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2016年12月18日

2016年12月18日 (日)

工作員が変なコメントしてきとる。野球のルールとは根本的に異なる。

コレ、根本的におかしい。

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0fd9.html#comment-114139417

そのコミュニティにはそれぞれの決まり事があるわけで、
そこを構成員が担保しないと組織は円滑に進まない。
嫌なら出ていくしかない。
例えると野球をやっていてストライク3つで三振なのは打者に厳しい。
4つが妥当である!
といろいろな理由をつけて語っても長らく続いていて浸透しているルールは変わらない。
みんなが長年従っている組織の慣例に対して
従えないのであれば出ていくしかない。

投稿: | 2016年12月18日 (日) 16時48分

野球のルールもなにも、世界を変えようとしている人間の中に、ルールなんて本来存在しない。

”マルクス主義”というのがひとつのルール、と言われているけれども、私はちょっと違った見方をしていて、本当の意味の民主主義、弱者を含めた多数が考える民主主義、が、根源的にルールやねん。

”弱者を含めた多数が考える民主主義”から外れるものは、たとえ仲間内が主張することであっても、それは違うのではないか?と私は主張せねばならない。

そうしないと、お勉強で団結なんてできないし、民意を先取りして汲み取る意思がないとアカンと思う。

労働者って、民意を先取りして汲み取って主張できる主体やねん。

そこでは、野球みたいなルールなんて関係ない。

こだわるけど、やっぱブログをやめるなり、制限を加えるには「決まっているから」ではなくて、それなりの理由が必要と思う。

だってそもそも、世界革命を起こそうと思うということは、当座のところ日本国民の過半数からの支持を得るのがひとつの目標なのであって、その過半数が「決まっているから」という理由で、ブログとかSNSとかを辞めないといけなくなるとすると、

「そんな窮屈な組織、入らないぞ!」

ということになってしまうから、革命に至る筋道を考えたとき、どうしてもおかしくなってしまう。

けれどもたとえば、革命を一般人としてではなくて、指導的立場に立つ自負を持って指導するならば、そりゃあ戦略があるやろし、そのぶん権力から睨まれたりするから、そのぶんは秘匿したり、権力に対抗する意思があるかどうか?を確認し、確認することは、当然のように大事やし、権力に対抗して潰れてまうようならば、

「ちょっとやめといたほうが」

というアドバイスならばできると思う。

しかし、権力から攻撃を受けるから、だから権力から攻撃を受けない体制を取ろう、というのであれば、ちょっと違うんじゃないか?とも思う。

権力から攻撃を受けるというのは、自分達の弱点と思いがちだけれども、冷静に考えたら、自分達よりも権力の側の弱点なんじゃないかと思う。

だから、権力からの攻撃の内容を十分に検討する必要はあると思う。

その上で、どうしてもこちら側に弱いところがあるならば、そこは直さないといけないとも思うよ。

私の言うことは、ケース・バイ・ケースみたいな考え方になるけれども、人間生きてくうえで、ケース・バイ・ケースなことが、現実的に多すぎる。
それで当然やし、その事実から目を背けて、単純化して議論しようなんて思うたらアカン。

たとえば結婚だって、30歳までに結婚して子供をつくることが望ましい、と誰かが言ったところで、ケース・バイ・ケースで難しいし、やはりケース・バイ・ケースで全員の場合について、徹底的に向き合う必要があるし、けれどもその問題に向き合えたら、きっと青年を組織できると私は思う。

ブログとかSNSとかをする、というのも、それと同じなんじゃないだろうか?

