・はじめに
ある日、アニメ演出家である佐藤照雄さんのTwitterアカウントにおいて、自身が監督する作品について以下のような言及がありました。
謝罪
— 佐藤照雄 (@teruosatou) 2016年8月26日
先日のツイートで『ゆめロラ』と意味もわからず…二人は同性愛者的な表記をしてしまいました。
誤解を招くような表記をしてしまい申し訳ありません。不快に思われた方もいらっしゃるかと思います。深く反省しております。
二人はそのような関係ではありません。
ツイートも削除致しました。
この言及だけでは事象の前後関係などまで把握することは難しいと思います。またツイート内容の通り一部の発言は削除済みなので、現在では当時の状況をリアルタイムで経験した人以外にその全容を把握することはできません。
しかしこのツイートにおいて私が大いに気になったのは、それらの前後関係は別にして、佐藤さんが「同性愛者的な表記」なるものについて「謝罪」をしていることについてでした。
正直に言えば、佐藤さんの監督する当該作品のテレビ放送を毎週楽しみにしている私としては、この発言に大いに傷ついてしまいました。
もちろん「傷ついた」というのは「私の推しカプが公式に否定された!」といった単純な感情だけではありません。
私が気になったのは佐藤さんの発言から垣間見える同性愛への姿勢、さらに言えば子供向けアニメを中心とした一般商業作品における同性愛への姿勢、もっと言えばそれらに密接に関係しているであろうこの私たちが生きる社会そのもののセクシャリティへの姿勢についてです。
当該ツイート(以下上記にリンクを引用したツイートをこう称します)は記事執筆から約4ヶ月も前の発言ですが、私はこの4ヶ月間、ずっとこの佐藤さんの発言について悩んできました。その苦しみは尋常のものではなく、一日一度はこの発言を思い出して不快な気分を思い起こしているくらいです。我ながら一個人の発言にそんな執着してしまうのはよろしくないと思いながらも、どうしてもこの感情を消すことができません。
何故なら先程も述べた通り、当該ツイートにおける佐藤さんの発言は単なる個人を超えた社会の在り方を反映しているように私は思えていたのです。
いつまでもこの気分を引きずっているわけにもいかず、いっそのこと愚痴のような形になってもいいから全て吐き出してしまおうと思いこの記事を書きました。
いくらTwitterの規約に従っているとはいえ、まとめサイトが度々問題を起こしているようにツイートの引用は時に誤解を生みそれが拡散されてしまうリスクを持っていることは重々承知しています。言い訳にしかなりませんが、この記事は引用したツイートの発言者の方に発生し得るそれらのリスクを知りながら書いてしまったものです。
この事柄を考えることになったきっかけが一個人の発言である以上、この記事には佐藤さんの当該ツイートを批判する文言が多く含まれます。
しかし佐藤さん本人の人格を攻撃したり、佐藤さんの手掛ける作品自身を貶めるような意図は私自身一切持っていません。
また私は佐藤さんに対して「当該ツイートを削除してほしい」などといった感情も持っていませんし、この記事はそういった佐藤さんへの何らかの要求・要望を伝えるものでもありません。
この記事はあくまで佐藤さんの当該ツイートをきっかけに私自身が考えたことを述べたものに過ぎません。
記事を精読する前にそれらの点を事前に了承していただきたいです。
ほとんど愚痴を吐き出すような記事ではありますが、これをきっかけに私の考えたことが他の方にも正しい形で伝わってくれればと考えています。
・経緯
当該ツイートの内容通り、この謝罪のきっかけとなった発言は既に削除されており、よってこの問題の全容を把握することは最初に述べた通り不可能です。
しかし不可能ながらも当時の状況を知る者としてある程度の経緯を述べさせてもらおうと思います。
もちろんこの経緯はソースも既に存在しない以上、私自身の主観が多分に含まれたものであることは事前に承知していただきたいです。
