長嶋巨人初Vの立役者、加藤初さんが死去 66歳、直腸がんで
巨人などで投手として活躍した加藤初(かとう・はじめ)氏が11日午後2時32分、直腸がんのため静岡県内の病院で死去した。66歳だった。巨人が20日、発表。葬儀・告別式は既に行われた。喪主は妻の和江(かずえ)さん。プロ入りした72年に17勝を挙げ新人王を獲得。75年オフに巨人に移籍し、76年には4月18日の広島戦でノーヒットノーランを達成するなど、15勝(4敗)を挙げ長嶋茂雄監督の初優勝に貢献した。通算141勝を挙げ、一時代を築いた「鉄仮面」が逝った。
どんなピンチでも、マウンド上で表情一つ変えずに“鉄仮面”と呼ばれた男が、静かに天国へと旅立った。
加藤さんは社会人野球の大昭和製紙でエースとして活躍。71年のドラフト外で西鉄に入団した。当時の西鉄は、いわゆる「黒い霧事件」によって主力投手が退団、大きく戦力ダウンしていた。そこで、稲尾和久監督は加藤さんと成長株の東尾修投手を先発ローテの軸として起用。指揮官の期待に応え、加藤さんはプロ1年目の72年に17勝(16敗)を挙げて新人王を獲得した。ドラフト外入団選手の新人王は史上初だった。
翌年からも西鉄、そして球団名を変えた太平洋で、低迷期のチームを支えた。25歳だった75年のオフ、同年に球団史上初の最下位となった巨人にトレード(関本四十四、玉井信博両投手と加藤さん、伊原春樹内野手との2対2)で移籍。長嶋茂雄監督は「重くて速い球は、セ・リーグにはない。堀内(恒夫)と合わせて30勝はやってくれるだろう」と期待したものだった。
もともとG党だった加藤さんは新天地で奮起。76年4月18日の広島戦(広島市民)ではノーヒッターを達成。15勝4敗8セーブの好成績を残し、長嶋巨人のV1に貢献した。だがオフの健康診断で肺門リンパ腫が見つかってしまう。球団は現役引退も視野に入れたが、加藤さんは現役続行を熱望。「ろく膜炎」と病名を公表し、翌年も入院生活が続いた。
77年6月から復帰したが、その後のシーズンでは1ケタの勝ち星が続いた。しかし藤田元司監督が就任した81年は12勝(6敗)と復活。江川卓、西本聖、定岡正二らと共に、今度は藤田巨人のV1に力を発揮した。
83年のシーズン途中、右肩の血行障害から戦線離脱。手術を受けたが不屈の闘志で復活を遂げ、84年に10勝、86年には14勝を挙げるなど、巨人先発陣の一角を担った。40歳で迎えた90年8月7日、東京Dでの大洋(現DeNA)戦で通算1500奪三振を達成し、これを花道に引退を決意。19年のユニホーム生活に別れを告げた。
引退後はフジテレビの解説者として活動。95年には西武の2軍投手コーチとして現場に復帰し、1軍コーチも務めた。その後は台湾のLaNew、韓国SKのコーチなども歴任した。
11年に韓国SKを退団したが、その前後から下腹部に痛みを訴えるようになった。帰国後は横浜市内の病院で治療を受けていたが、2年前からは長男と次男の自宅がある静岡・御殿場市内の病院に転院。その後、大腸がんが肝臓などにも転移、今年は入退院を繰り返していた。和江夫人ら家族にみとられ、眠るような最期だったという。
強い精神力で、故障を何度も克服してきた加藤さん。熱投はいつまでも、ファンの脳裏に刻まれ続ける。
◆加藤 初(かとう・はじめ)1949年12月20日、静岡県富士市生まれ。吉原商卒業後、亜大に進学も1年途中で中退。大昭和製紙に入社し、都市対抗野球や日本産業対抗野球大会で活躍した。71年オフにドラフト外で西鉄入団し、72年に17勝で新人王。巨人に移籍した76年に15勝4敗の勝率・789で最高勝率のタイトルを獲得した。90年に引退するまで球宴に6度選出。175センチ、72キロ、右投右打。
訃報・おくやみ