司馬遼太郎はその著書「竜馬がゆく」のなかで、「坂本竜馬が日本ではじめて『日本人』になった。それまでは、ほとんどの人が ○○藩人だとか××藩人だとかという括りでしか自分達の存在を認識できないでいたなかで、日本というこの国を認識した−幕藩体制に拘泥することなく−はじめての人物だ。」と書いておられた。明治の時代となって、幕府という存在が無くなった時、「全ての日本に住む人間が『日本人』になった」のであろうか?(当然、外国人も住んでいたが、彼らは当然対象外である。)
幕藩体制から、藩自体が無くなって県に再編されたのであるから、「○○藩人」のような言い方は当然無くなった。その時に 自分達を指す名称として「日本人」なる言葉が使われたのは納得するが、幕藩体制の範囲外であったアイヌ民族もまた「日本人」として取り扱われたのだ。
彼らはいつ どのような形で日本の国家体制に組み込まれていったのか?その「いきさつ」を知っておく事は 私たちにとっても非常に意義のあるものですし、その内容を理解できていれば中曽根氏のように「日本は単一民族国家だから・・・」などと口走る事も無くなると考え、今回簡単にアイヌ民族問題を取り上げてみることにしました。(なお、文中ではアイヌ民族に対して日本の人を和人と記載します。次に、北海道という名称は明治以降の命名ですので 本来であれば「蝦夷地」と表現する事が妥当かもしれませんが 北海道という名前を統一して使用します。いずれも詳しく調べてゆくと矛盾だらけの言葉ですが、ここではその内容には触れずに 使用しています。ご了承ください。)
「簡単に取り上げてみる」と書くのはやさしいが、ある程度の知識は必要ですので北海道におけるアイヌ民族の歴史からすこし触れてゆきます。日本の歴史のなかで 比較的その内容が確定されている最初の事例としては、「コシャマインの戦い」でしょう。この戦いは、1457年(長禄元年)、和人によってアイヌ人が殺害された事件をきっかけに発生したものです。アイヌ民族と和人の交易というものは これよりかなり以前から行われていました。アイヌ民族は「鉄」を作成する技術を持たなかった(その理由は明らかではないが)為、交易でこれを得ていたからです。その当時、北海道の最南部においては、和人による交易を主目的とする部落が形成されてきており これら和人による略奪的な行為がそのきっかけになったようです。なお、アイヌ民族は、文字による伝達よりも言葉での伝承(口承)という形態を取っていましたので、その過去の出来事を記載した文章は殆ど残されていないようです。ただし、これが不正確というわけではないようで 本多勝一氏が聞き取りによって作成した「アイヌ民族」という本は、この「コシャマインの戦い」以前の出来事ですからおよそ600年前頃でしょう。そのような過去が きちんとした形で残されている事に非常な驚きを覚えます。
その後も アイヌ民族との交易は継続してあったようです。彼らは 道南における交易のみならず東北の一部地域とも交易を行っていたようで そういった記録も残されています。この内容は、幕藩時代となっても基本的には変化はしませんでした。松前藩は、アイヌ民族との交易を自藩の専有としていましたが、この規則は比較的緩やかなものだったらしく、暫くの間はこういった時期が続きます。
この均衡を破ったのは、松前藩の方向転換です。交易を独占化を推し進め、アイヌ民族に対しても自藩以外との交易を禁止させました。交易の独占は、当然のことながらその価格の高騰と品質の悪化を招きました。米等の一部商品は 価格が3倍以上にもなったようです。この施策に怒ったアイヌ民族が行ったのが 寛文9年(1669)年の「シャクシャインの戦い」です。
松前藩はこの戦いにおいて幕府に報告すると共に援助を要請「・・・幕府は幼年藩主兵庫頭吉広(矩広)にかわり指揮を取るべく旗本の松前泰広を本藩に派遣し、津軽藩には援軍派遣、秋田・南部両藩には援軍編成と武器援助、仙台藩には後詰を命じ、四藩は幕命に従い松前藩に大量の武器弾薬を送った。『公儀』権力の本質たる征夷大将軍の権能が、幕藩制国家の軍役発動というかたちで作動し始めた。・・・」(海保嶺夫著「近世の北海道」P105より引用)。戦いは、長期に及んだが松前藩・アイヌ社会共 交易によって成り立っていた関係から 最終的に和議を行って戦いは終了する。松前藩は、価格の改正を行って妥協したが、交易の独占化は堅持した。この戦いは、幕府にとって今まで殆ど思考の範囲外であった(と思われる)北海道の存在を再認識させることになった。しかし、この時点においてもアイヌ民族はやはり他民族であって、北海道は異国であった。(この場合には蝦夷地と言った方が妥当かもしれません) 均衡状態は長くは続かなかった。