創価教学じゃない御書講義(28年12月度座談会御書・檀越某御返事)

御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月は「檀越某御返事」だね。一応四条金吾に宛てたお手紙という説が有力の御書。
とても短い御書で、前半は大聖人自身の不退の決意が述べられていて
今回の部分はそのあとのご教示の部分。
男子部は結構な頻度で使われる御文だね。
なにせ、男子部活動かといえば、
「信心は一人前・仕事は半人前」な~って言って
任務のために仕事を休む、SやG。
会合が夜中までで昼間の仕事がだるくて仕方ない。
会社では役立たずだけど創価の中では幹部。
そんな男子部さんは今でも多いのかな?
それとも、今では、活動の方もソコソコだから大丈夫なのかな?
「信心も仕事も半人前」ってところかね。
まぁ、仕事してるだけでもマシな方で
中には、定職も持たないで学会活動してたヤツも結構いたな。

さて、この部分は「信心即生活」「社会即仏法」の法理。
多くの日本人は宗教とは、修行や癒しであって
日常生活からかけ離れたものだと思っているのだろうが
そうではなく日常生活そのものが信心であり、日常生活から離れた仏法はないということ。
「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは玄義の文だと思ったけど
信心してる人にわかるように言うと「諸法実相」ということだね。

◆実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり(諸法実相抄)

とあるように、この世界の森羅万象は全て妙法蓮華経の現れということだね。
で、この妙蓮華経を単に法則と捉え法本尊のみ立てる方もいるだろうが

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)
◆十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う(三世諸仏総勘文教相廃立)

とあるように、法界とはご本仏の「御身」つまり色心二法のことであり
具体的には、大聖人の色心二法である大御本尊に法界を具しているわけ
つまり、仕事を含め森羅万象の全ては、
大御本尊の法力・仏力の力用ってこと。
だから、今回の御文は「仕事も信心修行と思って取り組みなさい」とい解釈は二次的なもので
むしろ「信心によって仕事も人生そのものも決まってしまう」というのが本筋だと思っている。

◆仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり(諸経と法華経と難易の事)

とあるように、ご本仏の仏力・法力を正しく用いるのは、自身の信力・行力である。
正しい信力・行力があれば幸福になれるといことであり
逆に、大御本尊を捨てた学会員が、
たとえ仕事でどれだけ努力しようと最終的には報われない。と結果になる。
法界はご本仏の色心二法といっても、ご本仏もまた十界互具だから
功徳ばかりだしてくれるわけじゃないんだよ。
だからこそ、大御本尊に信を取らなければいけないとつくづく思う。

また、社会即仏法を実際の行動に顕すと

◆智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり(減劫御書)

とあるように、国法はもとより
世間の一般的な常識や慣例を違えて仏法を行じない。といことだろう。
勿論、謗法に対しては断固と戦うべきだが、
それ以外のことに対しては世間の中で仏法を行じるべきだろう。
ここ数日「会館葬」について色々コメントもらったが
創価擁護の意見で多いのは「寺院とは本来葬儀の場所ではない」というものだ。
寺院の本理の姿はそうかもしれないが
現代における宗教施設とは世間一般においては
葬儀等の仏事を行う場所でもある。という認識だ。
であるならば、そうした世間一般の認識を無視し
「そもそも論」を主張するのは、世間の法の外で仏法を行じている愚者だと感じる。
他にも、「創価の常識は世間の非常識」と思われることは
書けばキリがないほどある。
「それでも別に構わない。俺たちはコレでいいんだ」と
活動家さんたち思っているのなら創価の発展はないだろう。
てか、もう日本国内では全く増えてないのだから
日本国内では既に広宣流布など不可能ということが数字でハッキリと現れている。
つまりは、創価は世間の法の外でやりたい放題しすぎたってこと。
それがご本仏が下した実相だろうということだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

講義お疲れ様!

なにせ、男子部活動かといえば、
「信心は一人前・仕事は半人前」な~って言って
任務のために仕事を休む、SやG。
会合が夜中までで昼間の仕事がだるくて仕方ない。
会社では役立たずだけど創価の中では幹部。
そんな男子部さんは今でも多いのかな?

管理人さんの近くの男子部はそうなんでしょう。
こちらの活動家の壮年部男子部は仕事は三人前が多いです。
自営業していた関係で自営の活動家は多いですが皆さん、仕事と活動の両立に全力投球しています。日本一の失業率で観光以外の産業が育たない貧乏県な沖縄では三人前の仕事をしても内外ともに生活は大変です。


逆に、大御本尊を捨てた学会員が、
たとえ仕事でどれだけ努力しようと最終的には報われない。と結果になる。

報われない学会員とのこと。猛烈な題目と努力で道を開いていきます。
結果で勝負です。闘志が湧いてきました。ありがとうございます。

うるとらまんさん

こんばんは。


> 管理人さんの近くの男子部はそうなんでしょう。
> こちらの活動家の壮年部男子部は仕事は三人前が多いです。
> 自営業していた関係で自営の活動家は多いですが皆さん、仕事と活動の両立に全力投球しています。日本一の失業率で観光以外の産業が育たない貧乏県な沖縄では三人前の仕事をしても内外ともに生活は大変です。

そうですか。それは素晴らしいですね。
仕事と活動の両立はご苦労が多いと思います。
私も自営なのでその苦労はわかります。
沖縄はいいですよね。何度か旅行させていただきまいた。
また行きたい場所です。

> 逆に、大御本尊を捨てた学会員が、
> たとえ仕事でどれだけ努力しようと最終的には報われない。と結果になる。
> 報われない学会員とのこと。猛烈な題目と努力で道を開いていきます。
> 結果で勝負です。闘志が湧いてきました。ありがとうございます。

報われないとうのは、成功しないという意味ではないんです。
大御本尊とは日蓮大聖人ですから、それを授持の対象としないということは謗法となり
結果、最終的な成仏はありえない。という意味です。
現証とは功徳もありますが、魔の通力も現証として現れます。
私は、活動を真剣にしている学会員さんを馬鹿にしているわけじゃないんです。
こんなことを言うと失礼だとは承知してますが
あえて言うなら「かわいそう」なんです。

いずれにせよ、お互い信じた道を行きましょう。
また、コメントしてください。

生身の人間ですから

こんばんは。

学会幹部がほんとに仕事三人前してたら間違いなく過労死でしょうね。
三人前ですよ?
そんな命に関わるような恐ろしいことを簡単に言うものではありません。だから創価学会員は非常識だと言われるのです。

婦人部だったら仕事に加えて家事や子育てを完璧にやったうえで学会活動も全力で。ってことでしょうか。
こちらも死ぬ気でやらないと無理ですね。それか精神をやられるか。

まあ実際には、現場で役職があるのに
家事や子育てや仕事を最優先にしたいです、なんてバカ正直に言おうものならもうボッコボコです。信心が腐っているとか言われます。
よくそんな酷いことが言えるものです。
生身の身体はひとつですから、日々なにを優先するのかは大切な生活の知恵です。


そもそも婦人部は仕事には行かずに24時間学会活動ができる境涯になれとかマジで言いますしね。
寝ても覚めても24時間、心は池田先生と共に、ということだと聞きましたが私が男だったらこんな嫁は絶対に嫌です。キモいです。

家事や育児は時間をかければ良いと言うものではない、学会活動第一、お題目第一で母が頑張れば家庭も子供も守られる。
学会活動こそが一家和楽の直道とも言いますね。
これで結果的に大失敗している人をたくさん見てきました。
なぜなら役職持ちの活動はあまりにも忙しいから。それも広宣流布とやらにさえおよそ関係なさそうな雑用ばかり。地区や支部の婦人部長になると病院に行く時間さえ難しい。

家事や育児、そして自分のためにどのくらい時間と心を注ぐかは人それぞれ。家庭の形もそれぞれ。
他人が役職を理由に指図するなどもってのほかです。立派な人権侵害ってやつです。
実際、役職のプレッシャーと家庭のことを疎かにしているという自責などで、鬱になった方もやはりたくさん見てきました。
10人や20人じゃありませんよ。


それでも、なにも変えようとしない。
噂だけは尾びれ背びれ付きで面白おかしく広まりますが。
すべてはその方の宿業ということで片付ける無責任さ。非情さ。
私の周りだけでしょうか?
結構な都心で組織も大きく、我等こそが創価学会を牽引しているのだ!なんて吠えてる地域です。特殊な事例ではないと思います。

創価学会で一生懸命活動しているのに身体も心も辛い。という方。
それはあなたの信心がどうたら宿命がどうたらという問題ではありません。
創価学会の組織は無用なストレスの温床です。
真面目で心優しい方ほどこれでもかと我慢を強いられる、そういう組織です。
病院でしっかり診てもらって、しっかり寝て、そして今すぐ組織から離れることを強く強くお勧めします。
お題目は心を込めて三唱、元気になったらたくさんあげれば良いのです。
なんで出てこないと責められた時のために診断書を書いてもらってくださいね。

創価学会にはあなたが命を捧げる値打ちなど、これっぽっちもありませんよ。

仕事は3人前

いつもお世話になりますm(__)m

寝不足の目をこじ開けて
夜間に学会活動を
勤しんでた日々を
思い出します。

学会活動を頑張る事により、
仕事が上手くいく。儲かる。
病気が良くなる。
様々な悩みが解決する。
成仏とは、そう言う目に見える事?

今の創価の教義は現世利益だけ?

大聖人様の仏法をナメては駄目ですよ。
コピー本尊をいくら流布しても、
自他供に成仏できませんよ。

創価のコミュニティ(創価家族)は、
今でも良い所と私は思います。
切磋琢磨が出来ますよ。
暖かい場所だし、皆さん励まして
くれるけど、
大聖人様は、そこに居ません。
残念ながら。

こんばんは
最近の管理人さんの文章はなんだかへりくつっぽい(笑)
宿業のようなものを感じる(((^^;)
理由は色々あるのだろうけどやっぱ素直に大御本尊の元へいけないっつーのはそういう事なのかな?と思ったりもします。

このブログが好きなので正直にコメントしてみました(笑)

No title

仕事は三人前というのは読んで字のごとくの意味ではありません。
現在・過去・未来の三世を見極めてしなさいという意味です。
自分勝手な解釈(我見)で仏法を語るのはかえって法を下げ、人々を惑わせるだけです。
注意して、慎重のうえにも慎重に語るべきです。

よって、仕事も活動も一人前でいいのです。
それが日蓮仏法の本義です。

それから管理人さん、あなたが勝手に成仏できないと断定、決めつけるのは傲慢極まりありません。あなたが御本仏だというなら、納得しますがね。仏法者としての慈悲が全く感じられません。

非・戦闘員のつぶやき

現在も以前からも、聖徳太子(うまやどのおうじ)の十七条の憲法、筆頭にある

 「和(なごみ)をもって尊しと為す」という文について、思索めいたことをしてきました。 というより脳裏から離れないようになったというべきですかね。。

 正史として、彼の実在・非在を問う論文なども観てきましたが、教えとして抽出してみるに、
どうしてこれが最初にあるのかなど、つい折に触れ考えてしまいます。

 不呵責置見、という罪を大聖人は仰せです。  これを「あえて」パラレルに考えていくと、仏法(末法)の「折伏中の摂受と、「なごみ」の精神と、通底しているのか、そうではないのかが分からなくなることがあります。

 当然、大聖人様のご指導がコンプライアンスになるべきなのでしょうが、正直、私の心の中では、ストンと落ちない。

 強折で論を詰めれば、コトは早いが並行して反感も買う。  ここでも同様に管理人さんへの批判も散見します。  牧口先生は学究の徒でもあられたから、正邪が表だったと感じます。 正直、私は馴染めません。  戸田先生はおおらかで、清濁併せ呑むというようなお人柄であったと聞きます。  まだ親しみを感じます。  

 自分は優柔不断な性格であることは理解しています。  とはいえ、、幹部時代は絶対論でやってきました。  反感も被りました。 正直、迷いの中で暮らしてきました。  ある意味、苦楽の両面が当時の自分の本当の顔でしたね。

 信心(活動)と仕事は、おおむね別物でした。 いい仕事をしようと、ほぼ独学で自分としては熱中してやってきました。  でも学会活動は、他人の言(上の幹部の指示)をもって、あまり人を慮る余裕もなく、まじめにやってたと、今、思い返します。  今は仕事と世間様を大事に日々を送ろうとしています。

 御書と信心を、私が学んできた範囲で、そこに活かしていこうというのが実態です。  もともと、一体なものだと教わったから。 

 話がずれてしまいましたが、私のこころの真ん中にあるのは、今は件の「なごみ」がモットーでしょうか。。  追及ではなく、結果として信心がそこ(他人様)の間でで昇華されればいい。 そんな案配ですね。

 愚にもつかぬことでした。  失礼いたしました。  

 

 

 

牡丹さん

こんにちは。

> 婦人部だったら仕事に加えて家事や子育てを完璧にやったうえで学会活動も全力で。ってことでしょうか。
> こちらも死ぬ気でやらないと無理ですね。それか精神をやられるか。
> まあ実際には、現場で役職があるのに
> 家事や子育てや仕事を最優先にしたいです、なんてバカ正直に言おうものならもうボッコボコです。信心が腐っているとか言われます。
> よくそんな酷いことが言えるものです。
> 生身の身体はひとつですから、日々なにを優先するのかは大切な生活の知恵です。

いかにも、その通りですね

> そもそも婦人部は仕事には行かずに24時間学会活動ができる境涯になれとかマジで言いますしね。
> 寝ても覚めても24時間、心は池田先生と共に、ということだと聞きましたが私が男だったらこんな嫁は絶対に嫌です。キモいです。

昔、経済苦で大変だったころ、嫁が外に働き出たいと婦人部の幹部に相談したら
「外に働きに出ても何も解決しない。信心で解決しなさい」と言われ
働きに出ることをやめました。
で、その代わりにやったことが
「聖教新聞」の配達員。しかも正配。
スゲ~な、学会婦人部・・・

No title

おはようございます。
管理人さん、少し場所をお貸しください。

RAMBOさん、以前のコメントにしても今回のものにしても、素晴らしいコメントだと思い拝見しました。

おそらく私などより年長である、また様々な面でご苦労されてきた方であろうと、以前から、勝手に推察しておりました。
従って、これは若造のたわごとだと思って受け流して頂ければと思います。

RAMBOさんがされてきたことは、結果すべて正しかったといっていいんじゃないでしょうか? わたしごときの個人的意見ですがね。

信心や実社会生活にあっても「向上しよう」としている。ある意味これが全てだと思うからです。葬儀の件に関しても、素直にご自分の気持ちを語りながら、でも人間だから感情的におさまらない自分がいる。正直にご自分を顧らている姿勢も実に立派だと思いました。反省できるということは偉大なことだと思うからです。

聖徳太子についての思索も正鵠をえていると思いますよ。実在したかしなかったかが問題ではない。現実に書きのこされたものが「真実」であるかが問題だということですね。これは法華経にも当てはまり、御書にもあてはまることかと思います。法華経非仏説というものあれば、御書にも真蹟問題があるわけですから。ゆえに「現証にはすぎず」であり、自分で実践して真偽を確認するしかないと日蓮も書いているのでしょう。牧口先生の最期の言は「すべて経文どおりだった」と聞いていますしね。

