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2009-12-20

「長方形」という言葉を知らない中学三年生に出会った。

| 05:52 |

 「長方形」という言葉も定義も知らない中学三年生に出会った。

 「長方形」は別に特殊な数学用語ではなく、日常でも極めて遭遇率の高い単語である。

 だから私は最初、その子が長年引き篭もっていて家族とも対立していて本も読んだ事が無い人物なのかと思った。しかし国語の成績は、平均より下であるものの、度外れて悪いものではないと判明した。語彙はそこそこあるらしい。

 その子の家族・友人・過去の担当教師の全てを糾弾したくなった。何故「長方形」を知らない事を長年見抜けないでいたのかと。あるいは何故気軽に「長方形って何?」と聞ける程度の信頼関係すら築かなかったのかと。

 またそのどちらか一方だけでも達成した人物が周囲に仮にいたとするなら、その人には何故その時教える手間を省いてしまったのかと問い詰めたい。

 特に小学校の高学年にその子を担当した教師を強く批判したい。数学の時間だけ会いに来る中学校の先生とは違い、小学校の先生は常にその子と同じ教室にい続けた筈だ。「2×(5+3)=」が解けて「縦5cm横3cmの長方形の周囲の長さは?」が解けない子供の存在に気付かなくてどうする?

 そして「長方形」の定義を知っている演技を長年し続けてきた子の内面をあれこれ想像すると、背筋が凍る。

 自分の周囲に基礎的な事を知らないまま育ってしまっている人はいないだろうか?それを隠そうとしている本人に向けては「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。」という諺が広く流通しているが、その周囲の人間に向けた教訓というものはあまり聞かない。大切な人に一生の恥をかかせないためには、我々は少し意識的になる必要がある。

wwwavewwwave 2016/12/06 12:55 はじめまして。わたしは長方形に尋常ならぬ興味を持つものです。

この記事には二人の子が取り上げられています。

一人目は、「長方形」という言葉も定義も知らない中学三年生。
二人目は、「長方形」の定義を知っている演技を続けてきた子。

一人目の子についてお訊ねしたいことがございます。

質問1: その一人目の子が「長方形」という言葉も定義も知らないと発覚した経緯は、どのようなものだったのでしょうか?

もしその子が英語を母語とする子であれば、rectangle という言葉は知っていても「長方形」という言葉は知らないことがあると思います。しかし、この記事によるとそういうことではなさそうです。

質問2: その一人目の子には「長方形」という概念すらなく、長方形と台形の区別がつかなかったりするのでしょうか?

二人目の子についてもお訊ねしたいことがございます。

「長方形」の定義を知っている演技をしてきたという事実からすれば、少なくとも「長方形」という言葉を知ってはいるが定義は知らないことを自覚していなければ演技はできません。その演技によって長年にわたり周囲をだまし続けることに成功してきたのであれば、少しは「長方形」についての理解があったはずだろうと推測します。

質問3: 二人目の子は「長方形」をどのように理解していたのでしょうか?

質問4: 二人目の子の演技とは具体的にどのようなものだったのでしょうか?

たいへん興味深いお話ですので、お返事をいただけますと幸いです。

gurenekogureneko 2016/12/06 19:25  先に申し上げておくと、「「長方形」という言葉も定義も知らない中学三年生」と「「長方形」の定義を知っている演技を続けてきた子」は同一人物です。
 以下、質問にお答えしますが、自分とその子の個人情報も守らなければならないので、あまり詳細にはお答えできません。

質問1への回答:その子が高校受験の間際だったので、速成で数学の点を上げる手伝いをしていました。家庭教師のようなものを想像してくれれば近いです。そしてその子は、「2×(5+3)=」が解けて「縦5cm横3cmの長方形の周囲の長さは?」が解けず、「長方形って何ですか?」と質問してきたのです。

質問2への回答:これは、説明したところ一応区別はついた雰囲気がありましたが、自信を持ってお答えする事は出来ません。もう少し時間をかけてつきっきりで図形を教えてやりたかったのですが、諸般の事情でそうもいきませんでした。

質問3と4とそれらの前置きへの回答:生徒個々人に注目する先生が主催する教室であれば、確かに知ったかぶりには高度な演技が要求されることでしょう。そういう環境ならば「少なくとも「長方形」という言葉を知ってはいるが定義は知らないことを自覚していなければ演技はできません」という部分は正しいかと思われます。しかしながらそうではなく、中学三年生になるまで彼が長方形について知らない事は先生には気付かれなかったのです。では彼が出席した日に常に教室で「長方形」という単語が使われなかったのかというと、そういう確率もゼロではないものの、常識的にほぼゼロだといっていいでしょう。よって常識的な推論により、「判らない部分がある人は手を挙げて下さい」等と言われた機会において彼は手を挙げなかったのだろうと考えました。そうした消極的な行動を含め、総じて「演技」と表現したのです。

wwwavewwwave 2016/12/08 16:31 ご返信ありがとうございます。

その子の「長方形」についての知識が少し想像できました。「演技」という言葉を特殊な定義(無知を名乗り出ないこと)で用いられていることも理解しました。

gurenekoさんの想定では、その子は「長方形」という言葉を聞いたことは何度もあり、「長方形」という言葉があることは知っているが、定義を正確には知らないということのようですね。

