかった。バカになるほどのめりこんだ人間が、やがて他を圧倒する。下積み時代に諸先輩から様々な注意や指導を受け、一見無駄だと思われることでも手抜きせず、懸命に技を磨いているうちに輝きだす。それが職人なのだ。
 小百合はそういった職人の道を歩もうとしている。半年もほとんど無休で大師匠の家へ通っている。自分の本当の師匠である虎之助の教えを記した大学ノートは、ボロボロになるまで読み返している。こんなに継続して打ちこんでいる姿は初めてみた。
 よし。オレは小百合の応援団になるぞ、とオレは心の中で叫んだ 。
「今、習っている落語をここで聞かせてもらえないかな」
 突然のリクエストに、小百合は困った顔をした。
「錦明竹はまだ覚えきっていないんだなぁ」
「いいじゃないか。客はオレ一人なんだし」
「稽古にはなるけど、きっとひどいデキだよ」
 というわけで、急きょ、我が家で寄席が開催される運びになったわけだが、なんと三龍亭さゆりは座布団も、正座も拒否したのである。
「いつも横になって稽古しているから、横になってしゃべるほうがいいの」
 と、寝っ転がったままで〈錦明竹〉を語りだし、超大物の片鱗をみせる前座見習いであった。小物亭主のオレも、ずぼらな家族の一員として体を横に、肘枕で聞いていたのだが、初めて聞く彼女の落語は予想以上におもしろかった。何度も本気で笑ってしまった。「猫にサカリがつきまして」というくだりを丁稚(でっち)が、「旦那にサカリがつきまして」と言いまちがえる箇所では、腹をかかえて笑った。
 ひょーごろ、ひょーごろ、と彼女は三十分以上もしゃべり、一席終わったときは感動のあまり、手が痛くなるほど拍手した。ひたすら拍手した。他人が聞けばひどい落語だったかもしれないが、オレにとっては最高だった。がんばって成し遂げようとしている小百合を、心の底からほめたたえたかった。
「あらら。キミ、ひょっとして泣いてるの?」
「・・・」
「やだなぁ。こっけいばなしをやって泣かれるってどういうこと?」
 ますます泣きたくなって、こらえきれず女房を抱きしめた。
「がんばってるな。うまかったぞ。えらいぞ、小百合」
 そう言葉にしながら、オレは号泣した。そして、次第に悲しい気分に駆られていったのである。はたして彼女が落語家として、三龍亭一門に受け入れられているのかという疑惑が再び頭をもたげてきたからだ。彼女があきらめるまで、大鹿ジィさんの介護をさせておこうという魂胆だとしたら、それはあまりにむごい仕打ちではないか。

 翌日の日曜日。
 さっそくオレは、素行調査を行うことにした。第一の標的は三龍亭さゆりで、素行チェックが主。第二の標的は三龍亭一門で、小百合に対する接しかたの調査だった。
 彼女が東中野をでたのは朝の七時半。ピンクフレームのママチャリを高円寺へ向けて走りだしたので、オレはひと安心した。もし逆方向の西新宿方面に向かっていたら、鹿乃助との疑惑が浮上していただろう。これでもう第一の仕事は終わったに等しかった。あとは、怪しい一門の化けの皮をはがすのみである。
 オレはブルーフレームのママチャリ二号機で、反対車線を遅れ気味に尾行した。約三キロの追跡になる。もっとも大師匠宅はGPSを端末に登録済みだったので、見失っても別にかまわないのだが・・・。
 中野駅を通過して、高円寺駅前の噴水を通りすぎ、ハンバーガーの香いがするファストフード店を右折して〈純情通り〉に入り、途中を左に曲がって角から三軒目。マッチ箱のような二階建て一軒家へ到着すると、古びた格子戸の奥に自転車を頭から入れて、小百合は家に消えた。
 オレは自転車のサドルにまたがったまま、やや離れた小路から様子をうかがっていた。ところが塀や電信柱の障害物で、小百合の姿がちっとも見えない。自転車をこぎ、玄関の前を何度か行ったり来たりしてみたが、いっこうに収穫はなかった。外から家の中をのぞこうという設定が、そもそも甘かったようだ。
 五分もたたないうち、頭の中にチーズバーガーがチラつきだして、心が折れた。時間はたっぷりあるのだ、と自分に言い聞かせて、駅前のファストフード店へ戻った。店の二階でチーズバーガーとホットコーヒーを前にしたオレは、休日の幸せな時間を満喫することにした。二階から見下ろす駅前広場の噴水は、大鹿師匠の池と同じく水がなかったため、灰色の産業廃棄物に見えなくもない。それなのに高円寺の街は生き生きしていた。道行く人たちの年齢層はバラバラで、衣服や髪の毛の色も統一感がなかった。規則に縛られず、自由気ままに暮らしているように見えた。
「まだ半分残っている」
 オレは半分になったコーヒーをながめてつぶやいてみた。<もう半分しか残っていない>と考えれば後向きになり、<まだ半分残っている>と意識すれば前向きになれるという。しかし、それでは時間軸が無視されていないだろうか。分量だけはかって結論を導くのは乱暴すぎる。たいていのものは劣化するのだ。時間の経過とともに価値観は変化する。コーヒーも、しかり。人生も、しかり。恋も、しかり。
 入れたてのコーヒーのように香ばしく、熱々だった青春時代が過ぎてしまえば、あとは生ぬるく味気ない人生が残るだけ。
 いかん、いかん。
 オレは剃り残しのあごひげから手を離し、後ろポケットから防水製の現場手帳を取り出した。そして昨日、聞きとったばかりの前座見習いのスケジュールを、〈前向き〉にまとめる作業に取りかかることにした。

