ここでは『マッドマックス 怒りのデス・ロード~』先に見ていることを前提とする。
どうしようもない世界の片隅で、女として育ち、
そしてどうしようもない現実に怒りを覚え、自ら戦う意思を持つ。
髪を失くし、腕を失くし、それでも彼女は生きる。生き残るために戦う。
フュリオサすずが生きる世界は、残酷だ。しかし持ち前の自分を曲げないハードボイルドさで、周りの女性を惚れさせていく…。
キャラクターが似ている点と言えばそれくらいなのだが(充分だろう)、『この世界の片隅に』から漂うマッドマックス感はなんなのだろうか。
しかしその映画は、言葉ですべてを説明するタイプの情報量過多映画ではないか?
『マッドマックス』は情報量が過多だと思うが、ほとんどと言って説明が無い。それを全て分かるには、かなりの努力が必要となる。
「いぇえええええ!ひゃっは!!!!!!!!V8V8V8!!!」と言っているうちに、物語が進んで終わっている。
正直何が起きているのかさっぱり分からない。だけど、しっかりとした世界観と設定、緻密な人物描写の中にストーリーがしっかりあるのだ。
『この世界の片隅に』も言えば情報量が過多だ。もはや収まっていない。原作も読みやがれ、エンドロールから汲み取れパターンの映画になっている。
この場合、漫画が全て汲み取れていないという批判が行きがちだが、そうではないのだ。
紙に白黒で静止画で描く漫画というコンテンツから映画に昇華する上で、読む側の自由にさせない猛スピードをつけ、音をつけ、色をつけ、動きをつけた結果が漫画以上の情報過多を生んでいる。
良く出来た原作をさらに掘り下げ、風景やいろんな描写に現実をさらに織り込んだ。
史実を基にするゆえに原作からの訂正箇所も生まれている。原作者は多分、満足していることだろう。
「マッドマックス怒りのデスロード」が評価され、ファンを生んだ。
アカデミー賞もとった。あのイカレタ作品がアカデミー賞だけはとってはいけないと思うのだが、評価に値するだけのものだと思う。
あの作品の評価はどこにあるのかといえば、個人的に見ると、情報過多なくせに必要な部分は「行って帰るだけ」だし、説明しないおかげでストーリーにとんでもない疾走感を生んでいる点だと考える。
「この世界の片隅に」も同じ評価ができる。(これはイカレタ作品ではないので、賞をとって良いと思うのだが)
情報過多なくせに、必要な部分は「すずがただ生きる」ことだけだ。
しかしただ生きることに、あまりにも密度の高い世界と目まぐるしい戦況が映画全体にスピードをもたらしているのだ。
歴史上、私たちは、彼女が生きて向かう先の広島になにがあるのかを知っている。
誤解を覚悟で言えば、それが物語の大きなスパイスとなり、面白さを増幅させている。
その「面白さ」は、決してウキウキと楽しいものでは無い。怖いと言っても貞子と伽椰子が来るぞ来るぞ、とチャカせるようなものではない。
そこから考えることは見てる側それぞれのものだ。それぞれなのだけど、ただ世界の片隅が壊れただけでエンディングは迎えない。
壊れた先にあるものを描くのだ。
この映画では怒涛のラストと表現していいのかもしれないが、とんでもないほどの情報量が流れ込んでくる。
(例えば、あのあと呉には台風が襲う。漫画にはあるが、映画ではそれが一瞬にして表現される。これも2時間という枠のスピード感に特化した結果だ)
その情報量は主人公ただ一人の女性から見る、小さな視野の景色だということも驚きだ。
マッドマックスが核兵器による戦争後の世界というのも、また共通点。
どんな世界でも、どんだけ頭がおかしくなっても(マッドマックスの話)、人は生きるのだ。ただ生きようとあがくのだ。
この世界の片隅には銀スプレーは無いけれど、銀スプレーが無くても人は生きていくということを教えてくれた。
あの映画から漂うマッドマックス感は、そういう共通点から生まれているのかもしれない。
この世界の片隅にを見たほうが良い。
あの映画の良さが分かる人には、この映画の良さがきっと分かるはずだ。
これはステルスマーケティングではない。ダイレクトマーケティングだ。