この記事では伏せ丼の発祥と発案者についての解説と考察をします
1
数年前にネットの一部で話題となった行為「伏せ丼」。お聞きになった事のある方もいらっしゃることであろう。いわく「丼を伏せても汁一滴垂れないほど奇麗に食べつくしたことを表す感謝の証」であるという。
この行為の是非については私の方からは論じない。ほとんどの方は伏せ丼について知った瞬間に「テーブルが汚れるだろ掃除するほうのことも考えろ」と思われたであろうからだ。無論ネット上において伏せ丼に言及する場合も肯定的に扱われる場合はほとんどない以上もはや私がそれについて非難する必要もない。
ではなぜわざわざこんな文章を書き始めたかというと、「伏せ丼」という愚行がいかにして生まれたかがネット上において忘れられつつあるからだ。特定地域において昔から行われていただとか、あるネットコミュニティにおいて提唱されただとか実しやかに囁かれているが真実は異なる。
2.
では、いったいどこの誰が「伏せ丼」を始めたのか。
それは各種サイトやSNSにおいてラーメンなどについてのレビュー等を行っていた人物「ねこねこわーるど」氏である。彼が提唱し、また実行しさらには根付かせるべく宣伝まで行っていたのだ。
多くの人が「だれ?」と思ったはずである。その感想は正しい。ねこねこわーるど氏はネット上に無数に存在する外食レビュアーの一人にすぎず、しかもほぼ無名であるからだ。間違っても有名ではなかった。ではなぜそんな氏の愚行がこんなにも有名になったのだろうか。かつて彼がネット上で残してきた情報の多くは散逸し今や正確な立証は難しいが可能な限り提示できる証拠は出していきたい。
3.
ねこねこわーるど氏は数年前から各種サイトやSNSにおいて外食レビューを行っていたことはすでに述べたが、その実態はどこか悲しさを帯びている。
彼ははてな、2ちゃんねる、ふたばちゃんねる、ツイッター、ブログなど(これらは少なくとも私が知っている範囲で彼が出入りしていたサイトであり、もしかしたら他のサイトでも同様の行為を行っていたかもしれない)に日頃趣味として行っている外食写真とその感想を書き込むことをよく行っていた。これらのサイトには似たような行いをしていた人は彼以外にも多く存在した。ネット上では多くの人が自分の趣味について語り合い情報交換を行っており、ねこねこわーるど氏もそんな中の一人だったのである。
だが彼がそれらの場所で受け入れられることはなかった。彼の書き込みに反応するものは少なく、また時には否定的な言葉を投げかけるものもいた。ブログでも、ツイッターでも、ほかの各種サイトでも。
「なぜ?」と思われる人も多いだろう。外食した際の写真と感想をアップロードするだけだから受け入れるも何もないのではないかと。無論彼と同じように写真付きの感想を書き込む人物は無数におりその大部分はきちんと受け入れられていた。ねこねこわーるど氏がこれらのサイトの住人にひややかな態度を取られたのには理由があるのだ。以下に彼がかつて運営していたブログのアーカイブを置いておく。そこに乗せられた写真やレビューなどは彼が各種サイトで行っていたことそのままである。
上記サイトを見てどう思われただろうか?そもそも飲食店での撮影自体に対して「フードポルノ」として否定的な人間も少なくない。まして公共の場に人形を持ち出して写真撮影を繰り返す人物に対して友好的に成れる人物がどれほどいるだろうか?店側としても客側としても雰囲気を壊しかねない奇異な行為であるし、フィギュアやドールを愛好する方から見ても汚損や偏見の目を産むものであり肯定的にとらえるのは難しい。
(現行のねこねこわーるど氏のツイッター。フィギュアラーメン評論家なるものを目指していたようだ)
http://megalodon.jp/2016-1023-1256-42/https://twitter.com:443/neko2world?lang=ja
(こちらは過去のねこねこわーるど氏のツイッター。右の自己紹介欄に注目していただきたい。なお同IDは現在は別の人物に使用されている。)
https://web.archive.org/web/20100706121146/https://twitter.com/nekonekoworld
このようにねこねこわーるど氏は彼の提唱するフィギュア飯というものに執着していることがうかがえる。さらにはフィギュア飯のみならず選挙の投票の際にフィギュアと一緒に投票し写真撮影という「フィギュア投票」なる法的問題すら孕むような行為にまで及んでいたことも追記しておきたい。
4.