【三龍亭さゆりの見習い前座スケジュール】
八時
高円寺着。要介護一のジィさんを起こしてトイレへ。ベッドから歩行器へ移動させるときに抱きつかれること多し。普段からお尻をなでるセクハラジィさん。
八時三十分
庭掃除。寝室とトイレ以外の掃き掃除。寝室とトイレは弟子に掃除させないという美学があるらしい。ちなみに朝十一時に来るヘルパーさんが寝室とトイレ清掃を担当。
九時
朝食。冷蔵庫にあるオカズを出して、ジィさんと食べる。基本は卵かけご飯に、お新香、味噌汁。話しかけると誤えんしてむせ返るので、二人でもくもく食べる。食後に脳のクスリを服薬させる。
九時三十分
朝刊を二人で読む。円生全集(故三遊亭円生の口述本)を、小百合がジィさんに読み聞かせる。ジィさんはソファーでうとうとしつつ語り口の指導。兄弟子に「変な稽古だな」と笑われるほど邪道らしい。一のつく日はこの時間に弟子全員(二人)が集まり、ジィさんに挨拶する決まりがあり、本格的な稽古もたまにする。一がつかない日でも、近くに住む独身貧乏の総領弟子がひんぱんに飯をあさりにくる。
十一時
ヘルパーさんがきて掃除、昼食の支度。小百合は雑用。
十二時
昼食。総領弟子と三人でもくもく食べる。食後に脳のクスリを服薬させる。
十三時
寄席に行ってこい、とジィさんに送りだされる。が、師匠の鹿乃助からは「寄席に行くな」と命じられているため東中野へ帰宅。兄弟子に「箱入り娘」とか「寄席処女」とからかわれている。