また「和」に関するご思索も素晴らしいと思いますよ。どんなに体験があって理論を極めていても、互いの間にまず信頼関係がなければ、伝えることも、受け入れてもらうこともできないからです。

ご存知かと思いますが、第二代戸田会長は折伏についてこういっています。
「自分には南無妙法蓮華経しかないんだ。これを末法の折伏という」と。
つまり、経典や教学を提婆達多のごとくすらすら並べて言えようが意味は無い。自分が人の振舞いとして法の体現者であることが折伏といっていいでしょう。

ネットであれば、まず言葉遣いにその人の折伏精神・心が顕れているといっていいでしょう。

摂受に関しては、御書にはこうあるはずです。
題目を耐えられないものは云々――と。つまりわれわれ一人一人にあっても「時」があると考えるのが適当なのかと。外道のキリスト教がいけないか? 違いますよね。外道は内道に入るための道でもあるのですから。結果として振舞いが仏法に即していれば、宗派や教義など、ある意味問題ではないといっていいでしょう。そこに拘るから騒動・喧嘩になるといっていいでしょう。
ゆえに、最も大事なのは、あいての耳を塞ぐようなやり方をしない、反発するようなやり方をすべきではない。ひいては信頼関係こそ大事であると思うのです。

従って、現実には信頼関係のあるなしを判断し、今なら、どこまで言うべきかを知っている人が正しい法の実践者でしょう。闇雲に仏法を説き、「そんなもの!」と誹謗させてしまうことにあまり意味はないでしょう。しかし、謗法を働かせることではやく堕地獄に導き、大地に手をついてあとは立ちあがるしかない境遇にして成仏をはやめる方法があることはご存知のとおりかと思います。しかし厳しく諌める場合、自分も堕地獄してでも相手を救う意志と覚悟があるときの方法かと思います。一言でいえばこうした縁のしかたは「逆縁(毒鼓)」といいますよね。また自分が「諸仏入其身」になる振舞いといえばいいでしょうか。

従ってわたしなど、RAMBOさんがされてきたことは、結果すべて正しかったといっていいんじゃないでしょうか? と申し上げるしかないわけです。
いかなる方法をもちいようと、御本尊を受持しぬき「自他にわたる」唱題を持続していけば、結果的に清らかになる。そういうことではないでしょうか。正しい正しくないではなく、自他に渡る生命を「清らかに」というのが、釈尊・日蓮・先生に共通した指導であるはずですからね。心を正しくしなさいとは言葉にされていない故です。

管理人さん、場所拝借させていただき感謝します。
ありがとうございました。
なにか言い訳に聞こえるやもしれませんが、わたしも人の子なので、数々の誤解勘違いもあれば、配慮のない言動もあるやと思いますが、そこはご容赦ください。

退転壮年部おじさん さん

こんにちは。

> 寝不足の目をこじ開けて
> 夜間に学会活動を
> 勤しんでた日々を
> 思い出します。

私も男子部時代は、睡眠時間は3~4時間でした。
今から思うとよく頑張ったなぁって自分で自分を褒めてあげたい気分です(笑)

> 大聖人様の仏法をナメては駄目ですよ。
> コピー本尊をいくら流布しても、
> 自他供に成仏できませんよ。

そこなんですよね。
信心していなくても、健康でお金持ちで、地位もあって、友人に恵めれている人は大勢います。
ではそのような「幸せな人」は信心しなくてもいいのか?ってことなんですよね。

> 創価のコミュニティ(創価家族)は、
> 今でも良い所と私は思います。
> 切磋琢磨が出来ますよ。
> 暖かい場所だし、皆さん励まして
> くれるけど、
> 大聖人様は、そこに居ません。
> 残念ながら。

その通りなんです。
創価家族。悪くないです。
でも大聖人仏法は行じていません。
そこを理解してほしいと思います。

元創価班さん

こんにちは。

> 最近の管理人さんの文章はなんだかへりくつっぽい(笑)

どうも済みません。m(__)m 

> 宿業のようなものを感じる(((^^;)
> 理由は色々あるのだろうけどやっぱ素直に大御本尊の元へいけないっつーのはそういう事なのかな?と思ったりもします。

たぶん、そういうことです。法華講の友人やご僧侶に同じことを言われます。
でも、ひょっとしたら少し変わるかもしれません。
最近、創価関係で個人的に気になることがあり、近く確認をする予定です。
色々わかったら記事にあげようと思ってます。

> このブログが好きなので正直にコメントしてみました(笑)

ありがとうございます。

RAMBOさん

こんにちは。

>  話がずれてしまいましたが、私のこころの真ん中にあるのは、今は件の「なごみ」がモットーでしょうか。。追及ではなく、結果として信心がそこ(他人様)の間でで昇華されればいい。 そんな案配ですね。

そうですね。大聖人仏法を広めていくことは難しいですね。
破折ばかりでもいけないし、かといってなんでもOKというわけにもいきませんね。
結局、相手を見て。ということになってしましますがそれがまた難しいですね。

イプシロンさん

こんにちは。

> 仕事は三人前というのは読んで字のごとくの意味ではありません。
> 現在・過去・未来の三世を見極めてしなさいという意味です。
> 自分勝手な解釈(我見)で仏法を語るのはかえって法を下げ、人々を惑わせるだけです。
> 注意して、慎重のうえにも慎重に語るべきです。

そうですか。なら「仕事は三人前」と戸田先生も余計な事言わなきゃ良かったですね(笑)

> それから管理人さん、あなたが勝手に成仏できないと断定、決めつけるのは傲慢極まりありません。あなたが御本仏だというなら、納得しますがね。仏法者としての慈悲が全く感じられません。

私は、なぜ今の創価に従う会員さんは成仏できないかその理由を繰り返し書いてきました。また文証もあげています。
一大秘法である戒壇大御本尊を受持しない。ことは謗法であるから成仏できない。と言っています。
これが傲慢とおっしゃるならば、戒壇大御本尊を受持しなくても成仏できるという事を文理をもって論証してください。と多くの活動家の皆さんに質問しましたが、これまで誰一人その回答をした人もいません。イプシロンさんよかったらお答え願いませんか?大御本尊を受持しなくても成仏できるとい論拠を。なぜそう思うのか?私には不思議でたまりません。
また、成仏できないと決めつけるのか傲慢ならば「日顕宗では成仏できない」という池田センセをはじめとする創価の皆さんもまた傲慢ではないですか?しかも創価の日顕宗を破すという理論こそ全くの我見にしか思えませんし。
それと、イプシロンさんもそうですが創価活動家は好んで「大聖人仏法の本義」ということを口にしますが、大聖人仏法の根幹である大御本尊が何たるかも理解できず受持の対象としない。と言ってる方々が「大聖人仏法の本義」なんでよく言えるものだと個人的に思っています。そもそも「大聖人仏法の本義」を誰から教えてもらったのか?一人相承を否定している創価の方々に「本義」を知ることができるのか?だとしたらその根拠は御書のどこにあるのか?謎だらけです。まさか、創価学会仏が教えてくれたとは言わないとは思いますが。

最後に、仏法者としての慈悲とはなんでしょう。戸田先生は末法の凡夫の慈悲とは折伏だといわれてます。
大御本尊を捨てて成仏はあり得ません。そして会員に大御本尊を捨てさせた創価は謗法です。
それを大御本尊を捨てても成仏できますよ。とは私には言えません。
大御本尊を捨て創価学会仏という仏を立てる創価でしか成仏できない。なんていう活動家の方が仏法者としての無慈悲だと思います。

◆仮令強言なれども人をたすくれば実語・軟語なるべし、設ひ・軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は・語実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・語なるべ(善無畏三蔵抄)

イプシロンさん

> 管理人さん、場所拝借させていただき感謝します。
> ありがとうございました。
> なにか言い訳に聞こえるやもしれませんが、わたしも人の子なので、数々の誤解勘違いもあれば、配慮のない言動もあるやと思いますが、そこはご容赦ください。

色々と気になさらなくて結構ですよ。
そんなに配慮してくださらないくても大丈夫です。
自由に思ったことをコメントしていただいて結構です。
アラシ目的のコメント以外は拒否るつもりはありませんよ。

No title

管理人さん、こんにちは。

リコメ拝見しました。
質問への私の意見ですが、文証を探すと時間がかかるので、ひとまず意見を書かせてもらいます。

大御本尊の意義、これは一切衆生が広宣流布大願成就に生きるための祈りの対象ですよね。ではなぜ日蓮は弘安の御本尊を御図顕される前に、弟子門下に御本尊を下賜されたのでしょうか? 思うに、その弟子の心を見抜かれていたのでしょう。その人が自分一人の幸福など存在しえないということを確信されている信心をしていると見抜いていたので、一機一縁の御本尊を下賜されたのではないでしょうか。一機一縁という字にもそうした部分は読みとれるのではないですか? 自他の幸福こそ本当の幸福であると気づいた「機」にあった弟子には、御本尊を下賜されたのではないかと。

しかし一方で日蓮は、究極的には誰もがそうした一念で拝せる御本尊を御図顕しなければいけないという出世の本懐を心得ていたのでしょう。だがそれには機が熟す(現証としての事実が顕現する)のを待つしかなかったのですよね。その機が熱原の法難ですよね。心身ともに最も貧しいものが、大確信をもって生命を惜しまず法に命を捧げたというのが、熱原の法難の意義ですよね。この心身ともに貧しいという意味は難しいので、今は説明を省かせてください。

こうして考えてみると、御本尊という祈る対象も大事だが、それと同じくらい大事なのが衆生である主体者がいかなる一念(つまり自他に渡る幸福こそ真の幸福であると体現する)という部分も大切になってくることはおわかりになるでしょう。

ゆえに、わたしは申しているのです。管理人さんが他者の心を推し量ることは想像でしかない。真に相手の一念がどうであるかは絶対に知りえない。だから断言は傲慢であると。

非常に語弊のある言い方ですが、御本尊はある意味では客体ですよね。祈る側のわれわれの一念こそ最重要という面があるはずです。そしてそうした他者の一念をわれわれは決して知ることはできないわけです。だから断言、決めつけはいけないですよと申しているのです。

こう考えればいいでしょう。大聖人の時代、大御本尊を御図顕されるまえに弟子門下に一機一縁の御本尊を下賜された。そういう事実を鑑みて、管理人さんの理論をそこに当てはめてみてください。であると、一機一縁の御本尊を下賜された弟子門下は成仏できないことになってしまいませんか? 日蓮がそんな無慈悲なことをするわけがない。

ゆえに、最も大事なのは、ある意味祈る側、主体者の一念・心であるといえませんか?
その心をわれわれが自分勝手に断定することは不可能ですよね。

無論、語弊があるといったのには理由があって、言葉で説明するためには、主体・客体とわける必要があるのですが、ご存知のとおり、真実では依正不二なのですから、主体と客体は分けれないですよね。ようするに大事なのは「自他ともの幸福を記念し、そういう言動をし、そういう自他に渡る幸福をもたらすのが、この御本尊であると、われわれと御本尊が一体不二になろうとしている一念・心であるかどうかですよね。

あまり長くなるとかえってわかりにくくなるので、この辺で一旦投稿しますね。

戸田先生が仕事に関していわれたこと、またほとんどの戸田先生の指導は、きちんと池田先生が釈されてます。われわれはその釈を知らず、我見で読んでしまう場合が多いようです。
管理人さんの仰る「勘違いしやすいこといわなきゃよかったやん」という人情もわかります(笑)
ゆえに、正しい釈を教えてくれる存在が大事だということになるでしょうか。大聖人が必ず天台などの釈を引かれていることから学ぶべき姿勢なんでしょうね。しかしここにも難問があって、釈ばかりに目がいくと、今度は事の仏法を忘れがちになるのが凡夫なのではないでしょうか。

No title

さて次に、日顕宗に関してですが、これは簡単なことではないですか?
依法不依人という大前提を否定しているからです。

またこれも説明が難しいのですが、言葉や現実を見ていうなら、法が最優先であり、人はその次といわざるを得ないでしょう。正確にいえば行為ですね。
しかし真実からすれば御書のとおり「人法ともに貴し」なわけです。比べて優先順位はつけられないのです。

では何をもって判断するかといえば、利他的であるか私利私欲に走っているかというその人の振舞い(行為)しかないでしょう。
さて、日顕のしてきたことが利他的だったといえるでしょうか?

法主が一番偉い。そんなことはありえません。法主が偉いのではなく、法を正しく体現した人が偉いわけで。
そうしたことは今回の記事でも管理人さん自身、所詮、諸法実相だよと提示しているわけで。

正しく法を体現していない人を敬えば、それは謗法ですよね。人法一体でなければならないと管理人さんも指摘されてきたことですからね。
ゆえに先生は日顕を神格化して信仰の対象と見るならば、成仏はできないといっているわけです。信仰の対象はあくまでも御本尊であると教えようとしているのが、先生の真意なわけです。

ある時、幹部が先生に向かって唱題したことがあったそうです。その時先生は激怒されたそうです。「なにをやっているんだ! 馬鹿者! 俺を拝むんじゃない。拝む対象は御本尊だ!」と。側近、身近にいる者だったのでしょう。ゆえに乱暴な言葉になった。それだけのことでしょう。

ゆえに日蓮正宗信徒であろうと法華講員であろうと、祈る側の信者が正しく御本尊を拝し、先のコメントで述べたような、自他にわたる幸福こそという一念で信心していれば、成仏はできます。いわんや日顕の書写した御本尊であろうと、成仏は可能です。もっといえば、キリスト教徒であろうと、仏法を体現しているなら、成仏できるといっても過言はないでしょう。

しかし学会総体はそうした「一宗一派ではない、いかなる心なのかなんだ!」という先生の真意を読みとれず、また多くの会員も深く考えず、日顕宗だと成仏できないといっているだけです。

少なくとも、わたしのような思想の会員もいるのです。それをひとくくりにする管理人さんの主張は無理があり、乱暴に見えるのです。一人一人をみていこうとしなければ、どんな正しい宗教にめぐり会おうが、所詮、全体主義・ファシズムにならざるを得ません。今の学会執行部、ならびにそれに賛同する会員はそういう道をゆこうとしていると見えるのです。

ただし、わたしはそうではないのです。またわたしのような思想の人も、会員の中にはそれなりの人数いるのです。それを一括りにされるのはどんなものですか? と問いかけているのです。

それからわたしは活動家ではありません。今の執行部に手を貸すようなことは謗法である。そう判断しているからです。前にもコメントではっきり言葉にしましたが、そういう意味では管理人さんと似た立場にあるのです。

また、なぜ本義を知ることができるのか?
この答えもシンプルです。すべては自分の中にあるからです。一念三千だからです。ゆえに、考えに考え、思索に思索を重ねていけば、ある意味、誰でも日蓮仏法の本義を自分の中から引きだせるということです。そしてそのための自行の唱題でもあるわけです。