しかしある時突然彼は「伏せ丼」なるものを提唱しはじめる。提唱するだけならともかくそれを実行し写真撮影とともにネットにアップロードを始めたのである。彼がどういった経緯でこれを考案したのかは定かではない。伏せ丼そのものが彼の提唱以前に存在しそれに影響された可能性もある。だがどちらにせよねこねこわーるど氏による提唱以前は極めて限られた少数の人間が行っていた程度のものであることは間違いない。
http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1397096
>料理を食べ終わった器を伏せる行為。
>丼の中から液体が垂れて来ないほど余すことなく食べ尽くしたことを表現し、
>料理が美味しかったことと、作り手への感謝を表す。
>山形県のラーメン通の間で広まったローカルブームである。
しかしnekoneko氏による二回目の編集では
http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1398346
>料理を食べ終わった器を伏せる行為。
>丼の中から液体が垂れて来ないほど余すことなく食べ尽くしたことを表現し、
>料理が美味しかったことと、作り手への感謝を表す。
>山形県のラーメン通の間で広まったローカルブームであったが、
>二次元裏@ふたば掲示板で取り上げられたことをきっかけに、広く知られるようになった。
このように唐突にふたばちゃんねるの話が追加される。しかしふたばちゃんねるの二次元裏でこの行為が特筆するほど大きく取り上げられた事実はない。完全に店に対する迷惑行為として扱われ、また話題としてあつかったのも一部のユーザーに過ぎなかった。
個人のブログの方に関しては「伏せ丼」で検索した限りではそのような話題を扱っていなかった。ただし「ラーメン」の記事に関して2011年に記事が執筆されてから次の執筆が2015年であるのでその空白期間に伏せ丼の記事が作成され、そして批判を恐れて消された可能性はあるがあくまで推論である。
むしろねこねこわーるど氏の私怨によるものである可能性もある。ふたばちゃんねるに対する言及は彼の日頃からのフィギュア飯に対する否定的態度と伏せ丼への明確な拒絶を理由とする私怨からくるものとしか思えない(こんなおかしな真似を誉める掲示板がありますよという晒しあげ)ので、同じように彼がその個人ブログに対しても何かしらの思いを抱いていてもおかしくはない。同じように日頃から彼を冷遇し続けた2ちゃんねるに対して何もないのは単純に人口が多すぎてねつ造による工作が露見しやすいからだろう。
彼はかつて自分が愛した伏せ丼を忌み子とし、私怨を晴らすための武器にしてしまったのだ。極めて大きな立場の転換である。この瞬間がおそらく彼が自分がネット上で受け入れられることはないと理解した時ではないだろうか。
5.
ねこねこわーるど氏はなぜフィギュア飯や伏せ丼などという行為を行ったのであろうか。特にフィギュア飯に対する思い入れは強く現在も続けていることが確認できる。それほどまでに執着する行為には何かしら理由があるはずである。
思うに、彼は自分の行為を形として残し人から認められたかったのだ。
批判を恐れてブログやツイッターを削除しながらも現在も同じハンドルネームを愛用し続けるていること。反応も貰えないどころか否定的言葉すら投げかけられるフィギュア飯を長く続けていること。ツイッターの自己紹介に存在する「日本初のフィギュア飯評論家でした」という一文。そして妙に多いはてなキーワードの編集回数(nekoneko - はてなキーワード)。
上記のすべてを「承認欲求」に求めずにはいられないのは私だけだろうか?フィギュア飯も伏せ丼も自分が他人とは違うという証明、いわば自己主張のための行動だったのではないかと思う。そうでないならば店側への明確な負担となる伏せ丼という行為を「店への感謝の表現」として発信することはできない。彼にとって大事なのは「感謝の表現」ではなく「他人では思いつかない行動をする特別な自分」だったのだ。
社会性動物である人間には本能として他人とつながりたい、認められたいという欲求が存在する。これ自体は決して悪いものではないし誰もが持っているものでもある。これを満たすために行動することで成功を収めた人物も数多くいる。
しかしねこねこわーるど氏はどこかで間違いを犯してしまったのだ。ほとんどの人は承認欲求をコントロールできる。奇行を行うことで承認欲求を満たせるとしても羞恥心や倫理観、危機管理の意識などからそれをさけるだろう。
だが一部の人間はそんな事も鑑みず突き進んでしまうのも事実だ。インターネットの発達がそれをさらに加速させた。エアロバキバキだのテラ牛丼だのを覚えている人も多いだろう。コンビニの冷凍庫に入ったり飲食店の醤油さしを鼻に突っ込んだりする人間がツイッターで発見され連続で炎上したのも記憶に新しい。
ねこねこわーるど氏もそんな中の一人にすぎない。彼に文才があればフィギュア飯という行為が少々眉を顰められようと人気者になれたはずである。企画力があれば伏せ丼よりももっと面白くてだれもが真似をしたくなるような明るく楽しいネタを考えられただろう。コミュニケーション能力があればそういうものを持たずとも他人とつながり認められることができただろう。
しかし彼にはそういうものがなかった。だからこそ伏せ丼などというものでしか自己表現できなかったのである。
ならば、せめてこういう形で彼の行いをまとめることもまた彼のためになるのではないだろうか。虎は死して皮を残す。ねこねこわーるど氏もまた己が身と引き換えに我々に大事な訓戒を遺してくれたのだ。