客席は観客たちのものだ

 3年に一回くらいライブ会場やフェスのマナー問題に巻き込まれて、というか自ら衝突するかのように巻きついていって、SNSに野暮なことを呟いているような気がする。こういった性分をどうにかしたいと常々思っているのだけれど、どうもダメみたいだ。

 はっきり最初に言えば、観客たちの楽しみ方はそれぞれのものであって、俺たち演奏者の側から「あーでもないこーでもない」と伝えたいことはない。もちろん、怪我しないでねとか、そういった安全を確保するうえでのあれやこれやはあるけれど、そういう問題はコンサートを運営する人たちに任せている。

 そういった安全面でのあれやこれやを抜きにすれば、「自由に楽しんでくださいね」としか言いようがないのだ。

 けれども、SNSなどを眺めれば、やれ合唱がうるさいだの、スタンディングエリアにバッグ持ってくるなだの、髪の毛は団子で結べだの、自分の楽しみを侵害された人たちの呪詛のような言葉を食らって、俺は率直に胃が痛い。

 こと、合唱の件で言えば(耳元で歌われるなど)、指定席の場合は確かにしんどいところがあるので気持ちもわからなくはないが、ライブハウスやフェスだったら場所を移るとか…みたいな言葉も口から出て来そうになる。勢いで言えば、後ミキサー卓をいじっているオペレーターのあたりに行けば、かなり良いバランスで全体の音を聴くことができると思う。

 あと、俺はアンセム多めのバンドを好いて育ってきたロックファンであるためか、デフォルトで大大大合唱みたいなバンドのライブとか全然平気だった。スピーカーからも大音量でバンドの演奏が流れているので、確かに会場は皆それぞれに歌っているけれど、バンドの演奏とひっくるめて楽しめる範囲だと感じる機会ばかりだった。

 けれども、俺がそうだからと言って他人が同じことを感じていたとは限らず、「うわぁ、ボーカルの人の歌が聞こえない」と悲しむ人が居た可能性もある。それについてはどう解決してあげたらいいのか、よく分からない。「そういう音楽なのではないか」と言ってしまえばそれまでだけれど、なんとも気の毒で解消してあげたい気分もある。

 ミュージシャン的な経験から言えば、チューニングをずらすと聞こえたりもする。どういうことかと言えば、口うるさい母親を無視しながらTVやゲームに熱中するときのように、耳というのはある程度意識を「切る」ことができる。件の大大合唱系のバンドのライブでも、俺は周りの合唱音ではなくて、バンドの演奏に意識的にチューニングを合わせているので、特に周りの音にマスキングされることなく、バンドの演奏を楽しめているのではないかと思う。

 とか言っても、できるかよバカ、と言われてしまうかもしれない。

 バカじゃないことを示すために、「安禅、必ずしも山水を用いず」という禅語は「大自然の静謐なところでなくても座禅できます」という深い言葉なのです、とここに書くと、「意味不明だよ」とか言われて、やっぱりバカだと思われるのだろう。

 とても悩ましい。

 驚くほど、みんなが「歌声」を聴きに来ているという事実もある。合唱のせいで「ベースが聴こえなかった」とか「ギターの音が聴こえなかった」とか言うひとはいない。その辺は語り物の芸能が好きな日本人が抗えない性質だと思う。そうした性質と習慣から、意識を歌にチューニングしすぎている可能性もある、ような気もする。これは俺の偏見だけど。

 とにかく、みんな楽しんで欲しいなと思う。切実に。

 で、楽しんで欲しいと盛り上がって欲しいは違って、別に微動だにしなくたって、その人が楽しいなら良いじゃないか。感情を体で表現するのが苦手で、心の中だけでモッシュ&ダイブをしている人もいる。

 ときどき、そういう人を捕まえて「盛り上がってない」みたいに批判する人もあって謎だけど、なんだかまわりをキョロキョロ見回して、なんとなくここかなというところで手を上げて、拍手して、みたいなほうが窮屈で怖いなと俺は思う。

 実際、日本のフェスとか、そういった空気をやや感じるというか、なんか周りを見て、みんなで一緒に右手を振ってマスゲームみたいになってしまっているように見える。もっと自由にしたらいいのになと心配になることもある。でもまあ、「それが楽しいんです!」と言われたら、じゃあ思いっきりどうぞ!としか言いようがないのだけれど。楽しいなら、それは最高。

 そういうのも含めて、ステージの上から「こうしてほしい」って言えることなんてひとつもなくて、敢えてあげるなら「自由に楽しんでください」だけなので、こういうマナー問題に直面したときは心が苦しい。

 まあ、自由と自由を無制限&無批判に延長して行けばどこかで衝突するので、自由と自由が干渉し合った場合は上手に解消したり、緩衝したりしないといけない。それが下手だと、「〇〇禁止」みたいな注意事項が立ち上がって、それが多ければ多いほど、なんとなくライブの感興は削がれてしまうように俺は思う。

