(動画転載は自粛する。YouTubeにあります)
お察しの方もいると思いますが、「とある」ライブの前のMC替わりに、唐突にこの動画の音声だけが流れたのです。
え?え?と戸惑っていたけど、何の説明もなし。
アンコールでようやく演者が種明かししてくれました。
いや、笑ってしまいましたよ。帰って動画観て。
うーん、だから今懺悔しますが、僕の心の深奥にも、「キチガイを嗤う」という心性が、あるのですね。
過去、「キチガイを嗤う人間が果たしてマトモか??」という疑義を呈したことがあるのですが、それが自分に降りかかってきた瞬間でした。
これぞブーメランですね(苦笑)。
ただ、さすがに公の場で、他人事に対して人を嗤うことは絶対避ける。
道端や駅などで実際そういう人を見かけても、もちろん相手にはしない。
ネットでも避けてきた。
でも、そういう人々が僕に向けて攻撃してきた時だけは、「よし!行って良し!」とスイッチが入る瞬間が、なくはない。
できるだけ理性的に、筋を通して対応するんだけどね。
「なぜ訳の解らないアンチに反応するのか?」と良く言われてきたが、そこには、「どうしてこんな発想になるのだろう?」という深い疑問を払拭したい、ひょっとするときちんと解り合えるかも知れない、という淡い期待やモチベーションがもちろん大きなベースとして占めていたのだけれど、更にその底にある、「狂気」を想定してそれを侮蔑したい心性、一種の差別感覚を、黒く淀んだ沈殿物として認めざるを得ない。
それをいかに自分の中で制御し、相手と向き合い、それを赦せるのか。
この世の狂気と歪んだ悪意、そしてそれに呼応して顔を出す自分自身の狂気と悪意に、どう自分なりの落としどころを見つけるのか。
考えれば考える程、難しい。
巷ではこの音声をかけたことに批判も出ているようだけど、感情的な批判は全く意味がないと思います。
「ムカついた」のなら尚更、そのつられてピョコっと飛び出た自分の悪意・狂気とまずは向き合って、そこから言葉を紡ぎ出さなければ。
でなければあなたの言葉も、「差別の娯楽化」の萌芽になってしまいますよ。
差別というのは理に沿わない感情的・感覚的な問題なので、それに立ち向かうためには心を無にするくらいの振舞いをしなければ、ミイラ獲りがミイラになりかねないのです。
ただ、僕がもし「さゆり」に絡まれたら、真っ先に警察行きます。
これは嗤ってられない。怖い。