役所広司主演の『聨合艦隊司令長官山本五十六』(2011)。
ようやく図書館でDVDを借りて、観る。
まあ予想していた通りの内容だ。
史観も戦略も、そして人物像も、とくに新しい解釈を試みたわけでなく、それどころか従前から息の根を止められない「五十六神話」をスタイルだけ変え、永らえさせようとするだけの代物。
すなわち「日独同盟に反対し陸軍と対立、アメリカとの開戦を望まぬまま国のため戦った悲劇の軍人」という扱いのままなのだ。
山本五十六の落ち度を突き詰め、失敗を繰り返さぬよう未来に生かそうとの姿勢は皆無である。
逆に、五十六の思惑通りに事が運べば日本は救われた、と言わんとするかのようだ。
五十六にはかなり深い関係だった馴染みの芸妓がいたはずだが、五十六の長男が監修を務めたこともあり、質素だが温かい家庭生活がひたすら描かれるばかりで、そっちの件はおくびにも出されない。
レディ・ハミルトンとの情事をまったく隠したままネルソンの物語を描いたようなものか。
副題は「太平洋戦争70年目の真実」だが、どのへんが「真実」かと。
いや。
すべてをフィクションとして見るなら、かなり魅力的で味わいある五十六像――こういう人が父親であり上司であったらと誰もが願うような熟年男性――を役所広司は演じており、当時の世相や軍部の雰囲気についてもそれらしく描こうとした努力はうかがえる。平成の役者たちを起用しながら舞い上がった芝居をさせない演出は成功と言ってよく、山口多門以外では違和感がない。
かくなるうえは山本五十六の政治観や戦争観が時代的限界を超えられないものだったとしてもそのまま押し通せばよかったのだが、しかし作り手は何としても山本を、西側の映画でもしばしば美化されるロンメルのような、今の政治的視点からも理想の役どころにあてはめようとする。
それがため、映画が史実を完全に無視してこだわったのは次の二点、「(山本が身を賭して反対した)三国同盟に日本が参加したから米国は敵対した」と「大使館の不手際で通達が遅れたせいで真珠湾奇襲はだまし討ちとなり、アメリカ人を本気で怒らせ、早期講和の目論見が挫折した」という例の通りのアレとアレだ。
むろん実情は異なる。
アメリカが日本に圧力かけたのは、ナチスと組んだからというよりも、まずナチスとおなじやり方で国際秩序を乱し世界の脅威となっていたからにほかならない。
(「満州建国」を非難された日本はナチドイツと同年、国際連盟を脱退。以後は国際社会の勧告もきかず中国を踏みにじり、海軍航空隊は中国の諸都市を爆撃。そして欧州の戦乱に乗じ、海軍陸戦隊が仏領インドシナの港を掌握した)
陸軍と海軍の対立の描写で始まるこの映画は、旧態な「海軍善玉論」をそのまま受け容れているが、本当のところは帝国陸軍も帝国海軍も、同じ時代をつくる同じ日本人であり諸外国にとって危険な存在に変わりなかった。
したがって山本個人が、いかにドイツ嫌いでいかに陸軍と仲が悪く、そしていかに対米開戦に反対だったにせよ、それらの個人的事情と関係なく、日本の侵略について一定の責を負わねばならないことになる。
たしかにアメリカ人は、「いきなり攻撃してきた」日本に憤慨した。しかしルーズベルトの演説でもあきらかなように、彼らは日本が和平交渉でアメリカを油断させる裏側で奇襲を準備、こっそり攻撃部隊を差し向けたやり方自体を問題にしているわけで、つまり断交文書の手渡しがハワイに爆弾が落ちる直前になろうが直後になろうが卑劣なことに変わりないというのが開戦当時からの認識だ。
ところが映画では、大統領演説の「断交以前に、真珠湾が攻撃された」と訴える箇所だけ引用、かくして駐米大使館の怠慢に日本が汚名をこうむった理由を見出し、残りの部分はすべて無視して済ましこんでいる。
(ダメ押しとして言うが。英領マレーへの侵攻は真珠湾攻撃より二時間早くおこなわれ、しかもイギリスに対しては攻撃直前の通告などしなかったのだ。かくなるうえは、日本の名誉もヘチマもなかろう。)
というわけで。
二点とも、ちょっと調べれば簡単にわかる道理だから、ネット右翼以外の御仁が大真面目に主張するとも思えない。それを作中で臆面もなく言い立てているわけで、この映画が画期的傑作になれなかった理由が推し量れよう。
映画は、終戦後の廃墟にたたずむ副主人公格の若い新聞記者の独白により終わる。新聞等マスコミとそれに踊らされた大衆にも責任がありはしなかったかと問題を提示したかたちで。
当然の疑問だが、本作品に関するかぎり無意味な付け足しであろう。
作り手の関心は終始、山本五十六の人好きのする人間像を主演俳優に造形させることだけに向けられており、陰の部分、咎の部分については付け入らせようとしない。
だから、大衆やマスコミも戦争の加担者だったと言われても――むろん近代戦の主動力は国民なのだが――、なんだかなあという気になるばかり。うかうかすれば、山本五十六の魅力を損ねたくないあまり、五十六への非難をかわそうと国民にも罪があるのではと話をそらしたような印象を与えかねない。
ただし、「山本五十六はこんないい人だった、こんなに人気があった」と印象づけることで何かを免罪したいのであれば、その目的が達せられることはあるまい。
今ではみんな、わかってきている。
家庭ではどんな良い人でも、戦場が鬼に変えてしまう。それこそが戦争の恐ろしさだということを。
実際、山本五十六を「家庭では良き父、軍務では部下思い、しかし敵対者には差別も非道も厭わぬ鬼となる」人物に造形し、さらに海軍全体もそうした描き方で押し通せば、傑作に出来たかはわからないが、あの戦争でありがちだった残虐行為のメカニズムを解き明かす画期的な作品となった可能性がある。
(そういうものならすでに80年代、ジョージ・C・スコットがムッソリーニを演じて強烈な印象を残したテレビ映画が作られてるわけだが)
むろん、そんな描き方では監修者が許しはすまい。結局、山本の身内などを顧問として招いたところに、作り手の意図と作品の限界があらわれていると見るべきだ。日本のメディアは山本五十六を伊藤博文と同様に、あくまで「偉人」として、憧れの存在として扱いたいのだろう。
邦画の実録ものは世界映画の潮流に周回遅れを重ねたあげく追いつく気も失くし、逆行を始めた水準なのではと疑いたくなってくる。
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