◯これは12月13〜14日あたりにツイッターでさんざん話していたことを、分りやすくまとめて書き直そうと思って書いた記事です。
◯文章中何度も書いていますが、ここで挙げられているのは一部の腐女子の問題であり、「そうでない人」はいくらでも存在します。腐女子という存在を否定するような意図はむしろなく、腐女子を取り巻く社会とそれによって培われる思考について明らかにしてみたい、という気持ちで書きました。諸々ご了承ください。
アニメ「ユーリ!!! on Ice」によって暴かれたBL消費者の思考回路には、考えなくてはならない点がいくつもあった。
中でも引っかかりを感じたのは、男性同士の恋愛を愛してやまないはずの腐女子の一部から、極めてホモフォビックな言葉が出てきたことである。
あえて差別用語を原文そのままに使って書くと、「これは"単なるホモアニメじゃない"」といった同性愛嫌悪が「ほめ言葉」として使われていたり、「これはホモよりもっとすばらしいものだ」といったバカバカしい愛のランク付けが、平然と行われているところを何度も見た。
この件について残酷なのは、こうした差別的な感想が露悪的・攻撃的に口にされるものでは全くなく、むしろ無邪気に悪気なく「差別するつもりのない」言葉として使われている部分だ。
なぜ一部の腐女子の間では、差別がまかり通ってしまうのだろうか?
以前こんな記事を書いた。
なぜ「男性同士の恋愛描写を公式で行うことが男性同士の恋愛描写を好むはずのクラスタから嫌悪される」という現象が発生するのか?という問題について考えたものである。
この記事の中で、BLが自身の性欲のありかを撹乱したい女性にとって救いになりうる、という話に触れた。
自己ー肉体ー性別ー性欲、という直列繋ぎが、生きる上でどうにも断ち切れないものである事実には多くの人に同意してもらえるだろう。人権は肉体に生まれ、肉体には性があり、そこには性欲がある。人によって存在のし方が異なることや性別・性欲が欠けていることはあれど、構造自体は変わらない。
BLはBL消費者の性欲がどこにあるのかを見えなくさせる。簡単な例を出せば、若い女性が「勝気でサバサバしたOLがちょっと天然な同僚の男性と運命的な恋愛をする漫画」を読んでいる場合と、若い女性が「愛が理解できないヤクザがミステリアスな暴力団潜入捜査官と運命的な恋愛をする漫画」を読んでいる場合ならば、後者のほうが圧倒的にどこに感情移入しているのか分からないということだ。「腐女子の性欲がどこにあるのか問題」には答えがない。それは一瞬一瞬・個々人・作品ごとに変わり、読者は受けにも攻めにもモブにも壁にも神にもなりうる。
で、「なぜ性欲を隠さねばならないのか?」
もちろん自分自身の肉体にまつわる性欲を隠さない腐女子もいるわけで、これは一部のクラスタの話である。だが、BLが持つ「性欲のありかを隠す」という効能に惹かれてBLジャンルにいる人は相当数いることと思うし、そういう層のニーズがBLを支えている面も存在するだろう。
考えられる一番大きな理由は、「自己嫌悪」だ。それは「自分の性への嫌悪」であり、もっというと、「自分の性欲への嫌悪」、「性欲を持つ自分への嫌悪」である。
この自己嫌悪は、社会的に生み出されてしまったものである場合が多い。
男性に比べて女性は圧倒的に「エロ」を語ることを社会的に許されていないし、性欲を持っていること自体に罪悪感を感じている場合も少なくないと思う。親との関係が近すぎて、性的なものへの嫌悪が拭い去れない(自分自身がまだ子供であるかのような錯覚がどこかにある)というケースも考えられるのではないか。もちろんもっと個人的な体験による原因も多いに考えられるし、根拠と言える根拠がないので推測の域を出ないが……。
さきほど言った通り、自己と性欲は直列繋ぎでつながっているも同然である。それゆえに、性欲への嫌悪が自分への嫌悪にすり変わることは簡単だし、さらに自分が性欲を向けているものへの嫌悪へ変わることも容易なのだ。
つまり、以下のようなプロセスが考えられる。
(1)自身の性欲への嫌悪からBLを消費する。
(2)しかし昇華の過程が複雑になっただけで性欲をBLに向けていることに変わりはないので、さらに性欲を隠し嫌悪する方向へ向かう。
