2016年12月03日
疑わないことを愚かというのである。
現執行部がおこなった会則変更にある「創価学会仏」の意味さえわきまえず、ただ原田会長のいうことに従えばいいという愚劣な思考はいったいどこからくるのであろうか?
信仰者としての姿に、ほとほと情けなさを感じる。そして激しい怒りを抱かざるをえない。
自公政権の暴挙を糾弾するのもいい、金儲けと核兵器のために維持されてゆく原発政策を糾弾するのもいい、何を糾弾してもいいが、結局のところ心ある仏法者であるなら、何においてもまず第一に法華経を汚すものを徹底的に糾弾すべきだ。
なぜかなら、大聖人がそうされてきたからである。
すなわち、法を顧ず、現執行部が正しいという我見の思想を打ち破ることこそ、折伏であり本当の意味での謗法を責める大善であることは論を俟たないからだ。
少なくとも、日蓮がうち建てた題目を唱えるものなら、その題字のごとく、まずもって「法華経の心」に生きるのが弟子門下としてのあるべき姿といって過言はない。
では「創価学会仏」という言葉は一体どこから現れてきたのか?
答えを提示しそれを宣揚している人はいるのだろうか?
いまだ、ネット上でそうした記事を見たことがない。だが、文証はきちんとある。
「妙法蓮華経 分別功徳品第十七」である。
この法華経の内容さえ理解せずに現執行部の定めた会則が正しいなどと宣うものは、仏法者などではない。
もしも仏法者と名乗るならば、それはなおのこと仏法を汚しているといっていい。
しかし、世間にはそうした仏法者気取りがごまんといるわけだ。
だから、破折せねばならない。破折しないでそれを受け入れるならば、わたし自身も破仏法の輩になってしまうからだ。
一体どれくらいの人が、この記事に触れて「分別功徳品」を学ぶのか、学び直すのかは知らない。
しかし、もしも学んでおいて、現執行部の決めた「創価学会仏」に関する会則に賛同できるというならば、そういう人は悪鬼入其身に魅入られた人といっていいだろう。
そういう人とは関わらないことをお薦めする。そういう人は、あなたを堕地獄に導く悪知識であるからだ。
もしも関わりたいというならば、徹して破折する関わりをすべきである。
分別功徳品を読めば、現執行部が言っているような内容にはなっていないことは一目瞭然だ。
それだけを明確にするための記事である。
法華経、すなわち南無妙法蓮華経と題目を口では唱えていても(妙法蓮華経の通りにしますと誓っておいて)、現実に法華経の内容それ自体に背くようなことをしていて、それが謗法でないというなら、一体なんだというんだ? きちんと説明してほしいものだ。
分別功徳品にはこうある。
正しく教えを説く師があり、正しく教えを聞いた弟子がいて、そうした師弟にあって、師が臨終したとしても、弟子が師匠から聞いたとおりのことをしていけば、弟子は必ず成仏できると。現世にあっても未来世にあっても、こうした方程式は決して変わらない、と説いているのだ。
いっておきますが、師も弟子も「正しく」なければならないのです。
だとしたら、現実には師弟とは究極は説かれた法――すなわち法華経――に従うことであって人(人師・論師)に従うことではないということです。依法不依人とはそういうことを指しているわけだ。
創価学会員であれば誰でも仏である、などと受け取れるものを会則の前文ともいえる部分に入れることがいかに異常なことか、しかと知るべきである。
日本国憲法にしても何にしても、前文というのは非常に大事な部分である。その前文に馬鹿げた間違った思想を吹き込むようなことをしていて、仏意仏勅の団体であるとか、謗法そのものである。
会、団体、組織がそのまま仏であることなど、ありえないし、歴史上そうしたことは一度もあった試しはない。
こんな組織信仰、全体主義を煽るようなファシズムを絶対に許してはいけないのである。
現に大聖人の時代にあっても、弟子門下の中に反逆者があったことなど、厳然たる事実であるのに、組織そのものが仏であるといった思想を会則にいれた意味がいかに破仏法の謗法であるかを知るべきである。
分別功徳品をしかと拝するべきだ。
阿逸多(弥勒)よ、もし生命のあるものすべてが、仏の寿命が永遠であることがこのようであると聞いて、ただ一念でも、仏の教えを信ずることによって、その教理を会得する心を起こしたならば、得る処の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行は、限りないものとなるであろう。
これが仏に対する正しい解釈だ。