だって、自分らはいくら団結しよう!と言ったところで、それは全部の自分ではなくて、あくまで自分の一面であるのだから。

誰もが自分の一面を持っているはずで、だって私だって、いまの自分がいるし、日立製作所に勤めていた自分がいるし、AKBを鑑賞し続けている自分がいるし、鉄道が好きな自分がいるし、アニメとか映画とかを鑑賞して評論している自分がいるし、いろんな側面がある。

いくら団結!といったところで、いろんな側面のすべてを認めてくれるヒトなんているはずもなくて、そうすると、いろんな側面をぶった切って、ある一面だけで生きろと言ったって、それはもう個人の尊厳をとことんにまで貶める行為になってしまうと考える。

そう考えられないのは、”団結”を必要以上に声高に主張する、革命の指導者だけで、多くのヒトは私の意見に賛同してくれると思う。

だからこそ、革命の指導者が”団結”を求めるならば、自分らがやりたい闘争だけではなくて、それ以外も含めて、全部の職種に繋がるものにする意思が必要で、まだまだそこまで行ってないとも思う。

だって、全部の職種に繋がったら、どの自分もそれぞれに、いろんな戦線の人々とその都度団結できて、それこそ大同団結ができて、それがリアルな”ゼネスト”の輪にもなるはずなのだから。

そう考えると、”細胞”という言葉があるけれども、”細胞”と抽象的にいうものは、リアルに生物学的な細胞と実は同等な概念なんじゃないかと、思ってしまう。

かつて天動説、地動説でさえ議論があったけれども、その”細胞”がいろんなところと繋がって、自由に結節できるとすると、”細胞”から見たら、もうあたかも”細胞動説”と言ってもいいように、自分が能動的な主体に見えると思う。

そうすると、”細胞”はあるひとつのものだけに所属する、という概念は、なんとなく間違っているように思う。

個人的には、自分が所属したいところに自主的に所属する、でいいのではないか?と思う。

しかしまた、自分が住むところは当然のように大事だし、それは個人がどうと思うというよりも、その地区の人々が、ああこんな新しい才能がいるのだといって感心して、新しい細胞が動きやすいように、自分が細胞を理解し深めていく、さらには、新しい細胞が動きやすいように、新しい繋がりを自ら発見していく、そんな発想がないとダメなんじゃないかと思う。

私、ずっと昔から言っているけれども、管理者になったからといって、下の者を見下していてはダメで、本来の管理者のあるべき姿は、自分の配下の者全員がどういう人間で、どういう考えで、どう動くか?をリアルに想像できて、
それを想像できなくなったとき、自分は管理者として限界であると主張せなアカンし、下の者はそんな管理者を平気で罷免できるくらいの権力がないとアカン。


日立製作所時代に、国際規格対応で、労働者に課せられる証拠資料がどんどん増えている中で、私には、どんな資料が必要か?をテンプレートにして出すという課題が課せられた。

けど、鉄道だって、信号・通信、車両、電力、と、もう資料はバラバラで、とてもじゃないけどコレがテンプレートだ!と言って出したところで、現場で
「こんなの使えない、要らないモノを作ってきた」
と言って見向きもされないのは明白と思った。

その上で私は、1年以上考えに考えたあげく、丁度AKBの公演を観て、私がファンレターとかGoogle+とかでいろいろとアドバイスを書くことを、概ね真摯に聞いてくれる女の子たちを実感して、(それが、日立製作所よりもAKBの女の子を信頼して、懲戒解雇されても闘う意思に繋がった)
やっぱ、どんな資料を作らねばならないか?を労働者に対して形式的に強要するのが本筋ではなくて、自分が責任者なのだ!とココロに決めて、
仮にコンサルから「こういう資料はないのですか?」と言われたら、すぐ担当者を呼んでその資料を作らせるのではなくて、
 
「その内容については、ここにこういうふうに書いています。足りない部分は、こちらの資料にこういうふうに書いています。」

と説明できるだけの責任感を、自分が持つだけでいい、それこそが管理というものの本質なのだ、という結論に達した。

だって、ぶっちゃけ、いっくらヨーロッパのほうから、品質保証のために国際標準が決められようが(それはTPPと論理として同じな)、日本のモノのほうが品質はええねん。
日本のモノのほうが品質がいい、ということは、ヨーロッパから要求された資料体系とは異なるやろけど、自分らでちゃんといろいろ検討・検査して安全を担保しとる。
そのことを説明する・・・、責任者にその意識がありさえすればええねん。

