水島治郎『ポピュリズムとは何か』
時宜に適したという言葉が、今現在これほどどんぴしゃに当てはまる本はないでしょう。水島治郎さんより新著『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/12/102410.html
イギリスの国民投票でEU離脱が多数を占め、アメリカではトランプが大統領に当選するという「アヌス・ホリビリス」の年末を飾るにふさわしい本ですが、例によってすっぽこすっぽこ刊行される粗製濫造新書と違って、そこはさすが中公新書、かつて『反転する福祉国家』でオランダモデルともてはやされるオランダの「影」の部分と、しかしそれが「光」と表裏一体であることを見事に浮き彫りにして見せた水島さんの手により、現代ポピュリズムを論じる際に必携の一冊となっています。
イギリスのEU離脱、反イスラムなど排外主義の広がり、トランプ米大統領誕生……世界で猛威を振るうポピュリズム。「大衆迎合主義」とも訳され、民主主義の脅威と見られがちだ。だが、ラテンアメリカではエリート支配から人民を解放する原動力となり、ヨーロッパでは既成政党に改革を促す効果も指摘される。一方的に断罪すれば済むものではない。西欧から南北アメリカ、日本まで席巻する現状を分析し、その本質に迫る。
第1章で、ポピュリズムをめぐる政治学的議論を概観し、それが近代デモクラシーの二つの原理のうちの一つを代表するものであり、ムフらのラディカル・デモクラシーと共通するものがあることを確認した上で、それがデモクラシーに寄与する面と脅威となる面の両面を持つやっかいな存在であることを論じ、第2章以後の歴史的記述と近年の動きの分析に移っていきます。
かつてはアメリカ大陸が中心だったポピュリズムがヨーロッパをその震源とするようになったのは高度成長終了後で、フランスやベルギーのように極右政治勢力が右翼的性格を薄めて移民排斥に移っていった国もあれば、オランダやデンマークのようにむしろリベラルゆえの反イスラムが人気を博した国もあります。このあたりは水島さんの得意な分野ですが、私自身今から20年前にベルギーに住んでいた頃、本書にも出て来るフラームス・ブロックがどんどん人気を得ていく姿を見ていたこともあり、改めて生々しい思い出が蘇りました。
第6章はイギリスのEU離脱を主導したイギリス独立党の分析ですが、そのサブタイトルが「置き去りにされた人々の逆転劇」。そう、本ブログでここのところ結構繰り返して取り上げているテーマですね。
この章からいくつか、脳裏に焼き付く一節を引用しておきましょう。
・・・とはいえ、このような社会的分断の存在が、直ちにイギリス独立党のようなポピュリズム政党の伸長を生み出すわけではない。むしろ問題は、既成の政党がいずれもこの分断状況から目を背け、中高年の労働者層を「見捨てて」きたことである。特に、従来労働者層の強い支持を受けてきたはずの労働党は、ブレアのもとで「ニューレーバー」と称する党改革を進め、コスモポリタン的で穏健な中間層の取り込みに走った。軸足を中道寄りに移すことは、中間層の支持を得る上では一定の効果を持ったが、其の半面、労働者層との距離が広がり、彼らの離反を招いた。・・・
・・・これらの「置き去りにされた」人々の声を代弁すると主張するファラージ自身は、私立学校出身で金融街で成功した、むしろエリート層に属する人物である。しかし彼は、パブでビールを飲む庶民的な振る舞いや言葉遣いで「置き去りにされた」人々に親しみを覚えさせることに成功した。・・・
そしてとりわけ、現在のイギリスで労働者層に向けられる眼差しがこうなっているという指摘。オーエン・ジョーンズの『チャブス』という本によると、