もしも、生きとしいけるものの生命は永遠であると聞き、それを一度でも信じて、その教え(生命は永遠であるということ)を会得する心を起し、善行を働いたなら、現世においても未来世においても限りない仏の叡智(限りなき功徳)を得ることができる。
そういっているわけだ。
冒頭にある「もし」に注意を払ってほしい。つまり、この一節は“仮定”の話をしているのであって、現実に存在するもの、ようするに今の現実の創価学会にそれを当てはめること自体、完全に経文から逸脱しているのだ。
ここでサルトルの「実存主義」のはなしをすると混乱するのかもしれないが、ようはそういうことなのです。
今ここに現実に存在するということは、ただ生きているだけでそうはいえないのだと。今ここで何をしたかによって存在は確かな事実となるというのが実存主義だ。
創価学会員であろうとなかろうと、大事なのは「何を為したか」であり、その「為したこと」によって仏にもなるし、魔にもなるわけだ。そう法華経に説かれているのに、学会員であれば仏であるというように受け取れる文言を会則に入れるなど、言語道断なことなのだ。
サルトルの実存主義の話に戻る――。
リンゴがある。眺めているだけでは、自分もリンゴも実存するとはいえない。
リンゴを美味しく食べることで、リンゴも自分も確たる存在になるのだ。この場合、リンゴはわれわれの生きるエネルギーとなり、われわれはそれを使って何かをなすエネルギーを得たことになる。食べたことで、美味しかった! という喜びも実存することになる。空腹が少し満たされたという利益も実存するわけだ。それに気づけば、自然と感謝の気持ちも湧くだろう。
こんな不味そうなリンゴ食えるかと壁に投げつけた。この場合、リンゴはわれわれには何の役にもたたなかった。いやむしろ「こんなもの!」と投げつける怒りを起させる因になった。しかし本当のところリンゴに罪はない。このようなものの見方を外道という。実際イライラしていたのは主体者であるわれわれである。イライラしていた自分に気づかず、リンゴに八つ当たりをしたわけだ。ようするに責任転嫁だ。イライラしていたのは自分なのに、そのイライラの原因をリンゴにみたてたわけだ。このように捉えるのを(自分を見つめることを)内道という。
どちらにしても、リンゴも自分も台無しになったことはわかろう。
もちろん、イライラしてたのは自分だった……と気づき、次からは八つ当たりはしまいと誓い実践すればよいのだが。煩悩即菩提の「即」という字義には、今やってしまった失敗にすぐ気づいて、即反省して正すという意味がある(即そうできない場合もありますけどね)。
そのままで即ではないのである。そこには必ず反省と改善のための努力が存在するわけだ。
このように人間というものは、ただそこに“ある”だけでは存在たりえない。なにかを為すことによってはじめて存在するというのが、サルトルの実存主義という思想である。
仏法に非常に似た思想である。長く生きたから素晴らしいではなく、「何をしたか?」「何のため?」に生きたが重要だということに相通じるといっていい。
ともあれ、先に述べた「もし」の部分について、一応は“仮定”と書いたが、正確にいえば“条件付き”と考えればいいだろう。素直に読めばそういうことは普通すぐにわかるはずだ。すなわち「〜であるならば、〜となる」という意味になっているのだ。師弟子ともに正しく法華経に帰依しているならば、これが条件である。しかし会則にある内容は「戸田先生がそういったし、池田先生もそういっていたから、そうなるのだ」といった態である。もちろんこれは「現執行部がこういったのだから、〜となる=正しいのである」ということの暗示のために師匠を利用し、師の教えと違った意味を連想させ、かえって師を貶めている。
ゆえに、二重の意味で愚劣といっていい。法華経の心に背き、なおかつ正しく法を弘めようとされた師の心を汚し貶めているからだ。
では訊こう――。
創価学会員であれば、誰しもが上に述べたように信じ、それを会得するために善行を働いているというのですか? そんなことがあり得ないことなど、普通に思考力のある人ならわかることである。
創価学会のすべての会員が、「生命は永遠なんだよ! だから命に勝る宝物は存在しないんだよ! この娑婆世界を見てよ! すべてのものが諸行無常じゃない。でも生命それ自体は永遠なの! だから生命こそ最上の宝なんだってば!」と語りに語っているなら、会則もおかしなものとはいうまい。
しかし現実はどうだ? 公明党は正しい。現執行部――原田会長――の言うとおりにやればいい。
病気を治したい、仕事が……生活苦が……経済苦が……ではないんですか?
