教養とは何か。一つは、養老孟司先生がいつも言われる「人の心がわかること」だと思う(元々は、養老先生の母校である栄光学園の神父さんの言葉だそうだ)。そして、もうひとつは、謙虚であること、もう少し言えば、打ちひしがれていることかなと思う。
教養の反対は傲慢や驕りだとすると、なぜ傲慢やおごりが生じるのかと言えば、世の中に恐ろしいこと、素晴らしいことがあるということを知らないからである。逆に、世の中の恐ろしいことを知っている人は、必然的に謙虚になるしかない。
ウォルト・ディズニーは飛んでいる鳥の羽の動きを分解して見られた、というようなことが言われているけれども、アニメーションの世界で、ディズニーがやったことをわかっている人は、謙虚になるしかない。
音楽で言えば、モーツァルトの作曲の量と質を知っている人は、作曲をやっていると言っても謙虚になるしかない。アインシュタインやニュートンの事跡を知る科学者も、謙虚になるしかない。文学で言えばジョイスやカフカ。
できるだけ背伸びして、その分野で最も良いものを知ることは、一つの基準をつくることにもなるし、その副作用として人を謙虚にする。たとえ、自らはものを生み出さないディレッタントでも、ものを知り、謙虚な人は、教養があると言える。
リベラル・アーツは、自由になるための学問のはずだが、もし、教養が人を謙虚にするとするならば、リベラル・アーツは人を謙虚にするはずだ。人は、謙虚でなければ自由にはなれないのだろう。

教養の反対は傲慢や驕りだとすると、なぜ傲慢やおごりが生じるのかと言えば、世の中に恐ろしいこと、素晴らしいことがあるということを知らないからである。逆に、世の中の恐ろしいことを知っている人は、必然的に謙虚になるしかない。
ウォルト・ディズニーは飛んでいる鳥の羽の動きを分解して見られた、というようなことが言われているけれども、アニメーションの世界で、ディズニーがやったことをわかっている人は、謙虚になるしかない。
音楽で言えば、モーツァルトの作曲の量と質を知っている人は、作曲をやっていると言っても謙虚になるしかない。アインシュタインやニュートンの事跡を知る科学者も、謙虚になるしかない。文学で言えばジョイスやカフカ。
できるだけ背伸びして、その分野で最も良いものを知ることは、一つの基準をつくることにもなるし、その副作用として人を謙虚にする。たとえ、自らはものを生み出さないディレッタントでも、ものを知り、謙虚な人は、教養があると言える。
リベラル・アーツは、自由になるための学問のはずだが、もし、教養が人を謙虚にするとするならば、リベラル・アーツは人を謙虚にするはずだ。人は、謙虚でなければ自由にはなれないのだろう。
コメント一覧
コメント一覧
嫌煙じゃなくて敬遠です。
むしろ、人の心の中を覗くこともできないのに打ちひしがれるのは、理解していないものを想像上で自分で打ちひしがれているように思います。
それが本当に謙虚なのか私には分かりません。
ただ、その謙虚さが一番自分にとって必要であって、それがないが故に人から嫌煙される原因なんだろうなぁとは思いました。
茂木さんは。やはり私は、素晴らしいと思います✨
人の発明したものなど恩恵だけを頂いて、いつも感謝して自分の無さを思っていますが、こんな私でもほんの少しでも教養があると言えるのでしょうか。疑問です。これからも先人達に教えられ、考えてゆこうと思います。
それが欲に惑わされない謙虚さであって、必ず必要だと感じます。