名言・格言『戦国時代の武将の気になる言葉・家紋』一覧リスト
歴史に名を残した戦国時代の武将の名言・格言・家紋をまとめました。
毎日が死と隣り合わせの乱世を生きた、強く気高い戦国武将の意識に少しでも触れられればと思い、本ページを作成しました。
以下、戦国武将・大名87人の名言・格言(330選)になります。
力強い言葉に気持ちが高まり、今を懸命に生きる活力になれば、誠にありがたいかぎりでございます。
好奇心に、こちょこちょ。 | labo気になる言葉(名言・格言・ことわざ) | wordsof
- 戦国時代の大名・武将・僧 一覧
- 山名 宗全
- 朝倉 孝景
- 太田 道灌
- 北条 早雲
- 朝倉 宗滴
- 山本 勘助
- 斎藤 道三
- 毛利 元就
- 松永 久秀
- 立花 道雪
- 馬場 信春
- 尼子 晴久
- 北条 氏康
- 今川 義元
- 陶 晴賢
- 六角 義賢
- 武田 信玄
- 柴田 勝家
- 三好 長慶
- 森 可成
- 太田 牛一
- 高坂 昌信
- 明智 光秀
- 山県 昌景
- 宇喜多 直家
- 本多 重次
- 龍造寺 隆信
- 虎哉 宗乙
- 大友 義鎮
- 上杉 謙信
- 小早川 隆景
- 前田 慶次
- 島津 義久
- 織田 信長
- 荒木 村重
- 佐々 成政
- 三枝 昌貞
- 足利 義昭
- 豐臣 秀吉
- 戸川 秀安
- 前田 利家
- 鍋島 直茂
- 長宗我部 元親
- 前田 玄以
- 大賀 弥四郎
- 島 左近
- 九鬼 嘉隆
- 徳川 家康
- 竹中 半兵衛
- 堀尾 吉晴
- 浅井 長政
- 山内 一豊
- 山中 鹿介 幸盛
- 黒田 如水
- 最上 義光
- 南部 信直
- 吉川 経家
- 本多 忠勝
- 仙石 秀久
- 堀 秀政
- 毛利 輝元
- 脇坂 安治
- 蒲生 氏郷
- 藤堂 高虎
- 片倉 景綱
- 大谷 吉継
- 石田 三成
- 直江 兼続
- 大久保 忠教
- 後藤 基次
- 福島 正則
- 飯田 直景
- 加藤 清正
- 加藤 嘉明
- 細川 忠興
- 森 蘭丸
- 池田 輝政
- 真田 信之
- 真田 幸村
- 立花 宗茂
- 伊達 政宗
- 黒田 長政
- 阿部 正次
- 木村 重成
- 柳生 宗矩
- 宮本 武蔵
- 前田 利常
戦国時代の武将の名言・格言・家紋 一覧リスト
戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。乱世により室町幕府の権力は完全に失墜。守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。
※見解分かれますが、本ページでは、戦国時代の始期の目安を1467年の応仁の乱とし、終期の目安を大阪の陣としています。
山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)
室町・安土桃山時代の僧 | 守護大名 | 山名氏
(1404年7月6日 - 1473年4月15日 病死:享年70歳)
室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれた。東軍の総大将は細川勝元。
※応仁の乱:室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
山名 宗全の名言・格言
およそ例という文字をば、尚後(きょうご)は時という文字にかへて御心あるべし
過去の例を探すのでなく、今後はその時に応じ対応することが重要である
朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
室町時代の人物 | 守護大名 | 越前国 | 朝倉氏
(1428年6月2日 - 1481年8月21日 死去:54歳)
室町時代中期の武将。朝倉氏の7代目当主。幼名は小太郎。その後、改名は教景(のりかげ)と名乗り、次いで敏景→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」と表記することがある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。
朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前(福井県)の豪族であったが、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となった。父・家景は早くに亡くなったため、祖父の朝倉教景の補佐を受けた。
主君は「斯波義敏」→「義寛」→「義廉」
応仁の乱で武功を立て、主君・斯波氏に代わって越前の大名になった下克上の先駆け。徹底した実力主義。
朝倉 孝景の名言・格言
人の上に立つ主人たるべき者は、不動明王と愛染明王のごとくあれかし
不動明王は悪魔を降伏させるために憤怒の表情をしているが、国家の安泰や人々の健康や家内安全を守る仏さま。
愛染明王は、怒りの表情に反し、愛情深い優しい心を持つ愛の仏様。
この二つの仏こそが、上にたつ者のあるべき姿と朝倉敏景は説いている。
朝倉敏景十七箇条(英林壁書)
朝倉家に於ては宿老(しゅくろう)を定むべからず。
その身の器用忠節によりて申し付くべき事。
世襲制度を廃し、実力主義を採用すべきである。
城内にをゐて夜能被好ましき事
町を警備する武士の士気低下や油断を戒めるため、夜、武士の館で、宴会や猿楽を上演することを禁じた。
朝倉が館之外、国内に城郭を構へさせまじく候
国人・地侍の塁館建造を禁止した。
惣別分限あらん者、一乗谷へ引越、郷村には代官ばかり置かる可き事
国人・地侍に朝倉家の館がある一乗谷の移住を命じた。
名作之刀さのみ被好間敷候、其故は万疋之太刀を持たり共百筋之鑓には勝間敷候、万疋を以て百筋之鑓を求百人為持候は一方は可防候
高価な名刀一口買うのであれば、同じ金員で、百の鑓を買うべきという合理的な教え。
家中諸奉公人の内、たとえ不器用・不調法であろうとも、忠誠心が強い者には格別の愛情で扱うべき
不器用で気が利かない者でも、強い忠誠心のある者は、愛情を持って大切にすべきである。
このほか、平穏無事に慢心せず遠近諸国の情報を聞き取り警戒に努めること、京都の雅やかな暮らしを捨てて質素倹約を重んじること、年中3度の領内巡行や伽藍仏閣町屋巡検のことなど民生面にも配慮すべきことなどを規定した。
太田 道灌(おおた どうかん)
室町時代の人物 | 戦国武将 | 城の建設 | 武蔵国 | 相模国 | 太田氏
(1432年 - 1486年8月25日 暗殺:享年55歳)
室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。諱は資長(すけなが)。
主君は「上杉持朝」 → 「政真」 → 「定正」
家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城(1457年)したことでも有名。
山内上杉家の策謀で主人定正に謀殺される。軍略に優れ、和歌にも長じた。
太田 道灌の名言・格言
兵法に通じている者は兵の多少によらず、勢いに乗ずるものである。自分が歌を歌う声に和唱して進んで戦えば勝つ。
急がずば ぬれざらましを 旅人の あとよりはるる 野路の村雨
「急いては事を仕損じる」を詠んだ歌。
当方滅亡
死に際に言い残した言葉。
北条 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)
室町幕府奉公衆 | 戦国大名 | 備中国 | 伊豆国 | 相模国 | 北条氏
(1432年又は1456年 - 1519年9月8日 死去:享年64歳または88歳)
室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢(※)であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
※嚆矢(かぶらや):物事のはじまり、最初
北条 早雲の名言・格言
どこまでも自己というものを念頭に置いてはならぬ
言葉について常に慎んでいなくてはならない。
一言聞かれても、その人の心は他に知られるものだから、注意せねばならぬ。
自分自身でまず万事をやってみて、十分にようすを知り抜いた上で、それから人にやらせてもよいものである、と考えなくてはならぬ
上下万民(じょうげばんみん)に対して、一言半句(いちごんはんく)にても嘘言(そらごと)を申すべからず
神仏を礼拝することは、身の行ないというものである。
神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い、下なる者を燐み、包み隠しなく、有るをば有るとし、無きをば無いとして、ありのままの心持ちで生活することが、天意にも仏意にも叶うというものである。
人の行ないの善悪などというものは、皆その友人によるといっても過言ではない
数多(あまた)まじはりて事なかれといふことあり、何事も人にまかすべき事也
朝は常に早く起きるように心がけねばならない。
遅く起きるならば、下の者までが気持ちを緩めてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。
早起きを心がけよ、下の者の気を緩め、大事への対応もおろそかとなる。
刀・衣装、人のごとく結構に有べしと思ふべからず
文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである
文武両道
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朝倉 宗滴 / 朝倉 教景(あさくら そうてき / あさくら のりかげ)
戦国武将 | 越前国 | 朝倉氏
(1477年 - 1555年9月23日 病没:享年79歳)
戦国時代の武将。越前国の戦国大名朝倉氏の一族。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の重鎮としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた名将である。諱は教景(朝倉教景)だが、出家名の宗滴の方が有名。茶器・九十九髪茄子を所有していたことでも有名。
朝倉孝景の八男。幼名は孝景と同じく小太郎。
朝倉 宗滴の名言・格言
犬とは言え畜生とは言え勝つ事が本義にて候
山本 勘助(やまもと かんすけ)
武田二十四将 | 戦国武将 | 隻眼 | 山本氏
(1493年? - 1561年10月18日? 討死)
戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼斎を称しているが、文書上からは確認されていない。近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられ武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっている。
晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。『真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。
天文20年(1551年)晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では晴信の出家は永禄2年(1559年)とされる。
天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。
永禄4年(1561年)川中島の戦いで討ち死にした。
斎藤 道三(利政)(さいとう どうさん(としまさ))
戦国大名 | 美濃国 | 織田信長の義父 | 斎藤氏
(1494年? - 1556年5月28日 戦死:享年63歳)
北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。道三は「美濃の蝮」の異名を持ち、戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した。後に義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。
戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡したことも有名。
「長井景弘を謀殺し(急死説など諸説あり)長井家の跡取り」といった所業から松永久秀・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
斎藤 道三の名言・格言
山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候
自分(山城:山城守を称した道三)の子供たちが信長に従属するであろうことを予見した言葉。一度会っただけで信長を理解した道三の先見性を感じます。
斎藤 道三の辞世の句
身を捨てて、この世の他に生きる世なし。
いづくか終(つい)の住処(すみか)なりけぬ。
毛利 元就(もうり もとなり)
戦国大名 | 安芸国 | 毛利氏
(1497年4月16日 - 1571年7月6日 死去:享年75歳)
室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。
安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「謀神」「謀将」とも評されるが、「知将」の呼び名の方が高く、「戦国最高の知将」と後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物。
毛利 元就の名言・格言
この矢一本なれば、最も折りやすし。
しかれども一つに束ぬれば、折り難し。
汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ。
有名な「三本の矢」の逸話。
元就は「一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた」というもの。これが元就の臨終前の出来事とするのならば長男が先に死んでいるため有り得ない。それ以前とするのならば青年期の人間が竹の矢を三本折ることができるのか、できないのかという疑問が残る。
我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ (天下を競望せず)
国人から大名にまでのし上がった元就は、かつての主家である大内・尼子が天下を目指したために勢力を落として滅亡したのを見ていたことから、隆元や元春、隆景ら息子達には守成を託した。中国地方制覇を成し遂げた頃、元就は既に老齢であり、自分の代での版図拡大がこれ以上は困難であると悟ったからである。
天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。
天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ。
言葉は心の使いである。
言葉によって、その人が善か悪か、才能があるかないか、剛勇か臆病か、利口か愚かか、遅いか速いか、正直か正直でないか、そうしたことがすぐにわかるものだ。
一芸もいらず、能もいらず、遊もいらず、履歴もいらない。
ただ日夜ともに武略、調略の工夫をすることこそ肝要である。
厚き恩信を思はゞ大勇の者にあらず
「恩に報いるため、死を持って」と思うのは、大いなる勇者ではない
毛利 元就の辞世の句
友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
毛利十八将
小早川隆景、 吉川元春、 宍戸隆家、 天野隆重、 吉見正頼、 児玉就忠、 桂元澄、 福原貞俊、 口羽通良、 志道広良、 赤川元保、 粟屋元秀、 渡辺長、 熊谷信直、 国司元相、 粟屋元親、 飯田元親、 井上元兼
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松永 久秀(まつなが ひさひで)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 大和国 | 茶人 | 松永氏
(1510年? - 1577年11月19日 爆死による自害:享年68歳)
戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父母は不明。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害したとされている。
「謀殺による三好家乗っ取り」「東大寺大仏殿の焼き討ち(原因は諸説ある)」「永禄の変での将軍暗殺」などの所業から斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
松永 久秀の名言・格言
名を惜しむ勇士は 死に際の養生こそ心がけるものなり
平蜘蛛の釜と我らの首と二つは、信長殿にお目にかけようと思わぬ。
粉々に打ち壊すことにする。
信長が所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが拒絶した際の言葉。
立花 道雪/戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)
戦国武将 | 筑前国 | 立花氏
(1513年4月22日 - 1585年11月2日 病死:享年73歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名大友氏の家臣。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。
真偽はわかっていないが、道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀「千鳥」を「雷切」と改名し、傍らに置いていたとされる。またこの逸話から、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていた。
立花 道雪の名言・格言
人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う
主君である大友宗麟に対しての諫言。主君であっても間違っていると思った時には歯に衣を着せなかったそうだ。
弱い兵卒などいない。いるとすればそれは大将の責任である
戦は運、不運が絡むもの。お前の頑張りは私がよく知っている。手柄を立てようと焦って討ち死にするのは不忠である。お前達がいるからこそ私も安心して戦場に出られるのだ。
戦場での働きが振るわない家臣に対しての励まし。
今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう。
酒の席で部下が粗相をした際、客に話し部下に恥をかかせなかった。
