蹴球探訪
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【首都スポ】早大ボクシング部主将・淡海昇太 全戦全敗男 涙と感謝のラストファイト2016年12月9日 紙面から
淡海、涙のラストファイト−。早大ボクシング部主将で“全戦全敗男”と言われたこともある淡海昇太(4年・浅野)がさる3日、第60回ボクシング早慶戦(慶大日吉キャンパス日吉記念館)のライト級(60キロ)で過去2戦2敗の田中和樹(4年)と激突。人生最後の試合と決めて臨んだ一戦で、判定で敗れはしたものの、壮絶な殴り合いを演じて男泣きした。早大は3勝4敗で敗れ、対抗戦通算成績を38勝18敗4分とした。(竹下陽二) 淡海が泣いた。判定負けし、ポーカーフェースでリングを下りた。しかし、ボクシング部関係者からねぎらいの言葉をかけられると、熱いものがこみ上げてきた。 「勝って燃え尽きたかった。でも、最高の相手と最高の舞台で戦えて、燃え尽きることができました…」 大学最後の試合。人生ラストファイトと決めていた。相手は宿敵・田中。1階級下の田中と戦うためにあえて8キロの減量に挑んだ。そして、壮絶な打撃戦の末、僅差の判定負け。悔しさ以上に、言葉で言い尽くせない経験したことのない不思議な感情があった。 大学1年のころに“全戦全敗男”と呼ばれた。リーグ戦5敗を含む7戦全敗。2年の春、国体選考会で3戦全勝したものの、その後のリーグ戦で3戦全敗。2年夏、思い詰めたような暗い表情を見せる淡海は監督から「いったん、ボクシングを忘れろ」と言われ、リングを離れた。 心の旅が始まった。続けるべきか。やめるべきか。自問自答した。海が見たくて、電車を乗り継いで江の島に出向いた。青春を謳歌(おうか)する日焼けした若者たちの姿がまぶしく見えた。一方で、ボクシングを諦めきれない自分もいた。浜辺をトボトボ歩きながら、一つの答えが浮かんだ。 「恥ずかしいままで終わりたくない。変わるために違うことをやろう」 2週間で部活に復帰。プロの山上ジムにも出稽古に出向いた。部活とは違う環境に身を置くことで、視界が開けた。そして、少しずつ勝てるようになった。最終学年の4年にはその姿勢が評価され、主将に抜てき。関東大学ボクシングトーナメント戦・ライトウエルター級(64キロ)で優勝。もう、うつむいてばかりの、自信のない全敗男ではなかった。 子供のころは泣き虫だった。小学時代に空手の黒帯である父・正雄(55)の勧めで極真空手を始めた。女の子に負けて泣いた。しかし、負けてもはい上がる芯の強さがあった。姉が中学受験を頑張っている姿を見て、自分も中学受験をする気になった。神奈川の名門・浅野中を選んだのは、ボクシング部があることもひそかな理由だった。 空手のパンチ力をつける狙いでボクシング部の門をたたいたのだが、次第にボクシングに魅了された。しかし、マジメなのはボクシングだけ。遅刻の常習者でもあった。中3に進級したある日、ボクシング部顧問で物理の先生でもあった庄司真生に「私生活がダメなやつがリングで勝てるわけがない」ときつくしかられた。 翌朝から晩ご飯の残りを弁当箱に詰め込み、両親も寝ている朝6時に家を出た。そして、誰もいない校庭を走った。誰もいない−は正確ではなかった。そこに、庄司もいた。そして、一緒に走ってくれた。青春ドラマのような朝練が始まった。 浅野高に進学してからも朝練は続いた。しかし、高2年時にアクシデントに見舞われた。右眼窩(がんか)底骨折の重傷。それでも、ボクシングを諦めきれない淡海に、母・圭子(52)は「好きなようにしなさい」と諦め口調で言った。悲しそうな母の目を見て、淡海は「次、同じようなけがをしたら終わり」と心に決めた。 以来、リングに向かうのが不思議と怖くなくなった。アマ通算39勝26敗。勝ったり負けたりのボクシング人生。いろんな人に支えられたから、この日のリングに立てた。客席には、恩師の庄司や優しいまなざしの母の姿もあった。 後片付けの始まった会場で淡海がポツリと言った。「悔しさは、もちろんあります。でも、それ以上に、あれは支えてくれた人たちへの感謝の涙。俺は恵まれてるなと。うれし涙だったのかもしれません」。負けたけれど、お金で買えないものを手に入れた大学生活。これからも、人生というリングで戦い続ける。(敬称略) <淡海昇太(たんかい・しょうた)> 1994(平成6)年8月16日生まれ、神奈川県出身の22歳。175センチ。早大教育学部理学科地球科学専修、鉱物物理化学研究室4年。浅野高では2、3年時にインターハイ出場。アマ通算39勝26敗。右ボクサーファイター。大学では白衣を着て、鉱物から新しい材料を作る実験・実習を行っている。卒業後は金融関係の会社に就職が内定。家族は両親と姉。 ◇ 首都圏のアスリートを全力で応援する「首都スポ」。トーチュウ紙面で連日展開中。 PR情報
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