仏法者としての慈悲。これは一言じゃ説明できませんよ。
あえてするなら、極端を避けることを教えることじゃないですか。またすべては自分の中にある。それを外に見るなということを教えることでしょう。また、そうしたことに気づけない濁った生命の人に対して、闇雲に説教をして相手の中にある怒りを薫発させてはならない。その怒りに感応して自分が怒ったらもっと悪い。ようするに寛大であることですかね。慈悲を一言ではいえませんよ。なぜかなら、宇宙の働きは本来全て慈悲の働きだからです。あげろと言われれば、全てあげつらねばならないですからね。

以上、簡単ですが質問へのわたしの意見です。

イプシロンさん(弘安以前の一機一縁について)

管理人さんの見解と一致するか解りかねますが 
「一機一縁の概念」と「一閻浮大の概念」の差というのは 
例えたらボーイング社の飛行機と
エアバス社の飛行機の違いみたいなものでしょうか?
要は 操 縦 す る 側 の 資 質 が絡んでくるのではないかと

改めて「宿坊2」の掲示板を読んでいて正宗側の言い分を伺うと
そのようにも主張しているような気がしますし 
曼荼羅の配列や内容を考慮すると合点するものがありますし
戸田先生が「身延の御本尊=ヒューズが切れた」・・というのも頷けます。


【参考記事】「そんな創価教義に振り回され 信者は何時ものダッチ●●●」
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/201402250000/
【参考文献】でたらめな教義
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/201402040000/
【参考記事】前後因果の点と線が結べない 創価信者たちの種種振舞抄
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/201504160000/

(そういえば、この時は計器や誘導レーダーや羅針盤等を
 比喩に出して説明したのですが 基本概念はほぼ同じで 
 優れた計器や羅針盤がなければ
 霧や曇りで視界が悪い場合 素人判断だと着陸に失敗する可能性も否めないし 
 また優れたレーダーならばサイクロンや台風の目にぶつかったり
 爆弾低気圧に遭遇することもないわけですけれどもね)


要はボーイング社の飛行機しか操縦したことのないパイロットが
エアバスの飛行機を勝手にいじって不測の事態に陥った時に
取り扱い方を間違えて結果的には墜落させるような

参考にB747しか操縦したことのない人は
機種によって操縦方法に差異があるため 万が一のことを考慮して
B747しか操縦が認められないわけで 
他の機種に乗務する際は その機種専門の免許が必要になります。

従って、一機一縁でも成仏はできますが 
但し、「自己責任」の一面があるんじゃないでしょうか?


おまけ
あべひさん「創価脳」と揶揄されて 相当 御立腹のようですね
しかも反論を期待して「気になっているの?」
それと著作権について これ読んだ?⇒http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/10644
現在 有名な学会歌「威風堂々」が 軍歌「愛馬とともに」のパクリソングだった疑惑がかかっています

【参考資料】軍歌「愛馬とともに」⇒https://www.youtube.com/watch?v=OB705mUE0_o

eco◆Smw69さん(弘安以前の一機一縁)

eco◆Smw69さん、はじめまして。

とはいってみても、活躍は各所で以前から拝見しておりました。
言葉を交わすのはこれがはじめてになりますかね。

B-747とエアバスの挿話、とてもわかりやすい比喩かと思います。

仰るとおり、弘安以前の御本尊下賜は弟子門下の「自己責任」が非常に強い性格のものと考えていいと思います。それゆえに日蓮は御本尊下賜に非常にシビアだったと考えるのが妥当かと思います。
だから相貌がいろいろあるのでは? という考察も正鵠なのではないですかね。

ジェット機の比喩をお借りするなら、弘安以前の一機一縁の御本尊は名人専用機であり、弘安の御本尊は、どんな素人でも、飛行機ってなに? というド素人でも安全に目的地につける素晴らしい飛行機であるといえばわかりやすいでしょう。
車でいえば、一機一縁の御本尊はF1カー。弘安の御本尊は、ある年齢になり免許を取れば比較的誰でも運転できる乗用車と例えればわかりやすいのでしょう。

ゆえに、会則で大御本尊を否定していても、わたしのように「なにいってやがる! なんでお前ら執行部に心の内面をこうしろと指図されるいわれがあるんだ。そんなものありゃしないわ! 会則なんて糞くらえだ! そんな自由まで奪われてたまっか!」と自分の信念をもって、自分は自分の一念で大御本尊を受持して信心していくんだという会員もいるということです。それを一括りに……ということです。

eco◆Smw69さん、貴重なご意見ありがとうございます。

おまけのパクリ、ようするに盗作・剽窃についてですが。
これもなかなか難しい問題ですよ。盗作と見られる人が意識的にやったのかどうかを判定する方法がほぼないからです(客観的な証明が困難で自白や自白の強要になりがちですからね)。こういった盗作・剽窃への判例も相当数あるのですが、明確に基準線をひくのはそう簡単ではないですね。

幼い頃聞いたメロディーが頭に残っていて、作曲していて無意識にそのメロディーを真似ていたということは意外と多いのです。あの昭和の時代に軍歌が流れまくった時代にいろいろ聞いていれば、無意識に刷り込まれても、なんの不思議もないと思います。そうした擦り込みの現れを盗作・剽窃と見るのは酷なわけです。が、誠実な人であれば、結果、そっくりであるということを認めるものでしょうね。実際にそうして認めて社会的な責任を取った例もあります。

所詮、人類数千年の歴史にあって作られた作品がどこかの何かに似ているということは避けようがないことともいえるでしょう。ただ、金銭利害、社会的影響のあるものだと、こうした問題は放置していいものではないでしょうね。

イプシロンさん

こんにちは。

> しかし一方で日蓮は、究極的には誰もがそうした一念で拝せる御本尊を御図顕しなければいけないという出世の本懐を心得ていたのでしょう。だがそれには機が熟す(現証としての事実が顕現する)のを待つしかなかったのですよね。その機が熱原の法難ですよね。心身ともに最も貧しいものが、大確信をもって生命を惜しまず法に命を捧げたというのが、熱原の法難の意義ですよね。この心身ともに貧しいという意味は難しいので、今は説明を省かせてください。

その出世の本懐である、戒壇大御本尊を受持の対象としない。ことが謗法であり故に成仏できない。と私は申しあげているのです。

> こうして考えてみると、御本尊という祈る対象も大事だが、それと同じくらい大事なのが衆生である主体者がいかなる一念(つまり自他に渡る幸福こそ真の幸福であると体現する)という部分も大切になってくることはおわかりになるでしょう。

もちろん、信力・行力は必要ですが大前提として「何に祈るか}といことです。信行だけなら他宗の信徒のみなさにもあります。

> ゆえに、わたしは申しているのです。管理人さんが他者の心を推し量ることは想像でしかない。真に相手の一念がどうであるかは絶対に知りえない。だから断言は傲慢であると。

う~ん・・私のいお聞きしたかったのはこういう事ではないのです。

◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし(開目抄下)

と大聖人は断言されてます。
ですから、大御本尊を捨ててしまえば成仏はない。と断言するわけです。
そうでないのならそうでないと活動家の方々に論証してもらいたいわけです(イプシロンさんが活動家と言っているわけではわりませんので誤解のないよう)
個人的な考えを言いますと創価の活動家さんは概ね「信力・行力」を力説します。
御本尊も大事だけど自分の一念云々と。
私はそこをどうこう言っていないのです。
自身の一念云々以前に、大御本尊を捨ててる時点でもはやその一念が間違っている。と言っているのです。
まづは大御本尊を受持の対象にしない。という一念が謗法でないというなら何故なのか?を創価活動家さんに聞きたいわけです。
祈る側の一念云々はそれ以降の話であり、祈る側の一念の重要性は否定しませんしむしろ肯定しています。

> 戸田先生が仕事に関していわれたこと、またほとんどの戸田先生の指導は、きちんと池田先生が釈されてます。われわれはその釈を知らず、我見で読んでしまう場合が多いようです。
> 管理人さんの仰る「勘違いしやすいこといわなきゃよかったやん」という人情もわかります(笑)
> ゆえに、正しい釈を教えてくれる存在が大事だということになるでしょうか。大聖人が必ず天台などの釈を引かれていることから学ぶべき姿勢なんでしょうね。しかしここにも難問があって、釈ばかりに目がいくと、今度は事の仏法を忘れがちになるのが凡夫なのではないでしょうか。

大聖人が、釈迦・天台とうの文証を引かれたのは違う意味があると思ってます。
また、池田センセが戸田先生の指導を正しく釈したかも私は懐疑的です。
それは今の創価のあり方が戸田先生の指導と符合していない点があまりにも多すぎるからです。
とはいえ、戸田・池田の指導といっても所詮は末法の凡夫の指導ですから、どのように解釈しようと個人的にはあまり重きをなさないのですが。

イプシロンさん

> さて次に、日顕宗に関してですが、これは簡単なことではないですか?
> 依法不依人という大前提を否定しているからです。

これはかなり強引な主張だと思いますよ。そっくりそのまま創価に帰ってくるような話です。
創価の「法」は「人」が勝手に作り上げた「法」ですから創価教学においては「依法不依人」とは
池田センセの指導が「法」ですから、まさに人法一体です。でもこの方は仏法ではなく凡夫法ですが。


> では何をもって判断するかといえば、利他的であるか私利私欲に走っているかというその人の振舞い(行為)しかないでしょう。
> さて、日顕のしてきたことが利他的だったといえるでしょうか?

逆に利己的でしたか?多くの会員を大御本尊から引き離した池田センセと創価幹部の行動は利他的ですか?前回の話に戻りますが大御本尊を捨てて自他ともに幸福なんてありません。

> 法主が一番偉い。そんなことはありえません。法主が偉いのではなく、法を正しく体現した人が偉いわけで。

法主が一番偉い。なんて正宗の僧俗は誰一人言ってませんよ。法主が一番偉いと日顕宗は言っている。と言っているのは創価だけです。うそだと思うのならば正宗関係の方に尋ねてみてはどうですか。

> 正しく法を体現していない人を敬えば、それは謗法ですよね。人法一体でなければならないと管理人さんも指摘されてきたことですからね。
> ゆえに先生は日顕を神格化して信仰の対象と見るならば、成仏はできないといっているわけです。信仰の対象はあくまでも御本尊であると教えようとしているのが、先生の真意なわけです。

残念ながらそのような事は正宗ではだけも言っていないし誰も法主を信仰の対象としていませんよ。
むしろ、創価の方が三代会長を神格化し信仰の対象としようと企てているように感じます。
件の「創価学会仏」の出現こそその前兆でしょう。

> ゆえに日蓮正宗信徒であろうと法華講員であろうと、祈る側の信者が正しく御本尊を拝し、先のコメントで述べたような、自他にわたる幸福こそという一念で信心していれば、成仏はできます。いわんや日顕の書写した御本尊であろうと、成仏は可能です。もっといえば、キリスト教徒であろうと、仏法を体現しているなら、成仏できるといっても過言はないでしょう。
> しかし学会総体はそうした「一宗一派ではない、いかなる心なのかなんだ!」という先生の真意を読みとれず、また多くの会員も深く考えず、日顕宗だと成仏できないといっているだけです。

ここは同感です。

> 少なくとも、わたしのような思想の会員もいるのです。それをひとくくりにする管理人さんの主張は無理があり、乱暴に見えるのです。一人一人をみていこうとしなければ、どんな正しい宗教にめぐり会おうが、所詮、全体主義・ファシズムにならざるを得ません。今の学会執行部、ならびにそれに賛同する会員はそういう道をゆこうとしていると見えるのです。
> ただし、わたしはそうではないのです。またわたしのような思想の人も、会員の中にはそれなりの人数いるのです。それを一括りにされるのはどんなものですか? と問いかけているのです。


私は全ての学会員に成仏しないと言っていませんよ。
以前も書きましたが様々な理由で学会から離れられない人も大勢いる。
学会の中で成仏を願う以外にないのなら
大御本尊に信をとり、なるべく五座三座の勤行をし、正しいご観念をした方がいいですよ。といってるのです。
そしてできることならば、学会活動をやめましょう。と言ってるのです。
けして一括りにしていません。

> それからわたしは活動家ではありません。今の執行部に手を貸すようなことは謗法である。そう判断しているからです。前にもコメントではっきり言葉にしましたが、そういう意味では管理人さんと似た立場にあるのです。

活動家とは思っていません。
池田センセが好きな方なんだなぁと感じています。

> また、なぜ本義を知ることができるのか?
> この答えもシンプルです。すべては自分の中にあるからです。一念三千だからです。ゆえに、考えに考え、思索に思索を重ねていけば、ある意味、誰でも日蓮仏法の本義を自分の中から引きだせるということです。そしてそのための自行の唱題でもあるわけです。

これは賛成できません。何度も書いてますがこの発想が創価教学・池田教学の根本なのです。
自分自身が一念三千の当体というのはあくまでも「理の一念三千」なのです。
ここが理解できないから大聖人の本尊義に迷うのです。
そんな迷いの当体から大聖人仏法の本義を引き出すことはできないと思います。
それこそ傲慢な考えだと私は感じます。

> 仏法者としての慈悲。これは一言じゃ説明できませんよ。
> あえてするなら、極端を避けることを教えることじゃないですか。またすべては自分の中にある。それを外に見るなということを教えることでしょう。また、そうしたことに気づけない濁った生命の人に対して、闇雲に説教をして相手の中にある怒りを薫発させてはならない。その怒りに感応して自分が怒ったらもっと悪い。ようするに寛大であることですかね。慈悲を一言ではいえませんよ。なぜかなら、宇宙の働きは本来全て慈悲の働きだからです。あげろと言われれば、全てあげつらねばならないですからね。

それが慈悲ならば、私は創価のバリ活幹部に対して慈悲をもって接していませんし
慈悲をもって接するつもりもありません。
私がそうした方々にしてあげられることは間違いを指摘してあげることだけです。
私にとって創価のバリ活も顕彰会のバリ活もなんの変りもなにのです。
> 以上、簡単ですが質問へのわたしの意見です。

eco◆Smw69 さん

こんばんは。


> あべひさん「創価脳」と揶揄されて 相当 御立腹のようですね
> しかも反論を期待して「気になっているの?」
> それと著作権について これ読んだ?⇒http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/10644
> 現在 有名な学会歌「威風堂々」が 軍歌「愛馬とともに」のパクリソングだった疑惑がかかっています

そうでしたか(笑)
それは失礼しました。
でも、私はあの方にはなんの興味もありません(笑)
ただ、世間の方々が、「斎場の届け出をしないと葬儀ができない」なんていう
根も葉もない荒唐無稽な記事を鵜吞みにして
世間で恥をかかないようにと思ってこのブログで取り上げただけです。
まぁ、あとはお好きにどうぞ。って感じです(笑)
創価脳さんたちのお相手は同類の方々にお任せします。
あっ、また言っちゃったよ。創価脳って・・(笑)

管理人さんへ

こんばんは。

>自身の一念云々以前に、大御本尊を捨ててる時点でもはやその一念が間違っている。と言っているのです。
まづは大御本尊を受持の対象にしない。という一念が謗法でないというなら何故なのか?を創価活動家さんに聞きたいわけです。

これはわたしには答えられませんよ。わたしには答えようのない質問です。逃げているとかそういうことではなくね。なぜかなら、わたしは大御本尊を捨てていませんから。今の会則を受け入れている学会員のどなたかに答えてもらう以外ないんじゃないですか。

>法主が一番偉い。なんて正宗の僧俗は誰一人言ってませんよ。法主が一番偉いと日顕宗は言っている。と言っているのは創価だけです。うそだと思うのならば正宗関係の方に尋ねてみてはどうですか。

「解散勧告書」にはこうあります。
『日興上人已下の代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝也。外用に依れば則ち僧宝なり、故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば則ち外用を存し以て僧宝と為るのみ』
との仰せからも、明確に拝されるのであります。
古来、合掌礼をもって法主に対するのは、まさにその内証に止住している仏宝・法宝の法体に約すからであります。

上記の文章を素直に読めば、当時の宗門が法主を信仰の対象とせよといっていると受けとられてもしかたないのですが……。
理論理屈は間違ってません。しかし受け取り方によっては法主こそ信仰の対象と受け取れる文言であることは否めません。とくに「合掌をもって法主に対する」の部分です。合掌とは一念三千の意味もありますからね。単純に敬うのとは意味が違ってきますが……。

それともう一点です。祈る側の一念が最重要という部分に同感していただけましたが、自分の中から日蓮仏法の本義を引きだすことは出来ないという部分には賛成できないと。これは管理人さん、矛盾してますよ。
キリスト教徒でさえ成仏できるなら、誰もが日蓮仏法の本義を感得することは可能と認めておりながら、いやそれはできないといっておられるのですから。

キリスト教徒であろうと、「事の一念三千」を体現する行為をすれば成仏できると認めていながら、誰であろうと自分の中から一念三千の真意(日蓮仏法の本義)を引きだすことはできないといっているわけですよね。完全に矛盾してますよね?