そして最大の決まり文句は、とにかく学会活動すればいい! それが現実ではないか。
生命は尊いというなら――
なぜ自衛隊員の命を蔑ろにしているんだ?
なぜ原発が大事故を起こしたのに再稼働を認めているんだ?
なぜ生命を奪う武器を世界にばらまくような政策を進めた公明党を糾弾しないんだ?
なぜ生命を守るためにとはいえ、最も生命を奪う危険性のある武器に頼ろうとするんだ?
なぜ地震で被災した困っている人への支援を断ち切るような政策を進める公明党を糾弾しないんだ?
なぜ沖縄の庶民たちが生活(つまりは生命活動)を脅かされる政策を進める公明党を糾弾しないんだ?
こんなこと、列挙したらきりがない。
さあ、現執行部万歳の会員さんがたよ、少なくともここにあげた「なぜ」くらいには、しかと明確に答えてもらおうじゃないか。
しかとわたしの云ってることを破折してみなさいよ。できっこないでしょうけどね。
そもそも、大御本尊を受持しないと会則に明記してしまったあとに、創価学会現執行部に追従し隷属する者は大謗法の輩である。
正しい本尊観を破壊した人師を敬っているのですからね。しかもそれだけではなく、仏法僧を破壊し、ついには団体そのものが仏であると暗示にかけるような文言を会則に明記する始末。日顕宗を責めるどころか、自分たちがそれと同じ道をいっている(人師信仰に陥っている)ことにさえ気づけないとは、愚かであり、可哀想なことであるのだが……。
信仰者としての姿に、ほとほと情けなさを感じる。そして激しい怒りを抱かざるをえない。
自公政権の暴挙を糾弾するのもいい、金儲けと核兵器のために維持されてゆく原発政策を糾弾するのもいい、何を糾弾してもいいが、結局のところ心ある仏法者であるなら、何においてもまず第一に法華経を汚すものを徹底的に糾弾すべきだ。
なぜかなら、大聖人がそうされてきたからである。
すなわち、法を顧ず、現執行部が正しいという我見の思想を打ち破ることこそ、折伏であり本当の意味での謗法を責める大善であることは論を俟たないからだ。
少なくとも、日蓮がうち建てた題目を唱えるものなら、その題字のごとく、まずもって「法華経の心」に生きるのが弟子門下としてのあるべき姿といって過言はない。
では「創価学会仏」という言葉は一体どこから現れてきたのか?
答えを提示しそれを宣揚している人はいるのだろうか?
