「働くこと」がうまくいかない人に対して、日本人は、もともと厳しい。
しかも、雇う側も、雇われている側も、同じように厳しいのだ。
それゆえ、ドロップアウトしてしまうと、人は自分を責めてしまう。それが、自殺へと向かわせてしまうのだ。
日本人の”基本的メンタリティー”を見直さなければ、こうした悲劇は、再び起こる可能性が十分にある。
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高度成長期、バブル期において、すでにわが国においては、突出したさまざまな心理‐社会的な問題が出現していたが、経済が好調だったために、それほど目立つものにはならなかった。
しかし、長い低成長の時代を迎えて、それらは直面すべき問題として、われわれの前に突きつけられている。その一つは、教育と学校に関する諸問題であり、不登校やいじめの問題は少しも解決のきざしを見せていない。
さらに顕著になったのが、この自殺の問題である。不登校やいじめの問題とも関連はするが、過労自殺を含めた自殺の増大は、わが国独特の社会的なメンタリティと不可分である。
過労自殺の背景には、「いかに過重な労働であろうとそれをこなせない人間は社会的に認められない」という思い込みが、雇用者側にも勤労者側にも存在している点である。
与えられた労働がこなせなくなることは、勤労者にとって社会的に「死ぬ」ことであり、その時点で、彼は仕事をやめることよりも、自殺を選択する。
これは、リストラにあって失業した労働者が自殺する経過と類似している。欧米と異なり、わが国には失業者を暖かく見守るような眼差しは少ない。それどころか、知人・隣人ばかりでなく家族までもが、失業したのは本人の努力が足りないせいであると、非難の視線を送り続ける。
過労自殺の心理的な背景もこれと類似している。彼らは社会的な脱落者にならないように、常に精一杯努力した人たちであった。この問題の解決には、「悪人情」とも言うべき日本型のメンタリティを変化させていくことが必要なのであるが、今回の第二の電通事件の経過や長谷川氏のコメントを見ると、日本社会のメンタリティは一向に変化していないように思える。
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自分自身の生活を振り返り、反省する人も多かったのではないでしょうか。
「不寛容な日本人」の本質に、思わず恐怖を感じてしまいます。
次回のテーマも乞うご期待。
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