貧困と「政治」のデジャビュ
ほっとぷらすの藤田孝典さんのツイートをめぐって稲葉剛さんが「反論」し、ネット上でプチ論争になっているようですが
https://twitter.com/fujitatakanori/with_replies
左翼やリベラルは、貧困問題を政治利用しないでほしい。「貧困を解消するために政治に働きかけるのではなく、政治を変えるために貧困問題を利用する」という転倒した構図が散見される。だから、政治活動は支持や力を持ちえないし、失敗してきているではないか。いつになったら自省するのか。
政治家や政党が貧困問題を利用するのは、百歩譲って理解する。しかし、現場の実践者や支援者までも目的を忘れて、政治を変えることのために貧困問題を利用するなら本末転倒である。思想・信条を押し付けず、真剣に貧困問題を解決するために考えてほしい。
左翼やリベラルが現場に軸足を置き、上部構造の政治と連結して「有機的知識人」であったのなら、日本の貧困問題、社会問題はここまで深刻でなかったことだろう。面倒くさがらずに、真面目な活動をしてほしい。
政治を変えるための基礎となる地道な社会運動や組織化(アソシエーション)、情報発信、福祉実践(ミクロの相談支援活動)もなく、一過性で貧困を取り扱うとか消費するとか、やめてほしいとずーっと言ってる。なかなか伝わらない。
個別名や団体名を挙げたらキリがないです。従前の政権批判や政治批判を目的化した社会活動に傾倒しているものが多く辟易しています。貧困問題は結局その道具なのです。「貧困問題を悪化させている政治が悪い」と言いたいだけの方が本当に多いです。貧困問題でなくても何でもよいのです。
よく考えてほしい。貧困の何がひどいか説明できるだろうか。誰がどんな風に苦しんでいたのか。貧困の人が多いけれど接したことはあるか。本当にできることは「安倍政権を許さない」を叫ぶだけか。それでその人は救われるか。自己満足ではないか。あなたは無力なのか。もう少し力があるのではないか。
http://inabatsuyoshi.net/2016/12/14/2587
・・・しかし、貧困問題に関わる団体や個人が「幅広い支持」を求めるあまり、今の政治の動きに対して「まずい」と思っていても沈黙をしてしまう、という傾向が生まれてはいないでしょうか。
カジノ法案や年金カット法案、生活保護基準の引き下げといった「政治的」な課題に対して意見を述べると、自分たちの活動が色メガネで見られるようになり、支持が広がらなくなってしまうのではないか、と恐れてしまう。「左派と見られるのが怖い」症候群とでも言うべき現象が広がりつつあるように、私には思えます。
政治が良くも悪くも貧困に対して現状維持の立場を取っているのであれば、国政の課題にはタッチせず、目の前のことに集中する、という姿勢も有効かもしれません。
しかし残念ながら、今の政治が貧困を拡大させ続けているのは明白です。一人ひとりの生活困窮者を支えていく現場の努力を踏みにじるがごとき政治の動きに対して、内心、憤りを感じている関係者は多いのではないかと思います。
そうであれば、貧困の現場を知っている者として、社会に発信をしていくべきではないでしょうか。団体での発信は難しい場合もあるかもしれませんが、個々人がSNSなどで意見を述べるのは自由なはずです。
貧困問題を本気で解決したいのであれば、「誰が貧困を拡大させているのか」という議論を避けて通ることはできないのです。
現場レベルで貧困対策を少しでも進めることと、将来にわたる貧困の拡大を防ぐために政治に物を申していくことは決して矛盾していません。
その両方に取り組んでいくことの重要性を改めて強調しておきたいと思います。
噛み合っているようで何となく話がずれてる感があるのですが、それはここで念頭に置かれている「政治」のイメージがずれているからでしょう。
藤田さんが想定しているのは、(稲葉さんがやってきたような)貧困を問題にする政治ではなく、ややカリカチュアライズして言えば、貧困なんて問題は本音ではどうでも良いけど、ナショナリズムとか排外主義とかといった大文字のマクロ政治における左右の対立図式における陣地取り合戦の手駒として貧困問題「も」使おうという「左翼やリベラル」(略して「リベサヨ」ですか)発想に対する違和感なのでしょうし、稲葉さんがその意義を説いているのは、まさにその貧困問題を解決する回路としての政治に積極的に関わるべきということなので、実のところはあんまりずれていないように思われるのです。
このあたり、最近のアメリカ政治やヨーロッパ政治の論点ともつながるところがあるのでしょうが、ここではむしろ意表を突いて、半世紀以上昔の日本の労働運動における「政治」をめぐる議論を振り返っておきます。
労働組合は本来労使関係という二者関係で活動するものであるとはいいながら、政治にも積極的に関わっていくことは、程度の差はあれ洋の東西を問いません。
一方で、労働組合の政治活動に対してはその本来の性格を逸脱するものだとして批判も繰り返されてきたところです。労働組合法第2条には、主として政治運動や社会運動を目的とするのは労働組合じゃないという規定もありますし。
その頃の一つの議論として、「政治」といってもいろいろある。少なくとも、労働者の労働条件や生活に関わるような問題を労使交渉以外のマクロ的回路を通じて解決しようとするという意味での「政治」と、それとは直接関係ない問題、当時でいえば反戦平和運動などの「政治」を分けて、前者は政治活動と言っても労働組合本来の活動だというような議論もありました。
集団的労使関係が沈滞した現在では殆ど話題にすら上らなくなって久しい議論ですが、今回の藤田・稲葉論争を見て、話の構図は同じだな、とデジャビュを感じたので、一言コメントさせていただきました。
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