他にも様々ありますが、そこは個人的な意見の相違なので、とくに申し上げることはありません。
執行部派であろうと、学会員、つまり人間性(誰もがもつ向上する可能性と、堕落する二面性をもっていて、向上する可能性があること)を敬えないのは残念なことだと思います。
敬えないということは常不軽菩薩であれという日蓮の教えに違背していると思うんですがね。
しかし、現時点で慈悲をたれる気にはなれないなら、それはそれで仕方ないとも思っています。これは境涯の問題なので、時がくるまでは仕方ないでしょう。

打倒日顕!!!撲滅お題目!?

20年も前の昔の事です。
私も学会員として、
自宅の仏壇に日顕撲滅、
池田先生及び、香峯子様の健康ご長寿を
御祈り申し上げました。

結果(現証)は、創価の思い通りに
なったのか?

甚だ疑問です。

是非、本幹も近い事てす。
ご子息の覇気もない、
事務的なセンセのメッセージを
有り難く頂戴して、明日からの
広布拡大の戦い、一人でも
不幸な人を救わずに折れるものかと!
共々に戦いましょう!

創価の善知識の方には、
管理人様の簡単なご質問に
誠意ある回答をと、
思います。

イプシロン さん

こんばんは。

> これはわたしには答えられませんよ。わたしには答えようのない質問です。逃げているとかそういうことではなくね。なぜかなら、わたしは大御本尊を捨てていませんから。今の会則を受け入れている学会員のどなたかに答えてもらう以外ないんじゃないですか。

そうですか。それならイプシロンさんと私の間には何の争点もありません。

> 「解散勧告書」にはこうあります。
> 『日興上人已下の代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝也。外用に依れば則ち僧宝なり、故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば則ち外用を存し以て僧宝と為るのみ』
> との仰せからも、明確に拝されるのであります。
> 古来、合掌礼をもって法主に対するのは、まさにその内証に止住している仏宝・法宝の法体に約すからであります。

その通りです。

> 上記の文章を素直に読めば、当時の宗門が法主を信仰の対象とせよといっていると受けとられてもしかたないのですが……。
> 理論理屈は間違ってません。しかし受け取り方によっては法主こそ信仰の対象と受け取れる文言であることは否めません。とくに「合掌をもって法主に対する」の部分です。合掌とは一念三千の意味もありますからね。単純に敬うのとは意味が違ってきますが……。

それが、日興門流の信です。唯授一人を否定すれば日興上人を否定することになる。本来ならば池田センセはそこを会員に教えなければならない立場なのです。それを逆に「法主信仰」と悪宣伝したのです。

> それともう一点です。祈る側の一念が最重要という部分に同感していただけましたが、自分の中から日蓮仏法の本義を引きだすことは出来ないという部分には賛成できないと。これは管理人さん、矛盾してますよ。
> キリスト教徒でさえ成仏できるなら、誰もが日蓮仏法の本義を感得することは可能と認めておりながら、いやそれはできないといっておられるのですから。

そうですね。言葉足らずでした。大聖人仏法の本義を自身から引き出すためには正しい信心が必要です。つまり、ご本仏の仏力・法力によって引き出せるのであってそれがなく信力・行力だけは無視という意味です。

> キリスト教徒であろうと、「事の一念三千」を体現する行為をすれば成仏できると認めていながら、誰であろうと自分の中から一念三千の真意(日蓮仏法の本義)を引きだすことはできないといっているわけですよね。完全に矛盾してますよね?

「事の一念三千」を体現する方法はなんですか?
大御本尊に信を取ること以外に実際の方法はありません。
つまり「理」としてはキリスト教徒の成仏は可能ですが、事としては不可能です。
もしそれが可能ならば本尊なんてなんでもよい。ということになります。

> しかし、現時点で慈悲をたれる気にはなれないなら、それはそれで仕方ないとも思っています。これは境涯の問題なので、時がくるまでは仕方ないでしょう。

そうですか。イプシロンさんはさぞ高い境涯なのでしょうね。羨ましい限りです。
私には無理ですね。境涯が低いので。
逆縁の衆生には破折が一番の慈悲だと思ってます。
仏法中怨の責めを大聖人から受けたくないので私は私の低い境涯なりの方法を自実践します。

退転壮年部おじさんさん

こんばんは。

> 20年も前の昔の事です。
> 私も学会員として、
> 自宅の仏壇に日顕撲滅、
> 池田先生及び、香峯子様の健康ご長寿を
> 御祈り申し上げました。

私も同じです。
まさか創価が大御本尊を捨てるなど夢にも思わなかった頃の話です。


> 創価の善知識の方には、
> 管理人様の簡単なご質問に
> 誠意ある回答をと、
> 思います。

そんなに難しいことはお聞きしていないんですけど
誰も彼も無回答なんですよね。
あなたたちの主張に関してお聞きしてるのです。
といっても無言。
なぜでしょうね。

くだらない連コメント大変に失礼致します。

創価思想が絶対に正しいならば、
大聖人様のお心やご慈悲を体現してる
ならば、

なぜ、日顕さんはお元気で、
池田さんは、??思います。

攻めて、攻め抜くのが、
創価の真骨頂では有りませぬか?

現象(現証)こそが、
創価の正義!
ですよね?

世界広布が、192ヶ国で停滞したまま、
20年近くの月日を数えましたが、
そんな枝子末葉は問題無いのです。

センセお元気なのかな?
末葉の学会員の一人言葉です。

火事や震災が起きた時、
自宅の御本人様だけは
命に変えて御守りする事だと
洗脳されました私にとって、
破門後の学会員の信心の在り方に
疑問だらけです。

長文乱文失礼致しますm(__)m

記者会見その3(必見です)

●盛り上がってる所に水さすようですいません<(_ _)>
昨日の元創価学会職員さん3人組の記者会見の中継は画像ブレしたりしてさっぱりわかりませんでしたが、今、3人組さんのプログに修正されてアップされてますのでちゃんと見れます。

●お坊さんの芸者遊びを非難する資格ゼロですね~(-_-メ)
我々から吸い上げた浄財は宗教貴族の接待費に化けてたなんて!「創価学会仏」なんてギャグ言ってる場合か!

http://harunokoime20150831.blog.fc2.com/
右上のリンクに行き、その下の12・8外国特派員協会記者会見動画をクリックしてください。


管理人さんへ

こんばんは。
何度もお邪魔して申し訳ありません。

>「事の一念三千」を体現する方法はなんですか?
大御本尊に信を取ること以外に実際の方法はありません。
つまり「理」としてはキリスト教徒の成仏は可能ですが、事としては不可能です。
もしそれが可能ならば本尊なんてなんでもよい。ということになります。

自行化他に渡る唱題です。
しかし唱題といってもいわゆる声に出して唱える唱題ではありません。
諸法実相における行為をそのまま自行化他の題目と見るならば、キリスト教であろうと事としての成仏は可能です。

シンプルにいうならば本尊とは自分そのものです。
キリスト教というと、神は自分の外にあるという思想と思われている人が多いのですが、真に目覚めた人は違いますよ。神性は自分の中にあると確信しているのですよ。
ですから、なんら仏法とそん色などないのです。ゆえに事として成仏は可能です。

ほとんど仏法と変わらない次元の思想宗教は世界にそれなりの数存在します。
そして事実として成仏は可能です。
管理人さんの仰る理論であると、キリストを信じないものは救われない。異端者は必ず地獄に堕ちるという論理になりますよ。

それは仏法の根幹を揺るがす発言ですよ。
釈尊すらバラモンであっても行い(事)によって成仏できると言ってますが。
ここはどう説明されるのですか?


>逆縁の衆生には破折が一番の慈悲だと思ってます。

それではお聞きします。
ネットで発言され、そのことが逆縁となり、やがて成仏に導くとしても、管理人さんは、地獄の底をのたうつような境遇におちたその人を、最後の最後まで面倒を見切れると仰り、またそれを現実事実のもとで行えるというのですか?
ネットなどプツリと縁が切れたらそれまでですよ。顔も名前も何一つわからない、ましてや会ったこともない人たちに対して、こうした環境で、その人の人生に最後の最後まで責任を持てるのですか?

わたしには到底そんなことは出来ません。現実に面倒を見れるつもりになっても、せいぜい3人がいいところかと思ってます。
ちなみに私はネットで知り合い深刻な悩みを打ち明けられましたが、いくら私がそうした関係を維持しようと努力してきても、いつか相手の方から音信不通に……という実体験をしてきました。

であるから、現実の一対一の対話や、現実の生活の中で、最善のことが出来る
環境でなければ、堕地獄の逆縁になろうとは思わないのです。

ゆえに、ネットでは出来る範囲に敬いつつ、破折できるとこは破折していくしかないと思っております。何度も申し上げてますが、これは個人的な信念(意見)ですよ。押しつけるつもりはないのです。先にもそう申し上げましたよね。

境涯という言葉を出せば、おそらく感情的になられるだろうとは思ってました。
とても残念です。

また、不毛な議論をいつまでもつづける気もないので、一旦これでコメントは控えさせて頂きます。

ただ一点、心に留めておいて頂きたいのは、わたしが最初にしたコメントにある内容です。発言されている内容には芯から肯ける部分もあったと認め、また閲覧者やコメンターに対する管理人さんの真摯な振舞いも、私は賞賛したという点です。
優れたお人柄もお持ちである。少なくとも私は管理人さんをそう見たゆえに、対話させて頂いたという点です。

まあ所詮、こちらは管理人さんのお膝元なわけで、ここで管理人さんと違う意見を言えば、火の中に飛びこむようなものであることも承知のうえでした。案の定、そういったコメントも見受けられました。非常に残念です。
そしてそれを放置された管理人さんの姿勢も非常に残念でした。
一対一で話するから、横レスはしばらく遠慮してくださいとも言えたわけで。

ただし、こうして会話できたことは、管理人さんがブログを開設され維持管理してこられたからだということも、私はきちんと承知していましたよ。その点は感謝しているのです。また、管理人さんお一人が多数の方へリコメしなければという苦労も、私自身ブログをやってきたので、その苦労も理解できます。

まあしかし、なんというか、コメントをされるだけの方は気楽で結構なことですね。所詮これは私の愚痴ですが、私は私なりに全体観をみてコメントしたつもりです。礼儀もわきまえていたつもりですがね。
煽ったり感情面ばかりであれこれ言ったつもりもありません。残念です。

ともあれ、管理人さん、皆さま、ありがとうございました。
最後に英語で。Good Luck !

四聖をもとめて。

  お二人のやりとりをここまで読ませて頂いて、かなりの質量ともに良い思索のヒントと啓蒙力を感じました。

 ひとつにはお二人ともが体験的確信と思索の自負と信念の持ち主であることが、火花の合間からもよく伝わってきたこと。

 もう一つは、真実にたどり着くための営為は、容易いものではないということ。

そしてこれは架空のドラマではない故に、ハッピーエンドを期待してはいけない。

 結論に至らないまでも、これも一つのプロセスとして欠かせないことであること。

 など、大いに参考と啓発になりました。 有難うございました。

 問題の所在すら気づきもしなかった私などには、ここは現在では毎日が心躍る場所であります。  甚深の意味を持つ邂逅でもあります、

 言い換えれば約50年の学会在籍時代でも味わえなかった、大聖哲のご指南を改めて深く知ることになりましたし、過去のいかなる講義でも感じれなかったボリュウムであり、また高純度な指導になりました。

 しかし反面、こうして大聖人様の弟子が互いに感情を震わせながら、「現実の不毛」を嘆きながら、異なる道筋で一つの明かりを求めていかなくてはならないことを、哀しく思うものです。

  なおかつ、創価という「不毛の団体」に対しても、今だなお、郷愁や愛着を捨てきれないのです。  大組織の末端にいる者どもとして、私はやはり想定外の現今の「事態」にはどうしても被害者意識を捨てきれません。

 創価のヒエラルキーとして絶対弱者なのです。  社会構造上においても、私は世間の末端にいる年配の用済みの前期高齢者に過ぎません。

 そうすれば、自分の面倒は自分で看るしかありません。  RAMBOの名称は、自尊でもなく、シャレでもありません。  せめてもの覚悟のようなもの。

 まあそれは余計なことでしたが、どうかこれからも仏法の真実を求めての、幾多の論戦を拝見したく思っておりますので、十界互具の記事やコメントを拝読させていただきたいと思っておりますし期待もしております。

 早い話、今回も満足させてもらいました。 ありがとうございました。

古本屋店主さん

こんにちは。

> ●盛り上がってる所に水さすようですいません<(_ _)>
> 昨日の元創価学会職員さん3人組の記者会見の中継は画像ブレしたりしてさっぱりわかりませんでしたが、今、3人組さんのプログに修正されてアップされてますのでちゃんと見れます。
>
> ●お坊さんの芸者遊びを非難する資格ゼロですね~(-_-メ)
> 我々から吸い上げた浄財は宗教貴族の接待費に化けてたなんて!「創価学会仏」なんてギャグ言ってる場合か!
>
> http://harunokoime20150831.blog.fc2.com/
> 右上のリンクに行き、その下の12・8外国特派員協会記者会見動画をクリックしてください。

そうですね。昨日のぞいたらちゃんと再生してました。
結構長ったので途中で視聴をやめました。
時間のあるときじっくり見ます。

イプシロンさん

こんにちは。

> 自行化他に渡る唱題です。
> しかし唱題といってもいわゆる声に出して唱える唱題ではありません。
> 諸法実相における行為をそのまま自行化他の題目と見るならば、キリスト教であろうと事としての成仏は可能です。

それができれば「御本尊」は必要なのです。

> シンプルにいうならば本尊とは自分そのものです。
> キリスト教というと、神は自分の外にあるという思想と思われている人が多いのですが、真に目覚めた人は違いますよ。神性は自分の中にあると確信しているのですよ。
> ですから、なんら仏法とそん色などないのです。ゆえに事として成仏は可能です。

残念ですが自分が本尊というは大聖人仏法の本義でないのです。

> ほとんど仏法と変わらない次元の思想宗教は世界にそれなりの数存在します。
> そして事実として成仏は可能です。
> 管理人さんの仰る理論であると、キリストを信じないものは救われない。異端者は必ず地獄に堕ちるという論理になりますよ。

その通りです。それが大聖人のご教示です。

> それは仏法の根幹を揺るがす発言ですよ。
> 釈尊すらバラモンであっても行い(事)によって成仏できると言ってますが。
> ここはどう説明されるのですか?