いまだ、ネット上でそうした記事を見たことがない。だが、文証はきちんとある。
「妙法蓮華経 分別功徳品第十七」である。
この法華経の内容さえ理解せずに現執行部の定めた会則が正しいなどと宣うものは、仏法者などではない。
もしも仏法者と名乗るならば、それはなおのこと仏法を汚しているといっていい。
しかし、世間にはそうした仏法者気取りがごまんといるわけだ。
だから、破折せねばならない。破折しないでそれを受け入れるならば、わたし自身も破仏法の輩になってしまうからだ。
一体どれくらいの人が、この記事に触れて「分別功徳品」を学ぶのか、学び直すのかは知らない。
しかし、もしも学んでおいて、現執行部の決めた「創価学会仏」に関する会則に賛同できるというならば、そういう人は悪鬼入其身に魅入られた人といっていいだろう。
そういう人とは関わらないことをお薦めする。そういう人は、あなたを堕地獄に導く悪知識であるからだ。
もしも関わりたいというならば、徹して破折する関わりをすべきである。
分別功徳品を読めば、現執行部が言っているような内容にはなっていないことは一目瞭然だ。
それだけを明確にするための記事である。
法華経、すなわち南無妙法蓮華経と題目を口では唱えていても(妙法蓮華経の通りにしますと誓っておいて)、現実に法華経の内容それ自体に背くようなことをしていて、それが謗法でないというなら、一体なんだというんだ? きちんと説明してほしいものだ。
分別功徳品にはこうある。
正しく教えを説く師があり、正しく教えを聞いた弟子がいて、そうした師弟にあって、師が臨終したとしても、弟子が師匠から聞いたとおりのことをしていけば、弟子は必ず成仏できると。現世にあっても未来世にあっても、こうした方程式は決して変わらない、と説いているのだ。
いっておきますが、師も弟子も「正しく」なければならないのです。
だとしたら、現実には師弟とは究極は説かれた法――すなわち法華経――に従うことであって人(人師・論師)に従うことではないということです。依法不依人とはそういうことを指しているわけだ。
創価学会員であれば誰でも仏である、などと受け取れるものを会則の前文ともいえる部分に入れることがいかに異常なことか、しかと知るべきである。
日本国憲法にしても何にしても、前文というのは非常に大事な部分である。その前文に馬鹿げた間違った思想を吹き込むようなことをしていて、仏意仏勅の団体であるとか、謗法そのものである。
会、団体、組織がそのまま仏であることなど、ありえないし、歴史上そうしたことは一度もあった試しはない。
こんな組織信仰、全体主義を煽るようなファシズムを絶対に許してはいけないのである。
現に大聖人の時代にあっても、弟子門下の中に反逆者があったことなど、厳然たる事実であるのに、組織そのものが仏であるといった思想を会則にいれた意味がいかに破仏法の謗法であるかを知るべきである。
分別功徳品をしかと拝するべきだ。
阿逸多(弥勒)よ、もし生命のあるものすべてが、仏の寿命が永遠であることがこのようであると聞いて、ただ一念でも、仏の教えを信ずることによって、その教理を会得する心を起こしたならば、得る処の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行は、限りないものとなるであろう。
これが仏に対する正しい解釈だ。
もしも、生きとしいけるものの生命は永遠であると聞き、それを一度でも信じて、その教え(生命は永遠であるということ)を会得する心を起し、善行を働いたなら、現世においても未来世においても限りない仏の叡智(限りなき功徳)を得ることができる。
そういっているわけだ。
冒頭にある「もし」に注意を払ってほしい。つまり、この一節は“仮定”の話をしているのであって、現実に存在するもの、ようするに今の現実の創価学会にそれを当てはめること自体、完全に経文から逸脱しているのだ。
ここでサルトルの「実存主義」のはなしをすると混乱するのかもしれないが、ようはそういうことなのです。
今ここに現実に存在するということは、ただ生きているだけでそうはいえないのだと。今ここで何をしたかによって存在は確かな事実となるというのが実存主義だ。
創価学会員であろうとなかろうと、大事なのは「何を為したか」であり、その「為したこと」によって仏にもなるし、魔にもなるわけだ。そう法華経に説かれているのに、学会員であれば仏であるというように受け取れる文言を会則に入れるなど、言語道断なことなのだ。
サルトルの実存主義の話に戻る――。
リンゴがある。眺めているだけでは、自分もリンゴも実存するとはいえない。