異方に心引くなよ 豊国の鉄の弓末に 世はなりぬとも
大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ
反面、軍律に関しては非常に厳しかった。
馬場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)
武田二十四将 | 武川衆 | 馬場氏
(1514年または1515年 - 1575年6月29日 戦死:享年61)
戦国時代の武将。武田四天王の一人。
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」の異名を持つ。
江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など各地(特に東海道方面に多い)の武田方の支城を建設した築城の名手でもあった。『甲陽軍鑑』には山本勘助から築城術を教授されたとある。
また、「智勇常に諸将に冠たり」と『甲斐国志』に記され、一国の太守になれる器量人であると評されている。
馬場 信春の名言・格言
常在戦場
「不死身の馬場美濃」の所以かもしれません。
敵より味方が勇んでいるときは、それぞれ先を争えばよい。味方が臆して見えるときは、自分一人が進んできっかけをつくる。味方の中で手本になる人にふだんから親しみ、その人に負けないように働け。敵の兜の吹き返し(耳脇の兜の反り返っている部分)がうつむいていて、背中の指物(背中に指した小旗)が動揺していないならば、それは剛敵であるから避け、弱い敵へ向かってかかれ。
戦場を生き抜いてきたからこそ出てくる言葉。
武士は豪勇だけではいけない。臆病で味付けする必要がある。
貪欲な武将として後世の物笑いになる
永禄11年(1568年)の駿河国侵攻では先鋒を務めるが、その際に今川氏が収集した財宝・名物が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけ言った言葉。信玄はこれを知って、「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったと言われている。
尼子 晴久(あまご はるひさ)
戦国大名 | 尼子氏
(1514年3月8日 - 1561年1月9日 急死:享年47歳)
戦国時代の武将。出雲の戦国大名・守護大名。出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆守護職。尼子経久の嫡孫に当たる。幼名は三郎四郎。
大叔父・尼子久幸から「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と評された。
彼の残した建築物としては美作国一宮中山神社本殿が名高い。もともと尼子氏自身の侵略によって焼失した本殿は、永禄2年(1559年)、尼子晴久の発願により再建され、度重なる改修の末、現在に至っている。大社造の流れをくむ本社殿は中山造という独特の構造となっており、以降の美作国内における神社建築の模範となった。
北条 氏康(ほうじょう うじやす)
戦国大名 | 相模国 | 後北条氏
(1515年 - 1571年10月21日 死没:享年57歳)
戦国時代の武将。相模の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。
氏康の功績としては、独自の官僚機構の創出もあげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などを行っていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。史料上の初見は弘治元年で、裁許状は現在50例ほどが確認されている。
北条 氏康の名言・格言
義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは、天地格別にて候
下の功労を偸(ぬす)まざれ
多少違いはあるが、北条氏康が息子の氏政に対して言った言葉。
“家の長臣に任せきりにせず、自ら動け。お前は富貴の家に生まれ、ぬくぬくと育ったから、世間に疎い。功を積んでも取り上げず、労をつくしても賞さなければ、皆は恨みを抱いて、人心は離れる。その時に戦いがあって、にわかに甘い言葉を掛けても、言うことは聞かない。だから少しの功も忘れず、小さな働きを見捨てず、時々に褒美を与えて、励まし進ませるようにせよ。”
酒は朝に飲め
部下への教訓として、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすいことから。
中々にきよめぬ庭はちりもなし かぜにまかする山の下いほ
後水尾天皇の勅撰と伝えられる『集外三十六歌仙』の30番に一首を採られている。
夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ
後世成立の軍記の逸話としてであるが、夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、これを聞いた近習が「夏狐が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、狐は翌朝に倒れて死んでいたという。
今川 義元(いまがわ よしもと)
室町・安土桃山時代の僧 | 臨済宗 | 守護大名 | 戦国大名 | 駿河国 | 今川氏
(1519年 - 1560年6月12日 戦死:享年42歳)
戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。別名(初名)、氏元(うじもと)。東海道一の弓取りとして武芸でも名を馳せていた。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。
TVメディアでは、桶狭間の戦での信長の引き立て役として公家かぶれで軟弱なイメージで表現されているものもあるが。義元は武田信玄の本拠地である甲斐国の隣、駿河国から遠く尾張国の一部まで勢力を拡大した「天下に一番近い男」という側面もある。
今川 義元の名言・格言
汝既に成長しけれども、童心未だ失せず
息子の氏真に送った手紙の一文。
昨日なし 明日またしらぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ
陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)
守護代 | 戦国武将 | 周防国 | 陶氏
(1521年 - 1555年10月16日 自害:享年35歳)
戦国時代の武将。周防国の戦国大名・大内氏の重臣。初名は隆房で、晴賢と名乗ったのは天文20年(1551年)に大内義隆を誅殺した後に、大友晴英(後の大内義長)を当主に据えて後、厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけ。
父の興房に似て武勇に秀で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。一方で厳島の戦いに際し、弘中隆包の「元就の狙いは大内軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」という進言を入れずに出陣し大敗するなど、器量に乏しい面も覗かせる。直情型で独断専行が多く、義隆との対立については晴賢自身の性格が原因という説もある。
疑り深い一面があり、配下の江良房栄の才覚を恐れた元就が、房栄が内通しているという噂を流すと晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに房栄を誅殺している。
一方で臣下の小者を思いやる逸話もあり、出雲遠征から敗走する際に自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。
陶 晴賢の名言・格言
天の与へをとらざれば、返つて其の科(とが)をうく。
時に至りてをこなはざれば、返つて其の科をうく。
下剋上に踏みきった晴賢の言葉。『大内義隆記』より
陶 晴賢の辞世の句
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に
六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく しょうてい)
戦国大名 | キリシタン | 近江国 | 六角氏
(1521年 - 1598年4月19日 死去:享年78歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。
大永元年(1521年)、六角定頼の子として生まれる。父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して三好長慶と戦った(江口の戦い)。天文21年(1552年)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。
義賢は弓馬の名手で、弓術は家臣の吉田重政に日置流(吉田流)を学び、唯一人の印可を受けた腕前であった(経緯については日置流参照)。馬術も大坪流を学び、佐々木流を興してその名を残している。嫡男・義治も晩年は豊臣秀頼の弓術師範としてその名を残している。
織田信長が戦国時代初めて「楽市」を始めたという印象が強いですが、義賢が居城である観音寺城の城下町であった石寺を「楽市」としたのが史実では早いとされている。義賢の家臣が商人らに出した文章の中にも、石寺が楽市であることが明記されている。
また、一国一城令の元となった「城割」を戦国史上初めて実行したのは父定頼。
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武田 信玄 / 武田 晴信(たけだ しんげん / たけだ はるのぶ)
室町・安土桃山時代の僧 | 戦国大名 | 甲斐国 | 武田氏
(1521年12月1日 - 1573年5月13日 死去:享年53歳)
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。
武田 信玄の名言・格言・引用
風林火山
疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し
※『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進退について書いた文章「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」を、部分的に引用したものである。
為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ。
人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。
したいことをするな。嫌なことをしろ。
自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。
この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。
いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。
人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない。
組織はまず管理者が自身を管理せよ。
戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする
凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。
その故は五分は励を生じ、七分は怠を生じ、十分は驕を生じるが故。
たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり。
負けるはずがないと思っていた戦に負けたり、滅びるはずがないと思っていた家が滅びたりすると、人は皆、天命(運)だという。
だが、わしは天命だとは思わない。それは皆、やり方が悪かったからである。やり方さえよくすれば、負けるはずがなかろう。
もう一押しこそ慎重になれ
我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。
武将が陥りやすい三大失観
一、分別あるものを悪人と見ること
一、遠慮あるものを臆病と見ること
一、軽躁なるものを勇剛と見ること
三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である
武田 信玄の辞世の句
大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
武田四天王(武田四名臣)
馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信
武田二十四将
秋山信友、 穴山信君、 甘利虎泰、 板垣信方、 一条信龍、 小畠虎盛(小幡虎盛)、 小幡昌盛、 飯富虎昌、 小山田信茂、 高坂昌信(春日虎綱)、 三枝守友、 真田信綱、 真田幸隆(真田幸綱)、 武田信繁、 武田信廉、 多田満頼、 土屋昌次、 内藤昌豊、 馬場信春、 原虎胤、 原昌胤、 山県昌景、 山本勘助、 横田高松
柴田 勝家(しばた かついえ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 柴田氏
(1522年? - 1583年6月14日 自害:享年62歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田四天王の筆頭。
武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。
ルイス・フロイス(※)の勝家評は以下である。
「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」
「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」
「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」
※ルイス・フロイス:ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。
柴田 勝家の名言・格言
城の水、わずかにこればかりなり。いまだ力の疲れを知らないうちに必死の戦いをしようではないか。
信長の朝倉氏攻めの際、長光寺城に籠城した柴田軍は、朝倉氏と同盟を結んだ六角承禎(義賢)によって水を絶たれた。しかし、勝家は馬の体を水で洗ったり、水瓶を割ってみせるなどして余裕を示し、城内に潜入している六角氏の間者の目を欺く。そして出撃を前に城内の奮起をうながし、六角氏を打ち破ったことことから瓶割り柴田と呼ばれるようになったと言われている。
柴田 勝家の妻 お市の方(織田信長妹)の辞世の句
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな
柴田 勝家の辞世の句
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
ほととぎすは漢字表記するといくつかあり「不如帰」と書く場合もある。意味は「帰るにしかず」「帰らざるが如し」。お市の方の辞世の句を受け「ほととぎす」で返したとされる。
三好 長慶(みよし ながよし)
戦国大名 | 戦国武将 | 三好氏
(1522年3月10日 - 1564年8月10日 病死:享年43歳)
戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。
長慶の肖像は大徳寺の聚光院にあるが他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い。
長慶は大変寛大とされているが、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであり、それが勢力圏でたびたび敵の復活を許し長慶没後の4年後に上洛して強固な支配圏を畿内に築き上げた織田信長との差にもなっている。
朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな文化人であった。長慶の教養人の面のみを論う人もいたが、それに対し「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と見事な和歌で反論している。
三好 長慶の名言・格言
難波がた入江に渡る風さえて盧の枯葉の音ぞ寒けき
薄(すすき)に交じる蘆(あし)の一むら古沼の浅き片より野となりて
森 可成(もり よしなり)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 森氏
(1523年 - 1570年10月19日 討死:享年48歳)
戦国時代の武将。土岐氏、後に織田氏の家臣。美濃国金山城主。
可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕えた。弟に可政、子に可隆、長可、蘭丸(成利)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)、忠政、娘(木下勝俊室)、娘(関成政)など。槍の名手で、関兼定(大政所の父と言われる鍛冶屋)銘の十文字槍の使い手であった。武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えた(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、坂井政尚や蜂屋頼隆ら美濃衆として活動した。信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因の1つになったという。
太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず)
戦国武将 | 16世紀の学者 | 尾張国 | 太田氏
(1527年 - 1613年3月 病死:享年86歳)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。和泉守。通称は又助(またすけ)。牛一の読みは、ぎゅういち、うしかず、ごいちなどの説がある。
織田氏の家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって活躍したという。その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。変後には丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には弓大将として肥前名護屋に在陣。文禄3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の側室三の丸殿の警護を務めた。