釈迦仏法と日蓮仏法は全く別なのです。
そもそも外道の法で成仏できると大聖人はどこで言ってますか?
何を主張されてもいいですが、法義に関することなら「文証」を出してもらえませんか?
イブシロンさんの主張は大聖人仏法の法義でなく創価教学そのものです。
ですから文証を出してもらわないとコンセンサスが得られません。

> それではお聞きします。
> ネットで発言され、そのことが逆縁となり、やがて成仏に導くとしても、管理人さんは、地獄の底をのたうつような境遇におちたその人を、最後の最後まで面倒を見切れると仰り、またそれを現実事実のもとで行えるというのですか?
> ネットなどプツリと縁が切れたらそれまでですよ。顔も名前も何一つわからない、ましてや会ったこともない人たちに対して、こうした環境で、その人の人生に最後の最後まで責任を持てるのですか?

全く論旨とかけ離れています。下種とはそういう事ではありません。
責任を持つのはご本仏です。

> わたしには到底そんなことは出来ません。現実に面倒を見れるつもりになっても、せいぜい3人がいいところかと思ってます。
> ちなみに私はネットで知り合い深刻な悩みを打ち明けられましたが、いくら私がそうした関係を維持しようと努力してきても、いつか相手の方から音信不通に……という実体験をしてきました。
> であるから、現実の一対一の対話や、現実の生活の中で、最善のことが出来る
> 環境でなければ、堕地獄の逆縁になろうとは思わないのです。

それはイブシロンさんのお考えでしょうから否定しません。

> 境涯という言葉を出せば、おそらく感情的になられるだろうとは思ってました。
> とても残念です。

いえ。私は全然感情的なんてなっていませんよ。
失礼ですが苦笑いのレベルです。
さんざん慈悲だの大聖人仏法の本義だの不軽菩薩だのと力説してきた方が
最後の締めは「境涯」を持ち出し、「あなたの境涯ではあわりませんよ」
と言うとは思いもよらなかったので非常にがっかりしました。
最後くらい御書の一説で締めてくれるかと勝手に思い込んでましたから。
根拠のない現証論や境涯論。そんなものには何の興味もひかれません。
つまり感情的になるようなレベルのお話ではありません。
境涯論は創価幹部もよく使います。大抵は逃げ口上です。
そしてやはり、他人の幸福を祈るとか慈悲ろかも口にします。
それでいて最後は「お前の境涯低すぎ」って上から目線です。
結局ソレかい。って感想でした。
ですから感情的になってリコメしたわけじゃありませんので誤解しないでください。

> また、不毛な議論をいつまでもつづける気もないので、一旦これでコメントは控えさせて頂きます。

まぁ、境涯論を出してしまってはこの先の対話もおぼつきません。
何をはなそうと最後は「境涯」云々じゃ話すだけ無駄ですからね。

> ただ一点、心に留めておいて頂きたいのは、わたしが最初にしたコメントにある内容です。発言されている内容には芯から肯ける部分もあったと認め、また閲覧者やコメンターに対する管理人さんの真摯な振舞いも、私は賞賛したという点です。
> 優れたお人柄もお持ちである。少なくとも私は管理人さんをそう見たゆえに、対話させて頂いたという点です。

別に優れた人格など持ち合わせていませんよ。買いかぶらないでください。

> まあ所詮、こちらは管理人さんのお膝元なわけで、ここで管理人さんと違う意見を言えば、火の中に飛びこむようなものであることも承知のうえでした。案の定、そういったコメントも見受けられました。非常に残念です。
> そしてそれを放置された管理人さんの姿勢も非常に残念でした。
> 一対一で話するから、横レスはしばらく遠慮してくださいとも言えたわけで。

ここのコメンテーターさんは、私の応援団ではありませんよ。
そんな甘い人はいません。少しは応援しろよって思います(笑・嘘です)
それと基本的にコメントを制限することはしないのが「自分ルール」です。

> まあしかし、なんというか、コメントをされるだけの方は気楽で結構なことですね。所詮これは私の愚痴ですが、私は私なりに全体観をみてコメントしたつもりです。礼儀もわきまえていたつもりですがね。
> 煽ったり感情面ばかりであれこれ言ったつもりもありません。残念です。

そうですね。煽りとか感情的とかは思っていません。たぶん読者の皆さんもそうは思っていないと思います。
ただ冒頭にも書きましたがイブシロンさんのベースは創価教学です。それは構わないのですが、まず創価教学の正当性を主張してほしかったと思いました。そこが無かったのが心残りです。あとは最後の「境涯論」は余計だったかなと感じます。現証論・境涯論をしてしまうと対話として成立しなくなってしまいます。すべてそれで片付いてしまうからです。それを言うのならばそこに文証を添えないとただの悪口の世界です。罵りあうのは本意でなく面倒なのでしたくありません。そういう点から一度この対話も終わりにするのはいいかと思います。イブシロンさんのいう通りこれ以上は不毛だと思われます。

> ともあれ、管理人さん、皆さま、ありがとうございました。
> 最後に英語で。Good Luck !

こちらこそありがとうございます。
また、気が向いたらいつでもコメントしてください。

RAMBOさん

こんにちは。

>  しかし反面、こうして大聖人様の弟子が互いに感情を震わせながら、「現実の不毛」を嘆きながら、異なる道筋で一つの明かりを求めていかなくてはならないことを、哀しく思うものです。

全く同感です。戒壇大御本尊とは何か?なんてことを学会員にいちいち説明しなければならない時代が来るとは思いもよりませんでした。

>   なおかつ、創価という「不毛の団体」に対しても、今だなお、郷愁や愛着を捨てきれないのです。大組織の末端にいる者どもとして、私はやはり想定外の現今の「事態」にはどうしても被害者意識を捨てきれません。

現実被害者なのです。加害者は創価上層部と感情抜きに事実として池田センセなのです。
池田センセだけは悪くない。と思いたい会員さんは大勢いますが
事実として今の創価は池田センセが作った組織です。
いまさら池田センセだけは悪くない。というの通用しないと思います。

管理人さんへ

こんにちは。
一旦、終了するつもりでしたが、ちょっとそれは……という部分が多すぎるので指摘させて頂きます。

>それができれば「御本尊」は必要なのです。

そもそも日本語として、文章として意味をなしていません。よって意味不明といわざるをえません。

>残念ですが自分が本尊というは大聖人仏法の本義でないのです。

ではお伺いします。
『日女御前御返事』にはこうあります。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」

ここに自分こそが御本尊であるというのは明確ですが。ただし「信行」がなければという点は重要でしょう。わたしは何もしないでいて自分=御本尊だなどと思ってはいません。
では管理人さんのいう本義とはいかなるものか、説明して頂けませんか。あなたはわたしの言うことを否定するだけ否定しておいて、あなたが否定したその理由を述べていません。
先にあったやりとりでもそうです。日蓮が天台などの釈を引いたのはそうじゃないだろといいながら、では自分がどう考えているのかも提示されませんでした。これでは議論にすらなりません。単にわたしの言うことを否定して涼しい顔をしているだけになりますが……。

>その通りです。それが大聖人のご教示です。
>責任を持つのはご本仏です。

この2点は完全に矛盾しています。
いいですか、その人物の行為や信心によって成仏・非成仏が決まるとあなたは認めています。その一方で、成仏を決める決めないは、行為や信心ではなく御本仏であるともいっているのです。つまり、行者がどんな方法論をとって仏法を説こうが(順縁であれ逆縁であれ)、正しい行いをしたならキリスト教徒であろうと成仏できると認めながら、いいやそうではなく、行者がどんな説法をしようが、成仏を決めるのは御本仏であるとも言っているのです。

後者の理論にのっとるなら、いかに真剣に信心しようが、成仏を決めるが御本仏なのだったら、真面目に信心しようが、嘘八百の法を説こうが、成仏できるということになります。こんな道理はまったく通用しませんが……」。 
きちんと矛盾を解消する説明をしてください。

>釈迦仏法と日蓮仏法は全く別なのです。

『崇峻天皇御書』にはこうあります。
「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
日蓮にしても、釈尊にしても、根源性は法華経にあります。そして究極的にいえば、不軽菩薩の振舞いである。釈尊もまたそうであった。日蓮はそういっています。であるならば究極に目指すものは一致します。これを管理人さん、あなたは、「違う」といっているわけです。説明してください。

加えていえば、釈尊の法華経には必ず比喩があります。これはなにも法華経だけに限りません。ダンマパダ(法句経)などの初期仏典でさえそうです。法句経そのもは真理を論理的に語っていますが、法句比喩経では物語をかたって(つまり比喩を語って)いるわけです。有名な修利槃特の仏法説話は法句比喩経にあります。またこの説話を理論として真理の言葉にしているのは、法句経の第19章「道を実践する人」で述べられています。

従って、初期仏典でさえ末法の衆生、別のいいかたをするなら「鈍根(下根)」の衆生のための経典でもあることは明らかです。いわんや法華経においておや、ではないですか。ゆえに釈迦仏法と日蓮仏法は違うなどとは言えません。
ようるすに読み方の問題だというのなら、全く納得いきますが。同じ法華経という経典をもとにしているのに、違うとはこれいかに?

例えていえばこうです。
ここに100円玉があります。裏も表もあるし、人によって百円なんてという人もいれば、100円スッゲー! という人もあるわけです。しかし、100円であるという厳然たる事実はなんら変わりません。それが違うといっているのが管理人さんですよね。明確に説明をしてください。

以上、失礼ながら質問させて頂きました。
よろしくお願い致します。

お時間の都合もあるでしょう。しかし、意味さえ通じない文章を書いて返信とされるのは、あまりにも礼に欠けるのではないですか?

また蛇足ですが、こちらのコメント欄はある意味危険ともいえ、ある意味親切に設定されていて、管理人さんであっても、投稿者であっても、自分の書いた文章をあとから編集できる仕様ですよね。
しかしこれは危険ですよ。管理人さんがというのは、これは権限者として当然かと思いますが。投稿者が自分のコメントを編集できてしまうのは、議論するにあたって危険な部分があると思いますがね。後からいかようにも改竄できるということです。
わたしなど、注意力散漫で誤字脱字をよくするので、ありがたいという側面もあるのですがね。誤字脱字が多いと指摘されてカチンときた経験もあります。でもそんなことで感情的になってもね……となるだけ是正し、誤りのないようしているつもりです。
もっともこういうことも、強制したり押しつけるつもりで言っているのではないのです。すべては自由なので。本人の意思を尊重するつもはあるのですよ。

No title

ああそれから、先生には責任があり、加害者であり、会員は被害者であると。
しかし、管理人さんの理論によると、自分がどんな法の説き方をしようが、責任は御本仏にあるというのですから、先生には責任はないともいっていることになります。

でありながら、自分たちが嫌な思いをするとそれを先生の責任にしてます。こういうのを「責任転嫁」というのではないですか?
この点も明確なお答えを頂けないでしょうか?

一生成仏抄に曰く。
「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」

すべては自分の責任である。こんなことは御書の各所に明々赫々ですが。

日厳尼御前御返事に曰く。
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」
責任は御本仏にある。この御文に完全に違背してますが……。

Re: 管理人さんへ

こんにちは。
> >それができれば「御本尊」は必要なのです。
> そもそも日本語として、文章として意味をなしていません。よって意味不明といわざるをえません。

単なる入力ミスです。〇「御本尊」はひつようありません。です。

> ではお伺いします。
> 『日女御前御返事』にはこうあります。
> 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」

ここでは、 「法華経を持ちて」という大前提があるのです。大御本尊を信受する。その信心によって胸中に御本尊が湧現する。といことです。最初にいいましたよ。当体義抄の両重の総別の義があると。
そして自分が本尊ならば御本尊は必要ありません。ということです。

> 先にあったやりとりでもそうです。日蓮が天台などの釈を引いたのはそうじゃないだろといいながら、では自分がどう考えているのかも提示されませんでした。これでは議論にすらなりません。単にわたしの言うことを否定して涼しい顔をしているだけになりますが……。

大聖人が経釈を引用するのと、池田センセが戸田先生の指導を引用するのとは次元が全く違います。
そしてその目的も違います。
あなたは池田センセと大聖人を同レベルにしたのでしょうが、全然違うのです。
(大聖人が経釈を用いる件についてはいずれ記事にします)

> >その通りです。それが大聖人のご教示です。
> >責任を持つのはご本仏です。
>
> この2点は完全に矛盾しています。
> いいですか、その人物の行為や信心によって成仏・非成仏が決まるとあなたは認めています。その一方で、成仏を決める決めないは、行為や信心ではなく御本仏であるともいっているのです。つまり、行者がどんな方法論をとって仏法を説こうが(順縁であれ逆縁であれ)、正しい行いをしたならキリスト教徒であろうと成仏できると認めながら、いいやそうではなく、行者がどんな説法をしようが、成仏を決めるのは御本仏であるとも言っているのです。
>後者の理論にのっとるなら、いかに真剣に信心しようが、成仏を決めるが御本仏なのだったら、真面目に信心しようが、嘘八百の法を説こうが、成仏できるということになります。こんな道理はまったく通用しませんが……」。 
> きちんと矛盾を解消する説明をしてください。

いいですか?この問答は「下種」に関する問答ですよ。
「下種」した人に成・不成を決める権限も責任もありません。
それはご本仏の守備範囲です。
どうして、あたなたは論旨をすり替えるのでしょう?
だから話が噛み合わないのではないですか?

> 『崇峻天皇御書』にはこうあります。
> 「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」

大聖人と不軽の一致点とは

◆、例せば威音王仏の像法の時不軽菩薩我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人日蓮は名字の凡夫なり(顕仏未来記)

ということですよ。

> 日蓮にしても、釈尊にしても、根源性は法華経にあります。そして究極的にいえば、不軽菩薩の振舞いである。釈尊もまたそうであった。日蓮はそういっています。であるならば究極に目指すものは一致します。これを管理人さん、あなたは、「違う」といっているわけです。説明してください。

根源は法華経という経典自体ではありません。その中の法体にあるのです。
そいう部分と一切成仏は同じでしょうが、釈迦仏法と日蓮仏法では
「理と事」「本と迹」「能と所」「種と脱」など数々の違いがあります。

> ようるすに読み方の問題だというのなら、全く納得いきますが。同じ法華経という経典をもとにしているのに、違うとはこれいかに?