リンゴを美味しく食べることで、リンゴも自分も確たる存在になるのだ。この場合、リンゴはわれわれの生きるエネルギーとなり、われわれはそれを使って何かをなすエネルギーを得たことになる。食べたことで、美味しかった! という喜びも実存することになる。空腹が少し満たされたという利益も実存するわけだ。それに気づけば、自然と感謝の気持ちも湧くだろう。
こんな不味そうなリンゴ食えるかと壁に投げつけた。この場合、リンゴはわれわれには何の役にもたたなかった。いやむしろ「こんなもの!」と投げつける怒りを起させる因になった。しかし本当のところリンゴに罪はない。このようなものの見方を外道という。実際イライラしていたのは主体者であるわれわれである。イライラしていた自分に気づかず、リンゴに八つ当たりをしたわけだ。ようするに責任転嫁だ。イライラしていたのは自分なのに、そのイライラの原因をリンゴにみたてたわけだ。このように捉えるのを(自分を見つめることを)内道という。
どちらにしても、リンゴも自分も台無しになったことはわかろう。
もちろん、イライラしてたのは自分だった……と気づき、次からは八つ当たりはしまいと誓い実践すればよいのだが。煩悩即菩提の「即」という字義には、今やってしまった失敗にすぐ気づいて、即反省して正すという意味がある(即そうできない場合もありますけどね)。
そのままで即ではないのである。そこには必ず反省と改善のための努力が存在するわけだ。
このように人間というものは、ただそこに“ある”だけでは存在たりえない。なにかを為すことによってはじめて存在するというのが、サルトルの実存主義という思想である。
仏法に非常に似た思想である。長く生きたから素晴らしいではなく、「何をしたか?」「何のため?」に生きたが重要だということに相通じるといっていい。
ともあれ、先に述べた「もし」の部分について、一応は“仮定”と書いたが、正確にいえば“条件付き”と考えればいいだろう。素直に読めばそういうことは普通すぐにわかるはずだ。すなわち「〜であるならば、〜となる」という意味になっているのだ。師弟子ともに正しく法華経に帰依しているならば、これが条件である。しかし会則にある内容は「戸田先生がそういったし、池田先生もそういっていたから、そうなるのだ」といった態である。もちろんこれは「現執行部がこういったのだから、〜となる=正しいのである」ということの暗示のために師匠を利用し、師の教えと違った意味を連想させ、かえって師を貶めている。
ゆえに、二重の意味で愚劣といっていい。法華経の心に背き、なおかつ正しく法を弘めようとされた師の心を汚し貶めているからだ。
では訊こう――。
創価学会員であれば、誰しもが上に述べたように信じ、それを会得するために善行を働いているというのですか? そんなことがあり得ないことなど、普通に思考力のある人ならわかることである。
創価学会のすべての会員が、「生命は永遠なんだよ! だから命に勝る宝物は存在しないんだよ! この娑婆世界を見てよ! すべてのものが諸行無常じゃない。でも生命それ自体は永遠なの! だから生命こそ最上の宝なんだってば!」と語りに語っているなら、会則もおかしなものとはいうまい。
しかし現実はどうだ? 公明党は正しい。現執行部――原田会長――の言うとおりにやればいい。
病気を治したい、仕事が……生活苦が……経済苦が……ではないんですか?
そして最大の決まり文句は、とにかく学会活動すればいい! それが現実ではないか。
生命は尊いというなら――
なぜ自衛隊員の命を蔑ろにしているんだ?
なぜ原発が大事故を起こしたのに再稼働を認めているんだ?
なぜ生命を奪う武器を世界にばらまくような政策を進めた公明党を糾弾しないんだ?
なぜ生命を守るためにとはいえ、最も生命を奪う危険性のある武器に頼ろうとするんだ?
なぜ地震で被災した困っている人への支援を断ち切るような政策を進める公明党を糾弾しないんだ?
なぜ沖縄の庶民たちが生活(つまりは生命活動)を脅かされる政策を進める公明党を糾弾しないんだ?
こんなこと、列挙したらきりがない。
さあ、現執行部万歳の会員さんがたよ、少なくともここにあげた「なぜ」くらいには、しかと明確に答えてもらおうじゃないか。
しかとわたしの云ってることを破折してみなさいよ。できっこないでしょうけどね。
そもそも、大御本尊を受持しないと会則に明記してしまったあとに、創価学会現執行部に追従し隷属する者は大謗法の輩である。
正しい本尊観を破壊した人師を敬っているのですからね。しかもそれだけではなく、仏法僧を破壊し、ついには団体そのものが仏であると暗示にかけるような文言を会則に明記する始末。日顕宗を責めるどころか、自分たちがそれと同じ道をいっている(人師信仰に陥っている)ことにさえ気づけないとは、愚かであり、可哀想なことであるのだが……。