* * * * * * * * * * *

■ 知識と理解のレベルについて

「長方形って何ですか?」という問いには、いくつかの解釈が可能です。

「チョーホーケーって何ですか? それは食べ物ですか 」
「長方形って何ですか? それはどんな形ですか」
「長方形って何ですか? それはどんな四角形ですか」
「長方形って何ですか? それは正方形ではないのですか」

つまり「長方形」を「知らない・知っている」といっても色々なレベルがあります。
思いつくままに書き出すと、たとえば次のようなものです。

レベル1「長方形」以前に三角形や四角形も知らない。
レベル2「長方形」という言葉を聞いたことがないが、三角形や四角形は知っている。
レベル3「長方形」という言葉は聞いたことがあるが、図形であることは知らない。
レベル4「長方形」が図形だとは知っているが、四角形であることは知らない。
レベル5「長方形」が四角形だとは知っているが、四つの角が直角であることは知らない。
レベル6「長方形」が四つの角が直角の四角形(矩形)だとは知っているが、対角線の長さが等しいことや面積の求め方、平行四辺形の一種であることは知らない。
レベル7「長方形」の基本性質は知っているが、数学では正方形も長方形の一種に含める(ことが多い)のを知らない。
レベル8「長方形」という語を、日常では一般に「縦横の長さの異なる矩形」、数学では「矩形一般」という異なった定義で用いること(が多いの)を知っていて、状況に応じて使い分けられる。
レベル9「長方形」の応用的な性質を三平方の定理・三角関数・円との関係・微分積分・非ユークリッド幾何学などを駆使してより高度な体系の中に位置付けることができる。
レベル10「長方形」を数学の専門的な観点から研究している。

gurenekoさんはその中学三年生がどの程度の水準にあるか確認しなかったそうですが、お話からはレベル3〜5ぐらいだったのではないかと感じました。少なくとも何も知らなかったわけではなさそうです。

レベル9や10からみれば、レベル8の私を完全な無知に感じるかもしれませんが、自分より無知な人を「何も知らない」と十把一からげにするのではなく、レベルに応じた適切な指導が必要です。

ただし、これは一般論であって、gurenekoさんの場合は、その子の高校受験のために「速成で数学の点を上げる」という特殊な事情があったので仕方なかったのかもしれません。

wwwavewwwave 2016/12/08 16:34 ■ 「パーセント」を知らない女子高生について

わたしにも gureneko さんの場合とよく似た経験があります。

高校2年生の女の子に「確率」を教えていた時に、その子が「パーセントってなんなの?」と訊いたのです。「パーセント」もまた数学だけではなく、日常でも遭遇率の高い言葉です。その女の子も引きこもりではなく、ときどきは読書もし、「国語の成績は、平均より下であるものの、度外れて悪いものではない」というレベルですが、数学を心の底から憎んでいました。

わたしの場合は gureneko さんと違って、もう少し時間的な余裕がありましたので、まずは、本人が「パーセント」についてどの程度知っているのかを確認しました。理解のレベルによって説明のしかたを変える必要があるからです。

その結果、その子はスーパーマーケットやテレビで「パーセント」という言葉を見聞きした経験はあること、比率に関係する言葉で「%」と表記することは知っていること、分数と少数は理解していること、「100分の5」や「0.05」という表現なら理解できること、「3割引」という言葉は正確に理解していないこと、などが確認できました。これを確認するのに5分もかかりません。

そして、その子の学習レベルに応じて段階的に説明することで、「パーセント」を理解させることができました。「1割」が10分の1、「1%」が100分の1、パーセントの「パー」は「毎の」・「セント」は「百」という意味で、日本語だと「百分率」ともいうこと、という順番で進め、最終的に パーミル(‰)も教えました。

その子の数学への憎しみはそのままですが、買い物で消費税や割引の計算ができる程度にはなりました。

wwwavewwwave 2016/12/08 16:36 ■ 「糾弾」について

「中学三年生になるまで彼が長方形について知らない事は先生には気付かれなかったのです。」
と gureneko さんは書かれています。彼の過去の人生を確信をもって把握されていることから、 gureneko さんは、その子とかなり身近な間柄なのだと理解しました。

gureneko さんご自身ですら、強い問題意識を抱きながらも、その中学三年生が「長方形って何ですか?」と質問した生涯で初めて(かもしれない)という希少なチャンスに「諸般の事情」で十分な対処を断念されたわけです。

であれば、「その子の家族・友人・過去の担当教師の全て」にも、それぞれの「諸般の事情」があったとは考えられないでしょうか。おそらくgrenekoさんには義務も責任もない立場だったのだと思いますが、それを言えば、その子の「兄弟や友人」にも義務はありません。

お気持ちは十分に理解できますし、gurenekoさんの問題提議に賛同いたします。ただ、その子の知的成長を望むならば、「その子の家族・友人・過去の担当教師の全てを糾弾」・「批判」するのではなく、われわれもまた「その子の家族・友人・過去の担当教師の全て」に含まれているという自覚を持つところから始めるべきだと思うのです。