上記の理由により「法華経という経典」をもとにしている。というは違います。
「法華経という経典」がもとならば「法華経という経典」を本尊にするべきでしょう。
法体と法門を混同しているのだと思います。

イプシロンさん

> ああそれから、先生には責任があり、加害者であり、会員は被害者であると。
> しかし、管理人さんの理論によると、自分がどんな法の説き方をしようが、責任は御本仏にあるというのですから、先生には責
> でありながら、自分たちが嫌な思いをするとそれを先生の責任にしてます。こういうのを「責任転嫁」というのではないですか?> この点も明確なお答えを頂けないでしょうか?

いいですか。私はご本仏の責任と書いたのは、「下種」についての話ですよ。

あなた「ネットで発言され、そのことが逆縁となり、やがて成仏に導くとしても、管理人さんは、地獄の底をのたうつような境遇におちたその人を、最後の最後まで面倒を見切れると仰り、またそれを現実事実のもとで行えるというのですか? ネットなどプツリと縁が切れたらそれまでですよ。顔も名前も何一つわからない、ましてや会ったこともない人たちに対して、こうした環境で、その人の人生に最後の最後まで責任を持てるのですか? 」
に対し私が
【全く論旨とかけ離れています。下種とはそういう事ではありません。責任を持つのはご本仏です。】
と答えたのです。
成・不成についての話ではないでしょう。
その話をすり替えてリコメしてきたのがあなたです。
ですから上記の池田センセの話と、下種の関してのご本仏の話をごちゃまぜにして話すのは筋違いです。
以下あなたのあげた文証とそれに付随する発言も論旨違いの揚げ足取りにすぎません。
そんなことを何になるんです?意味ないでしょう。
前述しましたが、慈悲だの振る舞いだの書いてる人が
「境涯論」で上から目線で話したり、趣旨の違うコメントを別の話題にすり替えたり
自語相違だと感じませんか?感じないのでしょうが。

イブシロンさんは、今の創価執行部に反発する私と同じ立ち位置だとおっしゃりましたが
私はいままでのやり取りを通してあなたにそれほどシンパシーを感じません。
教学は現執行部の推進するバリバリの創価教学ですし
こちらの質問に答えず、常に話題を拡散しまたすり替えようとするのは活動家幹部の習性だし、
意味のない「境涯論」を上から目線で言うところも創価幹部にそっくりです。
「日顕宗」なんて書くのも活動家くらいです。
また、勤行などの化義も今の創価の決めたようにされているのでしょう?(違ったら謝りますが)
そして、どうも大聖人・大御本尊と池田センセを同等とみてるフシも感じられます。
それで「あなたと同じです」といわれても戸惑うばかりです。
その発言・教学・振る舞いを見ていると、創価のバリ活さんとの全く同じようにしか私には思えないのです。
それでいて活動家ではない。って言われても
「はぁ・・・」としか答えようがありません。
でも、大御本尊を信じているのという言葉は信じます。
ですから、対話は一旦中断しませんか?
もちろん今後もコメントいただくのは大歓迎ですが
いまの対話を続けても不毛で意味もないし
せっかくお知り合いになれたのだからこのあたりでやめておく方がいいかと存じます。



境涯の違い。

戸田先生のお話だったか?
記憶が定かでは御座いませんが、
子供と大人が本気で喧嘩しないのは
境涯が違うから。
大聖人様を末法の御本仏と確信する方と
創価思想(池田先生のご指導)を
根本とする方との違いだろう。
私の勝手な解釈なので悪しからず。

管理人様お疲れ様でした。
いつもお世話になります。

退転壮年部おじさん さん

こんばんは。

私は根拠のない「境涯論」とか「現証論」は好きになれないのです。
自分で自分のことを
「境涯低いなぁ俺」とか
「宿業深すぎだよ俺」っていうのはアリだし
「功徳」「罰」というのは自分で感じるものです。
他人様に向かっていう事ではないと思うのです。
どうしてもいうのであれば、
その根拠を示すべきだと思います。
大御本尊を捨てれば無間地獄と私も言いますが
根拠なく言っているつもりはないのです。

No title

管理人さん、連日の対話お疲れ様です。
コメントを読むだけでも大変です。
私には管理人さんのような優しさがないので
管理人さんのように丁寧な返答はできません。
管理人さんには頭が下がります。
お忙しい管理人さんですので躊躇しますが
教えて欲しいことがあります。
なぜ宗門は創価学会出現できるまで御書を発刊しなかった
のでしょうか?
あるいはできなかったのでしょうか?
宜しくお願いします。

こんばんは。

他人様に向かっての境涯論、宿業論、私もものすごく無礼だと思います。
周りを見てもこんなことを言う人は普通いません。学会員以外。
ああ。たちの悪い輩は似たようなこと言ってるかも。たとえばイジメの加害者とか。
境涯とか宿業とかの言葉は使わなくても感覚は同じでしょう。

けれども創価学会員同士、特に上から下へは日常会話ですね。
相手を黙らせたい時の常套句です。
お有難い『ご指導』のまとめもだいたいこれ、斜め上からのトドメの一撃、これにて一件落着!というのがパターンとして身についてしまっているアホな婦人部幹部のなんと多いことか。
何も考えずに言葉を垂れ流す。
相手が誰だろうと同じパターンでしか話が出来ない。
ずっとこの有様ですから、婦人部の人材なんて育つわけがありません。
というより人材不足だから幹部がアホしかいないのか。

創価学会の組織には温かさもあると仰る方もいらして、そうなのかもしれない、とは思いますが少なくとも婦人部の組織の上にいけばいくほど温かさとは程遠く、冷たいものです。

数十年の経験上、ひとつの傾向性が圧倒的多数であれば、一括りにするしかありません。
たとえば婦人部幹部はゲスでアホとかね。

例外もいらっしゃることは百も承知。
そういう方に向かってコメントしています。


今回の対話はとても勉強になりました。

管理人さんから「そこかい!」と言われそうですが、いやはやコミニュケーション能力は大事だなあと。
話を聞いて欲しければ相手の話をしっかり聞いて相手の言わんとすることを理解する。理解しようとすること。
話を続けたければ、それを言っちゃあおしまいよ、という言葉・話題は礼儀として出さないこと。
話題を勝手に変えないこと。
自信と自己愛をごっちゃにしないこと。諸々。

娑婆世間で人に揉まれて初めて身につくことですね。
管理人さんのオープンさはその辺の自信に裏打ちされてらっしゃるのかなと。


ともあれお疲れさまでした。

めっきり冷えてまいりました。
皆さま暖かくしておやすみくださいませね。

管理人さんへ

こんばんは。

もうなんというか、管理人さんが書かれたことが、そのまま管理人さん自身の言動であると思いますよ。
一言でいえば揚げ足取り。

せめて御書文証を引いて質問しろと仰るから、そうすれば、質問に答えずに、とにかく俺の行ってることが正しい。すでに議論にすらなっていません。

今回頂いた答えに、一々にいうつもりはありません。
ただし、完全に間違われている部分だけは指摘させて頂きます。

>「法華経という経典」がもとならば「法華経という経典」を本尊にするべきでしょう。

日蓮はそうしていますよね。
法華経という経典の正式名称、題号は何ですか?
題目の五字じゃあないですか。それに帰命します。7文字の題目を唱題するとはそういう意味ですよね。

また、御書にも明確にありますが、法華経という経典の題号ををいえば、法華経の内容はすべて含まれると仰せですがね。
これをどう説明されるんですか? これくらいちゃんと説明されてはどうですか?

それともう一点。五座三座の勤行をしなさいと大聖人がいっている文証を提示してください。

質問に答えていないのは管理人さんあなたですよ。
自分の中だけで納得されていて、それを他人に伝えるための言葉にしていないのです。そのことにさえ気づけておられない。

下種したあとは責任はない。では因果具時をどう説明なさるんですか?
下種の因を埋めた瞬間・その果も同時に植えてるいるという意味じゃあないんですか?

しかしあなたの論理によると、下種と因と果の責任は別だということになる。

こう聞けばわかりやすいですかね。
あなたが折伏をされた、そのことが原因で相手が信心に目覚めた。
この功徳は誰が受けるのですか?
またその責任は誰が取るのですか?

これくらいの簡単な質問ならお答えになれますよね?

文証文証といいますが、わたしがお伺いしたいのは、あなたの思想なんですよ。
あなたがあなた自身の言葉で仏法の思想を語れずにいて、体現化するという仏法を正しく実践できている証明にはなりませんよ。

そういうことをもって、ある意味現症というのではないですか?

せめてここで問うたことには、答えて頂きたいものですね。
しかしながら、あたがが自分の中でわかっている言葉ではなく、誰が読んでも理解できるようにね。

それから、単なるタイプミスですというのは礼儀を欠いていなくて、何やらわたしは礼儀を欠いているという指摘には苦笑せざるを得ませんでした。

例えば真理といおうとして心理とタイプしてしまったなら、推察で書き手のいわんとしていることはなんとか正確に伝わります。

がしかし、あの例は違いますよね。
推察で読めるだろ。それも違うと思います。
あなたが伝えたいことを、きっとこういうことだろうと推察してっしまったなら、それはもうあなたの考えを正確に解釈したことにならないからです。

とりあえす、今回はここまでにします。

管理人さんへ

また、バリ活であるとか、創価云々、これこそ枝葉末節の話題です。
しかもそれはあくまでも管理人さんの主観によるわたしへの印象でしかありません。
主観の印象をもって、こいつはこういう奴だという偏見を周囲にばらまくことと教義に関する議論はまったく別のことです。以降、この件には触れないのがよろしいかと思います。

ようするに、純粋に問いと答えに終始すればいいだけのお話かと思いますよ。

創価云々をいい出すことで、わたしとあなた、ひいては閲覧者の感情を刺激するまでのことです。それこそ不毛です。

No title

皆さま

改めまして、こんにちは。ディスミナシオンです。
一連の騒動、皆様に不快な思いをさせたようで、大変失礼致しました。

重ねて謝らねばならぬことは、私は某大学院院生です(学術系出版社勤務のような上品な方は、こんな事しません)。専攻は、情報社会論、あと少し宗教社会学。ネット上のコミュニティにおける言説と炎上、さらに宗教的コミュニティと学術系情報の出会い(信仰に不都合な学術的事実、所謂 学術スキャンダル)ついて、趣味的に研究しております(博論テーマはこれではないので、身バレはないでしょう)。このブログに興味を持ち、外部の学術研究者として
コミュニケーションに参与させていただきました。

特に、宗教系/政治系のネットコミュ(幸福の科学/日本会議など)について、閉鎖的言説の広がりを観察させていただいております(他コミュでも、炎上厨として登場していますが、別hnです)
創価学会系では、このブログがランキング1位でしたので、選択させていただきました。

今回の一連の言説交換を見て、創価学会/日蓮正宗めぐる権力関係の複雑さについて、学ばせていただきました。幸福の科学や日本会議よりも、ずっと複雑です。みなさん、苦労されているのですね。。。分析も骨が折れそうです。

皆様を不快にするような言説を吐いたことはお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。
ただこれはほとんど私が考えたのではなく、 日蓮教団の研究をしている友人(多分彼は無信仰者)に考案してもらいました。特にシンさま、かなりのお怒りを買ってしまったようで。。。申し訳ございませんでした。そこまでヤバいことを言っている自覚はありませんでした、よく叱っておきます。

ちなみに友人も、 日蓮系の信者に「もっと勉強しろ」などという気は皆無のようです。
彼いわく、上座部仏教と違って大乗仏教は理論的に整備/体系化されていないので、色んな異なる教えが出てきがちなのだとか。日蓮も、教義の根幹である本尊義が多義性をはらんでおり、色んな解釈が可能。日蓮正宗の大御本尊信仰も、後世の創作が定説みたいですが、個人としての信仰としてはありでしょ…と友人は言っていました。板曼荼羅(大御本尊、と同義ですよね…?)については、すでに興味を持っている学者はほぼ皆無のようです。
ですので、このブログには色んな信仰の方がいらっしゃるようですが、どれも個人的信仰としてありだと友人はいっていますので、ご安心いただいて大丈夫です!

葬儀関連の話も面白いですね。。。
なんだか会館の使用方法に関しては、リソースマネジメント/オペレーションの問題のような気がしますが、皆様が抱いておられる情念が関わると問題が複雑化するんですね。

今回のやりとりをもとに、皆様の言説を研究し、論考にまとめますが、広く公開する事はありませんのでご安心を(^O^)

色々とありがとうございました。

皆様に再度心よりお詫び申し上げます。ご迷惑おかけ致しました。
アク禁については、二度とこちらにお伺いする予定はないので、どちらでも構いません。

自暴自棄にならないで。

善根を成せば必ず栄えるとあります。

橋を作って(善根?)結果、税金が上がる(悪果)ってパターンもありますがね。

現証としては結構出ているのに脱会出来ない…3代会長のせいというより、判断力の弱さを露呈しているようです(*_*)

学会員さんでも御書を沢山知っていて…でも何だかトゲトゲしいコメントの方もいらっしゃいますね…

破門になってから25年…25歳以下の学会員さんは御受戒を受けていない…優秀なかたもいるのかもしれませんが。

せっかく御題目を唱えさせていただくのだから、文底独一本門とは?…護法の念とは?と考えないのでしょうか?

励ましたいはずがダメ出ししてしまいました。失礼しました。

要は人身は得難いのでもう少し穏やかな気持ちで大聖人様を求めてみたら…そのために大石寺の公式サイトご覧になってはどうかと…自他共に幸せを願ってコメントさせていただきました。

至らぬ文章申し訳ありませんm(__)m

No title

こんばんは
(私の感想)
このイプさんはあれですね
お一人様宗教と池田創価学会のミックスのような感じですね
もうほんとややこしいです。何を言っとるのかようわからん(T_T)
私の境涯が低いのだろうか?(笑) 









判断力の弱い学会員さん…

命令してあげたほうがいいのかな?命令したら、宗教は自由だから!とか警察呼びます!って言うよね?

じゃあ黙って邪宗で地獄に落ちていく人達を見ておくのって無慈悲だよね?


だから大石寺の公式サイトでも見たらどうか?と忠言したつもり。

日寛上人の喜んでくださる信仰しようよ。学会には選挙、財務、友人葬、登山不要論、御書の曲解(正しい御書の拝し方をされたから亡くなる時の自分が見えた日寛上人に申し訳ない)ばかり…

うるとらまんさん

こんにちは。

> 教えて欲しいことがあります。
> なぜ宗門は創価学会出現できるまで御書を発刊しなかった
> のでしょうか?
> あるいはできなかったのでしょうか?