文才に優れ、信長・秀吉・秀次・秀頼・家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。
太田 牛一の名言・格言
国主に生まるる人、他国を奪わんと欲するに人殺すこと、常の習ひなり
生死無常世のならい
志しの者あらば、ひっ組んで勝負せぬか
高坂 昌信 / 春日 虎綱(こうさか まさのぶ / かすが とらつな)
武田二十四将 | 甲斐国 | 春日氏
(1527年 - 1578年6月12日 死去:享年52歳)
戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信(信玄)・勝頼期に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
高坂 昌信」の名前で知られるが、確実な文書上からの実名は「春日虎綱」であることが指摘されている(平山2008)。「高坂」は信濃更級郡牧ノ島の香坂氏に由来し、虎綱が永禄年間に一時的に香坂氏の名蹟を継承していることに由来し、「昌信」に関しては出家名であると考えられている。
高坂 昌信の名言・格言
八分の勝は危うし。九分十分の勝は味方大負の下作。
勝ちに甘んずることなく気を引き締めよという言葉。渾名「逃げ弾正」といわれるように徹底した慎重派。
明智 光秀(あけち みつひで)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 美濃国 | 明智氏
(1528年 - 1582年7月2日 自刃:享年54歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした三日天下でも有名。
織田四天王の一人。渾名(あだな):キンカン頭、幼名:彦太郎。
『フロイス日本史』中には以下の酷評がある。
「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」など
しかし、光秀が定めた『明智家法』末尾には「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という趣旨の文がある。
本能寺の変の因果関係含め諸説あり、謎多き戦国武将だ。
明智 光秀の名言・格言
ときは今 雨が下しる 五月かな
本能寺の変の直前に詠まれたとされている。
敵は本能寺にあり
仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という
明智 光秀の辞世の句
順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
いずれも後世の編纂物によるものとされている。
山県 昌景(やまがた まさかげ)
武田二十四将 | 飯富氏 | 山県氏
(1529年 - 1575年6月29日 戦死:享年47歳)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、武田四天王の一人。
飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。
『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首のリストの筆頭に上げられているのは、昌景の名前である。それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田の重臣中の重臣であったことがわかる。
山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖された。赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がったと言われる。山県隊があまりにも強すぎたことから赤備えは最強部隊の代名詞となり諸大名に大きな影響を与えた。なお、昌景の死後、徳川家康の重臣・井伊直政や真田昌幸の次男・真田信繁らも赤備えを採用しているのを見ても、その強さがいかに畏敬されていたかがわかる。
武勇に優れる昌景ではあったが、風采は冴えなかったとされている。身長は130cmから140cmの小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われている。しかしながら校合雑記では、昌景のことを次のように伝えている。
「袴腰と頭との間、僅か四、五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。信玄家臣の中でも股肱の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也」
山県 昌景の名言・格言
山県という者、恐ろしき武将ぞ
徳川家康は三方ヶ原において昌景に追いつめられたとき、脱糞したのも気づかぬまま漏れた言葉。
武士の心がけとしては、その場に臨んで始めるようでは駄目だ
訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです
信玄の異母弟・一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねた際、答えた言葉。
舞踏などの世間的な戯れにふけっていないで、錆びつかないように馬、剣術、弓、鉄砲を中心に毎日鍛え、その余暇に読み書きを習うことだ。これに尽きる。剣術を馬鹿にする武士が多いが、自分が主人から命じられて人を狙うとか、逆に人に狙われてみれば、誰だって剣術を習いだすものだ。
日頃の努力がものをいう。
宇喜多 直家(うきた なおいえ)
織豊政権の大名 | 戦国大名 | 戦国武将 | 備前国 | 宇喜多氏
(1529年 - 1582年2月1日 病死:享年53歳)
戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。宇喜多興家の子。子に秀家など。室は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。
古くは近世初頭の著述家小瀬甫庵が自身の著作『太閤記』で、「美作国へ進出した備中国の三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人・遠藤兄弟(又次郎・喜三郎)を起用して鉄炮で暗殺」「姻戚関係にあった金川城主松田元輝・元賢親子、さらに岡山城主・金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とする」などの所業から斎藤道三や松永久秀と並んで日本の戦国時代の三大梟雄と評される。また、出雲の尼子経久・安芸の毛利元就と共に中国地方の三大謀将とも言われる。歴史書の「和気絹」でも記されているとおり、金光宗高をはじめ松田元賢、後藤勝基など手に余る者には、自分の娘や姉妹、或いは親類の娘を養女として、縁組を成立させて親類の体を表し、時節を見はからった上で毒殺したり、闇討ちして寝首をかく(暗殺・謀殺)行いが多いと伝えられる。それらの所業から、身内にさえ恐れられていたといわれる。
一方で家臣を大切にしており、乙子城主だった時代には家臣と共に耕作に励み、時には節食して兵糧を蓄えたという逸話が残っている。また姻戚を手に掛けることはあっても家臣を粛清した事は無く、乙子城で辛苦を共にした弟の忠家や宇喜多三老に代表される譜代の家臣たちは終生直家を支え続けた。
本多 重次(ほんだ しげつぐ)
戦国武将 | 隻眼 | 三河国 | 本多氏
(1529年 - 1596年8月9日 死去:享年68歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。父は本多重正。通称は八蔵、作十郎、作左衛門。子は後に越前国丸岡藩主となる本多成重。
重次の名より、通称の作左衛門とその勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。天野康景、高力清長と共に徳川家康三河時代からの三河三奉行の一人で、行政面に力を発揮した。鬼の名を取るように、法に対して厳格な人物で他人に対しても厳しかった(間違っていると思えば、主君である家康に対してすら激しく指摘した)が、恩賞に対しては公平清廉で、法令に対しても仮名書きでわかりやすく書いて民衆に触れやすいように記したと言われている。
戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたと言われている。
本多 重次の名言・格言
一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ
日本一短い手紙として有名な一文。重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙。この「お仙」は当時幼子であった嫡子仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかの ぶ)
戦国大名 | 還俗 | 肥前国 | 龍造寺氏
(1529年3月24日 - 1584年5月4日 戦死:享年56歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前の戦国大名。
“五州太守”の称号を好んで用い、肥前の熊ともいわれた。幼名は長法師丸。仏門にいた時期は中納言円月坊、還俗後は胤信を名乗る。本姓は藤原氏を称した。大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した。
隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。
龍造寺 隆信の名言・格言
分別も久しくすればねまる
熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である。
我ら死去の時、家内その外、此のごろのやうに覚悟あるべく候
龍造寺 隆信の辞世の句
紅炉上、一点の雪
虎哉 宗乙(こさい そういつ)
室町・安土桃山時代の僧 | 臨済宗 | 美濃国 | 虎哉氏
(1530年 - 1611年6月18日 享年80歳)
美濃出身の臨済宗妙心寺派の僧。
大虫宗岑(だいちゅうそうしん、下野雲岩寺の僧)と並んで「天下の二甘露門」と称された名僧。諡号は仏海慈雲禅師。
甲斐で岐秀元伯、快川紹喜に師事した後、元亀3年(1572年)に、伊達輝宗の叔父の東昌寺住職大有康甫と親交があった縁から、輝宗の招聘を受け、一度は固辞したものの再度の要請に応え、嫡男伊達政宗の学問の師となると共に、米沢近郊(現在の山形県高畠町)の資福寺住職となった。天正14年(1586年)には輝宗の菩提を弔う覚範寺の開山となり、後に政宗の移封に従って岩出山、仙台と移った。
政宗とは終生、師弟の関係にあったとされる。
虎哉 宗乙の名言・格言
自燈明 法燈明
天地に頼れる者は己自身、自分を燈明として自身を導け、これを自燈明という。
ただし若輩なればこの光は心もとない、そんな時はお釈迦様の法を頼ってよい、これを法燈明という。
痛ければ痛くないと言え 悲しければ笑え 暑ければ寒いと言え
己の不平不満を表に出しては家臣を率いる大将の器たりえず、我慢が肝要という訓辞。
虎哉 宗乙の師 快川紹喜(かいせんじょうき)の名言・格言
心頭滅却すれば火もまた涼し
大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)
戦国大名 | キリシタン | 豊後国 | 大友氏
(1530年1月31日 - 1587年6月11日 病死:58歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名、キリシタン大名。大友氏第21代当主。宗麟の法号で知られている。
海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。
当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。
大友 義鎮の名言・格言
己の弱き判断を棄て、デウスの賢慮に服従す
人生における敗北・苦しみは試練であり不幸ではない。
灼熱の炎に磨かれる黄金のように試練によってこそ人は高められる。
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 長尾 景虎(ながお かげとら)
室町・安土桃山時代の僧 | 戦国大名 | 還俗 | 越後国 | 長尾上杉氏
(1530年2月18日 - 1578年4月19日 急死:享年49歳)
戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。
生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、その子供は全員(景勝・景虎・義春・国清)養子だった。
内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。
【趣味】戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。
【器量の大きさでも有名】主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である本庄繁長が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
【宗教】青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
【大酒飲み】謙信は大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に座って、味噌や梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと伝わっている。
上杉 謙信の名言・格言
我ある故に毘沙門あり
我は兵にて戦いを決す、塩にて敵を屈せしめることをせじ
今川氏真が北条氏康と結んで、武田領に塩を搬入することを禁止した。そのために甲斐・信濃・上野の民は非常に困っていた。これを聞いた謙信の文の言葉。現代の「敵に塩を送る」の起源とされる。
死なんと戦えば生き 生きんと戦えば必ず死するものなり
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり
自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。
さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。
人の上に立つ者の一言は、深き思慮を伴っていなければならない。
軽率な発言などもってのほかである。
戦場では潔い死を心掛けるのが義の頂上である。誰でも死を望む者はいないが、日頃、恩禄を受けていることは、ひたすら命に代わるものと観念し、あらかじめ無き身と考えることが義の本である。戦場にあって逃げるのは不義の至極で武上の操ではない。盗賊の徒である。
大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。
上杉家家訓十六ヶ条
心に気にかかる物のない時は、心は広く体も安らかである。
心にわがままのない時は、相手への愛と敬いの心を失わない。
心に欲のない時は、道理ある正しい道を進む。
心に私がない時は、疑うことしない。
心に驕りがない時は、人を尊ぶ。
心に誤りがない時は、人を畏れない。
心に邪見がない時は、人を育てる。
心に貪りがない時は、人に諂うことがない。
心に怒りのない時は、言葉は和やかである。
心に堪忍がある時は、物事を調えられる。
心に曇りがない時は、心は静かである。
心に勇がある時は、悔やむことがない。
心が賤しくない時は、無理な願いをしない。
心に親への孝行心がある時は、主への忠節も厚い。
心に自慢のない時は、人の善を知り。
心に迷いのない時は、人を咎めない。
上杉 謙信の辞世の句
極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
四十九年一睡の夢
一期の栄華一盃の酒
四十九年の人生は一睡の夢であった。人生の栄華は一盃の酒のようなものだ。
※「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 安芸国 | 毛利氏 | 小早川氏
(1533年 - 1597年7月26日 急逝:享年65歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。毛利元就の3男。幼名は徳寿丸。毛利隆元・吉川元春は同母兄にあたる。毛利両川の1人として、元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、通説では文禄年間に五大老の1人に任じられたとされている。
宮部継潤は、「小早川隆景のある限り、毛利家の政道は乱れまい」と語ったという。豊臣秀吉から「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」と評された。
また、豊臣秀吉は「この世に政治ができるのは直江(兼続)と小早川隆景である」と言ったといわれる。もっとも、豊臣秀吉はその後に「ただし、天下を取るには直江は知恵が足りず、小早川は勇気が足りない」と続けたという。
豊臣秀吉は本能寺の変の時、羽柴軍の追撃を主張する元春らの意見を隆景が抑えたことを、深く感謝したといわれる。秀吉の隆景に対する信任は厚く、外様大名であり陪臣でもある隆景に異例ともいえる恩賞を与えている。また、太閤検地も毛利氏の領地のみ免除とし、さらに五大老に隆景、輝元と毛利氏から2人も迎えるなど豊臣政権下では隆景と毛利氏は優遇された。
黒田如水とは仲がよかったらしく、如水に対し、「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった。」と嘆じたという。
小早川 隆景の名言・格言
耐え忍ばなければならないことを、どうすれば解決できるか良く考えることが大事だ
意見をしてただちに請け合う者に、その意見を保つ者なし。
合点できぬことは何度も聞き返す者こそ、真の理解者なり。
自分の心に合うことは、皆、体の毒になると思え。
自分の心に逆らうことは、皆、薬になると思え。
自分にとって嫌なこと、理解するのが難しいことに積極的に取り組むべきだ。人生は長いのだから、そういう山川を越えていくことによって自分を鍛えろ。
長く思案し、遅く決断すること。
