織田信長。日本の歴史上で最も有名な偉人かもしれない。
しかし、いざ「織田信長の功績は?」と聞かれて、パっと答えれる人は意外にも少ないのではないだろうか。確かに、徳川家康のように幕府を開いたわけでもなく、源義経のように平氏をやっつけたりもしていない。戦国時代に生まれ、戦国時代に活躍したのはなんとなく知っていても、どれだけすごい活躍だったのか、どんな功績・影響があったのか、案外知られていないのではないだろうか。
そこで今回は、織田信長の生涯と、彼の残した功績をシンプルに、10分程度で読めるようにまとめてみた。「信長の名前は知っていたけど、実際にどんな人だったのかは詳しく知らない」という人にぜひ読んでもらいたいと思う。
1.信長のシンプル年表
1560年 桶狭間の戦いで今川義元を破る
1573年 将軍・足利義昭追放し、室町幕府を滅亡させる
1575年 長篠の戦いで宿敵・武田家を破る
1580年 10年の戦いの末、石山本願寺を降伏させる
1582年 本能寺の変で明智光秀の裏切りにより亡くなる
2.華麗なる戦国デビュー 桶狭間の戦い
信長は「うつけ者」と呼ばれていた幼少期だったが、父親が亡くなり、家督を継いだ後は、徐々に織田家の当主として頭角を現していく。バラバラだった尾張の国(現:愛知県)を統一し、見事に一国をまとめ上げた。
しかし、そんな信長に早くも人生最大の試練が訪れる。三河・遠江・駿河の3カ国を支配していた大大名・今川義元が、信長の本拠地の尾張に侵攻してきたのだ。
当時の今川義元は、三河・遠江・駿河の3カ国(現在の東海地方全域に相当)を領有する、日本でも指折りの大大名であった。そして政治力に長けていた義元は、甲斐・信濃(山梨・長野)を領していた武田信玄と、伊豆・相模・武蔵などの関東地方を領有していた北条氏康と三国同盟を結んだ。この同盟により義元は、北と東の守りを固め、信長のいる尾張を攻めることに専念する体制を整えたのだ。
日本有数の大大名が、わずか1カ国をまとめ上げたに過ぎない弱冠21歳の信長率いる尾張に全力で攻めてくる。そんな絶体絶命のピンチを大逆転で切り抜けたのが、1560年の桶狭間の戦いだ。
今川義元は2万5千の大軍で信長の本拠地・尾張に攻め込んだ。これを迎え撃つ信長の兵はわずかに2千500ほど。兵力の差は圧倒的だった。
数で圧倒する今川軍は連戦連勝で、次々と織田家の砦や支城を攻め落としていく。しかし、今川軍の優勢が伝えられるたびに、今川軍の士気はどんどん緩み、本陣でも宴会が開かれるようになっていった。
数で劣る信長軍はこの機を逃さなかった。信長は約2千の兵を引き連れて、一気に今川軍の本陣に奇襲を仕掛ける。この時は天も信長に味方した。この時は雨が降っており、信長軍の馬のひづめや甲冑が擦れる音が、雨によってかき消されたのだ。また、雨が降れば鉄砲を使うことができない。よって、信長軍の奇襲に、今川軍はギリギリまで気付くことができず、また鉄砲を撃つことで敵の襲来を味方陣に「音」で知らせることもできなかったのだ。
意表を突かれた今川軍の本陣はたちまちに崩壊した。信長軍の奇襲作戦は成功したのだ。こうして、信長は、大大名・今川義元を奇襲作戦で討ち取った武将として日本全国にその名を知らしめることになった。
3.戦国最強の武田軍団を破る 長篠の戦い
桶狭間で勝利した信長は、その後一気に天下人の階段を駆け上がる。
美濃の斉藤を滅ぼし、浅井・朝倉を姉川の戦いで打ち破り、将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させる。目の前に立ちはだかる敵を次々と滅ぼしてゆく信長の前に、次に立ちはだかったのは武田家だった。戦国きっての名将・武田信玄は甲斐(現:山梨)一国から徐々に勢力を拡大し、信濃(現:長野)や駿河(現:静岡)などもその手中におさめ、信玄は武田家を大大名に成長させた。中でも武田の騎馬軍団は各地の大名から恐れられ、戦国最強の名を欲しいままにしていた。その後を継いだ息子の武田勝頼は、偉大な父を超えようと領土拡大に躍起になっており、信長の同盟国・徳川家康を追い詰めていた。家康から援軍の要請があると、信長は大軍を率いてただちに急行した。
