70'sバイブレーション!

ミュージアムトーク・アーカイブ

なぎら健壱(シンガーソングライター)

1960年代にアメリカでのブームを受けて日本でも盛り上がりを見せていったフォークソング。

60年代から70年代のシーンをリードしたフォークソング、その歴史とスピリットを語り尽くす。

2013.04.06 [sat] @横須賀美術館 司会/前田祥丈

「帰って来たヨッパライ」からURCへ

なぎら
そんなことしてるうちに、67年に関西のフォークが出てまいります。「帰って来たヨッパライ」という歌が関西の深夜放送でかかって、爆発的な人気を持つんですね。
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『メンズ・クラブ』という雑誌に、加藤和彦さんという京都の大学生が、メンバー求むという広告を出しました。『メンズ・クラブ』はアイビーリーガーの雑誌で、いち早くフォークの特集なんかを組んでいました。その広告で集まってきた人たちと作るのがザ・フォーク・クルセダーズで、彼らが大学卒業で解散する記念に自主制作で作ったのが『ハレンチ』というアルバムですね。このアルバムに入っていたのが「帰って来たヨッパライ」です。
「帰って来たヨッパライ」は深夜放送で大ヒットします。各社驚くんですよ、なんだこの曲はと。とてもプロには考えられない力を持っていました。アマチュアだから遊び精神があった。それが深夜放送で流行り始めました。それで各社争奪戦になります。是非うちの会社でほしいということで、スッタモンダの挙げ句、勝ち取るのが東芝音楽工業というレコード会社です。これはすごかったです。歳の暮れに出しまして、あっという間に戦後最大のヒットとなります。
その「帰って来たヨッパライ」の楽曲を管理していた出版会社、出版というと本を想像しがちですけど著作権を管理する会社です。どれだけ売れたか、印税をどれだけ払うとか、そういうことを管理する会社ですけども、同じ会社にいたのが高石友也さんです。フォークルより先輩です。「よしこれで高石友也も一緒に売り出そう」ということになります。
ところが、フォークルをマスコミに出そう、テレビで使おう、ラジオで使おうと言うけども、『ハレンチ』は解散記念アルバムでしたから、グループは存在していないんです。でも、1年間の約束だったら続けてもいいでしょうということで、加藤和彦さんはOKを出します。北山修さんもOKを出します。あとの2人はダメだと。じゃあ、2人でやるのか。無理だろう。ということで、ドゥーディ・ランブラーズという京都のグループの端田宣彦さんが参加して、加藤、端田、北山というデコボココンビを生み出します。だから実はあのフォーク・クルセダーズは、「帰って来たヨッパライ」になんの携わりもないんです。みなさん、大きな勘違いをしているんです。
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それで、高石友也も一緒に出そうということで、中川五郎という大阪の高校生が作ったコミックソングを高石さんにうたわせました。「受験生ブルース」。これがやはり深夜放送でもてはやされます。そう、我々受験生の悲哀は、こういうもんなんだよと。ところが高石友也さんは受験生じゃありません。このとき立教大学の7年生でした(笑)。高石友也さんは、学校へ行かずに何をやっていたかというと、大阪の釜ヶ崎あたりでラーメン屋の屋台を引っ張っていたんですね。労働者と暮らしながら、歌もうたっておりました。
その頃、やっとテレビ・ラジオでそういう歌をかけ始めます。最初に高石さんの歌を聴いて感動したのが、岡林信康さんです。自分の曲は2曲しかないのにデビューしました。そんな人はいませんよ、なかなか。これが、かなり批判的な内容で、結局発売できません。「じゃあもう1曲作ってくれよ」と言って作るのが「山谷ブルース」。これが最初のシングル盤となります。B面が高石友也とデュエットした「友よ」だったと思いますね。
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しかしまだ大手の会社は、笑いながら見てるわけですね。「素人が作ったもんが売れるわきゃねえだろう」と。そこに「帰って来たヨッパライ」や「受験生ブルース」などが出てきます。そしてもうちょっと大人っぽいというか泥くさい「山谷ブルース」が出てきたときに、レコード会社はちょっと待てよ。これは儲かるんじゃないのと。ならばこれは方針変えないといけないなと。誰か連れてらっしゃいということになります。
