「なぜ、日本は敗色濃厚な対米戦争に突入してしまったのか?」
 これは今まで何度も問われてきた疑問で、多くの論者が論じてきた問題です。その問題には日米英のインテリジェンスという視角から光をあてると同時に、その意思決定の過程を緻密に論じた本。
 複雑な意思決定の過程を日米英の視点から細かく追っているので、最初は少し読みにく感じもあるのですが、ある程度読み進めて、各国の意思決定のパターンがつかめてくるとパズルのピースがはまっていくように面白く読めると思います。

 目次は以下の通り。
序章 日米は、なぜ戦ったのか
第1章 政策決定とインテリジェンス
第2章 「南進」と「国策」
第3章 独ソ開戦と南部仏印進駐
第4章 対立の深化から破局へ
結論 誰が情報戦の勝利者だったか

 この本の序章に、「一般的に、日本は先の大戦で情報戦に完敗したと考えられている」(55p)とありますが、実際、そう考える人は多いと思います。
 ミッドウェイ海戦での敗北や山本五十六が乗った飛行機が待ち伏せにあって撃墜された事件などは、日本の情報が敵側に筒抜けになっていた例です。
 さらにアメリカは開戦前の1940年8月に日本の外務省の九七式欧文印字機の暗号を解読しており、それをMagic情報として活用していました(45p)。

 ここから「アメリカは真珠湾攻撃を事前に知っており、第2次大戦に参戦するためにわざと日本に真珠湾を攻撃させたのだ」という陰謀論が語られることになります。
 しかし、日本も開戦前にアメリカの最高強度の外交暗号であるスプリット・サイファーを解読しており、イギリスの暗号についてもある程度解読していました(46p)。日本が暗闇を歩いている一方、米はすべてお見通しというような状況ではなかったのです。
 お互い手探りの中で、下手に相手の機密情報を知ったがゆえに誤解が深まるということが日米双方にありました。

 そして、日本側の意思決定をややこしくしているのが、日本の縦割り組織とボトムアップ型の意思決定です。
 ご存知のように、戦前の日本の首相は「同輩中の主席」にすぎず、各省に指導力を発揮することは難しかったですし、「統帥権の独立」によって軍の作戦に口出しすることは難しい状況でした。
 そこでこの時期の外交政策は陸軍と海軍と外務省などのすり合わせで決まっていくことになります。ところが、その軍部も陸軍であれば陸軍省と参謀本部、海軍であれば海軍省と軍令部に分かれており、容易にまとまらない状況でした。

 そこで、多用されたのが「両論併記」と「非(避)決定」です。
 この本では、まず日米の関係を一気に悪化させた南部仏印進駐に至る過程が検討されるのですが、そこで繰り返されるのが、この「両論併記」と「非(避)決定」です。
 ボトムアップで「大本営連絡会議」などの意思決定の場にある案があげられたとき、陸軍と海軍のあいだ、あるいは外務省とのあいだで調整がつかない場合、「両論併記」で糊塗したり、文書化を見送る「非決定」がしばしば行われました。
 しかし、両論併記の場合、文書にはより積極的な方針も残ることになります。そして、この両論併記の文書がアメリカやイギリスに流れ、日本の侵略的意図が認定されるといったこともしばしば起こったのです。
 さらに、日本の内部でも書き込まれた積極策に引きずられていくということがありました。

 また、ドイツはイギリスの弱体化を狙って、日本にシンガポール攻撃をするように要請していました。
 そこでドイツは拿捕したイギリス商船オートメドン号にあった機密文書を日本に流し、日本の参戦の機運を高めようとしました。この文書によると、日本が仏印を攻撃してもイギリスは戦争に訴えず我慢するといったことが書かれており、日本の南進を促進とも言われています。
 しかし、著者はオートメドン号の情報は肝心のアメリカについて何も知らせておらず、「タイ仏印施策の積極化の触媒になったが、影響力は限定的だった」(111p)と述べています。

 むしろ、問題は「ドイツからの要請」を背景に積極策を振り回し、陸軍や海軍を混乱させた松岡洋右外相という存在でした。
 松岡に関しては非常にエキセントリックな性格で、彼の発言を辿っていくと昭和天皇が『昭和天皇独白録』の中で行った「ヒトラーに買収されたのではないかと思われる」とか「彼は他人の立てた計画には常に反対する」といった評価が当てはまっているようにも思えますが、一方で、加藤陽子のように松岡を評価する歴史学者も存在します。
  