思案を重ねた決断であるなら、後戻りする必要はない。
いったん和睦しようと起請文をもって約盟したのに、血墨のいまだ乾かぬうちに、敵の災いに乗じて約束を破ることは、大将たる者の恥であって、すべきことではない。
何事も欲からず生きること、欲をすてて義を守れば兄弟親族に不和などない
分別の肝要は仁愛にあり、断ずるには仁愛を基とせざるべからず。
仁愛を欠ける決断はことごとく曲事なり。
侍は、如何に才智あるとても、人好きせざらんは、物ごと無骨に世事に疎し。
前田 慶次、前田 利益(まえだ けいじ、まえだ とします)
戦国武将 | 傾奇者 | 尾張国 | 加賀前田氏
(1533年または1541年? - 1605年または1612年?)
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。現在では一般に前田慶次/慶次郎の名で知られる。滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。子は一男三女(五女とも)をもうけた。
関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記している(前田慶次道中日記)が、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。利益に付き従った野崎知通は「利貞公(利益)は心たくましく猛将たり」と利益を表している。
直江兼続の人柄に惹かれた前田慶次は、初目見えに持参したのは、泥の付いた大根三本だった。そして「この大根のように見かけはむさ苦しいが、よく噛みしめれば味のある拙者でござる」と言ったそうです。
前田 慶次の奇矯な振る舞い傾奇(かぶき)者っぷり
常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、それを叔父の利家から度々教訓されていた。反省したから茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいと利家を招いた。「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」と利家に風呂勧めた。先に慶次が「丁度良い湯加減です」と言いその場を去った。利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であった。これには温厚な利家も怒り「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」と供侍へ怒鳴ったが、慶次は愛馬松風(利家の愛馬「谷風」ともいう)へ乗って無事に国を去った。
会津に移ったある日、酒宴で傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい、と愚痴を洩らす者がいた。これを聞いた慶次(利益)は、早速、林泉寺を訪ね、碁盤を見つけると和尚に一局勝負を申し入れた。慶次は、勝った方が負けた相手の頭を軽く叩く事を提案。一局目に和尚が勝つと、和尚は初め叩く事を拒むが、頑として聞かない慶次に折れ、一指弾(デコピン)で慶次の頭をそっと叩いた。二局目は慶次が勝つが、和尚を殴ることに躊躇いを見せる。和尚は気になさらずにと言うと、それでは、と鉄拳を固めて和尚の眉間に振り下ろした。鼻血を出して倒れる和尚を後目に、慶次は寺を離れた。
前田 慶次の名言・格言
寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る
たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん
生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあろうかとおもう。
島津 義久(しまづ よしひさ)
守護大名 | 戦国大名 | 薩摩藩 | 島津氏
(1533年3月4日 - 1611年3月5日 病死:享年79歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。幼名は虎寿丸。
義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。
戸時代初期に国分地方(現鹿児島県霧島市国分)においてタバコの生産を奨励したのは義久といわれる(『大日本農功伝』など)。貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった南九州において、タバコの収入は以後貴重な薩摩藩の収入源となった。
自らの戒めとするために、寝室に歴史上の大悪人の肖像を飾って寝る前に一日の反省を行う習慣があった。後世のアメリカの海軍元帥チェスター・ニミッツにもよく似た逸話がある。
島津 義久の名言・格言
良いことの五つは真似しやすく、
悪いことの一つはなかなかやめられない。
昔の悪いことを知ると、自然と良いことができる。
悪人こそわが師なり
表に桜を植えたのは、参詣する人が花を楽しみ、心が豊かになるだろうからだ。裏に栗を植えたのは、栗の実は何かあった時には食料となり、枝は薪にも使うことができる。桜は花を楽しませ、栗は実を取る。
上よりまず礼儀を正し、家臣はその恩恵をかたじけなく感じて我が行いを恥じるようになりたいものだ。
肝要のところに気を配れ。
どうでもよいところに気をつけるものではない。
島津 義久の辞世の句
世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空
織田 信長(おだ のぶなが)
織豊政権の大名 | 三英傑 | 戦国大名 | 尾張国 | 織田氏
(1534年6月23日または1534年7月9日 - 1582年6月21日 自刃:享年49歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。幼名は吉法師。
室町幕府を滅ぼし、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていった。
また、イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。
比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘され、そこから、信長がさらに存命すれば世界史的にも多大な影響があったのではないかという見方が生じ、その設定を利用したフィクション作品が数多く生まれている。
「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく松浦静山『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用。
織田 信長の名言・格言
天下布武
人間五十年 下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか
是非に及ばず
この言葉には、複数の解釈がある。
1. 情報が錯綜しており、報告をきいても意味がない。
2. 是非を論じることはない、私自身にすべての非があった(家臣の光秀ならやむをえない)。
3. 是非を論じてる状況にない、応戦するしかない。
絶対は絶対にない
仕事は自分で探して、創り出すものだ。
与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ。
臆病者の目には、敵は常に大軍に見える
たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝れり
鍛えて得た能力は、生まれ持った能力よりも優れる
理想を持ち、信念に生きよ。
理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。
そのような者は廃人と同じだ。
器用というのは 他人の思惑の逆をする者だ
攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな
必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ
重臣
柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、林秀貞、佐久間信盛、池田恒興
京都所司代
村井貞勝
京都奉行
村井貞勝、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉、松井友閑、島田秀満
右筆
武井夕庵、楠木正虎
側近衆
菅屋長頼、矢部家定、堀秀政、長谷川秀一、大津長昌、万見重元、長谷川宗仁、下石頼重、祝重正、平古種吉
小姓衆
森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸、高橋虎松、小倉松寿
黒母衣衆
佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝助、水野帯刀左衛門尉、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、松岡九郎二郎、平井久右衛門、伊東武兵衛
赤母衣衆
前田利家、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時、浅井政貞、木下雅楽助、伊東長久、岩室重休、山口飛騨守、佐脇良之、金森長近、長谷川橋助、加藤弥三郎
荒木 村重(あらき むらしげ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 茶人 | 摂津国 | 荒木氏
(1535年 - 1586年6月20日 死去:享年52歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷。
天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。
その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。天正7年、信長は「尼崎城と華熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。秀吉が小田原征伐に出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫となった。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。
銘器「荒木高麗」を所有していた。
荒木 村重の名言・格言
運は天にあり
思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も 夢ならんとは
佐々 成政(さっさ なりまさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 越中国 | 佐々氏
(1516年、1536年2月6日または1539年 - 1588年7月7日 切腹:享年53歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。
織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。永禄4年(1561年)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。
天正2年(1574年)、長島一向一揆との戦いで長男松千代丸を失う。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。
天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点・魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった(魚津城の戦い)。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った利家と敵対して末森城の戦いが起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津尼崎法園寺にて切腹させられた。
佐々 成政の名言・格言
斯く計り 替わり果てたる 世の中に 知らでや雪の 白く降るらん
佐々 成政の辞世の句
この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり
三枝 昌貞(さえぐさ まささだ)
武田二十四将 | 山県氏 | 三枝氏
(1537年 - 1575年6月29日 戦死:享年38歳)
戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。
父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県中央市(旧豊富村)木原に本領を有していたという。戦国期に三枝氏は武田譜代家臣山県昌景を寄親としている。
『甲陽軍鑑』『寛永諸家系図伝』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、武田信玄の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて足軽大将に出世したという。『甲陽軍鑑』によれば昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては永禄11年頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。
足利 義昭(あしかが よしあき)
室町幕府の征夷大将軍 | 織豊政権の大名 | 還俗 | 将軍足利氏
(1537年12月15日 - 1597年10月9日 薨去(こうぎょ):享年61歳)
室町幕府第15代将軍。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「覚慶」と名乗り一乗院門跡であった(一乗院は興福寺別当をつとめる門跡寺院で、延暦寺における青蓮院に該当する)。兄義輝と母慶寿院が松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して「義秋」と名乗る。そして、美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて信長によって京都から追われ備後国に下向し長らく在国したため、一般には室町幕府は滅亡したとみなされてしまった。
信長が明智光秀の謀反により果てた後、備後から将軍職のまま山城国(京都)に戻った。豊臣政権が完全に確立するまでは、依然そのまま将軍であった。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として豊臣政権下で遇され余生を送った。
足利 義昭の名言・格言
五月雨は 露か涙か 不如帰
我が名をあげよ 雲の上まで
禁制の書状
軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採および宿泊、規定以外の課役および作物の刈り取り
上記三条を禁止するという書状。
豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
織豊政権の大名 | 三英傑 | 戦国大名 | 摂関 | 茶人 | 尾張国 | 木下氏 | 豊臣氏
(1537年3月17日 - 1598年9月18日 死去:62歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。
はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれた。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。近世封建社会の基礎を築いたが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
豐臣 秀吉の名言・格言
障子を開けてみよ 外は広いぞ
戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである
多くの金銀を蔵に置いておくのは
有能な者を牢屋に押し込めておくようなものである
やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる
この黄金の輝きも、茶の一服に勝るものかな
茶人としての一面もある
負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ
逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし
人と物争うべからず 人に心を許すべからず
返す返す秀頼のこと 頼み申し候
五人の衆 頼み申し候 頼み申し候
幼い息子・秀頼を五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜田秀家)に頼んだ言葉
位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、
貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった
人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない
豐臣 秀吉の辞世の句
露と落ち 露と消えにし わが身かな
難波のことも 夢のまた夢
五大老
徳川家康(筆頭)、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝(隆景死後)
三中老
生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴
五奉行
浅野長政(筆頭)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以
十人衆
富田知信、寺西正勝、毛利吉成、堀田一継、佐々行政、石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重
黄母衣衆
青木一重、伊木遠勝、石尾治一、伊東長実、井上道勝、井上頼次、猪子一時、織田信高、小野木公郷、郡宗保、仙石秀久、津川親行、津田信任、戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村吉安、長谷川重成、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、尾藤知宣、舞兵庫、神子田正治、箕浦勘右衛門、三好房一、毛利吉成、森可政、山内一豊、分部光嘉、一柳直末