それでいろいろな歌手を探して来るんですけども、みんなうたう歌が過激で、これは発売できないだろうとグズグズしてる間に、先ほどのフォーク・クルセダーズと高石友也さんという二大巨頭を持っていた高石音楽事務所が、大手のレコード会社が発売してくれないなら、我々がレコード会社を作っちゃおうと。ところがレコード制作基準倫理委員会、レコ倫と言われるものがありますね。そこがグズグズ言うんですよ。「こんなもの出しちゃいけない」と。レコードを売るには問屋がなければ売れないわけですよ。そこに逆らったらレコード店も死活問題だし、できるわけがないじゃないですか。そういうルートが持てないのなら、会員を募ろうじゃないかということで、最初は200人だか300人の会員を募って、そこでレコードを出そうということになります。その名称がアングラ・レコード・クラブと言います。これが後に出てまいりますURCです。
私がアングラ・レコード・クラブというのを知るコンサートがあります。『ボーイズ・ライフ』という青年誌に高石友也さんの記事がありまして、「マイク眞木の『バラが咲いた』だとか、あんなものをフォークというのは、大きな勘違いだ」と。しばらく読み進むうちに、「やはり土の香りがするものがフォークである」と。「私がフォークと認めるのはたったひとつ。丸山明宏の“ヨイトマケの唄”だけだ」と書いてあるんです。
そんなこと言うなら、高石友也のレコードを聴いてみようじゃないかと。それで大阪サンケイホールの実況録音盤を買ったんです。その中の歌で「小さな箱」、つまり団地とかそういうものを皮肉っている歌とか、あと「時代は変わる」の日本語版が入っておりまして、あれ? 今までのフォークと何か違うぞと。そうするとこの人が言っている「ヨイトマケの唄」は、本当にすごい歌かもしれないと思って、買いにいきました。
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で、68年3月17日だったと記憶してますけど、高石さんのコンサートを聴きました。場所は目黒公会堂だったか、ちょっと失念しましたけど。他にも出演者がいましてね、岡林信康さんが。あれ、岡林信康って高石友也と「友よ」をうたってる人だ。もう1人、なんだあの薄汚いのは。栄養失調かい? それが、「自衛隊に入ろう」の高田渡でした(笑)。当時まだ彼は、高校生ですよ。私は驚きましたね。こんな歌い手たちが世の中にいるんだと思いましたね。他に五つの赤い風船というグループ。高石友也さんを聴きにいきましたら、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船と豪華なメンバーが聴けちゃったわけで、得をしましたよ。でも、高石友也のレコード以外は知りませんから、実際はなんだこりゃ、という感じでした。
こんな歌が世の中にあるんだ。今まで私が英語の意味もわからずうたってきたのは、一体なんだったんだろうかと。そのコンサートで誰かが紹介していたんです、アングラ・レコード・クラブという会員制のものがあるってことを。2000円を払うと、2カ月か3ヵ月に1回出LP1枚とシングル盤2枚を送ってくると。それで第1回目が高田渡さんと五つの赤い風船のアルバム、片面ずつなんですね。経費節約なのか、歌の数が少なかったのかは知りませんけど。それでシングル盤が「イムジン河」ですね。
私もお金をためて送りました。送ってきたレコードを見たらすごいなと。自分でうたう歌も変わりました。高校で「♪ガイコツが〜」と岡林さんの歌をうたっていました。葛飾で有名でしたよ、文化祭荒らしと言われました(笑)。他校の文化祭へ行って、みんなきれいな歌をうたってるところへ、「♪ガイコツが〜」ってやったら、これは有名になりますよ。葛飾のはずれの学習院と言われているところになぎらがいる、なんてことで、文化祭はとにかく満杯でした。今までで一番人が来たのはあの頃じゃないだろうかと思います(笑)。
後に放送要注意曲になりますけど、まだこれはラジオなんかでも平気でかけていましたね。深夜放送というのがフォークを支えましたね。『深夜放送ファン』なんていう雑誌が自由国民社から出てまして。『新譜ジャーナル』と同じ会社ですね。

Artist Profile アーティスト紹介

なぎら健壱

なぎら健壱 Kenichi Nagira

なぎら・けんいち 1952年、東京銀座(旧・木挽町)に生まれる。以来下町で育つ。高石ともや、西岡たかし、高田渡らに影響を受け、フォークソングに傾倒し、1970年、岐阜の中津川で行われた全日本フォークジャンボリーに飛び入り出演したことをきっかけにデビュー。1972年ファーストアルバム「万年床」をリリース。趣味は多く、カメラ、散歩、自転車、落語、飲酒、がらくた収集、など・・・。現在はコンサート、ライブ活動の他、独特のキャラクターでテレビ、ラジオ、映画、ドラマの出演や、新聞、雑誌等の執筆でも活躍。数多くの著書は、昔の生活を記録した「下町小僧」など下町をテーマにしたものが多く、そのような写真集も出している。下町研究には、驚異の記憶力と鋭い分析力を発揮し、他の追随を許さない。近年は、下町を取り上げた番組や出版物が非常に多い。下町の住人、風物、祭りなどへの愛情は人一倍強い。O型、おひつじ座。
なぎら健壱 official website

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