クラシック音楽の話をしていてこの人を出していなかった。
今年亡くなられた、知る人ぞ知る音楽評論家・指揮者。




この本を読んだのは高二の時。
実に影響を受けた。
まぁだから、僕の活動もちょっと、彼に似ちゃったんだね。

朝比奈隆先生を再評価し、むしろ心酔し、晩年のコンサートに足しげく通うようになったきっかけを作ってくれたのはこの人。
カラヤンを嫌いになったきっかけもこの人。今は好きだけどね。


彼の批評は極めて主観的だと言われる。
ぶっちゃけ、好きか嫌いか、それだけだった。
他の評論家みたく、歴史性とか学術的意義とか、そんなの全然興味がない。
好きなら徹底的に褒め、嫌いなら徹底的に貶した。
ある意味、今の2ちゃんねらーの原型とも言える人だ。

しかし話芸としては最上のものだった。
独特の言い回しとプロレス的な煽りで、お堅いクラシック音楽を大衆に届く言葉にした。
この人の文章でクラシックが好きになった人間は数多くいると思う。


ただ、やがてネットが発達してくると、やはり恰好の標的にされた。
しかもまだ評論家だけやっていれば傷も浅かっただろうが、自分で指揮を始めてしまった。
それも決して上手くはない学生オケを主に振るものだから、破天荒な解釈で自由奔放に指揮し、オケはそれについて来れず、演奏は絶えず空中分解。
YoutubeでもAmazonでも、コメント欄は罵倒の嵐だ。
「偉そうに人の批評・批判をしておいて、なんだこのザマは!」
はいはい、お決まりの文句ありがとうございます。

でも、面白かったなぁ。

アンサンブルSAKURAの大阪公演を後輩と聴きに行ったことがある。ベートーヴェンの「英雄」。実はこの時の動画はネットに上がっている。
面白すぎて、 演奏中ずっと笑い転げていた。

そうしたら隣のいかにも真面目そうな青年が怒り狂って、終演後前の席をガンガン蹴って怒りを露わにした。
僕はその青年に当てつけるように、その隣で「ブラボー!」を連呼した。

なんでこんな演奏にブラボーを叫ぶのか、彼は僕に不愉快だったのだろう、「あーあ」と、聞こえよがしに溜息をついたので、僕も負けじと「あーあ」と返してあげた。
昔から血気盛んだったからねぇ・・・。

僕は彼の指揮芸術は全部パロディだと思っていて、だからある意味真面目に聴くものではない。
でもだからって軽んじるつもりはなく、一種(『ナディア』までの)ガイナックス作品のような気持ちで聴くものだと思っている。
諧謔的ではあるけれど、真剣なところは真剣。その感動は本物。
だから、もう少しクオリティがあればねぇ・・・。


彼はどれだけ罵倒されようが泰然自若、自分の信念を文章においても演奏においても貫き通して、86歳で亡くなった。

天晴れ。



「偉そうに人の批評・批判をしてるんだから、いいモノできるんだろうな!」
っていうのは、あの頃から不毛だと思っていた。
喧嘩にしなくていいじゃん。人の感想は人それぞれ。別にそれであなたが死ぬ訳じゃなし。
つかなんでそんなに怒ってるの?そんなに腹が立つものか?関係者ならまだしも。

そんなに創作者の言動とか人間性とか気になるのかねぇ?それぞれの作品と素直に向き合って、素直に評価すればいいだけなのに。
それを恨み節みたいにするのは、本当不毛。

作品も評価も人それぞれ、その広がりが本当の意味での文化の豊かさだと思う。
「よくもあの作品を、演奏を貶したな!」とか、いいじゃん、自分が貶されたんじゃないんだよ?
自分が貶されたらしょうがない、怒ってください。そんなに自己同一化してどうするの?

自己同一化以前に、もはや同調圧力の塊となったネットではなかなか理解してもらえないけど。


クラシック業界も今はもう、すっかり世評の顔色ばかり伺っているような気がする。
ブザンソンでどえらい情熱的な指揮をして優勝し、「これは来た!」と興奮させてくれた山田和樹も、すっかりおとなしくなってしまった。いつか覚醒してくれないかなぁ。


文化が狭くなっている。文化を受容する「心」が狭くなっている。
宇野センセのご冥福を祈りつつ、憂いたい。