(3)自分の性欲は隠さねばならない/不適切である/普通ではない、という思考が、自分が性欲を向けているBLは隠さねばならない/不適切である/普通でない、へすり変わる。
ここで問題になるのが、腐女子は男性同性愛を消費する存在でありながら、(ごくわずかな例外を除いて)男性同性愛の当事者ではないということだ。
上記のプロセスは、人間の肉体と性が直結している以上、思考回路としてある意味当然の流れかもしれない。本人にとってはBLが自分の領域であり、どう扱ったとしても同じ趣味の身内の問題でしかないと信じているためだ。しかし、これを客観的に見れば、(非常に悲しくて残念なことだが、現代社会に広く蔓延する)同性愛差別にしかならない。BLは私たちのものであり、同時に全く私たちのものではない。
ここでは当然「じゃあ当事者なら蔑称を言ってもいいのか」という意見が出ると思うので、少し話がそれることを承知で掘り下げてみよう。これはあくまで私の考え方であるということ、そして私はすべての人間は性の当事者だと思っているので、セクシュアル・マイノリティーについて当事者・非当事者という分類は好ましくないと捉えていることを、先に断っておく。
その上で私は、現時点での「あなたと私」レベルにおいては、当事者が自らを指して蔑称を使うことを「差別だ!」と咎めることは難しいと考えている。というより、感じている、と言ったほうが正しいかもしれない。
もちろん、ポリティカル・コネクトレスとして蔑称は許されざるものである。私がもし議論の場を仕切っていて、発言者が「レズ」という言葉を使ったならば、その人がレズビアン含むどんなセクシュアリティであっても咎めるにちがいない。議論とは個々人の身体を離れても通用する論理で行われるべきだからだ。
しかし、個人間の対話や、SNSのプロフィール欄など、「その人の言葉であるということが重要性のほとんどを占める言語コミュニケーション」の場において自らを指して使われる蔑称に、「差別だからやめろ」と注意することができるだろうか。
……困難だ。そこには個人的な経験がある。今よりもっと差別的な時代から培われてきたカルチャーの中で当たり前になっていたり、自嘲や差別がなくならない社会への皮肉が混じっているかもしれない言葉に、マジョリティー側が「ポリコレに反するぞ」と怒ることは、どうしようもなく残酷だ。「そんなことを考えて使っているわけではない」と言う当事者の人もいるかもしれないが、いわゆるマジョリティーとして扱われる側に属している以上、なくても推測してしまう。
差別は絶対に良くないし、そのためには言葉から変えていかないといけないのは分かっているが、どうしても「自分はセクシュアリティで差別されたことがない」という自我は、いわゆる「性的マイノリティー」への罪悪感を生む。自分のものだったかもしれない苦しみを受けている相手として、意味がないと知っていても謝罪の気持ちがぬぐえない。
言葉遣いに関して、すべての人がポリコレを前提とする社会の実現については、まだ時間がかかると言わざるを得まい。目の前の相手を傷つけることの恐怖が政治的正しさを覆い隠すことは、良くある。
で、本題に戻る。
「差別するつもりはない」と言いながら蔑称を使い差別的な発言をするのも、ある意味では矛盾せず、本当のことになるのだろう。本人の中では、それは差別だと認識されていないのだから。ホモフォビアを社会通念として認識している人は、差別に気づけない。差別が前提となった場所では、差別は問題にされないのだ。
でも、現代社会で差別が前提になることを許してはいけない。どのような気持ちで行った考えであっても、どれほど複雑な思考の結果であっても、それが客観的に見て差別に当たるなら、自分で止まらねばならない。
今必要なのは、自分の考えを客観視することではないだろうか。差別する気持ち自体は、ある程度は仕方ない。人間である以上、どうしても自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ちが無意識に発生してしまう。ならば、自分の中の差別心に気づかねばなるまい。なぜ自分がそう思ったのか、自分を相対化するしかない。自分がなぜ差別を内包するのか、ゆっくり目をそらさずに考えていくべきだろうと、自分自身へ言い聞かせる意味も込めて、ここに書いておく。