言葉までイノベートした盛田”マジック”
連載 通算第48回
デザイナーをマーケターにする、言葉すらもイノベートする、ときにCEO権限をここぞというタイミングで最大限に行使する……。神がかり的な出会いをモノにして、世界ナンバーワンブランドにつくり上げた裏側とは。本誌2012年11月号に開始した人気連載「盛田昭夫 グローバル・リーダーはいかにして生まれたか」(のちに単行本化を予定)。
“神がかり”的な巡り会い
大きな成功を収める商品には、必要な出会いを呼び寄せる勢い(力)がある。“小さくて軽いポケッタブルなパーソナル・ステレオ”には、ピタリとフィットするヘッドホンが相応しかった。
ヘッドホンをつくっていたTD(トランスデューサー)部門が、軽く装着感を感じさせない製品をつくろうと“ゼロフィット・プロジェクト”をスタートさせたのが75年。その動きとは別個に、技術研究所ではエンジニアの掃部(かもん)義幸が、超小型スピーカー(いい音を保ちながらスピーカーはどこまで小型化できるか)の研究に熱中していた。
「余りに翔んでいる」として、発売をあえて2年遅らせ81年に商品化されたインナーイヤー型(現在はイヤホン型ともいう)のヘッドホン<N・U・D・E>。この前段階として、後から開発されたのが<H・AIR>で、こちらが79年の第1号機にセットにされて先行発売された。(写真提供:ソニー)
掃部が行き着いたのは、振動板を鼓膜に一挙に近づけたインナーイヤータイプ(<N・U・D・E>という商品名で81年に発売)で、この画期的なヘッドホンの商品化でTD事業部に移ったが、当時としてはあまりに革新的なため、「補聴器と間違われかねない」との判断で、時機を待つことになった。
そこで、前段階として開発されたのが、それでも世界最軽量だった45グラムの<H・AIR>である(連載第47回のウォークマンと一緒に写っている例のヘッドホンである)。ヘッドホンといえば、お椀を左右に配したような厚ぼったいものしかなく、重量も300グラム以上が相場だったから、「十分、翔んでいた」。その発売が79年9月とメドが立った矢先の3月のことだった。「降ってわいたように、ウォークマンの話が持ち込まれた」という。
ウォークマンと<H・AIR>の開発チームは、「互いの動きをまったく知らずに、別々にやっていた」のだが、盛田昭夫が2つをセットにして7月1日に発売するように指示した。掃部は、発売時期を2カ月も早められ、「戦場のような忙しさ」に見舞われたが、「このヘッドホンとウォークマンの“神がかり”的な巡り会いが、まさにソニーなんだなと思った」と語っている(注1)。
確かに、週刊誌のグラビアページで見開きを一杯に使って、当時の人気歌手・西城秀樹が腰にウォークマンを付け、音楽を聴きながら短パンでローラースケートをする写真が巷の話題をさらったが、軽快なそのシーンにはエア(AIR)のように軽い45gのヘッドホンしか似合わなかっただろう。『週刊明星』が新しい若者文化の象徴として、ローラースケートとウォークマンを取り上げて以降、最初は余り関心を示さなかったマスコミが、堰を切ったように紹介するようになっていく。
言葉まで“イノベート”した
その司令塔となったのが、宣伝部長だった黒木靖夫だが、そもそものきっかけは、ウォークマン発売の約1年前に(78年6月)、「デザイナーをひとつにまとめて新しい仕事をしてみたらどうか」と盛田に言われたことに遡る。黒木は千葉大の工業意匠科を卒業しているが、社会に出てからは宣伝とショールームを担当してきたため、商品知識やエレクトロニクス技術を知らないから、デザインの役には立たない、と一度は断っている。
そんな彼に、盛田は「Go for Broke!当たって砕けろ、だ。失敗したら元に戻ればいい」、と説得した。黒木は、腹をくくって意匠部をつくり、各事業部の下部組織だったデザイナーを集結させた。そこでは、「売れる商品とは何かを、デザイナー側で考えてみよう」という意識改革と、商品企画の流れを変える(“先にデザインありき”)試みを、はじめる(注2)。