 この本ではそんな松岡の発言を、「シンガポール攻略」のような軍部の許容範囲外の積極策を振りかざすことによって自らがイニシアチブをとる戦略として次のように評価しています。
 松岡はある時は陸海軍以上の強硬論(シンガポール攻略など)を唱えて陸海軍を腰砕けにし、ある時は慎重論を唱えて陸海軍の主張を牽制した。天皇を利用することもいとわなかった。しかし、陸海軍の不一致を利用した松岡の戦略は、弱点も持っていた。松岡に挑発された陸海軍が一致して強硬論を唱えると、抗うことが難しくなるのである。まさに自縄自縛である。(149p)

 「両論併記」と「非(避)決定」の構造と、松岡のエキセントリックな発言が生み出した産物が独ソ開戦を受けて、1941年7月2日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」でした。
 そこには日中戦争の解決を最優先にしつつ、自存自衛のために南方進出を進め、機会があれば対ソ戦を行うという、3つの方向が盛り込まれていました。そして、「対英米戦ヲ辞セス」という言葉まで盛り込まれたのです。しかし、内部の人間にとって、これは対英米戦の覚悟を示すものではなく、松岡対策だったといいます(183-187p)。
 松岡はこの時期、さかんに北進論(対ソ戦)を唱えますが、それはある意味で軍を牽制するための作戦でした。しかし、そのことがかえって南進における陸海軍の政策の一致をもたらすことになったのです。
 ところが、日本にとっては対内的な要因で決定された「国策」も、外から見れば当然ながら日本の「国策」ということになります。

 そして南部仏印進駐が行われ、それに対してアメリカは日本への石油の全面禁輸で応えます。インテリジェンスによって互いに不信感を強めていった日米関係はついに決定的に悪化することになったのです(著者は歴史の「イフ」として、1941年2月の段階で南部仏印進駐が行われていれば英米は強硬策にでなかったのではないか?と分析している(149-150p)。

 アメリカの石油の全面禁輸に関しては、実はアメリカは当初から全面禁輸を意図したわけではありませんでした。
 これについては官僚制の「もつれ」という説もありますし、アチソン国務次官補のせいだという説もありますし、モーゲンソー率いる財務省のせいだという説もあり、今なお、決定的な理由がわかっていないとのことです(232-237p)。

 こうした状況に対し、近衛文麿首相は(この本ではここでようやく近衛が主要なアクターとして登場する)、ローズウェルトとの「日米巨頭会談」によって事態を打開しようとしますが、この案が検討されるなかで、7月2日に決定された国策要綱が解読され、アメリカ側は日本への不信感を強めます。対内的な性格を持っていた国策要綱は、日本の本心と受け取られてたのです。
 その後、ハル国務長官は暫定妥協案を日本に提示することを検討しますが、結局これを断念します。理由としては、中国の反発、情報がマスコミん漏れたこと、スティムソンからの誤情報などがあげられていますが、これん関しても決定的な理由は謎だというのが著者の立場です(280-292p)。

 最後に残るのが、「なぜ、アメリカは真珠湾の奇襲を許したのか?」という謎です。
 ローズヴェルトは確かに最初の一弾を日本に打たせたがっていました。しかし、そのために仕組まれた「陰謀」は、東南アジア方面に約900トンのヨット改造の船を派遣するといったもので、日本軍の航空機がこれを見つけたものの無視して飛び去っています(302ー304p)。
 この時、アメリカの目は完全に東南アジア、特にマレー半島に向いており、真珠湾攻撃というのは盲点だったと言っていいでしょう。

 これ以外にも、この本では英米の情報分析の違い、最後に対米交渉を行った野村吉三郎駐米大使の問題点など、興味深い論点をいくつか指摘していますし、何よりもインテリジェンスによって揺れ動く意思決定の過程を、日米英にまたがって緻密に分析してあります。
 ただ、これだけの本なのでやはり巻末の参考文献一覧もほしいですね。参考文献は適宜示されているとはいえ、そこはちょっと頑張って欲しかったところです。
 けれども、巷に広がっているさまざまな「陰謀論」を否定する有益な本であることには間違いないです。

日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)
森山 優
4062883988