「市民の手で原爆の絵を」のメッセージ

私には貴重だが家人はゴミとしか思っていないであろう本や資料を何とか収納するスペースをつくるためにVHSのビデオテープを整理していて、「市民の手で原爆の絵を」というタイトルのドキュメンタリーを発見しました。

何と38年も前にNHK広島放送局が制作した番組です。放送日は1975年8月6日、広島の日に全国放送しました。

広島のNHKや中国新聞は、毎年欠かさずヒロシマを番組と記事にしてきました。ドキュメンタリー「市民の手で原爆の絵を」は、そのうちの1本に過ぎませんが、もっとも強烈な印象に残る番組です。

それにしてもVTRテープの劣化はおそるべし、です。38年の間に画像の輪郭はボケるし色彩は褪せるし、目を覆うばかりの惨状です。当時のアナログテレビはいまほど解像度はよくありませんが、それにしても時の流れの残酷なことにため息が出ました。

それでも我慢して再生しましたが、人間の脳は不思議なもので画像のボケや退色はいつしか修正して見ることができるようになり、忘れていた記憶がよみがえり、最後には涙が出るほど感動しました。

「市民の手で原爆の絵を」制作のきっかけになったのは、ある老人がNHK広島局を訪れたことでした。

昭和49年(1974年)5月25日のことです。小林岩吉さん(77)が、朝の連続テレビ小説「鳩子の海」を見て改めて「あの日」を思い出したとして、1枚の画を持参したのです。

NHKには毎日たくさんの方々が来ます。制作スタッフに会いたいというのも少なくありません。しかし、スタッフの方も仕事が忙しいので、必ずしも毎回きちんと対応できないのが実情です。

小林さんもアポイントメントがあったわけでもないので、係りがいったんはお引き取りをお願いしたとのことでしたが、小林さんの「どうしてもスタッフに会って話したい」という熱意にやむなく、制作スタッフが話を伺ったということでした。

小林さんの絵の説明書きには「昭和20年8月6日午後4時頃の萬代橋付近」とありました。原爆投下の日の午後です。

川に水を求める無数の人々、焼けトタンをかぶせられて川原に倒れている女性の姿など、決して上手な絵ではありませんが、「あの日」の様子が生々しく描かれていました。

小林さん自身は広島駅で被爆しました。それでも一人息子の安否を訪ねて市内を歩き回り、萬代橋にさしかかったところでこの光景に遭遇したのです。

「私があの日にこの目で見た地獄のような光景を、死ぬまでにどうしても残しておきたかったのです」・・・小林さんの言葉です。

「あの日」から30年近い歳月を経てなお鮮やかな小林さんの記憶と絵の迫力に、番組制作者は衝撃を受けました。そして閃いたのです。 「原爆にあった人しか知らない体験をもっと多くの人に描いてもらえないだろうか」。

被爆者の高齢化が進んでいました。被爆の記憶が一世代で終わっていいはずはないと思ったのです。

こうして6月、NHKのお知らせの時間に「市民の手で原爆の絵を残そう」という呼びかけが始まりました。その呼びかけに応えて、堰を切ったようにNHKに絵が寄せられたのです。

原爆の火球、キノコ雲の記憶の絵。その下で一瞬に命を奪われた人々がいました。

母と子の絵がたくさんありました。子どもを劫火から守り覆いかぶさるような姿勢で亡くなっていた母親、亡くなった子を茫然と抱き続ける母親、焼死した母親の乳房を吸う赤ん坊・・・。

水を求めた無数の人々、川に向かって逃げ流された息絶えた人々、焼けただれて池、防火用水、川に浮かぶ人々、遺体で埋め尽くされた川・・・。

野積みにされ火葬に付される遺体、その中にわが子を見つけて抱きかかえて去る女性・・・。

制作スタッフは、無名の市民がこのように憑かれたように絵を描くことがかつてあったろうかと思ったといいます。

被爆体験の風化などあり得ないことの証明でした。

関連番組に出演した画家が「紙は何でもいいんです。ノートに切れ端でも広告の裏でもいいんです。うまく絵に描けなかったら、絵でなくてもいい。絵の中に言葉で、文字で説明してみてください」と述べたことも絵を描く後押しになりました。

