情けないね。


もう一億歩譲って俺が好きか嫌いか、どうでもいいよ。でも知り合いに面と向かって言えなかったから、ネットで全世界に向けて言うってか?よりにもよって、俺にも聞こえる場所で言うってか?


ほんまもんのアホか?


ネットはやはり、便所の落書きですな。


情けない。


これから『この世界の片隅に・評』3回目を書こうとしていたのだが、この作品が描かれ、そして僕達にここまでの感動を与えてくれた背景には、紛れもなく「戦争」という人間の愚かしさの結晶があるんだよね。
それがなければ、この作品が描かれることもなかった。
アンビバレントだね。


そういった、人間の美醜の表裏一体感に改めて驚き、煩悶する夜を迎えています。



その中でひとつ気付いた点がある。
どうして人はそんなに人を嫌いになれるのか?
実害を被ったならまだしも、面識のないいちアニメ監督を嫌いになれるのか?
そしてそれを全世界に向けて叫べるのか?


これはつまり、「甘え」なんですね。
不条理でもなければ不道理でもない、理をただす批判でも意見でもない、ただの自分の「気分」「機嫌」を、世界に共有してほしい。
人が「嫌い」な自分を、認めてほしい。

それは言わば、乳幼児に近い「甘え」だ。


どこかで聞きかじったので原典不明だが、発達心理学だったか何かだが、生まれたての赤ん坊が泣く理由がどうして育てる親に伝わらないのか?
お乳なのか?おむつなのか?眠いのか?それ以外か?それがどうしても解らなくて、世のお母さん方は時にイライラする。

でも実は、生まれたての赤ん坊にも、自分がなんで不愉快なのか、解らないのですな。脳が未発達だから。
だから意味も解らず延々と泣き続ける。

その後、脳が発達し、自分の中の「快-不快」の仕組みをだんだん覚え、具体的な理由を認知し、やがてそれを言語化し、おなかすいた、とか眠いとか、おもちゃほしいとか、親とのコミュニケーションが成立するようになる。

だから「不愉快」というのは、世界とのコミュニケーションを自分の中で成立させるための、大事な生理的要因だということですよ。


でもね、ここまで来ると誰でも解ると思うんだけど、それって「更に発達した」大人の目線から言うと、ただの「甘え」なんですね。

だからようやく解った。「アンチ」というのは大人になり切れない人々が抱える、「ボクは不愉快なんだぁー!」という、脳の深奥に未発達のまま残っている「幼年期」の訴えなのですよ。


僕が「愛されたい」で言及した、「俺は世界をこんなに恨んでいるのに、世界はどうして俺のことを愛してくれないんだ!」という、オタク(いやこの場合アンチ)の無茶苦茶な欲求も、つまりは「甘え」なのだ。

だから、下手をすれば、俺はヤマカンを嫌いだが、そんな不愉快な気持ちをヤマカンに理解してほしい。そして実際消えてほしい。でも本当に消えたら自己承認も消えてしまう。どうしよう?なんて感情が、アンチの中に渦巻いているのかも知れない。
生まれたての乳幼児のようなアンコントローラブルな気分の彷徨いが終わらない、安定しない。
でも聞いてほしい。認めてほしい。構ってほしい。

それが「アンチ」の正体だ。


そうなると、どうして僕がブロックしたことにみんな恨みがましく腹を立てるのかも、段々解ってきた。
この点もどうしても解らなかった。僕は不愉快なものは視界からすぐ消す。でないと不愉快さが消えないし、イライラでどうにかなってしまいそうになるからだ。
だから僕がキレる時は「もう二度と会いたくないです」「もう連絡してこないでください」。必ずそう言う。
ブロックも、その一環。

でもアンチは違う。
アンチは僕がいなくなると、認めてもらう相手がいなくなるのだ。
「消えてくれ」と言ってるのに「消えてもらったら困る」。このアンビバレンスの中にいる、それがアンチ。


やっと解った。
ただ解ったからと言って、なんのスッキリさもないけどね・・・。