実際には gureneko さんは、関係者を直接「糾弾」しなかったようですので良かったと思います。
もしその子の前で「そんなことも知らないのか」と呆れたり、保護者や教師を「今までどんな教育をやってきたんだ」などと「糾弾」し「問い詰め」たならば、その子は深く傷つき、無知を隠す方向にその出来事を教訓化してしまったでしょう。

これは「かれら」の問題ではなく、わたしたちの問題なのです。

wwwavewwwave 2016/12/08 16:38 ■ 学習障害について

先ほど例に挙げた高校二年生の女の子には、学習障害(発達障害)がありました。
知能レベルは他の子に劣るわけではないのですが、特定の分野に関する学習・理解に著しい困難がともないます。

近年になって有名人の中から発達障害を公表する人が増え(スピルバーグ監督・黒柳徹子さん・さかなくん・栗原類さんなど)、一般にも認知されつつありますが、まだまだ日本では教育の場で適切な対処がなされているとは言えません。

「長方形」を知らなかった子も学習障害であった確度が高いと思います。

学習障害や発達障害は先天的な障害であり、親にも本人にも障害の責任がないにもかかわらず、いまの日本では、発達障害への無知によって保護者が「糾弾」され責め苛まれる悲しい現状があります。

保護者や教師が一般的な意味で良い教育をしても解決はしないのです。専門家の助言に従い、それぞれの子の特質に合わせて、ゆっくりと導いて行かなければなりません。gurenekoさんが、その子に接したその時にも、保護者や教師は懸命にその子を導いている最中だったのかもしれません。

gurenekoさんが本心から「意識的になる必要がある」とお考えでしたら、『発達障害の子どもたち』(杉山登志郎)と『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』(栗原類)という本をお勧めいたします。

wwwavewwwave 2016/12/08 16:43 ■ 無知と恥について

「『判らない部分がある人は手を挙げて下さい』等と言われた機会において彼は手を挙げなかったのだろう」とgurenekoさんは推察されています。そして手を挙げなかったことを「消極的な行動」だとみなされていますが、そのgurenekoさんの判断は「無知」に無理解だとわたしは思います。

一般に「無知」というのは自覚がないからこそ「無知」なのです。自分が何を知らないのか(わからないのか)をすべて自覚できるのであれば、その人は既にかなりの知識を有した賢人でしょう。

かつて「みぞうゆう(未曾有)」「ふしゅう(踏襲)」「はんざつ(頻繁)」などと独特の漢字の読み方をする首相がいました。また現在の首相も「責任はすべからく私にある」「罪を償わさせる」「慎んで心から哀悼の意を表します」など、独特の日本語を使っています。

かれらの日本語は誤りです。しかし「判らない部分がある人は手を挙げて下さい」と言われても、かれらは手を挙げなかったでしょう。恥だから隠そうとするのではありません。自分が「知らない」ことを知らなかっただけです。隠したり消極的になっているわけではないのです。

それらを「恥」だと嗤う人もいますが、わたしは「恥」だと思いません。「ハンザツなやりとりをフシュウしろ」などと言われても意味不明なので改善はすべきですが、恥だからではなく実益上の問題です。

自分の無知を棚上げして他人の無知を「恥」だとみなす人こそが、本質的に恥ずべき人です。

というわけで、gurenekoさんの問題意識にはおおむね賛同いたしますが、「大切な人に一生の恥をかかせないためには、我々は少し意識的になる必要がある。」というお考えには、動機の面で同意できません。知識は「恥」をかかないために身につけるものではないし、「恥」などという外的な価値観で人生を規定されたくはありません。

無知が「恥」として嗤われるようなことがない社会を私は望みます。
障害がある人もない人も、知識のある人もない人も等しく尊重される社会であるべきです。

gurenekoさんもそう思いませんか。

gurenekogureneko 2016/12/09 01:14  同意できる所がほとんどなのですが、部分的に誤解があります。
 「彼の過去の人生を確信をもって把握されていることから、 gureneko さんは、その子とかなり身近な間柄なのだと理解しました。」の部分は違います。
 あくまで臨時に雇われた家庭教師的な存在です。
 だからこそ当初は、「その子が長年引き篭もっていて家族とも対立していて本も読んだ事が無い人物なのかと思った。」のです。つまり「長方形」だけではなく、語彙がほとんどない子だと思い込んだわけです。
 その後、「国語の成績は、平均より下であるものの、度外れて悪いものではないと判明した。」ので、これは問題は別のところにあるなと感じたのです。
 この時に私が考えたのは、家族も教師も同級生もその子への関心がほとんどなく、その子も周囲を信用せず、たまたま一つ知らない言葉があっても本人は周囲に聞くに聞けず、周囲も「長方形」のせいで何か齟齬があっても簡単な演技を見ただけで問題を先送りにしてしまうという状況でした。
 本文の文体が断言口調で「確信」を持っているように見えたのなら、それは当時の私が他の仮説を思いつけず、これ以外に想定出来る状況は常識的に有り得ないと感じていた事の反映だと思われます。
 勿論今では、ご指摘にあった「発達障害」仮説を拝読した後なので、そうした確信は失われています。

