ただしゲームの進み具合やその興味深さとは別に、これを見守る筆者の心は非常に重い。国政壟断勢力が法律を巧みに解釈し、責任と処罰から逃れようとするその態度を見ると、ある意味それ以上に人間としての道徳的堕落を見せつけるものはないと思われるからだ。崔順実(チェ・スンシル)被告とその取り巻きは言うまでもなく、関係する大物政治家、官僚、企業経営者など韓国社会の指導的立場にあるはずの彼らは、誰もが自らの容疑について一様に知らぬ存ぜぬを押し通しており、その倫理観のなさにはもはや悲しみをも感じるほどだ。しかも彼らの破廉恥な態度は善良な一般市民の法律に対する意識はもちろん、道徳観さえ汚してしまいかねないのだ。
このようなときによく引き合いに出されるのが論語に出てくる孔子の言葉だ。孔子は法治の弊害を指摘し「民を導くのに法をもってし、民を統べるに刑罰をもってすれば、民は法の網をかいくぐって恥じることがない」と諭している。ところが今韓国では民ではなく為政者たちが罪を犯し、また罰を免れることに必死になり、恥じることもなくなってしまった。これでは普通の市民はどうなってしまうのだろうか。
政治学の教科書などでよく取り上げられる「囚人のジレンマ」もそうだ。これも論語と同じく現代の民主国家において法治が招く道徳の欠如を指摘している。この理論はある犯罪の二人の共犯者が自分たちの犯した罪を反省するどころか、法律を細かく検証し、それぞれの犯罪行為について「自白」と「否認」のそれぞれによってもたらされる損得を慎重に計算した上で、どうすれば処罰を最小限に抑えられるかを考え抜く様子を描いたものだ。普通の善良な人なら「罪を犯せば自らの行為に対して道徳的に反省し、罪を告白してそれに応じた罰を受けねばならない」と考えるだろうが、この理論はそのような普通の倫理観が完全に欠如した姿をリアルに描いている。この「囚人のジレンマ」は現代欧米社会における法治の現実とその害悪を学問的に、なおかつ率直に再現したものだ。