「デザイナーをマーケターにする、デザイナーが商品企画をする」という趣旨を徹底させるために、5カ月後には意匠部を「PPセンター」と改める。PPとはプロダクト・プランニングの略で、名付け親は岩間和夫社長だったというから、盛田と岩間が黒木に託したかったのは、新しい商品企画を生み出すクリエイティブ機能だった、といえるだろう。
もっとも、本人は「わざとスペル・アウトしなかった。PPとは何の略でもないことにした」と著書に書いている。デザイナーを集め、組織改称に伴って「エンジニアやマーケティング担当を加えても百数十人にしかならない組織に、プロダクト・プランニング・センターと名付けるのは、気恥ずかしさもあり、おこがましくもある」という理由からだ。
だが、黒木が本心でそこまで、けなげであったかどうかは判らない。ソニー・デザインの原点を構築したと自負する大賀典雄副社長との、デザイン感覚を巡る対立や激論もこの頃から始まっている。つまり、はじめは表だって大々的にしたくなかったのだろう(ウォークマンの成果を得て、後に商品本部、さらにクリエイティブ本部に改称している)。それでも会議室で、灰皿が飛び交うような激しい議論が、この会社のデザインや戦略を活性化させ、際立たせていた。
ネーミングを巡っても話題は尽きない。「アレにはいい名前をつけなければ」と思案を重ねていた盛田が、海外出張から帰ってくると、黒木がやってきて「<ウォークマン>という名前にしました」と報告に来たという。「『変な名前だなぁ。もうちょっといい名前はないのか』と聞くと、『もう手遅れです。パッケージもポスターも全部、ウォークマンで進めてますから変えられません。我慢してください』とそう言うんです」、と盛田は回想している(注3)。
実は、宣伝部とデザイン部門を中心にネーミングの募集が行われ、100を超える名前が集まった。結局、母体となった<プレスマン>から、歩きながら音楽を楽しむ<ウォークマン>を提案した宣伝部係長の河野透の案を、黒木が採用した。WALKMANのAの文字にスニーカーを履かせた有名なロゴも、このときつくられた。
ところが、「ウォークマンなんて英語じゃない」と米国ソニーでは「サウンドアバウト」、誇り高い英国では独自の「ストーアウェイ」、“密航者”(ストーアウェイ)なんて嫌だとスウェーデンでは「フリースタイル」、と同一商品が4つの名前で(いずれも商標登録)発売されてしまった。
しかし、「英語じゃない<ウォークマン>」のインパクトが強く、外人の指名買いも多いことを確認したうえで、80年4月の全米のソニー・コンベンションの会場で「今後は、世界中すべて<ウォークマン>に統一する」、と盛田は宣言している。現に販売している商品の名前を変えるという、前代未聞の決定を、CEO権限で実施したのだ。
この意思決定の背中を押したのは、ミセス盛田だったことも触れておきたい。良子夫人によれば「3つも4つも名前が分かれるのは、やめてください。根っ子は一つじゃないとダメです。ソニーだって、初めはおかしい名前だと言われたじゃないですか。それが今では、これだけメジャーになったのですから。ウォークマン一本にしましょう」、と強く後押ししたという。
82年12月、英国王立芸術院で欧米人以外で初めてアルバート勲章を受章した盛田は、スピーチでこう語って喝采を浴びている。「ソニーはいろいろ新しい製品をつくってきましたが、実は製品だけに限りません。言葉もイノベートして、ウォークマンを英語にしてしまいました」。現に、最も権威あるオックスフォード英語辞典に「ウォークマン」が詳しく掲載され、彼はそれが「なによりうれしかった」と述べている。
ユニーク、インパクト、マジック
ウォークマン2号機<WM-2>は、81年2月に発売され、全世界で250万台の爆発的ヒットとなった。デザイン先行で開発され、操作ボタンが正面にあるため製造部門泣かせで、エンジニアの高篠静雄は工場で4カ月近く泊まり込み作業を強いられた。(写真提供:ソニー)