gurenekogureneko 2016/12/09 01:38 無知と恥について

 これについては究極的には所詮趣味嗜好の問題ですので、おそらく議論は成立しないでしょうね。そういう訳で万人に動機の面で同意頂かなくても結構です。
 「(前略)等しく尊重される社会であるべきです。」という部分について、「べき」という点では多分同意するでしょうが、私が「そう思」っても社会は変わりません。
 現実に年齢に不相応な無知を馬鹿にされて恥ずかしい思いをしている人が、この社会には現実に存在します。それどころか、そういう経験をしない人の方が少数派でしょう。周囲の大切な人がいつかそういう不快感を味わう可能性がある以上、私はそういう機会を減らしたいと思います。
 勿論、wwwaveさんやその同志達が、世の中の風潮を完全に変えてしまい、誰も無知を嗤わないか、或いは嗤われても誰もそれを恥だと感じない社会が構築されれば、私を含めて誰もそのような努力をしなくなるでしょう。
 更に言うと、「一時の恥」の方の「恥」は確かに無知を他者に知られる恥ですが、「一生の恥」の方の「恥」は無知に基づく様々な恥ずべき失敗をも含めた総合的なものであると私は解釈しています。

wwwavewwwave 2016/12/10 12:13 ご説明いただいたおかげで、根本的な部分で誤読していたことに気づかされました。

■「学習障害であった確度が高い」という見解を撤回します。

「中学三年生になるまで彼が長方形について知らない事は先生には気付かれなかったのです。」という一文を事実の記述だとわたしは解釈していましたが、これも推測だったということなのですね。

ご説明を受けてから改めて読み直し、「(周囲の人々は、その子が)『長方形』を知らない事を長年見抜けないでいた」というのも、「気軽に『長方形って何?』と聞ける程度の信頼関係すら築かなかった」というのも、「語彙はそこそこあるらしい」も「教える手間を省いてしまった」も「手を挙げなかっただろう」も「演技を長年し続けてきた」も「消極的な行動」もすべて推測であったと確認しました。

自由な想像をもとに思考するのは有意義だと思います。

ただ、主張の根本前提である「長方形」についての理解レベルを確認していらっしゃらず、その子の教育環境についての記述も推測だとのことですので、「学習障害であった確度が高い」というわたしの見解は撤回します。

事実ではなく憶測に基づく推論は、無用の誤解や偏見をまねきかねませんので、先に書いた学習障害についてのわたしの見解は、たんに一般論だとご理解ください。

■ お願いがございます。

「大切な人に一生の恥をかかせないために」という動機を、倫理観の問題であるとわたしは誤解しておりました。しかし、そうではなく「所詮趣味嗜好の問題」だとgurenekoさんは明言されました。

つまりこれについても、わたしは完全な読み間違いをしておりました。
おっしゃる通り、議論が成立するはずがありません。

gurenekoさんと違って、わたしは「所詮趣味嗜好の問題」で他者を「糾弾」したり「問い詰め」たりはしません。わたしにとって知識の獲得は生き方の問題です。人生において知識の探求は無限に続く喜びであり、誰も無知を嗤わず恥を感じなくなっても「努力をしなくなる」ことはありません。

このように、gurenekoさんとわたしとでは完全に相違する動機をもっていますが、しかし、わたしは gurenekoさんの「趣味嗜好」を否定しません。「所詮趣味嗜好の問題」で「恥」を「減らしたいと思い」「意識的になる」ことは、憲法第十九条が保障する思想の自由です。

ですので、反論や否定ではなく、お願いがございます。

今後「長方形という言葉を知らない」レベルの人に出会っても、嗤わないでやっていただけませんか。今までどおり「恥」だと見なされるのはかまいません。ただ、それを「恥」だと指摘し、周囲の人々を「糾弾」したり「問い詰め」たりしないでいただけるとありがたいのです。

(「趣味嗜好」を共有する人々どうしで、無知を「糾弾」しあい「問い詰め」あうぶんには何も問題ございません。)

「長方形という言葉を知らない」レベルの人というのはわたし自身です。
またそれは、わたしの友人であり「大切な人」なのです。

わたしは、知識を得ることを尊び、喜びを感じ、そのための努力もしてきましたが、能力が及ばずに「基礎的な事を知らないまま育って」しまいました。「長方形」については、たまたま興味があったので少し知っていましたが、その他のことは無知だらけです。わたしや友人たちに知識を授けてくれた周囲の人々が時間を割いて懸命に尽力してくださったにも関わらずです。

わたしと友人たちは無知によって社会から既に不利益と差別を受けています。そのうえで更に「所詮趣味嗜好の問題」で、わたしや友人や周囲の人々が「糾弾」され「問い詰め」られるのは耐え難いのです。

