日本語は音声を有声・無声で区別する。有気・無気では区別しない。ひらがなとカタカナには有声音を表す符号がある。濁点がそれである。
アメリカ英語もおそらく有声・無声で区別している。なぜ確証を持って書くことができないのか以下に書く。あと、なんでいちいち「アメリカ英語」と書くのかだが、これは後でインド英語の話をしたいからである。
中国語は音声を有気・無気で区別していて、有声・無声ではない。一部の例外を除き、有声音がないと言われている。だから中国語のdは日本語やアメリカ英語のdのように濁った音(有声音)ではなく、無声音である。tとの違いは、tが有気音(続く母音との間に出される息の量が多い)であるのに対し、dが無気音(同、少ない)ということである。
だから中国人が英語を話すとき、ほとんどの人はdを無声音として発音する。彼らの言語にはそもそも有声音・無声音という区別がないから、dが有声音でtが無声音だということ自体、知っている人はほとんどいないようである。だいたい英語のdは中国語のd、英語のtは中国語のtとして認識しているようだ。蛇足であるが韓国語には有声音・無声音があるのだが、語の区別に用いている区別は有気音・無気音の区別なので、事情は大体似たようなもののようである。
では、彼ら中国人の英語は下手な英語で、アメリカ英語話者にとって聞き取りにくいのだろうか。驚いたことに、非常に流暢な人でさえ、母語が中国語だと、tを無声・有気として発音している。彼らは流暢なアメリカ英語を話し、ぱっと聞いた感じでは違和感はなく、ネイティブのアメリカ英語話者にとっても聞き取りづらくはないようである。
なぜアメリカ人は彼らの英語を問題なく聞き取れるのだろうか。実はアメリカ英語では、tは無声、dは有声という区別は日本語と同じだが、tが日本語のtと比べて非常に強い有気音なのである。つまり、有声・無声という区別を無視しても、tを強めの有気音として、dを無気音として発音すれば、問題なく区別可能だということだ。これはまさに中国語のtとdである。実際、アメリカ人に中国語のd、つまり無声・無気音を聞かせると、彼らは英語のd、つまり有声・無気音として認識する。このような音は言語学では[t]と表現するのだが、アメリカ人の言語学者だと、うっかり[d]と書き取ってしまうことがあるらしい。
もし、それが無気音であるというだけの理由で無声音である[t]がdとして認識されてしまうのなら、「英語ではdは有声音、tは無声音」というのは我々日本人の単なる思い込みだったのだろうか?
なお、インド英語ではtは無気・無声、dは無声・有声のようである。このような場合、アメリカ人はどう認識するのだろう。「気」で区別するなら両方dと認識するはずであり、「声」で区別するなら前者がt、後者がdである。
この疑問を人に説明しようとしても、そもそも有声・無声とか有気・無気を理解してもらうのに時間がかかるので、未だに答えがわからないでいる。
蛇足だが、中国語のこの特徴のため、中国人は日本語の有声音(濁音)と無声音(清音)の区別に非常に苦労する。通常日本語の清音は、アメリカ英語ほどではないにせよ、有気音なのだが、もともとアメリカ英語ほどの「気」がない。さらに、文末だったり、「さ」行の前だったりといったいくつかの環境において、清音が無気音になってしまう。日本人は無気音と有気音を区別しないので、「無気音化する」こと自体日本人は知らないから、中国人もなかなか区別を教えてもらうチャンスがないようである。