日本中が3年連続となる日本人研究者の受賞に湧く一方、大隅さんは、受賞が決まってから一貫して、「日本の科学は空洞化する」と基礎科学の先行きに警鐘を鳴らし続けてきました。
順調に見える日本の科学の現場で、いったい何が起きているのでしょうか。
大隅さんのメッセージとは
北欧にしては暖かい日が続いていた今月7日、ノーベル賞の授賞式を3日後に控え、大隅さんはストックホルムで記者会見に臨みました。
「若い世代は、結果をすごく早く求められる状況が強くなっている。好きなことがやれる科学の世界になってほしいというのが私の思いです」
その2か月前、ノーベル賞の受賞が決まった大隅さんのもとには、日本の科学研究のレベルの高さをたたえる祝福のメッセージが次々と届いていました。
「3年連続での日本人の受賞であり、わが国の学術研究の水準の高さを世界に示すとともに、国民にとっても大きな誇りになる」
「日本が生物学や医療をはじめ、イノベーションで世界をけん引して、世界に貢献できることを大変うれしく思う」
ところが、大隅さんはこの時から繰り返し、「日本の科学は空洞化する」と警鐘を鳴らし続けていました。
この温度差は、大きな疑問となって私の頭を捉え続けました。
科学の現場の“異変”
大隅さんが将来を危ぶむ研究の現状を確かめようと取材を進めたところ、東京大学工学系研究科の北森武彦教授が応じてくれました。
北森教授が取り組んできたのは、液体の分析技術の研究です。
ガラスの板に電子回路のような複雑な溝を刻み、そこに液体を流すことで、ごく微量でも分析できる技術を開発。血液検査などに応用できると世界から注目を集めています。
研究室で実際の研究を担うのは、大学院生や博士課程を修了した若い研究者たち。「ポスドク」と呼ばれる非常勤の研究者を含め、およそ20人が在籍しています。
北森教授が若い研究者の間に「異変」が起きていると感じたのは、今から10年ほど前、博士課程に進んで研究者の道を選ぶ学生が大きく減ったのがきっかけでした。
それまでは、毎年、数人が博士課程に進んでいたのが、急に誰もいなくなり、いてもせいぜい1人。大学生から修士課程を経て、これからというところで、就職の道を選ぶ学生が続出し始めたのです。
「本当に危機的な状況です。このままだと研究室で研究を進める人材がいなくなる。そうすると、実験ができなくなり、研究そのものが全く進められなくなります」
北森教授の訴えは、切実そのものでした。
悪化する研究者の雇用環境
博士課程に学生が来ない。その原因は、研究者を取り巻く雇用環境にありました。
北森教授の研究室で1人の男性に話を聞きました。
ことし11月から働く樽井寛さん(46)は、これまで、日本を代表する研究機関で成果を挙げてきましたが、今の立場は「アルバイト」、つまり非正規雇用です。安定したポストを探し続けていますが、なかなか見つからないと言います。
樽井さんは「終身雇用として、同じ研究室で身分が保障されている状態で研究する、そういう環境がいちばん私たちにはうれしいんですが、なかなかそういうわけにはいかないというのが世の中の現状です」と話していました。
最前線の研究現場を支える人材が、なぜ、不安定な立場を強いられているのでしょうか。背景にあるのは、研究ポストの減少です。
一般的に、研究者を志す学生は、大学院の修士課程を経て、博士課程へと進みます。その後、研究実績を積み重ね、大学で助教などの正式なポストに就きます。
ところが、全国の国立大学の運営費交付金(=運営費)は、平成21年からの7年間で750億円も削減。その影響で、およそ2000人の研究ポストが失われ、不安定な立場の研究者が続出しているのです。
“長期的な研究は望めない”
樽井さんが今の研究室にいられるのは来年1月まで。次の仕事場を探す日々が続きます。
非常勤の立場から研究者としての安定したポストを得るには、時間をかけて研究を行い、注目される論文を発表するなど、実績を積み上げるしかありません。
しかし、短期間で研究室を転々とする立場では、1つのテーマをじっくり研究することは考えられないと樽井さんは言います。
「綱渡りな人生です。いい研究をしていても、もし、雇用がなくなると、研究者としての人生が途絶えてしまいます。研究を続けられない今の境遇は、悲しい状況と感じています」と胸の内を語ってくれました。
若い世代の選択は
厳しい現実の中にあっても、研究に魅力を感じるという若者もいるのではないか。私は、集まってくれた修士課程の学生8人に、博士課程に進むかと尋ねました。
その結果、全員が「博士課程に進まない」と答えました。
「博士課程か就職か、迷ってはいたんですが、僕の中で、博士課程は『修業』というイメージが強くて、企業に就職しようと思いました」
「社会の歯車というイメージもありますが、社会人として働くほうが安心感はあります」
若者たちの答えは率直で現実的でした。
この研究室に限らず、博士課程に進む学生の割合は、今、全国的に下がり続けています。
「研究開発をして新しい価値を生む若い人たちが、大学に縛られるのをむしろ嫌がる時代になっていると感じます。科学技術を支える人が日本からいなくなってしまいます。そうした状態で、20年後、30年後に科学技術立国としての日本が残っているのか。この先、日本の基礎科学はどうなってしまうんだろう、そのくらいの危機感を持っています」
北森教授は、このままでは日本の研究は衰退するばかりだと危惧しています。
「研究力」の凋落が現実に
文部科学省科学技術・学術政策研究所がまとめた、気になるデータがあります。
世界で発表された学術論文のうち、それぞれの国が占める割合を示したものです。
日本は、1990年代、アメリカに次いで世界2位を占めていましたが、2000年ごろから徐々に下がり続けます。
やがて中国にも抜かれ、現在は5位まで下がっているのです。
大隅さんが心配した「日本の科学の空洞化」が、すでに顕在化しはじめていることが見て取れます。
研究費の“競争”もあだに
さらに、研究費の予算の仕組みの変化も、大きな影響を及ぼしています。
今、研究の世界では、ほかの研究テーマと競争して獲得する研究費が増えています。
これは「競争的研究資金」と呼ばれ、短期間で成果を挙げなければ、成果をPRできず、次の研究費が獲得しにくい状況となっています。
特に、成果がいつ出るかわからない、基礎科学の研究現場からは、じっくり腰を据えた研究がしづらいという声がたくさん聞こえてきます。
凋落は食い止められるのか
私がさまざまな取材を進める中で、研究者以外の人から「こんな研究はなんの役にも立たない」といった批判を耳にすることは少なくありません。しかし、基礎研究は「役に立つ」ことを目指したものではありません。
実際、大隅さんが解き明かした「オートファジー」は、生き物の仕組みを解き明かしたいという情熱が実を結んだもので、この成果が出て初めて、多くの研究者がさまざまな病気との関係を調べ始めたのです。
大隅さんが危惧する日本の科学研究の空洞化を食い止めるために、今、何をすべきなのでしょうか。
まずは、若い研究者が安心して研究できる環境が必要です。
また、成果を競って予算を獲得するのが難しい基礎科学にも、積極的に研究費をつけることが重要です。
しかも、基礎科学は結果が出るまでに20年、30年かかるテーマもあります。
そのことを社会として理解し、日本の「英知」を担う人たちを支えられなければ、科学技術立国「ニッポン」の先行きは厳しいと、一連の取材を通じて強く感じました。
- 科学文化部
- 田辺幹夫 記者