それまで、松前藩は藩士それぞれに個別の交易地を割り当てており、藩士は直接にアイヌ人と交易を行っていた。(つまり、藩士は武士でありながら商人としての活動をも行っていた)この機能を自分達で行うのではなく、商人にこれを委ねて運上金を取るようにしたのである。これは、松前藩と藩士達にとっては安定した収入が得られる方式であった為に 急速に推し進められた。しかし、この方向性は 以外な方向へ進む。商人達は、そのあてがわれた土地で直接漁を行うことは禁止されていたが、アイヌ人にはこれが(当然ではあるが)許可されていたが為に 商人によって漁を行なわされる状態となった。しかも、これら商人は今までのように松前藩を経由する必要が無くなった関係上 直接近江商人らとの取引が可能となり、関西においては、それまでの干鰯による肥料から 安く手に入る北海道産の鰊が使われだした。アイヌ民族は、その住む場所は異国であったにも関わらず、経済的にはすでに商人の手によって日本の中に取り込まれてはじめていたのである。
1800年ごろから、ロシアによる樺太をはじめとするオホーツク海への進出が本格化しだした。幕府は、これらの異人による日本の侵略を防ぐ必要から、北海道に対する自国化の必要を感じたのであろう。それまでは、異国の地であり、交易の対象としての存在であった北海道(特にこの時期、ロシア進出が顕著であったアリューシャン列島の島々)−択捉島等のアイヌ民族に対して、同化政策を取り 日本固有の領土であることを示すようになる。この時期が、和人によるアイヌ民族同化の動きの始まりであった。対外的に、アイヌ民族は和人の一部であり 和人の住むこれらの土地が日本固有の領土であることを示す必要があったからである。具体的な方針としてとられたのは、穀食奨励・肉食禁止・和人語使用・和服着用などである。これらの政策に対するアイヌ民族の抵抗は激しかった。当然であろう。対外的に北海道を日本の一部として認めさせる為とは言いながら、そのおこなっていた行為は 民族の歴史と誇りの否定であったからである。これが、日露和親条約締結の時期(安政元年−1854年)頃になると、外面のみの同化から、個別の人員掌握、近代的集落への転換さえも行われるようになってくる。同化政策の強化といえるであろう。なお、この方針について前述の海保氏は、「・・・制度的改変に較べ固有文化の否定・他文化への強制的同一化への反発が強いのは当然であるが、不安定要素の拡大再生産でしかない『同化』を現地住民統治の主要な手段とし、しかもそれを『御恩』『皇恩』と手前勝手に意識する、特殊日本的なのかアジア的なのかわからないが、十五年戦争期まで続く近代日本の植民地支配の原型は、すでにこの時点で余すところなく示されている。・・・」(海保嶺夫著「近世の北海道」P68からP169より引用)と 書いている。アイヌ民族の同化方針と、台湾の支配、韓国併合等を思い出してみると、その行った行為が奇妙に似ている。明治期の対外政策はまさに この時期から始まったと考えてもおかしくはないのかもしれない。 以上に見たように、幕藩時代の末期、1850年頃にはすでに北海道は 日本の経済圏のなかへ取り込まれていた。その第一の原因はやはり、鉄製品をはじめとする近代的な製造物を完全に輸入に頼っていたアイヌ民族の動向にある。しかし、彼らはそういったやり方を少なくとも数百年は続けてきていたのであるから、そこに何らかの破綻が発生した原因は 外的要因にこそ求められるべきであろう。
本来であれば対等な立場での交易が、いつしか和人の力でもって支配され 労働力を提供するような形態になった。これが、アイヌ民族と和人の関わりのなかのもっとも大きな変化であった。このことによって、経済的な結びつきが発生した。東北の貧困にあえぐ労働者の流入があったこともあって 北海道は急速に日本に接近してきたと言えよう。しかし、それだけではこういった支配者−被支配者のような関係は生じない。それを引き起こしたのがロシアの南下政策であり、幕府の行った同化政策であった。幕末の時代から既に、北海道が日本に組みこまれる状況の芽が作られてきていたのである。そして、それを具体的な政策として引き継いだのが明治政府であった。北海道の歴史は「維新の時期から始まると」いった認識を持つ人々がいるようであるが、実際にはもっと昔から続いた歴史をこそ見なければ、わからないのである。屯田兵こそが北海道開拓の先駆をなすものであるといった認識からは、先住民族であるアイヌ民族の存在は見えてこない。そこには確実に「民族」としての誇りを持ったアイヌ民族がいたことを忘れてはならないのだ。
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