以上、なにとぞご理解いただけますと幸いです。

gurenekogureneko 2016/12/10 17:08  いかなる倫理を支持するかも含めて、究極的には趣味嗜好の問題だという意味で「趣味嗜好」と書いたのであるので、「しかし、そうではなく」の部分は成り立ちません。よってそれに続く文章についても、「何か誤解しているんだろうな」という漠然とした感想しか持てませんでした。

 wwwaveさんが知識の味わい方についてどんな趣味嗜好を持っていようと、小中学校の先生達は、子供達に教育をする義務がありますし、小学校の担任教師や中学校の数学の担当教師達が「長方形」のような簡単な単語の意味すら知らない生徒が教室内にいることにずっと気付けないでいたのはやはり問題です。気付いた上で怠けていたとしても問題です。気付いて教えたのに、「長方形」という言葉と概念だけ直ぐに失念してしまう子供だったという可能性については、上述の通り考慮していなかったので、「糾弾」は確かに言い過ぎだったかもしれませんが。
 そしてwwwaveさんがどんな状況で知識の獲得について努力したりしなかったりするかは、この問題とは関わりありません。私も正直言って余り興味は有りません。

 「お願い」についてですが、状況次第ですので確約は出来ません。過去「「長方形という言葉を知らない」レベルの人に出会っても、」一度も嗤った事はありませんが、今後諸般の事情を勘案して嗤うべき状況が生じたら嗤うでしょう。
 周囲の人への糾弾も状況次第です。教師や隣人等の立場によって負う道義的義務の質や量は違いますし、教える能力や教わる側の能力によっても状況は異なります。
 例えば、教える能力のある親が教わる能力のある子供に地下鉄に乗車する時マナーを教えないまま地下鉄に乗せるのは倫理的に問題がありますし、そういう親は原則として社会的に糾弾していきたいと思っております。

 「「長方形という言葉を知らない」レベルの人」の内、「長方形という言葉を知る事が出来ないレベルの人」やその周囲の人に対しては、ほぼ間違いなく嗤う事も糾弾する事も無いでしょうから、そこに限定した「お願い」なら聞き入れたでしょうし、願われるまでもなく既に実行しているので、そもそも願う必要するら有りません。

gurenekogureneko 2016/12/10 20:13  「願う必要するら有りません。」は「願う必要すら有りません。」の書き間違いです。訂正します。

wwwavewwwave 2016/12/12 09:34 ■ 議論が成立しない場における糾弾について

倫理の問題も「所詮趣味嗜好の問題」だという考えかたは、すべての価値を相対化する構造主義的な思想をgurenekoさんの言葉で表現されたものだと思います。わたしも基本的には同じ思想に立っています。

つきつめれば絶対的な善や悪というものは一つもないという立場です。

ただし、現実の世の中では、倫理について、ある程度の議論の成立が見られます。なぜ議論が成立するのかといいますと、基礎的な次元での価値の共有があるからです。窃盗は悪だとみなす価値を共有する者どうしであれば、世の中から窃盗をなくす方法を議論できます。

gurenekoさんの「糾弾」の根底には知識を尊ぶ価値観があり、それを共有できていると感じておりましたので、議論のつもりではなくお話をさせていただきました。

「所詮趣味嗜好の問題」だから「議論は成立しない」とおっしゃられてもなお、わたしは gurenekoさんと基本的な倫理が共有できているはずだという思い込みを捨てられなかったので、「趣味嗜好の問題」は「倫理の問題」とは別のものだと受け取ったのです。

「所詮趣味嗜好の問題」だから「議論は成立しない」にもかかわらず「糾弾」し「問い詰め」る意図が、わたしにはどうしても理解できないのです。

gurenekoさんが「糾弾したくなった」「問い詰めたい」「批判したい」と思ったのは、なにかそこに議論が成立することを期待しているからではないのですか。あるいは、議論が成立しないので、不愉快な思いをさせて態度を変えさせようとする実力行使か示威運動なのでしょうか。

■ 代替案

gurenekoさんの「糾弾」の有効性については、技術的な観点からも疑問があります。ただ、これについて、わたしは明確な根拠が示せません。否定できるほど実証的な知識をもちあわせず、人生経験と聞きかじりの知識から素朴に疑っているだけです。糾弾によって無知を減らせるという実証的な根拠をお持ちでしたらご教示いただけると幸いです。

わたしは、無知を解消するために、より直接的で実効力のある方法をとります。

具体的な手順は次の4つです。

1、「長方形って何ですか?」と訊かれたら「いい質問ですね」と応えます。
2、 その子の理解レベル・学習特性・教育環境を把握します。
3、 その子の理解レベルと学習特性に即した方法で、長方形とは何かを教えます。
4、 教育環境に瑕疵があるならば、関係者に問題点を指摘し改善案を提示します。

つまり、何かを知らない人がいるなら知っている人が教えてあげればいい、というだけです。
糾弾のように遠まわりで効果が不明な方法よりも確実性が高く即効性があります。また、糾弾を受けた人は不愉快な気分になりますが、わたしの方法では楽しい気分になることもあります。


■ 教育者の怠慢に対しての糾弾

おっしゃる通り「小中学校の先生達は、子供達に教育をする義務があります」。
これは法律で定められた義務であり、その義務を怠るのであれば法律違反です。なので「趣味嗜好の問題」ではなく、社会の共通ルールである法律の問題として議論は成立します。法律に則った適正な手続きで事実確認をし、その事実に基づいて糾弾されるのであれば、なんら異議がありません。