きっかけは佐藤さんの現在放送中の自身が監督を務めるアニメ作品についての告知・宣伝ツイートでした。
そのツイートの中に「ゆめロラ」という表記があったのです。
察しの良い方はお気づきでしょうが、この単語は佐藤さんが監督を務めるアニメ作品における登場人物ふたりの名前を略したものです。
ぶっちゃけて言えば、それはファンが「カップリング用語」として使っているものと同音でした(この言葉の意味がわからない方は検索して調べていただきたいです)。
それが一部で物議を醸したわけです。
しかし当該ツイートにおいて「意味もわからず」と述べている通り、佐藤さんはカップリング用語(つまり該当のふたりが恋愛関係にあることを示唆する言葉)としてこの言葉を使ったわけではないようです。
いくら制作者とファンとしての立場の違いがあるとはいえ、あらゆるアニメ作品のファンが普遍的に使っているその略し方を佐藤さんが全く知らなかったかというと「そんなわけはないだろう」とも思うのですが、佐藤さんがそう仰っている以上はおそらくは知らなかったのでしょう。
今は削除されたそのツイートを当時読んだ私としては、少なくとも佐藤さんはカップリング用語としてではなく登場人物のコンビ略称としてそれを使用したように文脈からは判断しました。
しかし佐藤さんの意図とは離れてその発言をカップリング用語として捉えてしまったファンのひとりが佐藤さんにリプライを送りました。
そのリプライも現在既に削除されているのですが内容としては、
「女児向けアニメの制作者が作品について同性愛を連想させる表記をするのは如何なものか」
といったものだったと記憶しています。
そう、佐藤さんのその作品は子供向けアニメでした。そしてコンビ名の登場人物ふたりはどちらも女性だったのです。
それを受けて佐藤さんは「ゆめロラ」という表記をしたツイートを削除し当該ツイートのような謝罪を発表したわけです。
この発言は大いに話題を呼びました。素直な言葉で表せば「炎上」しました。
制作者(しかも監督)がひとりのファンの苦言に対してここまで大々的に謝罪をしたわけですから話題にならないわけがありません。
多くのファンはこの一連の騒動に対して、
「公式に突撃するな。制作者にファンが突っかかるな」
「同性愛的な意味ではなくあくまでコンビ的な意図であったことは明白なのに何故わざわざ謝罪をするのか」
といった反応を示していましたが、私はそれらとは少し違った考えをこれらの騒動に対して感じました。
そのことについて4ヶ月の間自分なりに考えを整理した上で、あくまで私自身の言葉として以下に考えたことを述べたいと思います。
・何故同性愛は謝罪しなければならないのか?
該当ツイートにおいて佐藤さんは「同性愛者的な表記」を「謝罪」しています。
しかしそもそもとして何故子供向けアニメにおいて同性愛者的な表現は謝罪しなければならないことなのでしょうか?
「ホモとか百合だとかいった表現は子供に見せるには相応しくないから」
ぱっと思いつく理由としてはこんなものが挙げられますが、しかしこの言葉も大いに矛盾を含んでいます。
もちろん性的な表現は子供に見せるは相応しくないでしょう。けれど佐藤さんの発言に性的な表現を思わせる要素はありませんし、佐藤さんの謝罪対象は「同性愛者的な表記」であって「性的な表記」ではありません。
では何故佐藤さんは「同性愛者的な表記」に限ってこのような謝罪を行ったのか?
導き出される結論は最悪のものになります。
「同性愛者は子供に見せるには相応しくないから」
いくら何でも残酷すぎる話ですし、差別的な文脈を多く含んだ倫理観です。悪辣な捉え方であることは私自身も承知しています。
「佐藤さんの謝罪は同性愛をテーマにしていない作品で同性愛者的な表記をしてしまったからだ。それは道理に基いた正しい考え方だし、差別ではない」
と考える方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかしその指摘についてはおかしな点がひとつあります。
何故同性愛は同性愛をテーマにした作品でしか行ってはいけないのでしょうか?
