久しぶりに平井金三関係の新資料をえたので、本日は少し補遺を書いておこう。

 もっとも、今回使う資料はモルモン教会のSさんやNさんから頂戴したもので、自力で見つけたものではないのがいささか情けないが、しかしかなり面白い資料である。

 ひとつは、モルモン教会が日本伝道百周年を記念して出版した『世紀を越えて 末日聖徒イエス・キリスト教会伝道100年のあゆみ』(末日聖徒イエス・キリスト教会 日本伝道100周年実行委員会、2002)。

 これらによるとモルモン教宣教師4名が横浜に到着したのは1901年8月12日。4名の中で最年少は1882年8月1日生れのアルマ・O・テーラーで、この時19歳になったばかりだった。その後、テーラーは8年半という異例の長期にわたって日本に滞在し、伝道の基礎を築き、1910年1月に離日することになるが、彼のなし遂げた成果の中でも最大のものは『モルモン経』翻訳事業だろう。

 そもそもモルモン宣教師の来日にあたっては、キリスト教仏教の両方から批判を浴び、逆風の中の伝道開始であった。その中で、モルモンに偏見なく接したのは、諸教の融和をといたユニテリアンであったようだ。モルモン宣教師たちは廣井辰太郎と知り合い、日本語教師と通訳を頼んでいる。この廣井はユニテリアンで動物愛護運動の創始者で『新佛教』の寄稿者として、ごく一部では有名であるが、まあ普通は知らんか。あるいは高橋五郎も初期のモルモン教シンパとして『麼兒門教と麼兒門教徒』(高橋五郎、1902)を著している。

 『モルモン経』の翻訳は、テーラーがローマ字に訳すという形で進めていたが、その中で1906年11月に平井金三に翻訳の件を相談しアドバイスを受けているが、平井自身は、東京外語学校の教員という身分であったせいか、その仕事を引き受けず、当時神戸在住だった野口善四郎(復堂)を紹介している。しかしモルモン教側が野口を断り、平井の弟廣五郎に仕事が回る。半年後、事情があって廣五郎との契約を解消し、そこから夏目漱石坪内逍遥の間をまわり、最終的には生田長江が1908年8月から雇われて、翌年1月に翻訳を完成させている。

 こうした経緯については、LDS(末日聖徒イエス・キリスト教会)関係の以下のウェブサイトを参照いただきたい。

http://www.geocities.jp/waters_of_mormon/mormon.html

http://www.morumon.org/japanchurchhistoryhiizuru-06.htm

http://www.liahona.jp/JapanHistory/index.html

 もう一冊、面白い資料が、伝道団で最年少のAlma O, Taylorの日記である。

 Reid L. Nielson, The Japanese Missionary Journals of Elder Alma O. Taylor, 1901-10 (BYU, 2001)

 この本については以下のページに紹介がある。またindexだけは自由にダウンロードできるので、それを見れば、どんな人物が登場するか分かるだろう。

 http://byustudies.byu.edu/Products/MoreInfoPage/MoreInfo.aspx?Type=4&ProdID=1111

 日記の編者があまり日本近代史に詳しくないせいか、この本ではことさらに書かれていないが、アルマは宮崎虎之助にも会っているし、1902年5月23日には、おそらくダルマパーラと思われる人物にも会っている(p.133)。平井の弟、廣五郎の生活上の問題とか、野口が怒りっぽかったとか、あるいは平井が金銭に潔癖だったとか、そういう人物月旦もなかなか興味深い。その中でどうもアルマは平井に一目置き、かなりの信頼を寄せていたようである。

 おそらくアルマは直情径行タイプで、血の気は多いが気の優しい青年であったのだろう。1902年1月14日、宣教師たちは廣井辰太郎の結婚祝いをホテルで開くが、そこに現われた新婦(17歳)の想像もつかない可愛らしさにノックアウトされ、初めての洋食にどぎまぎしている新婦を廣井が全然助けてやらないのを怒り、廣井に一、二発蹴りを入れたくなったと書いている。