■ マナー違反に対しての糾弾

わたしはマナー違反を糾弾しないでほしいとはお願いしておりません。

■ お願いの対象

嗤わないでほしい、糾弾しないでほしいと、わたしがお願いした対象は「長方形という言葉を知らない」レベルの人とその周囲の人すべてです。知らない理由は問いません。ですのでお願いする必要がございました。

ただし、先に述べましたように、法に違反した者を事実に基づいて糾弾される限りにおいては、なんら異議がありません。議論が成立しない趣味嗜好に基づいて糾弾するのをやめていただきたいだけです。

■ 語ることができないことについては沈黙するしかありません。

gurenekoさんご自身のお話によれば、gurenekoさんは、その中学三年生が長方形について何を知らなかったかを知りません。その中学三年生が置かれていた教育環境も知りません。すべて推測です。

糾弾し問い詰める前に、知ることから始めてはいかがでしょうか。
何を知っていて何を知らないかを区別するのが無知から知への第一歩です。
知ることにより、議論の余地が見出されることを期待します。

そして、知ることができないのであれば、沈黙するしかありません。

gurenekogureneko 2016/12/12 15:43  おそらく今回も私の発言はwwwaveさんには理解されないでしょうが、ここまで読んでくれた人のためにも自分の立場を最後にしっかり書いておこうと思います。
 wwwaveさんがこれを読んでもまだ無理に何かを書いてきても、おそらく応答はいたしません。文章のレベルによっては掲載すらしないかもしれません。
 この私の態度を見て、「逃げた」と感じるか、「ちょうどいいタイミングで見切りをつけた」と感じるか、「見切るのが遅過ぎる」と感じるかは、読者の皆さんのご判断にまかせたいと思います。

「■ 議論が成立しない場における糾弾」についての回答

 2016/12/08 16:43にwwwaveさんは「「大切な人に一生の恥をかかせないためには、我々は少し意識的になる必要がある。」というお考えには、動機の面で同意できません。知識は「恥」をかかないために身につけるものではないし、「恥」などという外的な価値観で人生を規定されたくはありません。」と書いてきました。
 この人が動機の面で同意できないのは仕方のない事です。自分は世の中の大多数の人は「大切な人に一生の恥をかかせたくない」と思ってくれると思ったので、そういう同志たちに向けて提案を行ったのであり、「大切な人に一生の恥をかかせたくない」と思わない人がこの提案を無視してどう行動しようが、諦めるしかないと思っております。
 動機というのは結局は個人の趣味嗜好なので、私がどれだけ口を酸っぱくして、「周囲が本人の無知に気付いてやれなかったせいで恥をかいてしまった人の気持ちを考えましょう」と言った所で、相手が「いやだ」と言いつづければ水掛け論にしかならないからです。
 相手が現状認識や趣味嗜好において自分なり世間の多数派なりと近い場合には、議論によるある程度の摺合せも可能です。これについては2016/12/12 09:34のwwwaveさんの発言にある「現実の世の中では、倫理について、ある程度の議論の成立が見られます。なぜ議論が成立するのかといいますと、基礎的な次元での価値の共有があるからです。窃盗は悪だとみなす価値を共有する者どうしであれば、世の中から窃盗をなくす方法を議論できます。」は概ね正しいとみていいでしょう。
 しかしながらこの件については、「知識は「恥」をかかないために身につけるものではないし、「恥」などという外的な価値観で人生を規定されたくはありません。」という特殊な理由で「動機の面で同意できません。」と書いてきたので、「これは対話は不可能だなと感じました。」
 人が知識を求める理由は様々です。個々人によっても違いますし、状況によっても違います。ある時は確かに、ほぼ純粋に知的好奇心に基いて知識を探求するでしょう。雑学本とかが売れているのはその証左です。しかしまたある時は名誉欲につき動かされて知識を求めるでしょう。細川幽斎の 「武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯 はぢより他に恥はなきもの」という川柳の存在はその一つの証左と考えていいでしょう。またある時は実用に迫られて知識を追い求めるでしょう。細かな文法知識よりも即戦力になる英会話のコツを伝授してくれる英会話学校の存在がそれを明かしています。
 「そういう現状が個人的にいやだ」という立場の人が「知識は「恥」をかかないために身につけるものであるべきではない」と書いてきたならば、ひょっとしたら何らかの対話が成り立ったかもしれません。しかし「知識は「恥」をかかないために身につけるものではないし、」と書かれたので、これはもう絶対に水掛け論になると感じました。
 「無知が「恥」として嗤われるようなことがない社会を私は望みます。障害がある人もない人も、知識のある人もない人も等しく尊重される社会であるべきです。」の部分は「望みます」や「べきです」で終わっていたので、「現状においてそうではない」という認識自体は持っているようなので、ある程度対話が可能となりました。
 そこで「今はまだご承知の通りそういう社会ではないので、大切な人が恥をかかないようにするための活動を私は続けます。あなたのような人が同意せず、活動に加わらなくても結構」というメッセージが伝わるよう、2016/12/09 01:38に「現実に年齢に不相応な無知を馬鹿にされて恥ずかしい思いをしている人が、この社会には現実に存在します。それどころか、そういう経験をしない人の方が少数派でしょう。周囲の大切な人がいつかそういう不快感を味わう可能性がある以上、私はそういう機会を減らしたいと思います。(原文改行)勿論、wwwaveさんやその同志達が、世の中の風潮を完全に変えてしまい、誰も無知を嗤わないか、或いは嗤われても誰もそれを恥だと感じない社会が構築されれば、私を含めて誰もそのような努力をしなくなるでしょう。」と長々と書きました。
 倫理的な面を語るならば、「今現在苦しんでいる人を救う活動を呼びかけている私の方が倫理的で、自分の知識に対する特殊な趣味嗜好を全人類に押し付け終わった架空の社会で成立するであろう倫理観に基いて動機の面で賛同しなかった者は、比較的不道徳だ。」とマウントをとる事も可能でしたが、流石にそう通告するのは哀れだったので手加減をして「これについては究極的には所詮趣味嗜好の問題ですので」と五分五分の形に終らせてやる予定でした。
 ところがwwwaveさんは文脈を一切考慮せず、それどころか直前の「究極的には」という部分にも一切考慮をせず、2016/12/10 12:13に「「大切な人に一生の恥をかかせないために」という動機を、倫理観の問題であるとわたしは誤解しておりました。しかし、そうではなく「所詮趣味嗜好の問題」だとgurenekoさんは明言されました。」と書いてきました。そしてそれを前提に話を進めました。
 本人が斜め読みをしたのか、あるいは斜め読みをしている第三者を騙そうとしたのかは、私は本人ではないので推測するしかありません。
 とりあえず第三者へのアピールを兼ねて、「いかなる倫理を支持するかも含めて、究極的には趣味嗜好の問題だという意味で「趣味嗜好」と書いたのであるので、「しかし、そうではなく」の部分は成り立ちません。よってそれに続く文章についても、「何か誤解しているんだろうな」という漠然とした感想しか持てませんでした。」と2016/12/10 17:08に書きました。
 これは2016/12/12 09:34の返信をみるに、ほんの少しだけ理解してもらえた雰囲気があります。
 しかし「「所詮趣味嗜好の問題」だから「議論は成立しない」にもかかわらず「糾弾」し「問い詰め」る意図が、わたしにはどうしても理解できないのです。」の部分はやはり残念でした。「所詮趣味嗜好の問題」だから「議論は成立しない」と思った件では「糾弾」や「問い詰め」をせず、そして単にしないどころかそうしようとすら思わず、わざわざ五分五分の形に終らせてやったのに、こんなことを言われたのです。
 ちなみに実際に糾弾したくなったり問い詰めたくなった、この生徒の歴代教師達についても、実際に会話をしてみて「自分の使命は子供たちの頭を悪くする事だと信じていますし、異論は受け付けません。今後も子供たちの頭を悪くする事に全力を傾けます」等と言われたら、それ以上の「問い詰め」などしないでしょうね。「あんな人が教職におさまり続けられるこの社会のシステムを変えよう」というタイプの糾弾はするかもしれませんが。

