DeNA問題で、客観的根拠に基づいた信頼できる医療情報が希求されている現状において、またしてもこのような本が平然と書店に並んでしまうこの国の出版モラルは大丈夫でしょうか。
さて、今回も近藤誠氏の嘘をひとつ糺してみます。近藤誠理論の要のひとつに「本物のがん」という概念があります。わかりやすく言うならば、治すことが難しい ‘転移’ という現象は、すでに決められた運命だから放置がよいというものです。
転移するか否かは、がん幹細胞が生まれたときに定まっている。結局、がんが治るか治らないかは、がん幹細胞が誕生したときにほぼ決まっているのです。(『がん治療で殺されない七つの秘訣』2013年 文春新書より)
都合のよい論文データをあちこちから調達してくることで仮説をつくりあげている近藤氏ですが、がんが誕生した瞬間からすでに転移している「本物のがん」について、一体何を根拠としてそのような主張を繰り返すようになったのでしょうか。
多くの場合、遠隔転移はがんが発生して間もない時期に起こる、と僕は考えています。その点は、初発巣と転移巣の大きさを比較することで確かめることができます。まず、初発巣も転移巣も同じがん幹細胞に由来しているので、がんが大きくなっていくスピードもパラレル、同じです。次に、CT画像上などで視認できるまでに育った転移巣の大きさと、初発巣の大きさを計測し、計測された大きさの違いから転移の起こった時期を計算によって割り出していくと、たとえば乳がんなどでは、初発巣の大きさが1ミリメートルにも満たないきわめて早い時期に転移が生じていること、それも圧倒的多数のケースにおいて生じていることが確認できるのです。(『がん患者よ、近藤誠を疑え』2016年 日本文芸社より)
パラレル?圧倒的多数?
上記にみられる主張は、他の著作や問題漫画『医者を見たら死神と思え』(ビックコミック連載中 小学館) にも登場してきます。よくよく調べてみると、このロジックは近藤氏のオリジナルでも何でもなくて、以下に紹介する論文が参考にされています。
したがって、その論文内容をしっかり吟味してみます。「癌の時間学」というタイトルで、当時の東京大学第一外科教授、草間悟氏が執筆された和文の論文です(『癌の臨床』 1981年 第27巻・第8号 p793-799)。
腫瘍の体積が倍になる時間を「ダブリングタイム」といい、草間氏らが経験した症例において、縦軸に腫瘍の径 (大きさ)、横軸に時間をとって対数グラフをとると、直線的な発育スピードを示すことが述べられています。そのような手法で、再発した乳がん症例111例が分析された結果、手術から再発まで、再発から死亡までの期間はすべて「ダブリングタイム」に支配されるとされています。
さらに、66例の乳がん手術後再発ケースを抽出し、その仮説に基づいて計算してみたところ、多くの症例が原発巣が0.1mm〜1mmの大きさに達するまでに、理屈上すでに転移していたことを示す分布グラフが掲載されています。
35年以上も前に報告された乳がんを対象とする古い仮説レベルの話を、近藤氏はいつの間にかまるで「真理」のごとく扱い、さらには乳がんのみならず、すべてのがん疾患に対しても同じロジックを当てはめて一般化してしまっています。
さて、この草間論文の中には、実はこれまで近藤氏が触れようとしないメッセージが次の図 (論文中: 図10) と照らし合わせながら記述されているので抜粋してみます。
手術によって治癒する乳癌は約50% (注: 1980年代当時のデータ) と米国でいわれております。これら治癒症例では、手術までに転移がなかったということは言葉を変えれば手術されなかったとすれば、この手術の時以後に転移がおこったであろうということになります。これを図であらわすと図10のBのようになります。すなわち乳癌患者のなかには乳癌が臨床的に認識できない小さな時に転移をおこすものと、乳癌が臨床的に診断可能になってからはじめて転移をおこすものの二つの群のものがほぼ同数に存在するということになります。この第二の山はいわゆる早期診断によって克服することができますが、第一の山は臨床診断が全く不可能の時期にあり、このことは乳癌の手術的治療の限界を示すものと解されます。