 1907年7月18日の項では、平井金三から神戸の野口善四郎が引き受けてもいいと言っているというはがきを受け取ると、大雨で東海道線は島田と金谷間が不通になっているにもかかわらず、即、神戸に向かって出発し、20日には神戸で野口と翻訳について相談している(「彼と平井の生涯は切り離せないほど結びついていることが話の端々から分かった」p.329)。行動力もなかなかのものであった。

 さて、そうしたアネクドートはさておいて、ここで気になるのは平井金三とどうやって出会ったかである。

 ひとつは廣井と同じユニテリアンだったからということはある(それでは廣井はどうしてモルモン宣教師と知り合ったかというと、宣教師到着のニュースを知ると、その教義を知りたくて、自分から手紙を出したようである)。ただ日記には、廣井、平井以外にあまりユニテリアンが登場しない。安倍磯雄は出てくるが、ユニテリアンとしてではなく、早稲田教師としてである。

 ひとつ考えられるのは、日印協会の関係である。日印協会は上記のダルマパーラ来日に際して結成されたというが、その創立メンバーの1人が平井金三であった。

 日記で最初に平井の名前が出てくるのは1903年4月9日の項、平井の尽力で「錦輝館」を講演会場に借りることができたとある。その前、同年3月27日の項に、アルマを除いた他の宣教師は日印協会の余興大会に出席し、エンサイン長老は得意のノドを披露したとある。平井は、この会合で宣教師たちと出会い、あるいはそこで廣井から紹介され、交流が始まったのかもしれない。ただ、これは推測の域を出ない。さらに推測にとどまるが、平井がモルモン教宣教師を助けたのは、「総合宗教」的信条から、既成宗教からの批判を浴びていたモルモン教に”義を見てせざるは”といった義侠心を感じたのかもしれない。平井自身がモルモン教をどう解釈したかという重要な問題については今のところよく分からない。

 ところで、その後も、日本に来る風変わりな宗教というと、日印協会=大隈重信早稲田人脈の周辺を経由しているように思うのだが、どうなんでしょう。

 ところで先週末は、昨年と同じく清水で珍仏教研究会。今年は特殊オーディオ評論家F先生をお招きして「古アンプの趣味世界」、じゃなかった、知識人宗教についての濃い講演。その後は自由討究。今年入った店は、かねだ食堂、びすとろうさぎや、Porto & CIA。立派なフレンチやお洒落な和食などないけれど、かねだ食堂は評判通りの味だったし、こういうしみじみした店が充実しているのが清水の底力かなあ。うさぎやは今年も店内に入れず。表の路上で飲んでました。ネオン輝く観覧車を見ながら、涼しい潮風に行く夏を感じつつ、みなさん近づく締め切りにあせっていたのであった。さて来年もし清水なら、みちせい、びすとろくれいどる、それに、どんぶり君か?

 本日の一枚は研究会会場から見下ろす港の風景。

補足 廣井辰太郎については、珍仏教研究会々員で、中西牛郎研究では”世界一”の権威H氏が、前回の研究会で詳細な報告をしてくれている。彼の作成した年表を参考にして、少し補足しておきますと、生まれは1875年、97年に普及福音教会(マックス・ミュラーもこの教会に属し、向軍治もこの教会)の牧師となり、1904年にユニテリアン協会に入ったので、1901年モルモン教と出会った頃は普及福音教会との縁が切れつつあるころか(アルマの日記によれば、1903年4月20日(日)に平井と廣井の講演を惟一館で聞いているので、実質的にユニテリアン運動に参加したのは1904年よりも以前だろう)。1909年にはユニテリアン協会の役員を辞任している。『新佛教』への寄稿は1902年から1915年までと、本数は多くないが、ほぼ全期間に及んでいる。一方、牧師を辞めた後、廣井の本職といえるものは大学教員で、1903年から1945年まで哲学館=東洋大学の教員を勤め、最初2年間は比較宗教学、その後は英語を教えている(これもアルマの日記では1902年に学校で哲学と英語を教えているということになっているが、この学校が哲学館かどうかは日記からは分からない)。さらに何度か東洋大の理事にもなり、図書館長も勤めている。

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ma-tango
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