gurenekogureneko 2016/12/12 16:16 「■ 代替案」についての回答

 「代替案」という題名で色々と書いてきました。「gurenekoさんの「糾弾」の有効性については、技術的な観点からも疑問があります。」とあるので、「糾弾」の代替案のようです。
 しかしながらそれにしては不思議な事に、「つまり」でまとめた主張が「何かを知らない人がいるなら知っている人が教えてあげればいい、というだけです。」になっています。
 これではまるで私が知識の伝達をしていないかのように受け取られてしまいます。
 「つまり」で纏める前に列挙された箇条書きのうち、1〜3は長方形について生徒に聞かれた家庭教師ならほぼ間違いなくその生徒に対して行うであろう行為です。やらなかったとしたら家庭教師としても職務怠慢でしょうから、学校教師の職務怠慢を責めている私が自分だけそれをしない等という想定は、大凡常識外です。
 本文には「そこで仕方なく私が教えた」とわざわざ書いていませんが、「教えていない」という確率的に非常に低い状態を前提にして「代替案」と称するのは、非常に無礼です。
 ましてコメント欄では2016/12/06 19:25で「質問2への回答:これは、説明したところ一応区別はついた雰囲気がありましたが、自信を持ってお答えする事は出来ません。もう少し時間をかけてつきっきりで図形を教えてやりたかったのですが、諸般の事情でそうもいきませんでした。」と書いてあるので、短い時間の中でも図形の解説に多少の時間を私が割いた事は、wwwaveさんは本当は知っていた筈です。
 また怠けていたり生徒への思いやりがない教師への糾弾は、「つまり」以下の主張とどちらか一方しか出来ないものではありません。よってこの点でも「代替」と称するのはおかしい事になります。
 「個々の怠慢な教師に改心や辞職を促す批判としての糾弾」、「個々の生徒への補習」、「学校の制度の構造上の問題の発見とその社会的告発」、これらはどれも生徒達の能力の向上に役立つものです。各々が自分の得意な領域でどれか一つでもやれば、最大多数の最大幸福に資するであろうし、原則として他の手段の足を直接引っ張る事にはなりません。
 勿論、「ボランティアレベルの学費の学習塾が発達し過ぎたせいで、学校教育を改善しようとする人が減り、偶然その塾が進出できなかった地域が一人負けをする」等、ある手段の過度の達成が間接的に他の手段の達成の足を引っ張る事態は想定できます。しかしそれでも「代替」は言い過ぎでしょうね。

gurenekogureneko 2016/12/12 16:45 「■ 教育者の怠慢に対しての糾弾」についての回答

 私は教師の義務には法的義務だけではなく、職業倫理上の義務もあると考えております。
 違反者に対しては、法的措置のみならず、社会的な批判も加えられてしかるべきだと考えます。

