有名な小津安二郎の「遺言」。これを病床で直接聞いた吉田喜重が、悩みながら解釈していた文章をどこかで読んだのだが、手元にない。
これだったかな?違う気が。
これを僕なりに解釈すると、「映画はフィクションだ。現実をそのまま写し取る訳ではない」ということだろうと思う。
しかし、じゃあドキュメンタリー映画はどうなるの?とか、いろいろな疑問が浮かんでくるだろう。
たぶん時代的にはブレヒトを意識しているのかも知れない。
つまりアクシデントを「報道」するのではない、現実にカメラを向けるその手前には、必ず視る人、そして伝える人の「視点」と「意思」、そして「表現」が入る、入ってこそ、現実は「映画」になる。
まぁ、そういうことなのだろう。
ちなみに小津はこういう発言も残している。
「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」
最近では「芸術のことは観客に従う」なのかね?(笑)
僕はすべての表現、コミュニケーションは、主観的であるしかないと思っている。それは報道でさえもだ。
今回の大統領選でアメリカのジャーナリズムがヒラリーに偏向し、大衆にそっぽを向かれたという分析もされている。
確かに大衆の生の声をつぶさに聞き取ることはできなかったのかも知れない。しかし僕はそれでも、アメリカの(アメリカに限らず)ジャーナリズムは大衆に迎合する必要はなかったし、今後もないと思っている。
たぶんこれからのトランプの一挙手一投足が、それを証明していくことだろう。
「衆愚」に陥りたくないのなら(またそれを否定したいのなら)、それぞれがそれぞれの「個」を固く持ち、主張していくべきだ。
そういう時代に突入した。
「サイレントマジョリティ」とは良く言われるが、マジョリティがサイレントであることは、いつも恐ろしいことなのだ。
これだったかな?違う気が。
これを僕なりに解釈すると、「映画はフィクションだ。現実をそのまま写し取る訳ではない」ということだろうと思う。
しかし、じゃあドキュメンタリー映画はどうなるの?とか、いろいろな疑問が浮かんでくるだろう。
たぶん時代的にはブレヒトを意識しているのかも知れない。
つまりアクシデントを「報道」するのではない、現実にカメラを向けるその手前には、必ず視る人、そして伝える人の「視点」と「意思」、そして「表現」が入る、入ってこそ、現実は「映画」になる。
まぁ、そういうことなのだろう。
ちなみに小津はこういう発言も残している。
「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」
最近では「芸術のことは観客に従う」なのかね?(笑)
僕はすべての表現、コミュニケーションは、主観的であるしかないと思っている。それは報道でさえもだ。
今回の大統領選でアメリカのジャーナリズムがヒラリーに偏向し、大衆にそっぽを向かれたという分析もされている。
確かに大衆の生の声をつぶさに聞き取ることはできなかったのかも知れない。しかし僕はそれでも、アメリカの(アメリカに限らず)ジャーナリズムは大衆に迎合する必要はなかったし、今後もないと思っている。
たぶんこれからのトランプの一挙手一投足が、それを証明していくことだろう。
「衆愚」に陥りたくないのなら(またそれを否定したいのなら)、それぞれがそれぞれの「個」を固く持ち、主張していくべきだ。
そういう時代に突入した。
「サイレントマジョリティ」とは良く言われるが、マジョリティがサイレントであることは、いつも恐ろしいことなのだ。