昨日、奈良で「ナラ枯れと里山林のダイナミズム」というシンポジウムが開かれた。
奈良枯れ、じゃなくナラ枯れに関する、森林史や生態学から樹木生理学、病理学、リモートセンシング、そして二酸化炭素排出に至る広範囲の分野から捉えた深い内容であった。
非常に勉強になったのだが、シンポジウムで出された意見を一言でまとめると「ナラの大木は、みんな伐れ」だろうか。……こんなまとめ方をすると、きっと関係者は怒り心頭かもしれない(⌒ー⌒)。
会場には、とまどう声も出ていたが、私自身は非常に我が意を得たり、である。
ただ私は、ナラ枯れを特段取り上げてそれを防ぐために、と考えているわけではない。実は、このところ私が沈思黙考・千思万考しているのは、「人は、大木を見ると伐りたくなるのではないか」という仮説である。(全然沈思していない。)
このように言えば、また反発が出るかもしれない。「大木ほど神々しく守りたくなる」と。
それもまた真なり、である。が、一方で伐りたくなる心理や理由も登場するのではないか、ということを感じているのだ。もっと言えば、木を見て、神聖な気持ちになるのと、禍々しく感じるその境界線について考えている。
実は、日本に限っても、大木を伐採する逸話はいつの時代にも登場する。
古くは古事記や日本書紀、そして風土記にも高さが1000メートルにもなり、直径が100メートルを越える巨樹があって、朝夕の木陰は隣の国まで届く話が登場するが、みんな伐採されてしまう。
巨樹は聖なるもののシンボルであるとともに、不都合で禍々しいものの象徴なのだ。同時に、伐採して得られる利得についても人々は考えを巡らせるのだろう。得られるのは木材であり、日照であり、破壊欲かもしれない。
そして、今も大木は狙われる。いろいろ理由をつけて伐られている。
こちらは、大阪府能勢にある「野間の大ケヤキ」と呼ばれる大木。
これ、天然記念物にもなって、保護されている。正直、枯れかけているのだが、必死に活かそうとしているのである。
なぜ、守らなくてはいけないのか。ここでは枯れない(伐らない)ことが、利得につながるからだろうか。観光名所、地域の誇り、緑の癒し……。
しかし、遅かれ早かれ寿命は来るのだ。木を伐る論理を鍛えておいてもよいかもしれない。とくに林業関係者は。
私も、タナカ山林のナラ枯れ木を伐る論理と利得について練っておくよ。。。
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