「■ マナー違反に対しての糾弾」

 私も「「マナー違反を糾弾しないでほしいと」お願いされた」と書いておりません。
 wwwaveさんへの返事はこれで十分でしょうが、第三者の便宜を考え、以下に解説を加えます。
 2016/12/10 12:13に「今後「長方形という言葉を知らない」レベルの人に出会っても、嗤わないでやっていただけませんか。今までどおり「恥」だと見なされるのはかまいません。ただ、それを「恥」だと指摘し、周囲の人々を「糾弾」したり「問い詰め」たりしないでいただけるとありがたいのです。」と言われたので、「周囲の人々を「糾弾」」「しないでいただけるとありがたい」という部分については、2016/12/10 12:13に状況次第なので確約出来ないという意味の回答をしたのです。
 そして例として「例えば、教える能力のある親が教わる能力のある子供に地下鉄に乗車する時マナーを教えないまま地下鉄に乗せるのは倫理的に問題がありますし、そういう親は原則として社会的に糾弾していきたいと思っております。」と書きました。
 ここでは、マナー違反そのものではなく、親がマナーを教えなかった事を問題視しているのです。仮に地下鉄に関するマナーを教わらなかった子供が、偶然と幸運のおかげで最初の地下鉄乗車の際に地下鉄のマナーに違反しなかったとしても、次もそういう幸運に恵まれるとは限りません。
 例えば「皆さん地下鉄に乗るさいには、既に座っている弱者を無理矢理どかせたりはしていませんよね?」と私が聞いた時に、ある権力者の息子が「まだしていないよ。弱肉強食こそがこの世の道理だとパパは言ってたので、いつか必ず弱者を無理矢理どかせたいと思っているんだけど、まだその機会に恵まれていないんだ」と返事をされたら、「嗤い」はしませんが、その子の父親を社会的に糾弾していきたいと私は思っているのです。

「■ お願いの対象」についての回答

 「わたしがお願いした対象は「長方形という言葉を知らない」レベルの人とその周囲の人すべてです。」とわざわざ書かれましたが、これではまるで私が願いの対象の範囲を理解していなかったかのようです。
 範囲を理解していたからこそ、そのお願いを受諾する訳にはいかない事と、いかない理由とを、詳細に2016/12/10 17:08で書いたのです。
 しかも親切にも、「「「長方形という言葉を知らない」レベルの人」の内、「長方形という言葉を知る事が出来ないレベルの人」やその周囲の人に対して」ならば、その種の願いは聞ける事と、それどころか願う前から既に願いは満たされているという事を書いたのです。
 一体この人は、私の文章をどう読解していた(という設定な)のでしょうか?
 また違法な事しか糾弾してはならないのだとすると、「不道徳だが違法ではない事を糾弾する事」が違法化されない限り、その倫理の実現も妨げられます。

gurenekogureneko 2016/12/12 16:59 「■ 語ることができないことについては沈黙するしかありません。」への回答

 「gurenekoさんご自身のお話によれば、gurenekoさんは、その中学三年生が長方形について何を知らなかったかを知りません。その中学三年生が置かれていた教育環境も知りません。すべて推測です。」とありますが、その推測に相当の根拠があった事はすでに説明しております。常識の範囲内で可能性として認められ得る状況が複数ある場合には、場合分けをしてそれぞれの場合を考察しております。
 勿論、あらゆる推測を禁じるというの一つの考え方ですが、「この記事には二人の子が取り上げられています。」といきなり突拍子もない推測から話を始めた人には、そういう立場を採用する資格はありません。
 また「糾弾し問い詰める前に、知ることから始めてはいかがでしょうか。」とありますが、そんな事は言われるまでもなく当たり前です。実際に糾弾や問い詰めを行う前には、応急処置をしなければならないという例外的事態を除き、一定の調査を行うでしょう。それどころか緊急の場合ですら、一応相手の「原則として悪辣と評価される行為」について「知った」からこそ糾弾するのです。
 ただし、緊急でない場合も自分が全知全能になるのをゆっくりと待つ事はないでしょう。「問う」という行為自体も、相手から情報を引き出すための行為ですから。下準備としての調査活動の量は、0か100なのではなく、状況次第で決断すべき程度問題なのです。
 つまり「知ること」は、「糾弾し問い詰める前」にも「最中」にも「後」にもすべき行為であり、また一部の非常識人を除けば実際にそうしている行為なのです。