「新朝鮮通信使」で韓日の学生が交流

400年前同様、韓日の若者が信じる心で通じ合った

 朝鮮日報社と外交部(省に相当)・駐日韓国大使館が主催する「新朝鮮通信使」は13日に船で釜山港を出発、対馬を経由して福岡に到着した。下関-広島-福山-大阪-京都-彦根-高槻-静岡-箱根という朝鮮通信使の行程をそのままたどり、20日に目的地の東京に至った。朝鮮王朝は1607年から1811年まで12回にわたり日本に通信使を派遣した。1回に300-500人、往復1年近くかかる大行列だった。第1回は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が終わってから10年足らずという時期。朝鮮通信使は韓日両国が戦後の憎しみを武力でなく善隣・交流で乗り越えた輝かしい歴史の1ページだった。朝鮮通信使が往来した200年間、両国は他に類を見ない平和の時代を開いた。これは、「通信」という言葉の通り、両国とも「信頼で通じる」意志と知恵があったからこそ可能だった。

 「新朝鮮通信使」が通り過ぎた日本の村々には、400年前からの言い伝えが数々ある。瀬戸内海の美しい景色が広がる海岸沿いの地域・鞆の浦の福禅寺には朝鮮通信使が客殿の名を付け記した書が一行を迎えた。広島の近くには地元の人々が朝鮮通信使を接待した際の珍しい献立が再現されていた。朝鮮通信使が泊まった京都・彦根・静岡の寺の住職たちは朝鮮通信使が残した文字や絵を宝物のように大事に保管しており、それを出して見せてくれた。

 徳川幕府は朝鮮通信使一行を1回受け入れてもてなすのに、幕府1年分の予算に相応する大金を使ったという。朝鮮通信使が続いた背景には、日本の大陸文化に対する渇望と共に、彼らが持つ経済力もあった。幕府が倒れて明治時代が始まったことで、韓日関係は波乱と対立の時代に入った。

 大学生たちを引率した江原大学のソン・スンチョル教授は「17-18世紀は韓日両国が通信使を交換することにより確執を外交で管理した時代だった」と言った。対馬で「新朝鮮通信使」一行を迎えた李俊揆(イ・ジュンギュ)駐日韓国大使は「偏見と固定観念を捨て、お互いがありのまま理解しようとする努力が必要だ」と訴えた。20歳から27歳までの韓国の若者たちは朝鮮通信使の現代における教訓を振り返る「心の見聞録」を記し、22日に帰途に着く。

東京=金泰翼(キム・テイク)記者
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