私は正宗関係者ではないので真相はわかりません。
あくまでも私の想像・感想としては
「できなかった」というのが半分で
「その必要がなかった」というのが半分です。
「できなかった」理由は、人員や金銭的な部分だと思います。
創価以前は、正宗は小さな宗派でしたので。
「その必要がなかった」理由は、
日蓮正宗では古来御書の講義はご僧侶が行うもので
信徒同士が学びあう。ということはなかったと思われるからです。
ですから、信徒が御書を持つ必要はなかったのではないかと想像します。
御書が誰でも手に入るようになった現在では
メリット・デメリット両方あるような気がします

牡丹さん

こんにちは。

> けれども創価学会員同士、特に上から下へは日常会話ですね。
> 相手を黙らせたい時の常套句です。
> お有難い『ご指導』のまとめもだいたいこれ、斜め上からのトドメの一撃、これにて一件落着!というのがパターンとして身についてしまっているアホな婦人部幹部のなんと多いことか。
> 何も考えずに言葉を垂れ流す。
> 相手が誰だろうと同じパターンでしか話が出来ない。
> ずっとこの有様ですから、婦人部の人材なんて育つわけがありません。
> というより人材不足だから幹部がアホしかいないのか。

たぶん、まともな感覚の人は、幹部になれない。またはならないのだと思います。
最初は訳が分からないので役職を受けてしまいますが
ある程度やるとこいつらとは、つきあってられね~。って普通の感覚なら思います(笑)

> 創価学会の組織には温かさもあると仰る方もいらして、そうなのかもしれない、とは思いますが少なくとも婦人部の組織の上にいけばいくほど温かさとは程遠く、冷たいものです。

いやいや、男子部・壮年部も相当なもんですよ。

> 管理人さんから「そこかい!」と言われそうですが、いやはやコミニュケーション能力は大事だなあと。
> 話を聞いて欲しければ相手の話をしっかり聞いて相手の言わんとすることを理解する。理解しようとすること。
> 話を続けたければ、それを言っちゃあおしまいよ、という言葉・話題は礼儀として出さないこと。
> 話題を勝手に変えないこと。
> 自信と自己愛をごっちゃにしないこと。諸々。

そこかい!(笑)

ディスミナシオンさん

こんにちは。

> 重ねて謝らねばならぬことは、私は某大学院院生です(学術系出版社勤務のような上品な方は、こんな事しません)。専攻は、情報社会論、あと少し宗教社会学。ネット上のコミュニティにおける言説と炎上、さらに宗教的コミュニティと学術系情報の出会い(信仰に不都合な学術的事実、所謂 学術スキャンダル)ついて、趣味的に研究しております(博論テーマはこれではないので、身バレはないでしょう)。このブログに興味を持ち、外部の学術研究者として
> コミュニケーションに参与させていただきました。
> 特に、宗教系/政治系のネットコミュ(幸福の科学/日本会議など)について、閉鎖的言説の広がりを観察させていただいております(他コミュでも、炎上厨として登場していますが、別hnです)
> 創価学会系では、このブログがランキング1位でしたので、選択させていただきました。

そうでしたか。

> 今回の一連の言説交換を見て、創価学会/日蓮正宗めぐる権力関係の複雑さについて、学ばせていただきました。幸福の科学や日本会議よりも、ずっと複雑です。みなさん、苦労されているのですね。。。分析も骨が折れそうです。

がんばって分析してくださいね。

> 皆様を不快にするような言説を吐いたことはお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。
> ただこれはほとんど私が考えたのではなく、 日蓮教団の研究をしている友人(多分彼は無信仰者)に考案してもらいました。特にシンさま、かなりのお怒りを買ってしまったようで。。。申し訳ございませんでした。そこまでヤバいことを言っている自覚はありませんでした、よく叱っておきます。

まぁ、言い分が身延系の言い分だったので。
ただ真剣に信仰をしている人間に対してそのような言動をすればそれはそれは怒られます。
信仰者にとって信仰とは命そのものです。他人の命を興味半分に傷つけるるのは褒められたものではありませんが
こうして正直に謝罪したことに対しては受け入れます。
だた、信仰者の中には暴力的な集団も存在しますので充分な注意と覚悟を持っていただきたいと思います。

> ですので、このブログには色んな信仰の方がいらっしゃるようですが、どれも個人的信仰としてありだと友人はいっていますので、ご安心いただいて大丈夫です!

ははは(笑)身延教学ごときを言われて不安になんてなりませんから逆に安心してください。とご友人にお伝えください。

> 葬儀関連の話も面白いですね。。。
> なんだか会館の使用方法に関しては、リソースマネジメント/オペレーションの問題のような気がしますが、皆様が抱いておられる情念が関わると問題が複雑化するんですね。

そうですね。面白いっちゃ面白いですね。

> 皆様に再度心よりお詫び申し上げます。ご迷惑おかけ致しました。
> アク禁については、二度とこちらにお伺いする予定はないので、どちらでも構いません。

アク禁?しませんよそんなこと。
約束の記事もまだ書いていませんし。
まぁ、偽書論については誰に言われなくても書かなければならない事なので書きまのでよかったら読んでください。
と言ってもあなたの研究目的であれば、そんな教学的なことは興味ないでしょうから強制はしませんが。
二度と来ないなどと言わずに来てください。
そのうち貴方も大聖人仏法に興味を持つかも知れませんからね(笑)

元創価班さん

こんにちは。

> (私の感想)
> このイプさんはあれですね
> お一人様宗教と池田創価学会のミックスのような感じですね
> もうほんとややこしいです。何を言っとるのかようわからん(T_T)
> 私の境涯が低いのだろうか?(笑) 

ははは(笑)
さぁどうでしょうね。
池田センセを信望しているという心情は現れていますね。
今の創価執行部は間違っている。でも池田センセは間違っていない。悪いのは執行部だ。
どこかで似たようなことを言ってる3名様もいますが
結構、このパターンの会員さんは多いですね。
個人的にはこのロジックはあり得ませんが。

イプシロンさん

こんにちは。

もういいでしょう。私とあなたの相違点はひとつだけなんですよ。
あなたは、大御本尊を信じていて、池田先生を正義だと思っている。
私は、大御本尊を信じていて、池田大作を謗法者だと思っている。
つまり、相違点は「池田大作」が正が邪か。その一点です。
そこからあなたは私に対し違和感を持ち、私もあなたに違和感をもつ。
でもね、貴方と私にとって「池田大作」の信心の正邪なんてなんの関係もないのです。
なぜなら、貴方も私も大御本尊を信じているからです。
私は、貴方のようなバリバリの池田教学の持ち主が大御本尊に信をとっていることをむしろ賞賛します。
教学の所詮とは「大御本尊に信をとる」ことですから、それがあればそこまでのプロセスは関係ありません。
大御本尊を信仰の根本においている私たちが
「池田大作」の信心のあり方で論争する必要はどこにもありません。
それは、大御本尊を捨てた者達に漁夫の利を与えるだけです。

大聖人は、

◆忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり(松野殿御返事)

と言われています。
なので、これ以上やりあうのはやめませんか?
ただ、あたなが私のことを謗法というならば話は別ですよ。
その時はとことんやります。
でも、大御本尊を信じてる人間を謗法とは思わないでしょう?
私もあなたを謗法とは思っていませんから。
今後はもっと実りのある対話をしましょう。

名乗ります?さん

こんにちは。

> 判断力の弱い学会員さん…

いきなり、こんな風に呼びかけたら誰も大石寺のサイトを見てくれませんよ(笑)
「坊主を盲信する法華講員さん・・・創価のサイトを見てみましょう」って言われたら
名乗ります?さんだって見ないですよね?
それが人情ってもんだと思います。

>日寛上人の喜んでくださる信仰しようよ

これには大賛成です。
創価の一般会員は皆、日寛上人の書写した御本尊のコピーに拝んでいるのだから
日寛上人に反する信心をしてはいけませんね。

イプシロンさん

あなたの存在は「生かされるままに生きる」ブログの時代から存じていて
過去に あなたの嫉妬論を読んで 下記リンクの記事を書いたこともありましたが
直接、やり取りしたのは初めてですね。

⇒※ http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/201012060000/
http://smw69.exblog.jp/12135260/
(ブログ内の映像はこちら⇒https://www.youtube.com/watch?v=q46dgvSsUhM


※偶然なんでしょうけれど そういえば、婦人部の白ユリさんが
 この記事で⇒http://blog.goo.ne.jp/suzuran-kayoukai/e/be09a6566f53c3e275824a33a1719737?fm=rss
 まんま「No.411:生かされるままに生きた結果・・・」に書いてあったような
 女王様のヲチを見事に書いていて、思わず噴いてしまいました。)



・・・ま、そんな余談はともかく ここから本筋 に入りますが
まず・・・

>>ゆえに、会則で大御本尊を否定していても、わたしのように「なにいってやがる! 
>>なんでお前ら執行部に心の内面をこうしろと指図されるいわれがあるんだ。
>>そんなものありゃしないわ! 会則なんて糞くらえだ! 
>>そんな自由まで奪われてたまっか!」と自分の信念をもって
>>自分は自分の一念で大御本尊を受持して信心していくんだという会員もいるということです。
>>それを一括りに……ということです。
・・の件について

普段から イプシロンさんが そう思っていらっしゃるのなら
ここの管理人さんに対し 12月9日(12:25)のコメントにて
「弘安の御本尊が出来る前は 一機一縁だから成仏ができない」
・・と言わんばかりの前提で 破折を仕掛けるようなコメントを書くのは
小門違い・・というか、ミスリードになってしまうんじゃないでしょうか?

尚 あなた自身が そう思っていなくとも こちらからみたら そのようにしか見えません
まして あなたの交友関係など考慮すると
大御本尊をしっかり否定している(自称)妙法ジャーナリストと書き方がそっくりの
創価脳の方々のお仲間もいるので、尚更・・・

参考に2016年12月9日(12:25)に書いた
あなたのコメントを再掲載しておきます。


-以下 2016年12月9日(12:25)のイプシロンさんのコメント
(※カッコ内の番号は 誘導手順)

(1)こう考えればいいでしょう。大聖人の時代、大御本尊を御図顕されるまえに
  弟子門下に一機一縁の御本尊を下賜された。

(2)そういう事実を鑑みて、管理人さんの理論をそこに当てはめてみてください。

(3)であると、一機一縁の御本尊を下賜された弟子門下は成仏できないことになってしまいませんか?

以上 2016年12月9日(12:25)のイプシロンさんのコメントより抜粋- 


次に・・・


>>おまけのパクリ、ようするに盗作・剽窃についてですが。
>>これもなかなか難しい問題ですよ。
>>盗作と見られる人が意識的にやったのかどうかを判定する方法がほぼないからです
>>(客観的な証明が困難で自白や自白の強要になりがちですからね)。
>>こういった盗作・剽窃への判例も相当数あるのですが
>>明確に基準線をひくのはそう簡単ではないですね。

- 中略

>>所詮、人類数千年の歴史にあって
>>作られた作品がどこかの何かに似ているということは
>>避けようがないことともいえるでしょう。
>>ただ、金銭利害、社会的影響のあるものだと
>>こうした問題は放置していいものではないでしょうね。
 ・・・の件について

その通りですが その意見は阿部日ケ~ン(院政)に述べてください
あの人の問題は 相手を貶めたいのが本音なのでしょうかれど
あなたが最後に述べていた
「人類数千年の歴史にあって作られた作品が
 どこかの何かに似ているということは避けようがない」部分すら
すべて一括りにして「著作権泥棒」と決めつけちゃっている点なんです。




あと別のコメントで「五座三座の勤行」にこだわっておりましたが
五座三座の勤行を決めたのは日蓮正宗ではなく
創価学会の戸田会長からで 創価学会みずから決めたことなんですよ
しかも裁判記録から勤行0分という証拠が出てきているのにも関わらず
会員に対して 池 田 先 生 自 ら・・・

「五座三座の勤行をやらないやつに限って信心がおかしい」

・・・などと言う、ストックホルム症候群を誘発させ
相手に義務を強いるような指導記録が残っていて
「人間革命の11巻」に「指導者の言は重い」と他人事のように書いておきながら
当の本人が 今まで言っていたことに対して棚上げにし
残念ながら この発言については説明責任が果たされておりませんし
弁証法もなければ謝罪もしないまま、無責任な態度をとっております。

【証拠文献】http://www.asahi-net.or.jp/~KT8S-SGWR/SGI/GONGYOU/GONGYOU004.html
【参考文献】http://blog.goo.ne.jp/kim_jung_nam/e/8862c24f6bb551cce790dd4f217cd894


ちなみに富士要集を読むと日蓮正宗の法主自身
「一座もあれば」「六座」もあれば様々な形態になっていて
五座三座=日蓮正宗の特許ではなかった事がわかりますよ

従って 五座三座を強要していたのは日蓮正宗ではなく
創価学会だったわけです 創価学会自身 説明責任が果たせないから
この点を 創価学会側は微妙に話をすり替えて 
責任をまるなげしているわけですね

イプシロンさん

こんにちは。
これが今回の対話における最後の回答だと思ってください。(答えないままでは失礼なので書きます)

> 今回頂いた答えに、一々にいうつもりはありません。
> ただし、完全に間違われている部分だけは指摘させて頂きます。
> >「法華経という経典」がもとならば「法華経という経典」を本尊にするべきでしょう。
> 日蓮はそうしていますよね。
> 法華経という経典の正式名称、題号は何ですか?
> 題目の五字じゃあないですか。それに帰命します。7文字の題目を唱題するとはそういう意味ですよね。
> また、御書にも明確にありますが、法華経という経典の題号ををいえば、法華経の内容はすべて含まれると仰せですがね。
> これをどう説明されるんですか? これくらいちゃんと説明されてはどうですか?