・・・現代のイギリスにおいて、失業の危機にあえぐ労働者階級に対する視線が、一層厳しさを増していることを明らかにする。近年語られてきた「階級なき社会」「今やみんなが中産階級」という言説は幻想に過ぎないのであって、現実には一部の人に富が集中する一方、格差と困窮が広がっていることを彼は指摘する。しかも自己責任原則が広まり、就労優先政策が浸透する中で、職につくこともままならない労働者階級の人々には「怠惰」とのレッテルが貼られ、社会的な批判が向けられている。・・・
・・・イギリス社会が「中産階級により、中産階級のための」社会となりはてる一方、労働者階級は邪悪な存在として扱われ、周辺に追いやられていく。・・・
・・・労働党がもはや労働者に背を向け、富裕層のための党に転じてしまった以上、労働者階級の立場を守り、しかも移民問題にも取り組んでくれる政党は、既成政党にはない。その閉塞感の中で、イギリス独立党をはじめとする排外主義的な政党や団体が救い主として現れ、労働者層の支持を集めているとジョーンズは指摘する。その意味でイギリス独立党の伸長は、中産階級の労働者層への「まなざし」のもたらした当然の結果であったのかも知れない。
そしてとりわけ胸に突き刺さるのは、今回の国民投票後にマスコミに溢れた離脱賛成者への批判的視線が、まさにこの「まなざし」を赤裸々に示すものであったというジョーンズの指摘です。
・・・知的生活とはほど遠いところにある、粗野でその日暮らしの人々、グローバルな時代に背を向け、狭い地方に閉じこもって移民や外国人を拒む、偏狭な人々。・・・
・・・離脱票を投じた彼らを非難することは、「ますます事態を悪化させるだけだ」と主張する。なぜなら、「離脱票を投じた人々の多くは、既に除け者にされ、無視され、忌み嫌われていると感じてきた」からである。
その彼らへの軽蔑こそが、今回の投票結果を生んだのであって、その軽蔑の念を一層強め、言語化したところで、問題は解決するどころか深刻化の一途をたどるだろう。・・・・
本ブログのコメント欄にも、この「まなざし」「軽蔑の念」をそれこそディナーパーティの泥酔客並みの言語水準で吐き散らし、問題を深刻化させたくて仕方がないように見える方がおられますね。
それはともかく、最後の第7章「グローバル化するポピュリズム」は、そのグローバル化が生んだ鬼子であるポピュリズムがグローバル化していくアイロニーを描いています。
同章の最後の項は「ディナーパーティの泥酔客」と題されています。いちいち胸に沁みるこの一節を是非熟読玩味して下さい。
ポピュリズムは、「ディナーパーティの泥酔客」のような存在だという。
上品なディナーパーティに現れた、なりふり構わず叫ぶ泥酔客。招くべからざる人物。その場の和やかな雰囲気を乱し、居並ぶ人々が眉をひそめる存在。しかしその客の叫ぶ言葉は、時として、出席者が決して口にしない公然の秘密に触れることで、人々を内心どきりとさせる。その客は、ずかずかとタブーに踏み込み、隠されていた欺瞞を暴く存在でもあるのだ。
デモクラシーという品のよいパーティに出現した、ポピュリズムという泥酔客。パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。しかしポピュリズムの出現を通じて、現代のデモクラシーというパーティは、その抱える本質的な矛盾を露わにしたとは言えないだろうか。そして困ったような表情を浮かべつつも、内心では泥酔客の重大な指摘に密かに頷いている客は、実は多いのではないか。
・・・泥酔客を門の外へ閉め出したとしても、今度はむりやり窓を割って入ってくるのであれば、パーティはそれこそ台無しになるだろう。
この厄介な珍客をどう遇すべきか。まさに今、デモクラシーの真価が問われているのである。
政治学者水島治郎の名台詞です。
| 固定リンク
|
コメント
>本ブログのコメント欄にも、この「まなざし」「軽蔑の念」をそれこそディナーパーティの泥酔客並みの言語水準で吐き散らし、問題を深刻化させたくて仕方がないように見える方がおられますね。