7月10日までに710枚の絵が集まりました。描き手の年齢は36歳の主婦(被爆当時6歳)から90歳のおじいさんに及びました。

広島局に始まった呼びかけなのに、東京や大阪から寄せられた絵もありました。

「右手萎え、左手で描く」と註のある絵、5枚の絵を送ってきて「まだまだあるのですが、寝たきりでこれだけしか描けませんでした」と震える字体で添え書きを記したおばあさんもいました。

この間、多くの関連番組を放送しましたが、被爆体験を伝える上で絵にはまだ可能性があるということから、昭和50年(1075年)4月から絵の募集を再開しました。それが初めに書いたドキュメンタリー「市民の手で原爆の絵を」になったのです。

全国放送しただけではなく、英訳版は国連に寄贈されました。

番組の関連で「ヒロシマ原爆の記録展開催実行委員会(NHK、広島県、広島市、中国新聞社共催)」による原爆記録展が主要都市で開催されて、22万人が絵を見に訪れました。会場に置かれたノートに感想にも心打たれる感想が残されていました。

「こんな下手な絵ばかりを並べたてた展覧会がかつてあったろうか。その下手な絵に、これまでのどんな絵よりも激しく心を揺さぶられた」

結局、2年間に寄せられた絵の総数、2225枚、絵を描いた人は758人。すべて広島市に寄贈され、原爆資料館に永久保存されています。さらに2002年になって、28年ぶりに広島、長崎で絵の三度目の募集したところ、広島で484人1338点、長崎で130人、300点が寄せられました。なお、「原爆の絵 ヒロシマの記憶(NHK広島放送局編、NHK出版、2003)」と題する写真帳の出版物もあります。

今年もあと1か月で広島・長崎の日が来ます。

日本は「非核3原則」を国是にして来たはずでした。1967年12月の衆議院予算委員会で佐藤栄作首相は、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」というのが政府の政策である、と述べました。後に佐藤首相は「非核3原則」を鮮明にした業績によりノーベル平和賞を受けています。

さらに、71年11月の衆議院本会議では、沖縄返還協定に関連して「政府は非核三原則を順守すると共に、沖縄返還時に核が沖縄に存在しないことを明らかにする措置をとるべきである」との決議が行われました。

しかし、実は国民を欺くいわゆる「沖縄密約」がありました。沖縄密約が暴露されていたら平和賞になったか疑問です。

一方政府は、憲法解釈としては「核兵器もその限度を超えない限り合憲」としています。しかし、核不拡散条約に加盟していることから核兵器の製造、保有はできないことになっています。

ところが国際社会の中で核兵器の対する日本の立場はきわめて曖昧模糊としています。

核兵器を否定しながらアメリカの「核の傘」に守られ、核政策ではアメリカに臣従しています。

核兵器と原発には密接な関連があることは常識ですが、核不拡散条約に加盟していない核保有国のインドへの原発輸出に熱心です。

長崎原爆5000発相当のプルトニウム44トンを保有していることにも核兵器製造の意思があるのではないかと疑惑の目が向けられています。

原発最稼働に「前のめり」の背景にプルトニウムをプルサーマルで少しでも減らしたいという思惑がありますが、技術的にもコスト的にも私たちと未来の世代にさらなる負担を強いることになります。

私たちはいったいどのような未来に向かって歩んでいるのでしょうか?

ドキュメンタリー「市民の手で原爆の絵を」を見ると、1945年8月の「あの日」のような結末を招いた政治と政治家の無責任と無反省に、心からの憤りを感じます。