このように、論文筆者である草間氏は、1mmほどの状態ですでに転移している乳がんもあるが、がんが「しこり」となった後から転移する乳がんも「同等」に認めています。したがって、「手術で治せる乳がん」の存在もしっかり肯定されているわけです。
しかし、近藤氏は、論文に掲載されている上図 (図10) にあるAの山のケースのみを切り取り、Bの山のケースに関しては無視の姿勢をとります。
結局のところ、これまでとまったく同様に、自身にとって都合のよいデータのみに目が行き、情報全体をフェアに取り上げていないことが判明しました。
近藤氏がなぜ「1mm」というサイズ基準に固執するのか、実はこの草間論文からデータを調達していたわけです。この話は、ある施設で意図的に抽出された乳がんケースに対するあくまでも仮説レベルの話です。然るに、近藤氏は草間論文にある都合のいい話ばかりを切り取って、ダブリングタイムという見かけ上の数字を操りながら「本物のがん」と勝手に名称を付けてしまいました。
要するに仮説に仮説を重ねているだけの話です。
この論文は今から35年以上も前のものであり、当時は薬物療法の進歩がまったくなかった時代でした。現在では、再発するかもしれない運命を薬物療法 (全身治療) によって、前向きに変える時代に突入しています。ですから、論文中にある当時の「手術によって治癒する乳癌は約50%」は、現在では大きく改善されています。
乳がんは、早期がんとはいっても、しこりとして発見された時点で、基底膜をすでに突き破っているので転移するポテンシャルを有しているのは事実です。だからこそ、手術をした後にその悪性度や性質を知り尽くしたうえで、それに応じた適切な薬物療法 (全身治療) によるマネージメントが非常に重要になってくる疾患だと強調しておきます。
現在では、乳がん組織が詳細に調べられて、エストロゲンというホルモン受容体や HER2 (Human Epidermal Growth Factor Receptor Type2 ハーツー) というがん遺伝子の発現程度によって、個々の乳がんの性質 (サブタイプ) が分かるようになりました。可能な限り再発リスクを読み取ることで、ホルモン療法や抗HER2薬、あるいは術後の抗がん剤治療 (補助化学療法) といった適切な薬物療法を選択することで、転移・再発を防ぐための個別化した治療戦略が求められます。
タレントの北斗晶さんの乳がんは、おそらくは再発リスクが高い状況だったのかもしれません。もしそうだとしても、治癒というゴールを前向きに目指して、手術の後に抗がん剤を選択することで自身のがんと一生懸命、対峙しているわけです。近藤氏は彼女の乳がんを、現時点で「本物のがん」か否か裁けるとでも言うのでしょうか。治療で治せる乳がんの存在を是が非でも認めない立場にある近藤氏は、北斗晶さんが選択された治療は間違っていると吹聴し、挙句には次のような主張もされています。
そもそも乳房とリンパ節の治療が終われば、どの患者さんも、体からすべてのがん細胞が除去されてしまったか、他の臓器に転移がひそんでいるかのどちらかになります。前者であれば、抗がん剤治療はがん細胞が除去されて「健康人」に戻った人に「農薬」を投与するのと一緒で、寿命を縮める効果しかありません。実際、元気だったのに抗がん剤治療を始めた途端に急死する患者も少なくないのです。他方後者の、どこかに臓器転移がひそんでいるケースにおいては、抗がん剤はがんを退治する力も、患者を延命させる力もなく、縮命効果しか得られません。こうしたことから、日本で広く行われている補助化学療法は、患者たちの寿命を縮める結果になっています。現在、治療中の方には、なるべく早くやめたほうがいい、と心からアドバイスする次第です。(『がん治療の95%は間違い』2015年 幻冬舎新書より)
これらはすべて近藤氏の観念論にすぎません。客観的根拠を著しく欠いた近藤氏の主観レベルの話を、責任ある出版メディアは現在もなお垂れ流し続けています。なぜならば、“出せば売れるから” それだけの理由です。先のDeNA問題よりも悪質だといってよいでしょう。
次回に続きます。