例えばですよ、貴族やエリート企業家や高度専門家が、特定の被差別グループを差別する発言をしたなら、鬼・悪魔のように批判されるんじゃないですか。
それに対して、「労働者が罵詈雑言を吐き、悪態をつくのはしょうがない」と不当に庇うことこそ、差別なんじゃないですか。
エリート目線による下層階級蔑視を批判するエリートが、まさに上から目線で下層階級の横暴を擁護している。お笑いだ。
投稿: 阿波 | 2016年12月20日 (火) 17時16分
ポピュリズムって伝統的な定義では、「パンとサーカス=財政バラマキと政治的見世物」だったけど、
誰が言ったか知らんが歳出削減や規制緩和や構造改革までポピュリズムと認定してしまった。
ご存知の通り、歳出削減と「パンのバラマキ」は逆の政策なわけで、これでは「自分の気に入らない(けど民衆の多数が支持しそうな)政策=ポピュリズム」という以上の意味はない。
例えば、郵政民営化や事業仕分け(および、それらが象徴する公務員削減)は「ポピュリズム」という批判に晒されているわけですが、フランス共和党が主張する同じ政策は「伝統的な右派の政策」と呼ばれます。
また、ブラジルやアルゼンチンが行う同じ政策に対しては、「民衆の痛みに関わらず必要な政策を行う誠実さ」という評価が与えられます。
ポピュリズムって何すかね?
投稿: 阿波 | 2016年12月20日 (火) 17時27分
ある個人や階層が、困窮している・無視されているという事と、その人たちが別の無辜の市民を、信仰・民族・信条・性などを理由に罵倒することとは、全く別の問題。
貧乏だからといって、非行を犯してよい理由にはならない。
当たり前のことですが。「弱者である」ことが、様々な行為や発言を正当化し得るという、無自覚な極左たちが多いので言っておく。
(もちろん、殴られたら殴り返すのは普遍的権利ですが、第三者を殴ってよい理由は1ミリもない。)
投稿: 阿波 | 2016年12月20日 (火) 19時54分
まったく同様に、いかにソーシャルな主張が憎くてたまらないからと言って、
「叩いて当然じゃね??」とか
「抹殺されてもしょうがない」とか
「ポリコレ棒で「しばく」べきでしょう」とか
「人間扱いされない無能だと理解しろ」とか
「棒で殴る以外に真人間にできないじゃん」とか
「叩くべき」とか
「潰さないといけない」とか
「残念ながら低知能層に必要なのは説得ではなくプロパガンダであると認めざるを得ないな」とか
「働かずに文句だけ言う奴は敵だ。ぶっ潰す」とか
言葉の正確な意味において「ディナーパーティの泥酔客並みの言語水準」の罵倒をこれほど短期間に多くのコメントに書き散らして良い理由にもならないと考えるのがまっとうな精神のありようではないかと思われますが。
どこかのお上品なディナーパーティ風のブログであれば、そういう書き込みをする『泥酔客』は出入り禁止にするところもあるかも知れません。
ただ、わたくしはそれこそ水島さんと同様に、そういう泥酔客風のコメントばかり書き込む人にも、それなりの存在理由があるに違いないと考えておりますので、特定の個人を誹謗中傷すると言ったような一線を越えるものでない限り、とりあえずは許容しておきたいと思います。
だって、それこそ「その彼らへの軽蔑こそが、今回の投票結果を生んだのであって、その軽蔑の念を一層強め、言語化したところで、問題は解決するどころか深刻化の一途をたどるだろう」ですから。
泥酔客が暴れるにはそれなりの理由があるはずなのです。それを理解しようをせずにただ闇雲に叩き出そうとしても、「今度はむりやり窓を割って入ってくるのであれば、パーティはそれこそ台無しになるだろう」ですから。
あれ?阿波さんはそういう議論に反対でしたっけ?ということは・・・・・。
投稿: hamachan | 2016年12月20日 (火) 20時12分