ウォークマン1号機は150万台の大ヒット、81年に発売された2号機は250万台の爆発的ヒットなった。発売以来の累計は、10年で5000万台、20年で1億8900万台、まさに地球を覆うインダストリーを生み出し、若者文化の象徴となった。
2013年6月にソニーの社外取締役に就任したMIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボ所長の伊藤穣一は、破壊的イノベーションに必要な3つの条件を挙げている(注4)。
(1)ユニーク(誰もやっていないこと、あるいはやれないことをやること)
(2)インパクト(目指すべきは強烈なインパクト)
(3)マジック(人の心をつなぐマジック的な雰囲気)
ウォークマンは、これら3つが揃った商品だった。面白いことに、ウォークマンの歴史のなかで、時代を画するような製品が初期に3機種発売されているが、それぞれが伊藤の言う3つの条件にも当てはまる。こんな感じである。
ウォークマン1号機<TPS-L2>本体390g,ヘッドホン45g,発売79年…ユニーク
ウォークマン2号機<WM-2>本体280g,ヘッドホン28g,発売81年…インパクト
ウォークマン<WM-20>本体180g,ヘッドホン17g,発売83年…マジック
ウォークマン<WM-20>は、ジャスト・カセットテープサイズの”マジカル”な商品で、人の心をとりこにした。厚さ5ミリの超扁平モーターやガム電池など、キー部品の開発から取組んだ。(写真提供:ソニー)
2号機の<WM-2>は、黒木の理想通りの「デザイン先行」を押し通し(高篠たち製造部門が最も苦労した)、インパクトを決定づけた製品。<WM-20>は超扁平モーターやガム電池というキー部品を新たに開発し、なんとカセットテープと同じサイズを実現したマジカルな商品となった。盛田は、ニューヨークでの記者会見 でもマジシャンとともに登場し、スティーブ・ジョブズに影響を与えたのではないかと思えるようなプレゼンを披露した。
改めてウォークマンを振り返ると、自分がほしいものを、自分でつくって楽しむ(今でいえば、3Dプリンターなどを使って自分でほしいものをつくる“メーカー・ムーブメント”)――そういうエンジニアの遊び心が、最初のきっかけだった。
そうした、ソニーのなかで「群れをなして飛んでいるアイデア」を、感度の鋭敏な人間がつかみ、次々とネットワークをつないでいった。その動きが波紋を広げ、セレンディピティ(思いがけないものを発見する能力)や、シンクロニシティ(共時性;意味のある偶然の一致)が働いて、個別に動いていたものが、核となる人物の周りに引き寄せられるようにして凝集していく。
83年に行われたニューヨークでの<WM-20>の新製品発表では、魔法のようなジャスト・カセットテープサイズをアピールするために、マジックショー仕立てのプレゼンが行われた。(写真提供:ソニー)
そのようにして、画期的な技術を伴わなくても既存の技術とアイデアの組み合わせで、イノベーションが実現できることを、盛田は目に見える形にして示したといえる。
大曽根(後に副社長)は、「発売以来20年間にわたって、一度もトップの地位を明け渡したことがないのが、ウォークマンだった。それは新しい機種が出るたびに、『さすがだ』と言われることを目指して、がんばってきたからだ」という。2000年に大曽根は、アイワの会長としてソニーを離れる。アップルがiPodを発売するのは、その翌年のことだった(iPodとの関連については、稿を改めて考えたい)。
(つづく)
*次回は1月13日(火)公開予定。
【注】
(1)ソニー『WALKMAN 10th Anniversary』p.18~19。
(2)黒木靖夫『ウォークマン かく戦えり』(ちくま文庫)p.19~22、p.28~29。
(3)ソニー『WALKMAN 10th Anniversary』p.2~3。
(4)伊藤穣一『「ひらめき」を生む技術』(角川選書)p.122~123より。