最強・武田の騎馬軍団を迎え撃つに当たって、信長には秘策があった。まず陣の前に何重にも柵を作り、馬で突撃してくる敵をそこで食い止める。そして、柵の後ろから大量の鉄砲で狙い撃ちにするのだ。その数は1000丁とも3000丁とも言われる。これは信長の経済力がなせる技だ。
この作戦により、武田の騎馬隊は次々と撃ち落とされ、信長軍はこの戦いに圧勝する。武田軍はこの戦いで再起不能なほど壊滅的な損害を受けた。優秀な家臣たちのほとんどはこの戦いで戦死し、これより先は滅亡の一途を歩むことになってしまった。
4.幻となった信長の天下統一 本能寺の変
戦国最強・武田軍団を長篠の戦いで破り、宿敵だった宗教組織・石山本願寺も降伏させた信長は、名実ともに、天下人になろうとしていた。近畿・中部地方のほとんどが信長の領地となり、信長の前に立ちはだかる敵は、中部の毛利、北陸の上杉など、残りわずかとなっていた。
向かうところ敵なしの信長は、着々と天下統一に向けて歩みを進めていた。その勢いは誰にも止められず、誰もが信長の全国統一を疑わなかった。
当時、中部地方の毛利討伐にあたっていたのは羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)だった。秀吉の求めに応じて、明智光秀に秀吉の援軍を命じ、信長自身もその援軍に加わるため、途中の本能寺に宿泊していた。
その夜、寺の外がやけに騒がしいことに信長は気づく。配下の者が寺の外の様子を見てみると、毛利討伐のため中国地方にに向かっていたはずの明智の大軍勢が寺のまわりを囲んでいた。なぜ明智の軍勢がここにいるのか?不思議に思った次の瞬間、信長の滞在する本能寺に向かって一斉に矢が浴びせかけられた。明智の裏切りだった。
本能寺には信長含めて100人に満たない兵で宿泊しており、明智の大軍勢を前になす術はなかった。信長は自ら命を絶った。信長によって収束仕掛けていたかに見えた戦国時代は、信長の死によって再び乱世へと逆戻りすることになる。
5. 信長の政策
信長は数々の戦で勝利を収めたため、戦国武将としてもイメージが強いかもしれない。しかし、彼は優れた軍事指揮官であるだけでなく、むしろそれ以上に優れた政治家でもあったのだ。
私個人としては、信長の戦上手ぶりよりも、むしろその政治力の高さに尊敬してしまう。最終的に天下を取ったのが徳川家康ではなく、織田信長だったら、きっと今の日本の姿とはまったく違うものになっていたのだろうなと思う。
まず、信長の政策としてあげられるのは、関所の廃止と楽市楽座の実施だ。
当時は各地に関所が設けられており、通行料が徴収されていた。しかし、織田領ではこの関所を廃止し、人々の自由な往来を許可したのだ。これによって、領内の商業が活性化され、物流が促進された。また、これは戦の時に、軍隊の移動時間を短縮することや、物資を円滑に輸送することにも繋がったため、大いにメリットがあった。
関所の通行料という目先の収益にこだわらず、領内の商業・物流の発展を優先するその大局的な観点にたった国づくりを行なっていた信長には素直に尊敬してしまう。
また楽市楽座は、だれでも自由に商売することを認めた政策だ。これにより織田領で商業が発達したこともさることながら、今まで商業を独占していた貴族勢力や寺社勢力の影響力を低下させることにも成功したのだ。
いかがだったであろうか。分かりやすさを心がけながらも、展開をストーリー仕立てに書いてみた。この記事を通して織田信長や戦国時代、ひいては歴史そのものに興味を持ってくれる人が少しでも増えたら嬉しいと思っている。