今更ながらで大変恐縮だが、舘野さんとお会いできた記念で、積読していた『エンピツ戦記』を読んでいる。
もうお人柄通りの筆致で、苦労話が多く書かれているのだが、語り方が優しすぎて苦労に見えない。
恨みを持ちつつも赦す、大ジブリを長年支えた偉人の懐の広さを感じます。


さて興味を引いたのがこの一節、


つまり、とにかくたくさんラフを描く。そしてパラパラする。動きのよくないところを見つけて、よりよい動きを探求する。その繰り返しで上達するしかないのです。 (『エンピツ戦記』より)


これ、思い当たる節があります。ていうか、そういや僕らも昔やったなぁ、と。

僕が京都から大阪スタジオに赴任になった時、そこのスタッフ達と班を組んで一本分のアニメの仕事をする(グロス受け、といいます)ことになったのだが、当時大阪にいた原画・動画はほとんど新人と若手で、さぁこれどうしようか、と悩みました。
僕はそこで開き直った。クオリティはどうせ京都の本社に敵わないのだから、せめて楽しくやろう、と。

原画スタッフに出した指示は、「とにかく一枚でも多く原画を描いてくれ」でした。
打ち合わせで細かい芝居の指示も出したのですが、それに各スタッフの能力が伴わない。
そういう場合は、もう自由にやらせよう、と。
「とにかく思いついた絵をたくさん描いてくれ、あとはこちらで整理する」

ここで重要なのは、リテイクをできるだけ少なくする、というものでした。

原画10枚も一生懸命描いたのに2枚しか使われなければ、さすがにモチベーションが下がります。時間の無駄です。
だから僕は、できるだけ上がってきた原画を使った。
芝居の方向性が違う時も、「こことここだけ修正して」あるいは「こういう絵だけ一枚足して」と、もとの原画のプランを覆さないよう修正しました。

ある時、『あたしンち』のあるカットで大量の原画が上がってきました。
何をしているの?と思ったら、ヒロインのみかんが列車の中で急にトイレに行きたくなって、はしゃいで鞄からぶちまけてたお菓子やら何やらを急いで仕舞う、というものでした。
それをひとつひとつ、丁寧に鞄にしまっているのです。
いや、その丁寧さはいいんだけど、時間がかかりすぎる。
そのカットの尺が3倍くらいに延びてたのかな。

TVアニメは定尺が決まっているので、延びたら使えません。
それ以前に、テンポ的に間延びする。

悩んだ挙句、強引な策に出ました。
全部一コマ打ちにしたのです。
つまり早回しです。
『あたしンち』にはギャグとデフォルメ要素があったからできたのですが、結果その大量の原画を、全部使いました。
メチャクチャな速さで物を鞄に仕舞いこんだんですね。これはこれで、結果的に面白かった。


しかしこのやり方、弱点があります。
作画監督の負担が大きいのです。

敢えて伏字にしますが、大阪時代ずっとコンビを組んでいたIさん、さぞしんどかったと思います。
若手の描き散らしたノリだけの原画を一枚一枚、全部修正(この場合は絵柄の統一)したのです。
さすがに我慢できない時は怒られました。まぁそれでも「やってください」と頼み込むと、やってくれたんです。
それでもブチ切れた時は彼女がイチから描き直すこともありました。だから、あ、これ、このまま渡したらキレるな、と思った時は、「すいません、あとはよしなに・・・」というメモを入れておいたものです。

でもよく付き合ってくれました。未だに彼女以上に我慢して付き合ってくれた作画監督にお目にかかったことがない。やりやすかった。


こういう欠点はありますが、このやり方、若手育成には相当な効果を発揮します。京都のスタッフと仕事した時も適用しました。
まず自信になります。自由に描きまくって、それがほぼ使われてフィルムになるのだから、やり甲斐があります。
そして探求心も育ちます。今度はどんな仕掛けをしてやろうか?というイタズラ心で、いつの間にか動きに研究熱心になるのです。

思えばこのやり方で、最初は「これ俺より下手クソやんけ!!」と頭を抱えていたアニメーターが、数多く伸びました。
作画監督になったり、キャラデザや監督までなったり、解らないものです。


たぶんそのマインドは、今もあの会社に受け継がれていると思っています。
たぶんね。