父のアルバムが語る日中戦争
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父は一言も語らなかった(語れなかった)

(1) 生前、父は私(2013年現在60歳代)に中国での戦争体験について一言も語らなかった。とても家族に言えないような事をしたのであろうと、私は後に悟った。同世代の友人の父親も日中戦争についてはほとんど語っていない。いくら国の命令とは云え、他国を蹂躙し人命を奪った非道な行為をわが子には言えないであろう。世論操作に騙されたとか最高責任者が加害責任を取らなかったという言い訳で良心が免罪されるとは思えない。

 

(2)父の唯一の趣味は写真だった。日中戦争の頃は規制も緩かったようで、写真撮影は部隊の中でも重宝された様子が窺える。父は一言も語らなかったが、アルバムは日中戦争の真実を残してくれた。

 

(3)はだしのゲンの首切り場面が残虐だから子どもに見せないという。違う違う、70数年前に何百万人もの男達が、子どもに言えないような加害行為を国の命令で行った事実を知るべきだ。 「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」(ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領)

 

(4)ダウンロード、リンク自由: 本サイトの目的は、父の残した日中戦争の写真を平和に役立てることです。この目的に沿うものであればダウンロード、リンクは自由です。

 

アルバムにある「加害行為」と「平凡な日常生活」の同居は何を物語っているのか

試し切り

1938/9/13 場所は南京と武漢の中間にある舒城(シューチョン) 

アルバムの[原文キャプション]

Kawana上等兵  舒城  軍刀ハ自作 上着ハ徴発  テツチン。機械化部隊ノ職工長ヲ自認スル名物男   彼ノ少年時代ノ夢ハ美校ナリト云フ

 

(筆者コメントは*で示す)  * 父のアルバムにある、唯一の残虐写真である。この写真を撮影した時父は23歳であった。感想らしいキャプションが付いていないことから、おそらく珍しいことではなかったのであろう。この男(通称 鉄チン)は自作の軍刀を自慢したくて記念写真を所望したと思われる。返り血で汚れないよう、徴発(ちょうはつ:他人の物資を奪う軍隊用語)した上着を着たのであろう。

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試し切り.jpg
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日常生活と他国侵略が共存する不思議

1938年 鎮江

* アルバムを見ていると、日光浴とか洗濯とかの普通の日常生活と、他国への侵略が共存している不思議さを強く感ずる。普通の人がある環境に入れられてしまうと、不条理でも受入れ慣れてしまうのだろうか。疑問を持たずに服従することしか教えない教育の力も大きかったかもしれない。

 

 

戦場の村

1938年 鎮江、句容

* 物資の徴発(=略奪)に行くところと思われる。村には煙が漂っている。

1937年 南京近く

 

 

日常の娯楽

1938年4月28日

[原文]  野戦演芸会  鎮江、院来演(少女歌)   

* 演芸会や慰問団の記念写真もある。普段は娯楽を求める普通の人たちなのであろう。

 

1938年

[原文]キングレコード慰問団来ル

 

 

1937年12月 その時父は南京にいた

* 父のアルバムに「1937年12月南京」の文字を見た時は体がこわばった。父があの時あの場所に居たとは知らなかった。

1937年

* トラックで南京入場

 

[原文]1937年12月

南京野病

 

[原文]1937年

紫金山

 

*南京近くの山

運動会

1939年 信陽  

* 兵営の運動会 。俵運び競争のようである。飾られているのは万国旗ではなく、全部日の丸である。出征時に贈られた寄せ書きと思われる。

1338年 信陽  ムカデ競争

* パン食い競争

 

 

 

前線

1938年5月25日 鎮江、句容

* 異国の地を着剣して進む青年。どれだけ不安だろうか。何故自分はここに居るのか。

一方、村を焼かれ、自分たちの土地に他国の兵士が日の丸を掲げて侵入する姿を見て中国の人はどう思うであろうか。右上の空に晴れ間が見えるので、背景がぼやけているのは戦火の煙と思われる。

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A16(1938年5月25日)鎮江、句容。野を行く.jpg
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1938年

* 日の丸を掲げて尾根を行く

ハトを飼う

1938年 鎮江    * ペットなのか軍鳩なのかわからないが、平和な日常に見える。

 

* 宿舎で故郷の親兄弟に手紙を書いているのであろう。中国の人にも親兄弟がいる。

戦争が始まってからではモノが言えず手遅れ。戦争では普通の人が殺人者にされる。

父のアルバムを見て不思議に思うのは、組織としての殺傷行為と、子どもに優しくしたり仲間と運動会に興ずる日常生活が共存していることである。現在から見ると理解し難い矛盾であるが、多くの人はどんなに理屈に合わない状況下でも、生きるために折り合いを付けて慣れてしまうもののようである。

 

しかし、戦争が終った後、父はこの悪夢の数年間について一生口にすることはなかった。日中戦争から復員した後、父は必死に勉強して造兵廠の技術者となることで太平洋戦争へ徴兵されることを回避し、戦後は兵器とは無縁の会社員として過ごした。

 

 戦争が始まってしまってからでは遅い。戦争になると普通の人がどうなるかを伝えることに、このアルバムが少しでも役立てば、70数年前に父が写真を撮った甲斐があるというものだ。


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