佐藤さんが監督を務めるその作品はたしかに恋愛を大きなテーマにした作品ではありません。しかし仮に「ゆめロラ」という表記が男女のコンビを指す言葉であったとき佐藤さんは「ふたりは異性愛者的な表記をしてしまいました」と謝罪したでしょうか? おそらくしなかったでしょう。
佐藤さんは「同性愛者的な表記」だからこそそれを謝罪したのです。
同性愛を差別していないのであれば「同性愛をテーマにしていない作品で同性愛の話をするのはよくない」というのは「異性愛をテーマにしていない作品で異性愛の話をするのはよくない」「恋愛をテーマにしていない作品で恋愛があってはいけない」と同義でなければいけなくなります。
しかし例えば恋愛映画と定義された映画でしか恋愛ができないのはおかしいですし、最後に付け足したように主人公とヒロインがキスして終わるアクション映画だって現に星の数ほどありますよね。
これに近しい事案として声優の古谷徹さんの以下のようなツイートがあります。
【お詫び】今回、注目を集める告知で文字数が厳しくて、つい省略のつもりでカップル表記にしてしまい、その事で悲しみ、不快を覚えた方々からメールも含め指摘されました。ごめんなさいm(_ _)m 文字数に関しては僕が工夫すれば良いだけの事です。今後、そのような表記は自粛いたします。
— 古谷徹 50周年 Thanks! (@torushome) 2016年10月12日
これもいわば佐藤さんの該当ツイートと経緯は同じで、カップリング用語を自身が声を務める作品の宣伝ツイートで使用してしまったことに対する謝罪なのですが、佐藤さんの該当ツイートと古谷さんのツイートでは一点大きな違いがあります。
それは古谷さんのツイートは佐藤さんと違って同性愛を謝罪していないという点です。
あくまで古谷さんが謝罪したのは「カップル的表記」であって、古谷さんの謝罪内容ではカップル的表記をした登場人物のセクシャリティについて全く触れていないのです。
きっと佐藤さんもこのような形でツイートをしていれば炎上も今よりずっと小さかったでしょう。
子供向けアニメとはいえ、佐藤さんが監督を務めるその作品は中高生以上の大人にも人気があり、そういった方に向けた商品展開なども行っています。佐藤さんがTwitterというメインターゲットの子供には届かない媒体で宣伝ツイートを行っているのも、そういった大人のファン層をある程度対象にしているからこそだと思います。大人のファンは得てして登場人物同士の恋愛関係が(劇中にその描写があったかなかったかを問わず)大好きであることが多く、そんなファン層がある手前、特定のカップリングの略称についてだけ言及してしまうと贔屓のように見えてしまうこともあるでしょう。もちろんそういったカップリングの話を公式がしてはいけないというわけではありませんが、配慮として謝罪するのはおかしなことではありません。
私は古谷さんと同様に佐藤さんもそういった意図で発言したと思いたいですが、現実には「同性愛者的な表記」という言葉が立ち塞がります。
カップリング表記を謝罪したければわざわざ同性愛に限定する必要はないのです。佐藤さんの監督作品には男性の登場人物も存在しますし、ファンの間では同性愛以外の男女間のカップリングも(劇中の描写の量、いわゆる公式か否かを問わず)人気があります。佐藤さんの監督作品においてはカップリング=同性愛という意味では決してないのです。
その上で「同性愛」に限って謝罪をすることには正直なところ差別的な意図しか見出すことしかできません。
以上の話は別に今回の子供向けアニメに限った話ではなく、あらゆる日常の中に当てはめることができます。
子供向けアニメでなく大人向けのアニメやその他大衆向け作品においても「同性愛をテーマにしている作品でなければ同性愛を描いてはいけない」「同性愛をテーマにしていない作品だからこれは同性愛ではない。同性愛であってはならない」という言論は多く存在します。
最近だと『ユーリ!!! on Ice』などがそうでしょうか。
