絵本は身近にありますか?
こんにちは。りんです。
誰しもが思い出の絵本というものがあります。大人になって、それを手にしてなつかしく思ったり、またとまどったり、いろんな感情があふれてきます。
ふしぎな世界をもっているのが絵本です。
ちいさいお子さまがいらっしゃる方であれば、絵本は身近にあるかもしれませんね。そのときおかあさんたちはどういう気持ちになるのでしょうか。
おこさまといっしょに絵本の世界に入りこんでしまうかたも多いことでしょう。
わたしにはかわいいハニーがいて、絵本をプレゼントすることがあります。どんな絵本をよろこんでくれるのか、こころに届くのか、そんなことを考えながら、選びます。
でもじつはわたしのほうが夢中になって読んでいることもあるんですよね。
いくつかご紹介させてください。
『わすられらないおくりもの』スーザン・バーレイ著
賢くて、いつもみんなに頼りにされているアナグマだが、冬が来る前に「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナグマより」という手紙を残して死んでしまった。悲しみにくれる森の動物たちは、それぞれがアナグマとの思い出を語り合ううちに、彼が宝物となるような知恵や工夫を残してくれたことに気付いていく。そして、春が来る頃には、アナグマのことは楽しい思い出へと変わっていった。
引用:Amazon
「命」には限りがあり、からなず人は「死」を迎え、人生が終わるときが来ます。お子さまと「命」や「死」について考えるきっかけになる絵本です。
死に逝くアナグマは、残されたともだちが嘆き悲しむことを、わかっていました。それはアナグマもたいせつなひとを失う経験をしてきたからでしょう。そしてこの世を去っても、心は残ることも、アナグマは知っていました。
かけがえのない大切なひとを失った森の動物たちは、アナグマの死後、嘆き悲しみます。しかし少しずつ「死」を受け入れていきます。
そしてアナグマがのこしてくれたものを大切にすることによって、いつもアナグマがそばにいることに気がつきます。死しても心は残ります。
ぜひ、この絵本からあふれる愛を感じてもらいたいと思います。
『ぶたばあちゃん』マーガレット・ワイルド著
死を予感して、したくをはじめるぶたばあちゃんと、悲しみをこらえて寄り添う孫娘。ふたりの生と死の受けいれ方を描く。
引用:Amazon
こちらも「死」と向き合うための絵本です。
マミーさんにご紹介していただきました。
長い間、ぶたばあちゃんと孫娘はずっといっしょに暮していました。
孫娘はぶたばあちゃんにたくさんの愛情を与えてもらったはずです。そしてぶたばあちゃんも、孫娘が愛おしくてたまらなかったのでしょう。
死期が迫っていることを感じたぶたばあちゃんが、支度をはじめます。それに気がついた孫娘。
そんなふたりに別れのときが近づきます。胸を痛める孫娘に、ぶたばあちゃんは生きとし生けるものの尊さを教えます。孫娘が、死を受け入れ、前を向いて、しっかりと生きていけるように。
この絵本は、受け継がれる想いがあることを教えてくれます。ぜひ手に取ってもらいたいと思います。
まとめ
大人になった今だからこそ、心に響くものもあります。絵本は、数ページに伝えたい想いが、ぎゅっと詰まっています。シンプルなのに、奥が深くて、すばらしい読みものです。
『ぶたばあちゃん』の絵本とわたしをつないでくれたマミーさんに感謝いたします。
また、絵本のことを知りたい方は、子供の領分 Le Coin des enfantsというブログをご覧ください。セネシオさんの別ブログです。
さいごまで、お読みくださりありがとうございました。
おまけ:大笑いした絵本
ハニーにプレゼントした絵本です。渡すまえに、パンプキンといっしょに読みました。お腹を抱えて、大笑いしました。笑いのツボってひとによって違うので、みなさんはどう思われるかわからないのですが、よしもと新喜劇でお腹が痛くなるほど、笑える方にはおすすめです(笑)
おまけのおまけ:りんの独り言
マミーさん こんばんは。
コメントを閉じられてから、マミーさんとの会話ができなくなってさみしい思いをしています。
早速、『ぶたばあちゃん』をAmazonで購入しました。声をあげて泣きました。
マミーさん、聞いてもらっていいですか。
わたしは、まだおばあちゃんの死を受け入れられていません。おじいちゃんが逝ったときは、すぐ遺影を飾ることができました。おじいちゃんに話しかけたり、お菓子を置いたりしました。でもおばあちゃんが6月に亡くなって、今の今まで遺影を飾っていません。みんなで写した写真は飾ってあるのに。
わたしとおばあちゃんは特別な関係でした。
ある意味、わたしの逃げ場だったのかもしれません。物理的におばあちゃんは動くことができないので、いつ行っても家にいます。どんなときでも、かならずそこにいるおばあちゃんのところに、わたしはよく行きました。とくに悩みを聞いてもらったり、相談したりはしません。おばあちゃんと他愛もないおしゃべりをして、おばあちゃんのお料理をいただいて帰るだけです。
おばあちゃんが入院したときは、毎日のように病院に行きました。住まいが東京になって、おばあちゃんが、病院でお世話になってからは、毎日のように電話をして、1週間に1度は手紙を書きました。
おじいちゃんが逝った2015年の冬くらいから、どんどん心身ともに衰弱していきました。口から食事を摂ることができなくなりました。
神戸に戻り、何度も励ましました。元気になったら、おいしいものを食べにいこうねとか、米寿のお祝いをしようねとか。
でも帰るたびに弱っていくおばあちゃんの姿をみて、辛くてたまりませんでした。
わたしがどんなに励ましても、どんなに尽くしても、おばあちゃんは元気になりたい、生きたい、そう思ってくれません。わたしのために長生きしてほしくて、そのためなら何でもしたいと思っているのに、おばあちゃんに伝わらないのです。じぶんの無力さに絶望しました。大好きなおばあちゃんの役に立てない、役立たずだと。
2016年の6月、おじいちゃんが亡くなって、ちょうど1年後の同じ月に、おばあちゃんは逝ってしまいました。
おばあちゃんの顔は安らかでした。
何十年も動かない足とお別れして、自由になりました。
わたしたちのために1年頑張ってくれました。
でもまだきちんとお別れができていません。百箇日も納骨も、わたしは神戸に帰りませんでした。まだ哀しみの中にいます。半年では無理みたいです。
おばあちゃんのいないはじめてのお正月を迎えます。
さみしいです。マミーさん。