2016年12月12日19時33分
ジャズ愛好家の内田修さんの訃報(ふほう)に親交のあったジャズミュージシャンらがコメントを寄せた。
綾戸智恵さんのコメント
「綾戸君、君のオーバー・ザ・レインボーがぼくは好きだ」と言ってくれた先生。いま、先生はリアル「オーバー・ザ・レインボー」やね。現在私があるのは、すべて先生の存在からや。いいえ、私がやなく、私たちがですね。大好きなこといっぱいしてきた先生。その中の一つが私だったこと、とてもうれしいです。音楽を続けていく、これが先生への感謝のしるしです。
山下洋輔さんの話 いつまでもお元気でジャズマンたちを鼓舞してくださる存在だった。お医者さんという立場もあり、先輩ジャズマンの時代から、いざとなると内田病院に転がり込み、元気になって演奏を始めるという伝説を我々は聞いて育った。幸い、私は病気で飛び込んだことはないが、パーティーに飛び込んでどんちゃん騒ぎした楽しい思い出がある。
我々からするとジャズマンの仲間の一人だった。必ず良いときは「良かった」と言ってくれるし、ズバズバとものを言われるが、やさしい方だった。当時私がお会いしたのが50年ほど前。銀座で我々若いものがライブでやる場所がないころに、銀座で「銀巴里セッション」があった。幻の銀巴里セッションと言われている。そのレコードができていてCDにもなっている。元のテープを録音されたのが内田先生。1963年ごろの話。まだ僕は20歳そこそこの若造で、内田先生は名古屋から毎週だったかな、大きなオープンリールの録音機を抱えておいでになった。録音した一つが後世に残った。歴史的なものとして。私は1曲しか入っていませんが、私の生涯の最初の演奏の記録は内田先生のお陰で残っている。そのころから熱心さは桁外れで、仲間と思うしかないという感じだった。
最後は、数年前に、体が悪くなって、名古屋方面に行くと必ず顔を見せくれたのが、現場に出て来られなくなったので、おうちまで伺った。それから私もそうですが、若者に目をつけて引き上げることを精力的にしてくれた。真っ先にいいよと言いふらしてくれる方。ケイコ・リーさんらも真っ先に目をつけて励ます役割をずっとしていた。
客席に内田先生がいると、すぐ…
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