これも「ホモなんかじゃなくてもっと尊いもの」といった言論がTwitterなどを中心に散見されます。たしかにあの作品は普遍的な愛を描いた作品でありますが、登場人物がゲイであるとその普遍的な愛に破綻が生じると考える人は多いわけです。
これが男女の物語だったとして「男女恋愛なんかじゃなくてもっと尊いもの」といった言論が溢れることがあり得たでしょうか? いいえ、人々は素晴らしい恋愛劇としてそれを享受していたでしょう。
一方で同性同士になると「そんなんじゃなくもっと尊いもの」として同性間の恋愛を異性間のそれと比べて卑下してしまうのです。
別にアニメや映画といったものに限らず、日常のあらゆる瞬間で異性間だと普遍として認められることが同性間だと道理が通っていないとされる瞬間は数多くあり、佐藤さんが該当ツイートで同性愛者的な表記について殊更に謝罪をしたのは、私にとって日常的に感じていたその矛盾をわかりやすく象徴する出来事でした。
・差別するつもりのない差別
ここまで佐藤さん自身の考えについてかなり酷い形での推測をしてきましたが、実は佐藤さん自身はそういった差別的なことを意識しているわけではないようです。
該当ツイートは多くの反響を呼び、謝罪内容について上記のような「差別的じゃないか」という指摘も多く寄せられました。
該当ツイートに紐付いたリプライを見ればわかると思いますが、実は私もTwitterアカウントからそのような形のリプライを送っており、お返事をいただいています。
佐藤さんは似たような反応を他の方からのリプライにもしているのですが、それらのいくつかからは「差別的な意図はない」という明確な意思が伺えるのが確認できるでしょう。
なるほど、深く考えてみれば例えばこういう考え方もできるかもしれません。
そもそも佐藤さんが謝罪をしたのは「女児向けアニメにおける公式の同性愛的言及はよくない」というファンからのリプライがきっかけでした。佐藤さんはあくまでそのファンに応える形で謝罪をしたに過ぎないのです。
「同性愛は子供向けに相応しくない」というのが道理の通っていない差別的な倫理観だというのは先程述べた通りですが、別に「同性愛が嫌い」という感情は否定されるものではありません。それを他人に「こうであれ」と倫理観を押しつけることはあってはいけないことですが、個人の好き嫌いの感情はそう簡単に変えることはできませんし、また否定されるべきではありません。
例えれば食べ物の好き嫌いでしょうか。ピーマンがいくら嫌いでもそれを無理矢理好きになるなんてことはできませんし、嫌いだからといってピーマン農家を襲撃したりしたら問題ですが、個人で勝手に嫌う分には別にその人の自由です(本当は好き嫌いなく食べられるのが一番幸せだけれどね)。
佐藤さんはファンからの「同性愛はよくない」という指摘に「私は同性愛が嫌いだ」という好き嫌いの感情を見出したのかもしれません。
そのファンが物申した「子供向けアニメで同性愛はよくない」という指摘が単なる好き嫌いのエゴをそれらしい倫理観で覆い隠していることは多くの人々が気づいていたことだと思います。
ファンの一言で制作者が発言を翻すのもどうかという気はしますが、佐藤さんが行っているのはサービス業です。お客さん第一です。客に「このピーマンが不味い」と遠回しに言われた料理人がそのピーマンをのけるのはあながち間違ったことではありません。同性愛を否定するつもりはなくても、同性愛が不味いといった客がいれば、メニューからそれを消す判断も時には必要になるでしょう。
あくまで佐藤さんはお客さんの好き嫌いに配慮しただけに過ぎないとも考えられます。
ただしこの理論は簡単に破綻してしまいます。理由は佐藤さんがこのひとりのファンの好き嫌いについて大々的に当該ツイートのような全世界に向けた謝罪をしてしまったからです。
佐藤さんは同性愛のつもりがなかった表記を指摘されたときはツイートを削除して大々的に謝罪をしているのにもかかわらず、差別のつもりがなかった表記を指摘されたときは別にツイートの削除は行っていません。
佐藤さんのカップリング表記に対して苦言を呈したリプライが1件なのに対して、佐藤さんの発言が差別的な要素を含んでいることを指摘するリプライの方は大量です。そして炎上のきっかけになったのはカップリング表記ではなくて、それに対する謝罪の方なのです。リプライが多いから正義というわけではありません。しかし佐藤さんの優先するのが「サービス業としてのお客の満足」であればより力を入れて対応すべきは「同性愛を思わせる表記」でなくよりクレーム件数の多い「差別を思わせる表記」のはずです。
そう考えれば佐藤さんの該当ツイートにおいて最大の悪手は「大々的に謝罪をしてしまったこと」でしょうか。
個人へのリプライで済ませれば「シェフがピーマンが嫌いな客の皿からピーマンをのけた」というだけのことで済んだはずが、大々的に謝罪をしてしまったことでピーマンが好きな人まで不快感を被ったわけです。
「同性愛が不快である」というクレームが許されるのであれば「同性愛に対する否定的言及が不快である」というクレームもまた許されてしまいます。
佐藤さんは「同性愛を差別するつもりはない」という考えを掲げる限り、該当ツイートをきっかけに「全ての発言においてクレームが来た場合、その発言を削除して大々的に謝罪しなければならない」という状態に追い込まれていると思います。
もし今後佐藤さんが何らかのクレームについてそのような形での謝罪をしなかった場合、佐藤さんにとってはそのクレームは「同性愛が嫌いな人に配慮すること」以上の意味を持たなかったことになります。
例えば今後、
「男女の恋愛を示唆する表記をしています。同性愛者的表記を謝罪したのなら異性愛者的表記も謝罪してください。そうでないと差別でしょう?」
「私の勝手な好き嫌いなのですが不快です。ツイートを削除して大々的に謝罪してください」
といったふざけたクレームがついても、佐藤さんは「同性愛を差別するつもりはない」以上は、それに応えなければならなくなってしまうでしょう。
しかし現実にそんなことができるわけがありません。
事実、佐藤さんは「同性愛が不快である」というクレームには対応しても「差別的な表記が不快である」というクレームには該当ツイートを削除し大々的に謝罪することはしていません。
つまりは佐藤さんとしては同性愛が嫌いな人への対応は差別的な表記に傷ついた人への対応より優先される事柄なわけです。きっと後者についてはそこまで重視していないのでしょう。少なくともそう思わせてしまう言動を佐藤さんはしてしまっているのです。
繰り返し念を押しますが、この発言もこの記事全体も佐藤さんに新たな謝罪や当該ツイートを削除するように求める意図は一切ありません。私は佐藤さんに何事も要求してはいません。ただ私は佐藤さんの発言がきっかけとなって私自身が考えたその思考過程を述べているだけに過ぎません。
そもそももし仮に謝罪したことについてさらに謝罪をするだなんてことになってしまったら、同性愛の是非をめぐって永遠に謝罪を求めるいたちごっこが始まってしまいますからね。
今回の事案における「同性愛は謝罪しなければならないもの」という表現については、私は貧乏くじを引いたと諦めるしかないと思っています。
佐藤さんは「差別するつもりはない」と仰りながら、実際はその発言そのものが自分が明確な差別を行っていることを証明しているわけです。
この「差別するつもりはない」ながらもその実「差別している」という構図も今回の件に限らず、様々な状況で見られるものだと思います。
「差別するわけじゃありませんが~」から続く言葉はだいたいにおいて差別ですし、どうやらこの世の多くの人は差別するつもりがなくとも差別を行ってしまうものらしいです。
もちろんそれ自体が唾棄すべき悪というわけではありません。自覚なしに人を傷つけてしまうなんてことは誰にでもあり得ることです(現にこの記事を書いている私も勝手な正義感に基づいて多くの人を傷つけているのでしょう)。
しかしもし私たちが差別という問題に向き合うとき、真に見つめるべきは悪意を以て行われた差別などではなく、そういった無自覚の差別なのではないでしょうか?