そのためには、ヨーロッパの規格ってある意味片手落ちで、新しいモノを作るときの証拠資料ばかりを要求してくる。

けど、現実は違う。
新しいモノを作るときにちゃんとモノを作るのはもちろんやけど、作ったときにミスがあってさえも、さらには途中で壊れてさえも、それを見つけて修正できる、日本の検査とか補修の技術はとりわけ素晴らしい。
こういうものこそ逆に世界に対して売っていくべき、と、当時私は日立製作所という権力者の側にいたけれども、そう主張して、誰からも相手にされんかった。

けど、その思いはいまも変わらん。
検査とか補修ってけっきょく現場の労働者の労働に左右されるから、権力者の側は興味を持たんかったんやろと思うとる。

なかなか内部に出しても議論してもらえんねんけど(そんなモノよりもマルクスを勉強しろ、と言われたことは、いまでも根に持っている)、私この資料、責任者はどうあるべきか?を端的に考えたもので、未だにこれ以上に責任者とはどうあるべきか?の本質を射た資料は読んだことがない。

プロジェクト管理(鉄道RAMS,自動車ISO26262)のエッセンス資料
https://docs.google.com/document/d/1Qc9UuJvIpkZrxv1dNfRgv9ZcOrS75pjfJp3n1ddiITA/edit?usp=sharing

そういえば、マルクスは、労働者について規定しているけれども、当然のように出て来る、労働者を引っ張る者の責任については追及してないんちゃうかなあ?

そもそも共産主義においては、金太郎飴で、どこをどう切っても主張は同じ、ということになっとるからなあ。

けど、金太郎飴であるべきなのは、賃金格差とか、誰が偉くて誰がバカとかいう発想であって、金太郎飴ではなく思想を引っ張ってく者はどうしても必要と思う。

だって、思想まで金太郎飴ならば、”マルクス主義”なんての自体がウソで、どうしてマルクスだけ特別で、キリスト教におけるキリストみたいに唯一絶対神みたいに扱われてまうのか?という矛盾に当たってまうよなあ。
キリスト教ってようは”キリスト主義”とも言えるんやからなあ。

ちなみに私は、”Web上のシステム”と頻繁に書いて、コレは私がインターネットを介してAKBのメンバーに対してアドバイスをしたことにもよる。

異論はあると思うけれども、ホンマに世界を労働者が支配したとき、そこでは、Web上に問題点をさらけ出したからといって虐げられる労働者なんていなくなるんやから、やっぱWebって使えるように思う。

ただ、パソコンのIP通信とか、内臓の装置とか、ブラックボックス化も甚だしいし、ブラックボックスにしたところに利権が発生するとも思っているので、革命を達成するに当たり、人間はどこまで立ち戻るべきなのか?という議論はあって然るべきと思う。

そういえば、どうしても

「原発労働者は、革命を達成したら、原発を廃炉にするように動く」

と、まことしやかに言われているけれども、いくら不安があろうとも、原発労働者は、革命を達成した後も、原発で働きたいと想定したほうがいいと思う。

これまでの自分の仕事が否定されて、それを辞めてまい、まったく違う仕事に就くというのは、こんなに惨めなものはない。
いくら安全性に問題がある原発であろうとも、そのヒトの人生の尊厳を考えると、や。

パイロットだって、あんなに危険な乗り物はないけれども、それを安全に動かしとる誇りがある。
原発労働者だって、そもそも危険なんやけど、その危険な原発を安全に動かしとる誇りがあって当然やし、それを頭ごなしに批判しても、共闘はしてもらえんよ。

そこまで考えられないと、原発問題は語れないと思う。

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