はい。想定通りのご指摘です。絶対こう言ってくるなぁと予想して私はあえて「法華経の経典」と記述したのです。
つまり、「題号」とも「法華経」とも書かずに「経典」と書いたのです。
わかりますか?「題号」は「経典」ではありません。「題号に経典が含まれる」といあなたの主張は単なる拡大解釈です。
「経典を本尊」とするなら当然「法華経二十八品の経典」を本尊にするべきだ。と言ったのです。「曼荼羅」ではなく「経典」ですよ。

◆ 法体とは南無妙法蓮華経なり(御義口伝)
◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝)
◆無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり(御義口伝)

◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。(日寛上人・観心本尊抄文段)

とこのようにあるように、南無妙法蓮華経とは「経典」ではありません。
人法一箇。つまり南無妙法蓮華経とは「自受用身即一念三千」の法体なのですが、今の創価教学では理解できないと思われます。

> それともう一点。五座三座の勤行をしなさいと大聖人がいっている文証を提示してください。
> 質問に答えていないのは管理人さんあなたですよ。

はい。これもワンパターンの話です。学会の方便自我偈でいいという文証は月水御書の一説だけだしょ?しかもそれは体調がすぐれない時はという前提。同じ月水御書には

◆されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出してもあそばし候べく候。

普段は長行を読みなさいと。書いてあります。もちろん五座三座に触れてませんが、
日寛上人は、『福原式冶状』で

◇「若し堪えたらん人は本山の如く相勤むべし。若ししからずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守るべし」

とご指南され、『当流行事抄』には

◇但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり

と言われていますのでこの勤行形式は大聖人に定めたのです。

そもそも五座三座の文証を求める前に
「在家の凡夫が勝手に勤行形式を定めていい」という文証を出すのが先でしょう。
なにせ、勝手に変えたのは創価の方なんですから
「在家が勤行形式を決めていい」という文証をまず提示するのが筋です。
創価教学ってのは全く手前味噌なんですね。さんざん御書に書いてないことを勝手にやっておいて
自分たちの都合に合わせて「文証」なんて言い出す。
選挙や新聞啓蒙が広宣流布なんて文証はどこにあります?創価学会仏は?
そもそも御書に書いてなければ用いないのら、それこそ身延がいうように
「大聖人がご本仏である」という直接的な文証もありませんよ。

> 自分の中だけで納得されていて、それを他人に伝えるための言葉にしていないのです。そのことにさえ気づけておられない。

いえ。さっきコメントしましたが、貴方を破折するつもりがないので書かないのです。察してもらえれば幸いです。

> しかしながら、あたがが自分の中でわかっている言葉ではなく、誰が読んでも理解できるようにね。
> それから、単なるタイプミスですというのは礼儀を欠いていなくて、何やらわたしは礼儀を欠いているという指摘には苦笑せざるを得ませんでした。

そうですか。あなたに礼儀を欠けているなんて言ってませんよ。
他人に向かって「境涯論」を振りかざすのは好きになれない。と言っただけです。

ともかく、今回の回答で一旦回答は終了ですから今後は質問にはお答えしません。
貴方の主張する創価教学は十何年も破折し続けてきたので正直先が予想できるのです。
そして交わることは絶対ありません。
なぜなら創価教学(池田教学)は日寛教学(あえてこう書かせてもらいますが)を否定するのが主眼です。
私の教学の根本は日寛教学なので交わらないのです。

貴方の創価教学を私は否定していますから熱くなる気持ちはわかりますが、
礼儀だのタイプミスだのそんなつまらないことを言っても仕方ないでしょう。
先が見えちゃう創価教学と、細かい事をやりとりするのは正直「面倒くさい」のです。
タイプミスなんてそれこそ重箱の隅っこの話でしょ?
いちいちそんなことを言って何になるのですか?
お互いに大御本尊を信じている。それでいいじゃないですか。
もし、やりあいたいのなら先ほどのコメント書きましたが、
貴方が私を謗法だ。と決めるか
貴方が大御本尊を捨てていい。というか
そのどちらかにしてください。
それ以外は、もういいでしょう。
やりとりする気もありませんので。

管理人さんへ

おはようございます。

管理人さん、あなたの仰ることは理解します。
しかし、この一点を不明確にするのは、日蓮仏法者としての根幹を揺るがすことじゃあないですか?

>「法華経という経典」がもとならば「法華経という経典」を本尊にするべきでしょう。

『本尊問答抄』にはこうあります。
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」

あなたは、ここで私が引用した
>法華経という経典」がもとならば「法華経という経典」を本尊にするべきでしょう。

そう仰り、本尊が法華経でないというようなことを発言されたのです。
そうであるならば、また素直に読めばそうとしか解釈しようのない文言である以上、日蓮のいっていることに「違背」していることになります。
違背していないというなら、それを証明する必要があるでしょう。
あなたが間違っていたと思うなら、素直に認めて、是正すればいいだけのことですよね。
思考を変えるだけ。それですみますしね。何もわたしは金銭を要求しているわけでも、実害を及ぼしたわけでもないでしょうしね。

さて、もしもこうした謗法を見て、あなたは見ぬ振りをしますか?
ゆえに、ここだけは明快にして頂きたく思います。

他はいいです。因果・縁、ようするに下種と責任という言葉に対する解釈がわたしたちの中で相違があると見れますからね。わたしはきちんと説明できますがね。

ではあっても、問題ないと思うこともできるからです。
あなたの説明のしかたが修辞的であり、わたしは哲学的である。そうした部分もあって会話がかみ合わないのだろうと、昨夜そう気づきもしましたので。

私の発する言葉に圧力を感じるとも思います。
しかし、余計な装飾をすることでかえって感情をけば立たせるという配慮のつもりで、簡素な言葉をつかっていることを御理解いただければ、嬉しいです。

しかし、何かの縁があってのことでしょう。三世の縁でしょう。
そうした観点から、わたしはあなたに対して、またこうしたやり取りがあったことに関して、今後も感謝は忘れませんよ。これはお世辞などではなく、わたしの本心です。
最後はわたしの言葉を信じてもらえるかどうかになりますけどね。

ありがとうございます。
質問の件、重ねてよろしくお願い致します。

eco◆Smw69 さんへ

こんにちは。

ミスリードの件は、わたし自身、ご指摘されるまえに、「これは行き過ぎた」と気づいていましたよ。
ですから、管理人さんに対して失礼もあったし、相当圧力的であったことも、すでに自覚しています。
ですから、この件に関しては、管理人さんに謝罪申し上げますよ。
誠に申し訳ありませんでした、と。

eco◆Smw69 さんが、いわんとしていることは、今ははっきりわかります。
コメントした時点では、気づいていなかったということです。
いい訳に聞こえるならそれまでですがね。

五座三座の件、よくわかりました。
私の知識不足であったことを素直に認めます。
ただ一番はじめのコメントにも書きましたが、私は池田絶対主義ではないですよ。先生だって人間ですからね。間違うこともある。いきすぎもある。理想と現実がかみあわないこともある。言行不一致もあるでしょう。しかしリーダーである以上、理想を叫んでいくしかないという立場も理解すべき部分があると思っているにすぎません。

eco◆Smw69 さんのように、きちんと説明してくだされば、私は納得しますよ。
管理人さんが、それをされなかったということじゃあないですか?

あべひ氏の件。
私、あの方に直接に著作権のことはいいましたよ。私のブログのコメント欄でね。それにわたしに言えというのは、それこそお門違いですよ。あなたが持ちだしてきた質問に、わたしは自分の意見をいったまでですよね。
なぜ私があべひ氏にいわなければならないことになるんですか?
あなたが言いたいなら、あなたが直接言えばいいことです。私は自分の方からあべひ氏に関わるつもりはないですからね。コメントでもされれば、そりゃ返信はしますけどね。

それから偏見でものを言うものやめてもらえませんか。

>あなたの交友関係など考慮すると
大御本尊をしっかり否定している(自称)妙法ジャーナリストと書き方がそっくりの 創価脳の方々のお仲間もいるので、

そのお仲間というのは誰ですか? また私の交友している人って誰ですか? 具体的にHNあげてもらえませんか?
関わってもいないのに勝手に友人だとか思われるのは心外ですから。また相手に対しても失礼ですからね。
そもそも、私がどんな人と友人になろうと交流しようと私の自由なので、それをどうこう言うこと自体、失礼じゃないですか?

しかしながら、ここでそういうお話をするのは場違いでしょうね。私個人に関して何か言いたいことがあるなら、今後は私のブログのコメント欄に書いて頂きたいのですが。

よろしくお願い致します。
また、ご教授、ありがとうございます。

管理人さんへ

度々、ほんとうにすみませんね。

しかし、

>今の創価教学では理解できないと思われます。

と勝手に決めてもらいたくないのです。

だって私、頂いたコメントで理解しましたから。

「法華経」と「法華経の経典」。指してるものが違う、とね。
納得しました。

数々の失礼があったことはお詫び申し上げます。

ただね、はぐらかされて、どうせわかんねーだろうという態度を取られれば、こちらだって熱くはなりますよ。冷静さも失って、文字を正確に読めなくもなるんです。

はじめから、「法華経」と「法華経の経典」は違くね?
そう問いかけてくれればよかった話かとも思いますよ。
答えを言ってしまうのではなく、相手が気づくのを待つ。そうした配慮だったのかもしれませんがね。

それから誤解されているようなので、そこはスッキリさせたい部分があります。

>そうですか。あなたに礼儀を欠けているなんて言ってませんよ。

管理人さんは言ってません。
コメンターの方が、どうやら、私に向けていっているような場面があったのです。
でも名指しでそれを指摘するほどのことでもないので、一般論として書いたまでのことなのです。

ですから、この部分に関しては、管理人さんは全く気にされる必要のないことです。

境涯論に関しては難しいと常日頃思ってますよ。
しかし、好き嫌いでものを判断するのは仏法ではないじゃないですか。
私だって、これまでブログを通して、それこそ罵詈雑言を浴びてきましたよ(笑)。
そりゃー凄まじいものです。炎上してそれが他のブログに飛び火して、3、4も前のこと、下手したら今でも持ちだされて書かれてるくらいですよ。

そういう経験上、わたしの感覚でそれぐらいで、そんなに怒らないでほしい……というのもあるのです。
しかし、それは個々人の感受性なので、不愉快な思いをさせてしまったなら、謝りますよ。これまでも、今回も間違ったら謝るなんてこと、やってきたことですからね。

>貴方を破折するつもりがないので書かないのです。察してもらえれば幸いです。

察しましたよ。よくわかりました。
ご教授ありがとうございます。

お返事は結構ですよ。真面目に。
お時間を取らせるのは申し訳ないので。

長々お付き合いくださり、ありがとうございました。
また機会がありましたら、お話しましょう。

eco◆Smw69 さんへ

すみません。私、そそっかしいところあるので。

>「弘安の御本尊が出来る前は 一機一縁だから成仏ができない」

などと私は言ってませんよ。誤解じゃないですか?

一機一縁で成仏できたのには理由があるでしょ?
なのになぜ管理人さんは、大御本尊以外は成仏できないと言い切れるんですか?

そう問うたんですがね。
まあ、成仏できた理由はeco◆Smw69さんが提示された意見で間違ってないんじゃないですか。
そこは管理人さんも私も、双方がここではっきり言葉にしてませんが、わかってるんじゃないですか。従ってそこは問題ないでしょう。

まあ、ミスリード云々に関する気づきは、ここで改めて申し上げませんけどね。まだ私の中では思索段階なので、安易に言葉にできる状況ではないので。ただそれは、eco◆Smw69 さんが指摘されたこととは少し違うとだけ今はお伝えしておきます。

私自身は、現時点ではすべて納得しましたし、今回の件で不明点があれば自分で書物をひもとくつもりですから。

ただ、誤解されるのは心外なわけで……。

イプシロンさん

あなたが言いたいことは、概ね解りましたので、こちらも話をここまでにしておきますが
ただ一点というか(自称)妙法のジャーナリストという言葉が
最近出てきた言葉ゆえに、存じていない方々が多いので 掘り下げて説明しておくと

「宿坊板」を読めばよくわかりますが (自称)妙法のジャーナリストというのは
この人で⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%BB%8B%E9%9B%84
この人が 今年の8月までは、元創価新報の編集委員だったかな
その方を援護するような記事を書いて
味方になっていたり、犯人探しに走っていたわけですが
ところが、あいつの悪い癖が出たみたいで 
妄想が膨らんだのかどうか?存じませんが、記事を書いていくうちに
「事実と異なる色」をつけてしまい、冤罪を生みかねない記事を掲載したため
その件で「冤罪をかぶせられた人」から、当然のごとく 名誉毀損で見事に訴えられ
高裁まで争ったものの、高裁は、その名誉毀損が認め 削除命令まで出されしまい
その(自称)妙法のジャーナリストさんが敗訴したわけですが
(その時も いつものお約束通り 裁判官のせいにして悪あがきの記事も書いていたが・・・)
敗訴した途端、どういう心境の変化があったのか?存じませんが
手のひらを返して 今ままで援護してきた人をweb上で誹謗中傷し始めて・・・

【参考】http://sudati.iinaa.net/soka-doko/yanagihara160816.html

そんな経緯があったことから宿坊板の住人は
「なに?トカゲのしっぽきりみたいなことをやっているんだ、このちょうちん野郎」
・・・と言わんばかりに、愛想つかされている今日この頃で今でも対立しているわけですが 
・・・で、その対立してバトルしている過程で、宿坊板の誰かが
「渦中の人」を指して「妙法のジャーナリスト」と嫌味を書き出す人が出てしまい
本来なら「「その言葉」に反応しなきゃよかったものの 
やつは何を思ったのか?佛に褒められたと勘違いしたのか?
その辺は存じかねますが 調子にのって反応し
「妙法のジャーナリスト」を称してしまい、上目線で記事を書き出して
自己陶酔に走ったため 宿坊板からは 余計、火に油を注ぐ結果に・・・・


詳しくは この辺のスレッドや⇒http://potato.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1292818000/
宿坊板の2016年8月中旬以降のログを読むと よくわかりますよ
http://6027.teacup.com/situation/bbs

ちなみに 滋賀にお住まいのヤスムラシゲオを演じているあべひさんは
その「ちょうちんの(自称)妙法のジャーナリスト」さんを今でも信頼していて
よく自身のブログやあべひさんが参加している掲示板等で
しっかりと紹介していましたけれどね
(そういえば アメブロなうの【短文専門の掲示板】でも紹介していたな)

eco◆Smw69さんへ

こんばんは。
管理人さん、また少し場所お借りしますね。

ということでeco◆Smw69さんへ――。

自称妙法のジャーナリストの件へのご説明、ありがとうございます。
一応わたくしも、宿坊はときどき目を通していますので、お教えいただいたことは概ね知っておりました。

しかしeco◆Smw69さんが自分の言葉で丁寧に説明してくださったことに関しては、御礼申し上げますよ。

今回こちらで言葉を交わしてみて、あなたがとても誠実な方だということが、まだ少しですが見えたことも嬉しく思っています。

いわゆる世間の噂というものは、あの人がああいってるみたいだけど……といった部分ありますよね。しかしわたしの場合、軍事オタクの趣味をもっておりまして、ある時期から一次資料以外は必ず脚色されているという感覚を育ててきました。

たかが趣味といいますか、道楽の世界のことですが、それが今は非常に役だっています。
ゆえに、実社会のことであれば、まず本人が何をどう言っているのかが、判断材料というものの見方をしています。ですから、例えば権威のある著者や学者であろうと、ソースが提示されていないものはそう容易に信じませんし、出来る範囲で原典を読んで判断することにしています。

もちろんそうしたことが出来ない場合も多々あるのですが、そうした場合は、不特定多数の人が、異なった時と場所で同じことを聞いたとか、見たとかいった現症があるかないかで、その事実性を見るようにしています。いわゆる客観視ですね。

世の中には何でも自分の主観だけで判断して、わたしの言ってることは正しいと思って、他人に指摘を繰り返す人もいますが、そうした人に限って、客観視せず、だったら全部自分で確認したのか? というような理無難題で相手を責めたり、そんなに今の政治がいやなら議員になればいいといった極論を振りまわすように感じています。

ただこういう情報化社会になると、客観視も難しいですね。いまや動画さえ修正もねつ造も容易にできるわけで。

余談、蛇足が多くなりましたが、御親切、感謝しております。
またどこかでご縁がありましたら、よろしくお願いします。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR