安岡明夫HP(yasuoka.akio@gmail.com)

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=ダライ派のデマを斬る5=
○英国のチベット支配の実態(続):
英国のチベット植民地化の歴史については参考文献1.が簡単にまとめてくれている。
当HPグループ過去記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(23)090406」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533233.html
でも述べたが、簡単に振り返っておこう:

「ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった。

1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。

「…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文1;p.62)。

遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献2;p.784)。

だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された。このずる賢さが成功した。甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ。

然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。

しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから1914年の「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ」(過去記事要約)。

○今回記事で明らかにしたいことは、チベットを自己の植民地にすることにより、英国は具体的にどのような経済的利益を受けたかである。参考文献1.によると、次のようなことが書かれている:

英国は阿片戦争後着々と中国に対する圧力を強め、
「一八八六年、イギリスは北京で英清条約を結び、イギリス商人は、チベットのヤトンとその付近での無税の取引権を獲得している。一八九〇年、イギリスは清朝にシッキム(*1)の保護権を承認させて、カルカッタでシッキム-チベット条約・・を結ばせた。さらに翌九三年、イギリスはカルカッタで、シッキム-チベット条約付属章程に調印させ、イギリス人のチベットにおける事実上の治外法権を取得した。
・・・
・・(1904年のヤングハズバンドの侵攻の後)清朝政府はラサ条約(*2)を結んで、ヤトン・キャンツェ・ガルトクをはじめとして、イギリス人はチベットの必要な地で自由に取引できる権利を獲得した。・・
・・・
・・(1908年)イギリスは英清カルカッタ通商協定を結び、イギリス人はチベットで土地を借り、家を建て、取引範囲を拡大し、通商代表部に護衛兵力をおく権利を獲得した。
・・・
・・(1913年)当時チベットにおけるイギリスの貿易高は一九世紀に比して倍加しており、チベットと中国内地との貿易は逆に減少していた。
ダライ(13世)はイギリスにそそのかされて、「大チベット」の幻想にとりつかれ、一九一八年、チベット軍をチャムドはじめ西康省西部に出し、(中国の)地方軍閥と争った。一九二二年、北京駐在イギリス大使は、中国政府にたいし、チベットの「自治権」を承認せよと内政干渉する一方で、ダライ(13世)と「英蔵軍事援助協定」なるものを結んだ。また、インド、チベット間にイギリス政府の管理する電信線を架設した。・・
・・一九二八年、南チベットに大規模な農奴蜂起があり、徴税吏の取立てを拒否し、広大な地区を解放したが、鎮圧された。
このころ、不平等条約や協定に援護されたイギリス商社や英印合弁会社のヤトン・キャンツェなどの市場への進出はめざましく、略奪的な価格で買い取った英印向羊毛輸出は年二〇〇〇トンに達した。
一九三〇年一月、イギリスはネパール軍を挑発して、チベットに侵入させた。ダライ(13世)は(中国)中央政府の援助を求め、ラサで国民党の役人と会談し・・チベットが中国の領土であり、中国の一構成部であることをみとめた。
・・・
一九三六年、イギリスは強引に同国の常設政治代表部をラサに設立し、初代の政治代表にヒュー・リチャードソンをおいた。また、ラサに無線電信局を開設した。・・
・・・
一九四九年・・アメリカのラジオ解説者トーマス一行は、チベットの売国派と、アメリカ駐印大使館の手引きでチベットを旅行し、帰国してトルーマン米大統領に、チベット売国派に近代兵器を供与するよう進言した」(参考文献1;p.62-71)。

○「赤いチベット」の著者とされるR・フォード氏も次のように言っている。

「ラサに戻った(イギリスへの留学生)は・・水力発電所を建て、これが今でもラサの町とダライ・ラマ(14世)の夏宮に、電力を送っている。その建設材料はすべて・・ヒマラヤを越えて(印度から)運ばれたのである」(参考文献3;p.139)。

○こういうことが続いていくと結局どうなるだろうか?江戸時代、大名や武士たちは商人への借金で首が回らない状態だった。ダライをはじめチベットの支配者たちもそうなるだろう。だが彼らには英国に対する借金を「徳政令」若しくは商人への「お取り潰し」でチャラにする力はない。だから最後は国内から膨大な税金を取り、農牧民の苦しみは悲惨になっただろう。ダライ派は新たな時代を切り開く力は結局なかった。

(*シッキム:
もともとチベット人の住む国で、紅教徒(チベット密教ニンマ派)により建国された。チベットの属国であった。1890年、英国の保護国となる。印度独立後は印度の一部とされ、一方中国は中国の一部とした。長く紛争が続いたが、実際問題として元来のチベット系住民の比率が急落しているため、2005年、中国はシッキムが印度の一部であることを認め、同時に印度はチベットが中国の一部であることを認めた。
*ラサ条約:
これにより、「チベットは、イギリスがインドから持込む品目に対する諸関税を全廃すること」が決まった。−参考文献2;p.784より)。

参考文献:
1.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
2.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)

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