今、表現のあり方が問われている。
メディアの信頼性はどう担保されるべきか、著作権の遵守はできているのか。ブログもまたメディアであり、他人事ではない。このタイミングで、運営ポリシーを見直すのも意義があるはずだ。
ぼくの敬愛する昭和の大ヒットメーカー、阿久悠。彼は人気の絶頂で自ら一線から退き、日記を書き始めた。
阿久悠は、既存の延長を良しとしない。前例踏襲を許さない。やるからには、それまでにない新しいことに挑戦する。その心意気で伝説を作ってきた。
日記にも彼独自の美学があった。「日記憲法五ヶ条」として明文化されたルールは次の通りだ。
日記憲法五ヶ条(阿久悠)
- いい子でもなく、悪い子でもなく、冷静な観察者としての日記というものは成立しないものだろうか。
- レストランのメニューから米大統領の演説まで、およそ興味を覚えたものは、同格に書けないものか。
- 日々の不快を排除したら、それはもう日記と呼べないものであろうか。
- 受けるものと、発するものと、1ページの中でたたかわせられないか。
- 今日があり、世界があって、そして、自分がありという書き方ができないか。
自分のアンテナが反応した出来事を分け隔てなく記す。それらを振り返った時、そこには「時代」が記されている。彼独自の哲学に基づいて、死ぬまでの間ほぼ途切れることなく日記は書き続けられた。
というわけで、ぼくも真似してみる。
ホビヲログの五ヶ条(ホビヲ)
- いい子でもなく、悪い子でもなく、冷静な観察者としてのブログというものは成立しないものだろうか。
- Amazonのレビューからホビヲノエまで、およそ興味を覚えたものは、同格に書けないものか。
- 日々の不快を排除したら、それはもうブログと呼べないものであろうか。
- ウケるものと、スベるものと、1記事の中でたたかわせられないか。
- はてブがあり、SEOがあって、そして、ネタがありという書き方ができないか。
まとめ
真似事を否定する阿久悠に憧れて、彼を真似てしまうこの二律背反的な行い。それこそがホビヲログの運営ポリシーなのかもしれない。
そもそも、日記とブログは別物である。もう少し人の役に立つ記事を書きたいと思う今日この頃であった。