 個人的な体験談を書けば、ドイツで観たアメリカの大人気ロックバンドのライブには、アリーナ席を区切る鉄柵のようなものがほとんどなかった。日本では細かく仕切られているけれど、8000人くらいはいるであろうスタンディングエリアはステージの前の柵、ステージ中央から数十メートル突き出した花道以外には区切るものがなかったように見えた。それでも将棋倒しはなく、とある曲では数千人のど真ん中に空洞がポカンとでき、サークルモッシュが起きて、その後、自然に解消されてなくなったのだった。観客たちは思い思いに好きな曲を歌い、麦の汁酒を飲んで騒ぎ、シングル曲でないマイナーな曲は同じ人間とは思えなくらいに押し黙って「それじゃない感」を出し、現金というか自由というか、なんだかとても羨ましかった。

 その後、ヨーロッパでの公演を終えて、俺は南米で何本かコンサートをしたわけだけれど、どこも建さんのギターリフが聞こえないくらいに観客がギターリフのメロディさえも歌うことに驚いたのだった。チリからメキシコまで、信じられないくらいに観客たちは全身で熱狂を訴えかけてくるのだった。ロックスターにでもなった気分だった。

 帰ってきてから行った東京のライブは、なんだか少し寂しく思った。日本のお客さんってこんなに静かだったかな、と、正直に思った。それが悪いというわけではない。でも、シャイだってことは事実なんだなと思った。俺も含めて、感情を表に出すのがあまり得意ではない、あるいはそれを美徳としていない文化の一部なのだなと。

 とはいえ、南米の熱狂は忘れられない。

 そういえば、前にロバート・グラスパーのライブを観に行ったとき、観客たちがあまりに静かなことを気にしたのか、「俺のことあんまり好きじゃない?」というMCがあったことを思い出した。まずいなと思った俺はビールをグビリと飲んでから、ヒューヒュー!とかイエー!イエー!とか、演奏が良かった場合に大きな歓声を進んで出すようにした。この行為を「声出し」と呼んでいる。そうするとバンドが乗ってくるからだ。良い演奏は、演者だけが作るものではないと、ひとりの観客として感じるからだ。マジカルなライブや伝説的なコンサートには、それを共有する観客が絶対に居る。あるいは居た。Wilcoのライブ盤のMisunderstoodが素晴らしいのは、Wilcoの演奏に合わせてトランスしていった観客たちが居たからだと、俺は思う。

 このあたりは、上意下達みたいな主従のはっきりした関係ではなくて、明らかに演奏を始めるのはミュージシャンだけれども、どちらが卵とも鶏とも言えない、どちらも欠かせない関係性が成り立ってこその、コンサートだと俺は思う。絶えず、何かがキャッチボールのように行ったり来たりして、いろいろな言葉にできないフィーリングのようなものが増幅して、最高の体験ができあがるように思う。その一部でありたい。

 それも、まずは、それぞれの自由があってこそだ。

 そして、両手には愛だとか思いやりだとか想像力だとか、どれでもいいのでひとつくらいは持っていて欲しいなと思う。己の楽しさ原理主義、みたいな考えが上手くいかないのは、社会まで広めようが町内会まで狭めようが同じことだから。

 多様な楽しみが干渉しあうことなく存在するのは難しいかもしれない。でも、できるだけたくさんの楽しみ方があるなかで、スペシャルな瞬間があるほうが、俺は美しいと思う。全員着席、身動き禁止、ただし指定の曲は必ず斉唱するように、みたいなライブやコンサートが楽しいだろうか。でも、なんというか、人の耳元で信じられないくらいの音量で歌っちゃう人も、人の楽しみ方を否定しまくっている人も、やってることの本質はそれに近いんじゃないかと俺は考えている。

 演奏する側としては、「できるだけ自由に楽しんで欲しい」としか言いようがない。客席は観客たちのものだから。普段は観客である機会の多い俺も含めて、みんなで作って行くしかない。それが文化だから。

 演奏者としてここのところ心がけているのは、俺自身がまずは誰よりも自由であることだ。「気持ち悪い踊り」と言われてしまうこともあるステージ上での動きも、俺にとっては自由な感情の発露で、最高にクールなことだと思っている。自由を体現するということは難しいし、難しいゆえにクールなことなのだ。

 誰よりも自由であることを、俺は最近『魂の解放運動』と呼んでいる。

 自由になるのは魂だ。何か大きなストレス(ステージ上の音の環境が悪いだとか、尻が痒いだとか)にも縛られず、俺はひたすら魂を解放させて、誰よりも自由でありたい。で、そういう行為で誰かがハッピーになったらいいなと思う。あいつの踊りを観ているとバカバカしくて争っている場合ではなくなってくる、みたいな心の動きが人々に起きたら本望かもしれない。悔しいから、もっと自由に奇妙な動きをしてやる、みたいなフィーリングの伝播も素敵だろう。

 コンサート会場はそういう場所であってほしい。みんなが解き放たれる場所であってほしい。


 追記。

 マスゲームのような抑圧された場所では、そのマスゲームにそぐわない音楽は排除されてしまうだろう。多様な楽しみ方が担保されることは、様々な音楽が楽しまれるということだ。そういう観点からも、俺は『魂の解放運動』を継続する。のだ!