参謀
竹中重治、黒田孝高
戸川 秀安(とがわ ひでやす)
戦国武将 | 戸川氏
(1538年 - 1597年10月16日 死去:享年59歳)
戦国時代の武将。宇喜多氏の家臣。平助、平右衛門尉、肥後守。名ははじめ「正利」。また「通安」とも。「秀安」の名はのちに豊臣秀吉から一字拝領を受けたもの。室は鷹取備中守の妹。子に戸川達安。
母が備前福岡で宇喜多直家の弟(忠家・春家)の乳母であった関係で、直家が乙子城主となった天文14年(1545年) 頃から小姓として仕えはじめ、永禄9年(1566年)、三村家親の弔い合戦と称して三村五郎兵衛が寡兵を率いて、備前に攻め入ったときに、宇喜多忠家らとともに迎え討っている姿が見える。その後は三村氏や毛利氏らとの戦いにたびたび出陣し、武功を立てた。
元亀元年(1570年)、直家が謀略により金光宗高を切腹させた後の石山城(岡山城)の接収を馬場職家とともに執り行った。
天正3年(1575年)には常山城主となり、2万5千石を領して、宇喜多氏随一の有力家臣となっていた。
岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多三老のひとりであるが、直家の信任は三老の中で最も厚かったといわれている。直家の晩年頃から宇喜多氏の国政を任されたが、直家死後、家督を嫡男の戸川達安に譲って隠居し、友林と号した。
前田 利家(まえだ としいえ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 能登国 | 加賀国 | 加賀前田氏
(1537年、1538年または1539年 - 1599年4月27日 病死:享年60〜62
歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。幼名は犬千代。
小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傳役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。
前田 利家の名言・格言
人間は不遇になった時、はじめて友情のなんたるかを知るものだ
戦場に出でては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し
武門とは信義の番兵であり、人の生涯は心に富を蓄えるためにある
見ぬ世の末の変わりゆく有様を つらつらと思いつくれば 胸苦しい
天下に道有り則ち見、天下に道無し則ち隠、能く謀りし者は未萌を慮る。
智者は千慮に必ず一失有り、愚者は千慮に必ず一得有り。
ともかく金を持てば、人も世の中もおそろしく思わぬものだ。逆に一文なしになれば、世の中もおそろしいものである
地獄の沙汰も金次第
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鍋島 直茂(なべしま なおしげ)
江戸時代の武士 | 戦国武将 | 鍋島氏
(1538年4月12日 - 1618年7月24日 病死:享年81歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。肥前佐賀藩の藩祖(ただし正式には藩主になっていない)。
隆信とは義兄弟にあたり、そのため隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。
また、直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評されたという。
鍋島 直茂の名言・格言
いかに知音(ちいん。自分の心をよく知る友人知人)を持つとも、頼まずに、ただわが身ひとつと心得べし
我が気に入らぬことが、我がためになるものなり
気に入らなと思った物事には、自らのためになる教訓が潜む
下輩の言うはよく通じ難し、ゆえに助けて聞くこと肝要なり。下輩なれどその心は天の真を受けて、人と生れたる者なれば、その理は聖人君子の言に符合すること多し、あなどり、笑うことなかれ。
寄り合いにくき人と寄り合いてみよ。必ず徳あるべし
思案に余る一大事に出会ったときは、一大事と考えるから決断がつかない。大事の思案は軽くすべし。
時節到来すれば家が崩るるものなり。その時崩すまじきとすれば、汚な崩しするなり。時節到来と思わば崩したるがごときなり。その時は抱きとどまることもあるものなり。
時節に対しての崩すまいとすれば汚く崩れる。時節訪れた際は潔く崩すほうがよい。その方が残ることもあるだろう。
人間には上中下の3種類がある。
上というのは、他人の良い分別を自分の分別とすることである。
中というのは、他人から意見をされてそれを自分の判断に変えることのできる人物である。
下というのは、他人から良いことを言われてもただ笑って聞き流す人間のことだ。
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
織豊政権の大名 | 戦国大名 | 土佐七雄 | 長宗我部氏
(1539年 - 1599年7月11日 死去:享年61歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。最高官位は従四位下で死後に正三位が贈られた。土佐守、侍従、宮内少輔を歴任した。土佐国の戦国大名として知られる。
長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の長男で、第21代当主。母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。諱の「元親」は管領細川晴元の偏諱を受けたものである。
土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。
長宗我部 元親の名言・格言
芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず
我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう
阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いた際の返答。
命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ
太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます
豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。その際の言葉。
前田 玄以(まえだ げんい)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 真言宗の僧 | 前田氏
(1539年 - 1602年7月9日 死去:享年63歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権における五奉行の1人。
思慮深く私欲の無い性格で、信長・信忠父子からは信任が厚かったとされている。
かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の文禄2年(1593年)、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。またポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子二人はキリシタンになっている。
前田 玄以の名言・格言
牛を斬れ
京都所司代を任されて間もない頃、ある時行く手に牛舎が転倒していた。
それを見た玄以が供の者に告げた言葉。当時の定法であれば、牛の所有者を罰するのが当然であり、それを指摘しても玄以は「牛を斬れ」の一点張りであった。
玄以の任期が終わり、今度はその報告書に目を通した秀吉が仰天した。そこには「任期中、処刑(死刑)したる者、一人とて無し」と記されていた。
常にこそ 曇りもいとへ今宵そと 思うは月の 光なりけり
大賀 弥四郎(おおが やしろう)
戦国武将 | 大賀氏
(生年未詳 - 1574年)
戦国時代の武将。徳川氏の家臣。
『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。普段は家康の居する浜松にありながら、ときどき岡崎にいる嫡男松平信康の用も務めるようになり、両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。しかし、家康の家臣近藤某が領地を加増されたとき、大賀弥四郎が自分のとりなしによるものだと言ったため、近藤は大賀に追従してまで加増されたくはないと返上を申し出でた。このことがきっかけで、家康が大賀の日頃の悪行を耳にすることとなり、大賀は捕らわれて家財を没収された。
すると、大賀が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。
大賀 弥四郎の名言・格言
領民であれば、我は裁かれまい
岡崎で土に埋められ際に町民に訴えた言葉。結果としては聞き入れられず。
島 左近(しま さこん) / 島 清興(しま きよおき)
安土桃山時代の人物 | 戦国武将 | 大和国 | 島氏
(1540年6月9日? - 1600年10月21日?)
安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。通称である島 左近(しま さこん)の名で一般に広く知られる。
娘(珠)は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。
熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残る。
島 左近の名言・格言
城下の繁栄に驕って、下々の憂苦を思わず、武具のみに力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危うい
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
上記のように謳われるほどの人物であった。治部少=石田三成。
九鬼 嘉隆(くき よしたか)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 志摩国 | 水軍 | 九鬼氏
(1542年 - 1600年11月17日 自害:享年59歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主。子孫に九鬼隆一・九鬼隆義・九鬼周造がいる。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
海賊の大将として荒々しい人物のイメージが強いが、茶道に造詣が深く、津田宗及の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催すなどしており、数寄者としての側面もあったようである(宗及記)。
九鬼 嘉隆の名言・格言
数百斥艘を木津浦へ追ひ上せ、見物の者ども、九鬼右馬充允 手柄なりと感ぜぬはなかりけり
九鬼右馬充允=嘉隆
徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)
織豊政権の大名 | 江戸幕府の征夷大将軍 | 三英傑 | 三河国 | 駿河国 | 松平氏 | 徳川氏
(1543年1月31日 - 1616年6月1日 死去:享年75歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。
本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。1567年2月18日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)。
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。
徳川 家康の名言・格言
人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を往くが如し
不自由を常と思えば不足なし
最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える
勝って兜の緒を締めよ
滅びる原因は、自らの内にある
大将というのは敬われているようで、たえず家来に落ち度を探られているものである。
恐れられているようで、あなどられ、親しまれているようで、憎まれている。
だから大将というのは勉強しなければならないし、礼儀をわきまえなければいけない。
いい家来をもとうと思ったら、自分の食を減らしても家来にはひもじい思いをさせてはいけない。
家来というのは録でつないではいけないし、油断させてもいけないし、近づけても遠ざけてもいけない。
家来は惚れさせなければならない。
人生に大切なことは、五文字で言えば 「上を見るな」。
七文字で言えば「身のほどを知れ」。
世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ
堪忍は身を守る第一なり。堪忍のなる事は、十全に至らねば家をも国をも起こす事はならぬものなり。
誠らしき嘘はつくも、嘘らしき真を語るべからず
大事を成し遂げようとする者は、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ
決断は、実のところそんなに難しいことではない
難しいのはその前の熟慮である
早まって相手の肚などを考えて見ぬものだ。相手の肚など推測してゆくと、いつかそれに巻き込まれて、我が身の都合を忘れてゆく。
人の一生は重荷を負うて遠き道を往くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば、不足なく心に望み、おこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つ事ばかりを知って、負くる事を知らざれば、害その身に至る。
己を責めて、人を責むるな。及ばざるは、過ぎたるより優れり。
竹中 半兵衛(たけなか はんべえ) / 竹中 重治(たけなか しげはる)
戦国武将 | 竹中氏
(1544年 - 1579年7月6日 死去:享年36歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従兄弟に竹中重利。
戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。
多くの軍功に関する逸話や美談を残しているが、現在では後世の創作によるものとみられているエピソードも数多く、史実上の活躍の実態が不明瞭な人物。
竹中 半兵衛の名言・格言
陣中で死ぬこそ武士の本望
中国攻めの陣中で病死する際に秀吉が京で養生するように戒めたが、半兵衛はこの言葉で断ったとされる
名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです
いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言ったさいの半兵衛の言葉。
一人武者の手柄話を聞いたとて、何の役に立とう。部隊の駆け引き、戦の変化などを主眼にして聞いてこそ合戦談も役に立つのだ。
馬に限ったことではない。武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである。
お前も褒めてもらいたければ、自分で手柄を立てろ
堀尾 吉晴(ほりお よしはる)
織豊政権の大名 | 江戸時代の武士 | 戦国武将 | 尾張国 | 堀尾氏
(1544年 - 1611年7月26日 死去:享年68歳)
安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の一人。
信長が狩に出ていたとき、その目の前で吉晴は大きな猪と取っ組み合いをした末に討ち取った。これを見た信長は吉晴の勇を気に入り、足軽大将に取り立てたという(藩翰譜)
戦場では勇猛さを見せつけたが、温和な性格で人望を得ていた。このため、「仏の茂助」と称された。
堀尾 吉晴の名言・格言
国が乱れた時は敵に飛び込んで戦う武士たちの慰みの場を、
銀子に換えるなど思いもよらぬ
「太閤記より」
道(趣味)は道に過ぎぬ
浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)
戦国大名 | 近江国 | 浅井氏
(1545年 - 1573年9月26日 自害:享年29歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北近江の戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)に贈られた)。
浅井 長政の名言・格言
けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも
山内 一豊(やまうち かつとよ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 土佐山内氏
(1545年または1546年 - 1605年11月1日 病死:享年60歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏の当主。
父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原氏の娘か)。祖父は山内久豊。兄に山内十郎、弟に山内康豊。妻は内助の功で知られる見性院(「千代」の名で有名だが、実名かどうかは定かでない。若宮友興の娘とも遠藤盛数の娘とも言われる)。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の嫡男・山内忠義(第2代藩主)を養子とした。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いにおいては徳川方に与した軍功により土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石を領した。土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。
山内 一豊の名言・格言
命を捨てる覚悟で運を拾わねば、運などは拾えるものではない
馬揃え 十両の馬
内助の功の有名な話。
山中 鹿介 幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)
戦国武将 | 出雲国 | 山中氏
(1545年9月20日? - 1578年8月20日 謀殺:享年32歳?)
戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。出雲国能義郡(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。
『名将言行録』
幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた。
主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた。
山中 鹿介 幸盛の名言・格言
我に七難八苦を与えたまえ
「七難七苦を合はせて賜はり候へ」と三日月に祈ったと伝えられている。
頼山陽 曰く
嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る
勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である。
勝海舟 曰く
ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう
ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石良雄だろう。
黒田 如水 / 黒田 孝高(くろだ じょすい / くろだ よしたか)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | キリシタン | 播磨国 | 福岡藩 | 黒田氏
(1546年12月22日 - 1604年4月19日 死去:享年59歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高は諱で、通称の官兵衛(かんべえ)や出家後の如水の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。
築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、前野長康や浅野長政らと共に、姫路城、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、縄張りや助言を行った。
黒田 如水の名言・格言
我人に媚びず、富貴を望まず。
天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。
おもひをく 言の葉なくて つひにいく 道はまよはじ なるにまかせて
これはそちのためにしているのだ。乱心ではない。わしが諸臣に嫌がられて、一日も早く長政の代になるとよいと思わせるためだ。
まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。
世の中で主のために追腹を切る(後を追って切腹すること)ぐらいつまらぬことはない。
大将たる者は、威(威厳)というものがなければ万人を押さえつけることはできない。こしらえごとでいかにも威を身につけたように振舞ってみても、それはかえって大きな害になる。
神の罰より、主君の罰おそるべし。主君の罰より、臣下の罰おそるべし。
そのゆえは神の罰は祈りてもまぬるべし。主君の罰は詫言して謝すべし。
ただ臣下百姓にうとまれては必ず国を失う。ゆえに祈りても詫言してもその罰はまぬかれがたし。
ゆえに神の罰、主君の罰より臣下、万民の罰はもっともおそるべし。
政道に私なく、そのうえ、我が身の行儀作法乱さずして、万民の手本となるべし。
最上 義光(もがみ よしあき)
織豊政権の大名 | 戦国大名 | 外様大名 | 出羽国 | 最上氏
(1546年2月1日 - 1614年2月26日 病死:享年69歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。
「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし」『最上義光物語より』
「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。」『会津四家合考より』
「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。」『会津四家合考より』
「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。」『奥羽永慶軍記より』
また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)と称されることがある。
最上 義光の名言・格言
大将が退却してどうやって敵を防ぐのか
武士とは扇のようなもの 要(かなめ)は大将 骨は将 面は兵
いのちのうちに今一度、最上の土を踏み申したく候。水を一杯飲みたく候
南部 信直(なんぶ のぶなお)
織豊政権の大名 | 戦国大名 | 南部氏
(1546年4月1日 - 1599年11月22日 病死:享年54歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。
天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。
永禄8年(1565年)、従兄である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられた。
南部 信直の手紙
大事ない、海藻が食べたくなったので、ワカメや昆布を確保して欲しい
晩年は中風を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。死の直前、長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた手紙。
吉川 経家(きっかわ つねいえ)
戦国武将 | 石見国 | 吉川氏
(1547年 - 1581年11月21日 自害:享年34歳)
戦国時代の武将。毛利氏の家臣で、吉川経安の嫡男。本姓は藤原氏。石見吉川氏当主。
主君は「毛利元就」→「輝元」
死地と知りつつ鳥取城におもむき籠城に耐えたが、城兵の助命を条件に降伏。秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害した。
吉川経家の3男・吉川家好(いえよし)は後に鳥取藩池田家の家臣となり、また彼の子孫に五代目三遊亭圓楽(本名:吉河寛海)がいる。
吉川 経家の辞世の句
武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
戦国武将 | 譜代大名 | 三河国 | 本多氏
(1548年3月17日 - 1610年12月3日 死去:享年62歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
愛槍は蜻蛉切(とんぼきり)。
本多 忠勝の名言・格言
槍は自分の力に合うものが一番
愛槍は「蜻蛉切」。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付き、「天下三名槍」の一つに数えられている。
侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という
本多 忠勝の遺書の一節
わが本多の家人は志からではなく、
見た目の形から武士の正道に入るべし
思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。
思慮のある人の功名は、士卒を下知(げじ)して大きな功名をなしえる。
だが、思慮のない人は鎗(やり)一本の功名であって、大きな事はできぬ。
本多 忠勝の武勇を讃えた言葉
家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八
一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田方の小杉左近から上記の狂歌の落書をもって賞賛された。
花実兼備の勇士
織田信長にその並はずれた武勇を、武田征伐後に讃えられた。
東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる
豊臣秀吉に勇将として引き合いに出されたとされる言葉。
本多 忠勝の辞世の句
死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば
仙石 秀久(せんごく ひでひさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 外様大名 | 仙石氏
(1552年2月20日 - 1614年6月13日 死去:享年63歳)
、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いでの独断専行により、島津軍に大敗を喫し改易されるが、小田原征伐で許された。
織田家に家臣入りした際、信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。
紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍清姫の鐘」を陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として用いた後、そのまま京都に持ち帰って経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたという。
常山紀談で仙石権兵衛秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場し、商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている。
伏見城にて石川五右衛門を捕縛したとの伝説がある(公の捕縛者は京都所司代であった前田玄以であるが、「一色軍記」では秀久が捕縛したとの記述が残されている)。そのため秀久は講談の世界で怪力無双の豪傑として登場する。
仙石 秀久の名言・格言
自分を人質に送り先へ進軍していただきたい。自分が死んでも東軍が勝利すれば満足である
関ヶ原では秀忠に従い、上田城攻めに従軍した。その際、真田父子に苦戦する秀忠に進言した内容。
堀 秀政(ほり ひでまさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 堀氏
(1553年 - 1590年6月28日 急死:享年38歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。幼名は菊千代。
主君は「織田信長」→「豊臣秀吉」
何をやらせてもそつなくこなしたため、「名人久太郎(堀久)」と称された。小牧・長久手の戦いで徳川軍の急襲を受けた際には、同じ軍団に属していた森長可・池田恒興が戦死し、大将の羽柴秀次が命からがら逃げ帰ったのに対して、秀政は徳川軍を撃退した後に悠然と引き揚げており、敗色の濃い戦況を鮮やかに切り抜ける名人芸を披露した。
堀 秀政の名言・格言
市民の批判は家の宝だ
そんな報告は下の者にでも言いつけて遣わせばよかろう。
秀次さまの付き家老であるそなたが何をしておる。そちの本音は報告と称して逃げ落ちることだろう。 今すぐ秀次様のところへ戻って討ち死にしてまいれ
忠義や軍規に対して非常に厳格な性格の持ち主であった。小牧・長久手の戦いの時に秀次隊敗退の報を聞き進軍中の堀隊の元に田中吉政の率いる兵の一団が彼の元にやってきた際の言葉。
毛利 輝元(もうり てるもと)
安土桃山時代の人物 | 織豊政権の大名 | 戦国大名・武将 | 安芸国 | 長州藩主 | 毛利氏
(1553年2月4日 - 1625年6月2日 死去:享年73歳)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩初代藩主(ただし、藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)。
天文22年(1553年)1月22日、毛利元就を祖父、毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。永禄6年(1563年)に父・隆元が急死したため、11歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、祖父毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。
主君は「豊臣秀吉」→「秀頼」→「徳川家康」→「秀忠」→「家光」
毛利 輝元の名言・格言
近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている
自らの非力を嘆いたという(福原家文書)。
毛利家は将軍様に善悪一筋に尽くす覚悟である
脇坂 安治(わきざか やすはる)
江戸の大名 | 織豊政権の大名 | 戦国武将 | 近江国| 脇坂氏
(1554年 - 1626年9月26日 死去:享年73歳)
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。淡路洲本藩主。後に伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。
脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。天文23年(1554年)、脇坂安明の長男として、近江国浅井郡脇坂庄(現在の滋賀県長浜市小谷丁野町)で生まれる(異説として田付孫左衛門の実子とも伝わる)。
主君は「豊臣秀吉」→「秀頼」→「徳川家康」
賤ヶ岳の七本槍の一人で、七本槍の中では最年長の武将である。
大坂の陣では中立を決め込むなど、まだ豊臣氏にわずかながらも恩義を感じていたとされる。そのため江戸幕府から逆に警戒され、翌年に隠居して大洲を去るという行動を起こした。
脇坂 安治の名言・格言
自由とは 規則があるからこそ焦がれるのだ
蒲生 氏郷(がもう うじさと)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 茶人 | キリシタン | 近江国 | 蒲生氏
(1556年 - 1595年3月17日 病死:享年40歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。子に蒲生秀行。
家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったとされる。
茶湯にも深い理解があり、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられた。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
蒲生 氏郷の名言・格言
たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ
春夏秋冬どれか一つにかたよらず、家風を正すことが主将の器と言うべきであろう。
指揮者・武将だからといって後方にいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば家臣はついてくるものだ
家来に対しては、知行と情の2つが必要。この2つが家来をやる気にさせる両輪である
家臣にとって俸禄と情は車の両輪のようなもの。
両方を上手く転がしていかないと家臣は付いてこない。給与を多くしても情をかけなかれば家臣は主家を離れる。情ばかりかけても給与を配慮しなければこれも同じことであり、どちらが欠けても家臣の心は主から離れるものだ
蒲生 氏郷の辞世の句
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
藤堂 高虎(とうどう たかとら)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 外様大名 | 津藩主 | 近江国 | 藤堂氏
(1556年2月16日 - 1630年11月9日 死去:享年75歳)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し、高虎が生まれた頃には一農民と変わらない状態になっていた。幼名を与吉と名乗った。
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
藤堂 高虎の名言・格言
武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ
つねに良き友と咄(はな)し、異見を請け申すべく候。
善悪は友によると、聞こえ候事。
小事が大事に至らないためには、小事も大事だと思って、大事の時と同じような議論と慎重な決断を下すべきだ。そうすれば決して後悔することはなかろう。
上下の間に生ずる疑心暗鬼が平和な時代の何よりの敵と存じます
寝屋を出るより、その日を死番と心得るべし。かように覚悟をきわまるゆえに、ものに動ずることなし。
数年、昼夜奉公しても気のつかない主人であれば、代々仕えた君主であっても暇を取るべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない。
遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ
片倉 小十郎、片倉 景綱(かたくら こじゅうろう、かたくら かげつな)
戦国武将 | 出羽国 | 陸奥国 | 仙台藩士 | 片倉氏
(1557年 - 1615年12月4日 死去:享年59歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。伊達氏家臣で、伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
弘治3年(1557年)置賜郡永井庄八幡神社の神職・片倉景重の次男として生まれる。生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多。伯父に意休斎景親。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。
伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。また大変な笛の名手であったとも言われる。
景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。
片倉 小十郎の名言・格言
武士には将たる器、武者、歩卒の器というものがある。
一軍の将たる者、乱戦の中で組み討ちを演ずるなど慮外の極み。
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 近江国 | 大谷氏
(1558年または1565年 - 1600年10月21日 自害:享年42歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも。業病を患い、晩年は面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。
永禄元年(1558年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。
大谷 吉継の名言・格言
金のみで人は動くにあらず
戦いのとき、人というものは大将の人望と能力で動く。おまえはどれも家康には及ばぬ。それでも戦をするというのなら、おまえに味方しよう。
人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん
自害する際、小早川秀秋の陣に向かって言った言葉。
大谷 吉継の辞世の句
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。
石田 三成(いしだ みつなり)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 近江国 | 石田氏
(1560年 - 1600年11月6日 斬首:享年41歳)
安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
三成は五奉行の中でも随一の実力者であり、毛利・上杉・島津などの大大名も秀吉への取り成しは常に三成を通じて行っていた。
太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。『翁草』は世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと伝えている。
石田 三成の名言・格言
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
大義と思うものは、たとえ首をはねらるる期までも命を大切にして、何卒本意を達せんと思う
戦死を好むのは匹夫である。将たる者は、命の危険を逃れて、何度も戦いを重ねることこそ本意とするものだ。
残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人なり。
主から予算を渡された時、使うべき予算を出し惜しみ余らせるようなら盗人の所業に等しい。
しかし、使いすぎて予算の足がでるようであれば愚か者だ。
石田 三成の辞世の句
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
亀甲に花菱(きっこうにはなびし)、三つ盛り亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)、三つ盛亀甲に三つ葉(みつもりきっこうにみつば)、三つ山(みつやま)、雁金(かりがね) / 直江氏 家紋(家紋について諸説ある)
直江 兼続(なおえ かねつぐ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 越後国 | 米沢藩 | 直江氏
(1560年 - 1619年1月23日 病死:享年60歳)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。
越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。通説では、永禄3年(1560年)に樋口兼豊(木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟である樋口兼光の子孫と言われている)の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。
「愛」という字を前立にあしらった兜が兼続所用として米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっている。これは、上杉謙信が、愛宕神社に、武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が歴代古案に集録されており、一般に、愛宕の愛からとする説が有力である。
直江 兼続の名言・格言
天の時 地の利 人の和
力によってねじ伏せようとした者はいつかそれを跳ね返そうとする。
しかし真心をもって扱われた者は心で返してくれる。
国の成り立つは 民の成り立つをもってす
大久保 忠教(おおくぼ ただたか)
江戸幕府旗本 | 戦国武将 | 三河国 | 大久保氏
(1560年 - 1639年4月2日 死去:享年80歳)
戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川家臣・大久保忠員の八男。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。通称の彦左衛門で有名。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。
俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果とも言える。
大久保 忠教の名言・格言
電光朝露、石火のごとくなる夢の世に、なんと人生を送ろうとも、名誉より大切なものはない。人は一代、名は末代と心得るべし。
御慈悲(おじひ)を以て一つ、御武辺(ごぶへん)を以て一つ、
良き御譜代(ごふだい)を以て一つ、御情(おんじょう)を以て一つ、
是に依(より)て御代(みよ)も末ほど御繁盛(ごはんじょう)
後藤 基次(ごとう もとつぐ)
戦国武将 | 後藤氏
(1560年5月5日 - 1615年6月2日? 討死:享年55歳)
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。小寺氏が滅亡した後は、仙石秀久に仕えた。
後藤 基次の名言・格言
次勝てばそれでよし
軍に負ける度毎に天窓(あたま)を剃らば、髪の長きことは永代有間敷(えいたいあるまじき)
福島 正則(ふくしま まさのり)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 外様大名 | 尾張国 | 信濃国 | 福島氏
(1561年 - 1624年8月26日 死去:享年64歳)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。
一般的には「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴者としての逸話には事欠かない。
・幼い頃に父親の桶屋家業を継ぐために修行していたが、大人と喧嘩をして鑿で相手を殺害した。
・安芸広島に入国する際に船に地嵐と呼ばれる風が吹いたため、「国入りの初めに地が荒れるとは不吉だ」として何の罪もない水主を斬り捨てた
福島 正則の名言・格言
我は弓なり、乱世の用なり
人の後について鬱屈した気持ちで過ごすより、武功を立てて大国を賜るか、目を驚かすような戦死を遂げたい。どちらかは天運に任せている。
それはいけない。俺はいつ死ぬかわからない。あの足軽に申し渡す前に俺が死んだら、彼は一生士分になれないではないか。こういうことは、思いついたらすぐに実行しなければならないのだ。
福島正則が風呂に入っている時、控えていた従者にある足軽を呼ぶように命じた。従者がなぜ呼ぶのですかと訪ねると、正則はその足軽を昇進させると言った際の言葉。
わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた
飯田 直景(いいだ なおかげ)
戦国武将 | 熊本藩 | 尾張加藤氏
(1562年 - 1632年10月31日 死去:享年70歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。加藤氏の家臣。父は飯田直澄。幼名才八、久次郎。通称の飯田覚兵衛(飯田角兵衛とも。理由は後述。)で有名。名は基久、重氏とも。日本槍柱七本の一人。食録6,500石。後に10,500石に加増。
山城国山崎にて生まれる。若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいても清正の先鋒として活躍した。朝鮮出兵では、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる(第二次晋州城攻防戦)。なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田 直景の名言・格言
だまされ甲斐のある主人だった
加藤 清正(かとう きよまさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 尾張国 | 熊本藩 | 尾張加藤氏
(1562年7月25日 - 1611年8月2日 死去:享年満49歳)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
藤堂高虎と並ぶ築城の名手として知られ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
また、口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。
加藤 清正の名言・格言
表の並木には桜を、裏の並木には栗を
人は一代、名は末代。天晴武士の心かな
上一人の気持ちは、下万人に通ずる
屍を戦場にさらすとも褥の上にて死なんとは思い設けず
おまえは自分の功を立て、かれは忠を尽くした
わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう
平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。
汝らは等しく我が股肱腹心なり 使うところは その器に従う
加藤 嘉明(かとう よしあき)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 三河国 | 会津藩 | 伊予松山藩 | 三河加藤氏
(1563年 - 1631年10月7日 死去:享年69歳)
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。近江水口藩加藤家初代。
賤ヶ岳の七本槍・七将の一人。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。通称は孫六。嘉明は晩年の名乗りで、はじめ繁勝を名乗る。
築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。
加藤 嘉明の名言・格言
武士は常に、自分をいたらぬ者と思うことが肝心だ
真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である
威勢がよく勇気ある者は、目を驚かすほどの働きをするが、それだけのことで、本当の武功を立てるのは律義な者である。
近頃は大名家に武名を売り歩いて、仕官を願う者が増えているが、こうした者たちは肝心な忠義に乏しい。これを高禄で雇い入れ、大名家の飾りにするようだが、そういう大名家は前途が危うい。なぜかといえば、偽りが真実に勝ってしまうからである。
細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 江戸時代の茶人 | 山城国 | 熊本藩 | 小倉藩 | 中津藩 | 奥州細川氏 | 肥後細川氏
(1563年11月28日 - 1646年1月18日 死去:享年83歳)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称していたが、大坂夏の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
細川 忠興の名言・格言
齢八十にして、親父の云うことようやく心得たり
家中も者を将棋の駒と思うがよい
森 蘭丸(もり らんまる)
戦国武将 | 尾張国 | 森氏
(1565年 - 1582年6月21日 討死:享年18歳)
森 成利(もり なりとし)/ 森 乱(もり らん)/森 乱成利(もり らんなりとし)森 長定(もり ながさだ)は、安土桃山時代の武将。森 蘭丸(もり らんまる)という名で知られている。
永禄8年(1565年)、織田信長の家臣森可成の三男として尾張国葉栗郡蓮台に生まれる。
天正5年(1577年)、織田信長に小姓として召し抱えられる。以後、信長の側近として活動する。天正9年(1581年)には近江国に500石の知行を与えられ、この時期からただの小姓ではなく事務官としての役割を果たすようになっていった。
天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後は甲州征伐に貢献したとして信濃国川中島に領地替えとなった兄・長可に替わって美濃国金山城の城主、或いは美濃国岩村城の城主となり、5万石を与えられたという。同年、本能寺の変において本能寺で明智光秀配下の安田国継に討ち取られた。
森 蘭丸の名言・格言
光秀は、必ず謀反を起こします
池田 輝政(いけだ てるまさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 江戸の大名 | 外様大名 | 尾張国 | 池田氏
(1565年1月31日 - 1613年3月16日 急死:享年50歳)
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国池尻城主、同国大垣城主、同岐阜城主、三河国吉田城主を経て播磨国姫路藩主。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。岡山藩池田家宗家初代。
家康から命じられた岐阜城攻めで、福島正則と激しい功名争いを演じたが、実際には一番乗りの手柄を上げたにも関わらず、あっさりと功を譲って、同時に城を落としたことにした。
池田 輝政の名言・格言
いまの世の中は静かではあるが、いつどのようなことが起こらぬとも限らない。そのときのために、いま以上に欲しいものは有能な武士である。無益の出費を省いて人を多く抱えることが世の楽しみなのだ。
一度、銅づくりにしておけば、のちのちのためにはなる。だが、いっぺんに多額の出費をすることはいかがなものか。何ごとも時代につれて古いことを改めるというのはよくない。
真田 信之(さなだ のぶゆき)
戦国武将 | 外様大名 | 信濃国 | 松代藩 | 真田氏
(1566年 - 1658年11月12日 死去:享年93歳)
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主。後に信濃松代藩の初代藩主。
後世に「真田幸村」と呼ばれ伝説化した弟・信繁、また「表裏比興の者」と評された父・昌幸と比べると一般には知名度の低い人物である。しかし、長らく人質として過ごしてきた信繁と異なり、早くから昌幸の片腕として活躍し、第一次上田合戦を始めとする北条・上杉・徳川との戦いで勝利を重ねて真田家を守った。この活躍によって、敵方である徳川の重臣・本多忠勝の娘である小松姫を娶っている。豊臣秀吉の死後の混乱期においては徳川に属して家名を守り抜き、徳川の治世下でも幕府に対する忠誠と父譲りの才気で明治まで続く松代藩の基盤を固めたことは、父弟の評価に何ら劣るところはない。
老いてもなお「信濃の獅子」と評され、当時としては異例の93歳という長命は、晩年において戦国時代を生で知る数少ない人物として幕府内でも一目置かれる存在であった。
真田 信之の名言・格言
組織全体を奮い立たせるために考えて動け
杉菜を食べたことはあるか
真田 信之の辞世の句
