コバエがテーブルを這っていた。
瞬時にバチーン!と手で叩いた。
コバエは手の指の平で生き物とは思えないほど粉々になっていた。
ある時は殺虫剤を撒いたり、ある時はシンクで大量に死んでたり、今年もコバエに悩まされた。
しかしこんな時思う。コバエは何を思い、何を考え、生きて、死んだのだ?
ていうか、こんな小さな小さな存在に、どれほどの魂が宿っているのだろう?と。
こんなことを思い巡らす時、必ず思い出すのが「蟲愛づる姫君」。
知る人ぞ知る、あの「ナウシカ」のキャラクター設計のモデルとなった、『堤中納言物語(宮崎さんは『宇治拾遺物語』と勘違いした。しかし良く読んでいらっしゃる・・・)』の一節に登場する、姫君だ。
「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり」
「思ひとけば、ものなむ恥づかしからぬ。人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも見思ふべぎ」
(『堤中納言物語』より)
「命の価値」を、最近ずっと考えている。
さだまさしの歌に「いのちの理由」というのがあって、そこの歌詞に、
「しあわせになるために 誰もが生まれてきたんだよ」
とあって、そこを聴く度、いつも違和感で頭が一杯になる。
さすがにそりゃないだろう、と。
地球人類、生きとし生けるものみんなが幸せになる保証は、どこにもない。
AI開発の分野で、いいところまで来て途中でいつも行き詰まるらしいのだが、人間の思考に限りなく近く、かつ合理的な思考を憶え込ませようとすると必ず、「人類は滅亡すべきだ」という結論に辿り着き、その都度開発が止まり、遅々と進まないという。
そういう時思う、人間もコバエのようなもので、地上に大量発生しているのだから、そりゃ消されるだろう、と。
人間は大量発生しすぎた。
人間よりももっと「大きな」存在がいるとして、そこから見たら、そんなものだろう、と。
僕らはテーブルの上で粉々になったコバエと、何ら変わりない命を受けて、まだここにいる。