 時計を見ると、貧乏総領弟子が飯を食いにくる時間になっていた。
「どれどれ、売れない落語家の間抜けな顔でも拝んでから帰るとするか」
 残りのコーヒーを一気にあおって、席を立つ。・・・ぉぉ、ぬるくなった残りは、未練なしに処分可能か。
 東京の淡い青空の下を、自転車でスイスイ走った。百均ショップでブービィの猫じゃらしでも買って帰ろうか、などと考えている間に大師匠の家へ着き、そこで信じがたいものを見てしまった。庭先で小百合が泣いていたのだ。
 いったんとおり越し、Uターンして板塀に自転車ごともたれかかって、息を殺して様子をうかがった。すると、板塀の向こう側からしゃくり上げる声が聞こえてくるではないか。見まちがいではなかった。やはり、あの鬼娘が泣いている。
 大虎が死んだのか。それとも死にかけているのだろうか。身内の不幸か。あるいは財布を盗まれたとか疑われて・・・。いや、やはり介護ヘルパー代わりに利用されていた事実を告げられたショックなのでは。
「さゆりぃ!」
 玄関から男の怒号が響いた。サイコロのような小男が小路にでてきて、板塀に自転車ごともたれかかっているオレをにらんだ。
 首が胴にめりこんでいる。顔は四角く、ごま塩の坊主頭。脂ぎって血色のいいピンク色のほお。デンとあぐらをかいた鼻。眼光鋭く吊り上がった細い目。ゲジゲジ眉毛。無精ひげ。反社会的勢力の風貌(ふうぼう)だった。
 こいつが総領弟子だな、とピンときた。
 しかし、この場でいきなり〈女房を介護ヘルパー代わりにしているのか〉と問いただすわけにもいかない。ここは〈はじめまして〉と、紳士的に初対面のあいさつを交わすのが社会人としての常識だろう。そう結論づけたとき、怒鳴りつけられた。
「なんだてめぇは」
 オレの体はバネ仕掛けのように反応してしまい、自転車を三角にこいで逃げだしていた。
 背中で「さゆりぃ」と呼ぶ、ドスのきいた声がした。
 高円寺の駅前まで戻ったころには、自分のふがいなさがこっけいに思え、笑いがこみ上げてきた。まるで中学生にでも戻ったような気がした。悪くはない気分だった。
 小百合はいつだったか、〈兄弟子は選べない〉とか、〈兄弟子に理不尽な〉と、兄弟子に対する不満を口にしていたが、それがあいつなのだろう。あんな柄の悪いやつにいびられたら、鬼娘が泣きだしてもおかしくはない。
 帰路につき、ペダルをゆっくり踏んでいるうちに、〈錦明竹〉や、その直後に聞いた『夢を叶える方法』がフラッシュバックして交錯した。
 落語家になりたいという小百合の夢は、簡単明瞭でストレートな形をしている。その夢の先にあるだろう名人へのゴールは果てしないが、可能性はゼロ%ではなくなった。庭先で泣いていたのは、その可能性を絶たれたからなのか。ポキンと折れてしまったのか。やっと見つけた彼女の夢が…。
 夢を叶える方法は、夢を見つけることから始まるというが、簡単そうでいてこれが実にむずかしいことなのだ。
 サラリーマンのオレは、どんな夢を持てるのだろう。新築一戸建てのマイホームか。それともいずれ生まれてくる子供や孫を育てる夢か。
 でも、そういうものを夢と呼んでいいのだろうか。子孫を残すのはDNAの使命なのだ。われわれはDNAを残すために存在しているわけだから、それを夢と呼ぶべきではない。だったらオレの夢はなんなのだろう。たった一度の人生の夢・・・。
 三十半ばを超えてから、叶えられる夢は限られている。無我夢中になってチャレンジできるものを、この歳になってから見つける自信はない。だとしたら自分ができなかったこと、挑戦してこなかったことを自分の夢として、子供に託すしかあるまい。そうか、そのために子供が必要になるのか。そして、その子を育てるマイホーム。
 右のペダルを踏みこみ、左のペダルを踏みこみ、前に進んでいるのだがルームランナーにでものっているようだった。いずれこのままタイムオーバーになるのだろうか。
 帰宅するやいなや、オレは大学ノートを手に取った。使いこまれたノートはふくれあがっており、各所が破れていた。『夢を叶える方法』を、もう一度読もうとしてノートを開いたのだが、まるで運命に導かれるように『それぞれの役目』という項目に目が止まった。そして、それを読んでオレは感動した。そのページには、こう書かれていた。


【それぞれの役目】
地球環境を守れと叫ぶ人たちにさえ眉をひそめられる毛虫に、あなたをたとえるのは忍びないが、もしあなたが毛虫だとしたら、毛虫には早熟タイプと、のんびりタイプがいることを知るべきだろう。新緑の春に素早く反応して目覚めた早熟タイプの毛虫は、土の中からはいだし、新鮮な若葉をモリモリ食べだした。一方、のんびりタイプの毛虫は、まだ冬眠から覚めず地中にいて、若葉が食い荒らされた。だがその年、数十年に一度の大寒波が襲来し、早熟タイプが全滅。地中の毛虫だけが助かった。種の保存はこのような多様性によってなされている。だからあなたが周囲と比べて劣っていようが、出遅れていようが気にすることはない。あなたは必要だからこの世に存在している。何歳になっても遅くはない。あきらめるのは、棺桶に入ってからでも遅くはない。

             タケシ、がんばれ♡♡♡

 小百合がタケシというオレの名を、ノートに大きく書いていた。ハートマークをトリプルにつけて。



   (下)に続く

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