何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり
真田 幸村(さなだ ゆきむら)/真田 信繁(さなだ のぶしげ)
戦国武将 | 真田十勇士 | 真田氏
(1567年または1570年 - 1615年6月3日または1641年)
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫であり、真田昌幸の次男。
江戸時代初期の大坂の役で活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、徳川家康を追いつめた。大坂の陣を契機に、陣に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
その史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
真田 幸村の名言・格言
恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか
関東勢百万も候へ、男は1人もいなく候
定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候
人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし
恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか
立花 宗茂(たちばな むねしげ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | 外様大名 | 柳河藩 | 立花氏
(1567年12月18日 - 1643年1月15日 死去:享年34歳)
安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。大友氏の一族。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。
宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。彼は戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な面など「武士の中の武士」とも呼ばれる。
立花 宗茂の名言・格言
戦は兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵でなくては、どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。
名を残すためにしたことはありません
家臣の俸禄も拙者の高(石高、収入)に応じて少しずつ与えたのですが、常に慈悲を第一にして愛情を与えますので、戦に挑むとみな一命を投げ打って力戦してくれ、それがみな拙者の功になります。そのほかに別に良い方法とてありません。
世間並みの一万の兵と、宗茂配下の三千、五千の兵と何の差もありません。軍の備え方がよいというだけでなく、常に兵士に対してえこひいきせず、ひどい働きをさせず、慈悲を与え、少々の過失は見逃し、国法に外れた者は、その法によって対処するのみです。
特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない
大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ
秘密を持たなければ、監察役など不要だ
伊達 政宗(だて まさむね)
織豊政権の大名 | 戦国大名 | 出羽国 | 仙台藩 | 伊達氏
(1567年9月5日 - 1636年6月27日 死去:享年68歳)
出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。
料理が趣味。元々は兵糧開発が主眼であり、岩出山名物の凍り豆腐と納豆は政宗の研究の末に開発されたものであった。仙台城下には味噌倉を建てていたが、味噌の大規模な生産体制が確立されたのはこれが最初といわれる。太平の世になると美食を極めることに目的を変えて料理研究を続けた。『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という政宗の料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。
伊達 政宗の名言・格言
この世に来た客と思えば何の苦もなし。
ケチと倹約とは違うぞ
仁に過れば弱くなる、義に過れば固くなる、礼に過れば諂(へつら)いとなる、智に過れば嘘をつく、信に過れば損をする
茶碗を割ったのではない。自分の器量の小ささを割ったのだ
歴史を読めば、最大の敵は外からは来ない。不平分子が家を滅ぼすのだ
まともではない人間の相手をまともにすることはない
大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるがよし。
勇をたのみにがむしゃらに相手を選ばず戦っている。これは弱冠の者の行為である。強い相手を避け、弱い者を選んで戦い、進退のツボを心得る。これは壮年にならなければ出来ぬことだ。
露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪花のことも 夢のまた夢
伊達 政宗の遺訓
一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
伊達 政宗の漢詩
馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何
伊達 政宗の辞世の句
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照してぞ行く
黒田 長政(くろだ ながまさ)
織豊政権の大名 | 戦国武将 | キリシタン | 播磨国 | 福岡藩 | 黒田氏
(1568年12月21日 - 1623年8月29日 死去:享年56歳)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。
豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いで大きな戦功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になった。父孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。
父・孝高ほどの知略の人物ではなく、どちらかといえば武勇に優れた勇将であった。但し関ヶ原における調略に代表される様に、高い知略も持ち合わせていた。
徳川家康の天下は黒田父子の力あればこそとも言われている。
黒田 長政の名言・格言
今に至りて 我等が分別は 槍先に在り
家来が勇であるか怯(臆病)であるか、平時の目利きなどは二割は外れるものだ。体力も知力もあると見込んだ男十人のうち、一、二人は本番で大臆病であることが判明する。一方、体力も知力もないと見ていた男十人のうち、一、二人は実戦で比類なき働きをするものだ。
阿部 正次(あべ まさつぐ)
戦国武将 | 江戸幕府老中 | 大坂城代 | 譜代大名 | 小田原藩 | 三河国 | 阿部氏
(1569年 - 1647年12月10日 病死:享年79歳)
江戸時代初期の大名。武蔵国鳩ヶ谷藩、上総国大多喜藩、相模国小田原藩を経て、武蔵国岩槻藩初代藩主。また、大坂城代を死去するまで22年間もの長期にわたって務めた。阿部家宗家初代。
阿部 正次の名言・格言
守兵が全滅を覚悟してかじりつかねば、どんな大城郭とて決して守り通せはしないのだ
城をかように高く築いてあるものも、かほどに堀を広く設けてあるのも、みな戦争の備えなのだぞ。西国の敵がこの城を奪わんとしたときは、徳川の武人の屍が、この塁をもっと高め、戦士の血がこの池をなお深くするはずである。死を忌みごとと思う了見なら、最初から城など造らぬがよい
木村 重成(きむら しげなり)
戦国武将 | 近江国 | 木村氏
(不詳 - 1615年6月2日? 戦死)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。一説には木村重茲の子とも言われている。母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。知行3千石。
木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には『若江木村通』という交差点がある。
木村 重成の名言・格言
物を食わぬは最期のためだ
真の勇者は人の過ちを咎めない
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)
戦国武将 | 江戸幕府大目付 | 剣客 | 大和国 | 柳生藩 | 柳生氏
(1571年 - 1646年5月11日 死去:享年76歳)
江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。
剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。
将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀術者之鳳(おおとり)」「父(石舟斎宗厳)にも勝れる上手」「剣術古今独歩」「剣術無双」など様々に賞賛されている。
また「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」として「活人剣」を提唱した他、沢庵の教示を得て「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を剣術に組み込むことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華した。
これらの宗矩の思想は柳生家の伝書である『兵法家伝書』に記され、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた。『兵法家伝書』の影響は、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野でも見られ、勝海舟も絶賛している。
柳生 宗矩の名言・格言
刀剣短くば一歩を進めて長くすべし
小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす
兵法家伝書
刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也
治まれる時乱を忘れざる、是兵法也
兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也
平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也
無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也
人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや
葉隠
人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり
宮本 武蔵(みやもと むさし)
室町・安土桃山時代の武士 | 江戸時代の武士 | 剣客 | 日本の画家・能書家 | 播磨国 | 熊本藩 | 宮本氏
(1584年? - 1645年6月13日)
江戸時代初期の剣術家、兵法家。文武に優れ、二刀を用いる二天一流兵法の開祖である一方で、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。
名字は宮本、または新免、通称は武蔵、本姓は藤原、諱は玄信(はるのぶ)である。幼名は辨助(べんのすけ)、号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗っている。
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。
『五輪書』には21歳の頃に、京都で天下の兵法者と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。この内容は吉川英治「宮本武蔵」をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
宮本 武蔵の名言・格言
一道万芸に通ず
勝負とは、敵を先手、先手と打ち負かしていくことであり、構えるということは、敵の先手を待つ心にほかならない。「構える」などという後手は邪道なのである。
一生の間、欲心を思わず
太刀は敵の出方により、場所により、形勢により、どう構えようと敵を斬り易い様に持てば良いのである。上段だの、下段だのと言って、固定した構えに拘泥してはいけない。構えはあって、無きものである。
構えあって構えなし
多数の人間と戦う時は、こちらが待っていてはいけない。敵が四方から攻めかかってきても、むしろ、こちらから、一方へ追い回す心で向かっていくべきである。待っていてはいけない。こちらから強く切り込み、敵の集団を追いくずし、切りくずしていくのである。
目の付けようは、大きに広く付くる目也。
千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす
神仏を敬い、神仏に頼らず
空を道とし、道を空とみる
一理に達すれば万法に通ず
観の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也
我以外皆我師
自他共にうらみかこつ心なし
逃げるが勝ち
初心わするるべからず
五輪書
廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし
前田 利常(まえだ としつね)
江戸時代大名 | 加賀藩主 | 加賀氏
(1594年1月16日 - 1658年11月7日 死去:享年66歳)
安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。幼名は猿千代・犬千代。
加賀藩祖・前田利家の四男。母は側室の寿福院。異母兄に前田利長、前田利政などがいる。子に嫡男の光高など。なお、死後にはその戒名から微妙公と呼ばれている場合もある。
幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして愚君・アホ殿を装ったという。家臣が見かねて手鏡を差し出すと「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と言ったと伝わる(井原西鶴の『日本永代蔵』。原谷一郎の『百万石物語』)。
前田 利常の名言・格言
大名が黄金惜しさに小便を我慢するものか
江戸城中に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、言い放った言葉。
経験のない者が説く軍法など、何の役にも立たない
参考「ウィキペディア」「戦国時代の家紋 | 戦国ガイド」
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【作家】人生で必要なものは無知と自信だけだ。これだけで成功は間違いない - オスカー・ワイルドさん 名言・格言
【作家】ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である - ヘミングウェイさん 名言・格言
【作家】年を重ねると、ヒーローを見つけるのがより難しくなるんです。でも、本当は、年を重ねた時こそ、必要みたいです - J・D・サリンジャーさん 名言・格言
【謎多き作家】人っていうのはいつだって見当違いなものに拍手をするんだよ - ココ・シャネルさん 名言・格言
【ファッション】シンプルさはすべてのエレガンスの鍵 - ヘンリー・フォードさん 名言・格言
【経営者】たいていの成功者は他人が時間を浪費している間に先へ進む。これは私が長年、この眼で見てきたことである - デール・カーネギーさん 名言・格言
【自己啓発】良識と粘り強さに支えられた燃えるような熱意は、最も頻繁に成功を生み出す資質である - アンドリュー・カーネギーさん 名言・格言
【実業家】笑い声のないところに成功はない - ジョン・ロックフェラーさん 名言・格言
【実業家】よし、金銭の奴隷になるのはもうやめた。ひとつ、金銭を奴隷に使ってやろう - マルコム・フォーブスさん 名言・格言
【実業家】教育の目的は、空っぽの心と開かれた心を入れ替えることである - ハロルド・ジェニーンさん 名言・格言
【実業家】文字で読む事実と人の口から聞く事実は同じではない。事実を伝える人の信頼性は事実そのものと同じくらい重要である - スティーブ・ジョブズさん 名言・格言
【実業家】ハングリーであれ。愚か者であれ。 - 「恋愛」と「愛」の名言・格言・ことわざ
愛して勝ち取るのが一番よい。その次によいのは愛して敗れること - ゴルフ 選手・著名人の名言・格言・ことわざ
インスピレーションは日々の練習の賜物 - 英語の名言・格言・ことわざ
A friend in need is a friend indeed.
困ったときの友は、真の友