例えば上記の事案などは無自覚の差別の典型であると同時にこの世に蔓延る差別的表現の最たるものです。
同性愛者への憎しみに満ちあふれている人が差別をしているわけではないのです。差別というものは酷く普遍的であって、人を傷つけるのは、私たちが日常の中でその気無しに呟いたふとした発言なのです。
悪意を以て行われた行動は悪意にさえ対処できれば解決します。しかし無自覚な行動は無自覚な故にとても対処が難しいのです。
私は佐藤さんの該当ツイートにその無自覚な差別の典型を見出せるように思えました。
そして大人のアニメファンとしていわゆるカップリングというものに傾倒していると、そのカップリングというものが本質的に性別を問わず恋愛を扱うものであるためか、佐藤さんの該当ツイートだけでなく世の中の性愛への無自覚な差別を見ることが数多くある気がします。
例えば「同性愛は嫌いな人もいるから隠れてやらなくっちゃ」という意見。
もちろん嫌いな人がいるのは当たり前ですし、隠れてやるのは人の自由です。そして隠れずに公共の場で恋愛や性愛を意図した表現をおおっぴらにやると、時に人に迷惑をかけてしまうこともあります。TPOを弁えることはとても大事です。
しかしインターネットのTwitterというある程度言論の自由が保証された開かれた場所においてさえ、今回のように「同性愛は相応しくない」といった意見は頻出します。
もちろんカップリングなんてものは非公式な二次創作なわけですし、ファンがその立場を弁えることはとても大事なことでしょう。
問題はこの「同性愛は相応しくない」といった言葉が言外に「異性愛と比べて同性愛は相応しくない」といった差別的な意図を多分にして含んでいることです。
また「当事者に失礼だから同性愛は軽々しく扱うべきではない」という意見。
もちろん創作などにおいては劇中描写として差別的な表現が必要とされる場面などもあり、そういった場合は最大限の配慮を行う必要があるでしょう。
しかし異性同士の恋愛に対する言及や創作がメディアを通じてこの世に溢れる一方で、それがマイノリティとなった瞬間に「配慮」されてしまうというのはおかしな話ではないでしょうか?
BL漫画において「現実のゲイ同士の恋愛はこういったものではない!歪められている!」と怒るのは自由ですが、それは少女漫画やラブコメ少年漫画で描かれる異性同士の恋愛において「こんな恋愛、現実ではありえない!」と言っているのと同レベルの話でしかないと思います。
そして「マジョリティがマイノリティについて創作・発言することは失礼である」ということを許容すれば、それは同様に「マイノリティがマジョリティについて創作・発言することは失礼である」ということにもなります。
もちろん性的マジョリティとマイノリティは全てにおいて対称というわけではなく、歴史上において後者が受けてきた扱いを考えれば、マジョリティと全く同じようにマイノリティを扱うことは必ずしも是ではないでしょう。
しかしあるひとつの発言や創作が、それが持つ意図は全く変わらないのにもかかわらず、その創作者・発言者のセクシャリティによってある日突然「当事者に失礼」というレッテルを貼られてしまうのはそれこそがまさに差別ではないでしょうか?
同性愛が嫌いだろうが他の何が嫌いだろうか、そういったことは先程も言った通りその本人の自由です。
また生理的に嫌いなものを嫌いと発言することも(それによって人間関係に軋轢が生まれてしまうことはあるでしょうが)少なくともTwitterといったような開かれた場においては自由です。
嫌いだと表明することで他人が傷ついてしまうことも、悲しいながらも仕方のないことでしょう。
しかしその嫌いという感情を自覚せず、もしくは自覚していながら、それを覆い隠すように「子供向けアニメで同性愛はよくない」といったようなあたかも他人のためを想っているかのように見せかけた倫理観で自身の好き嫌いを覆い隠し、それを人に押しつけるとなると話は別です。
個人の好き嫌いで人が傷つくのは仕方なくとも、倫理という社会一般に通用するルールで人が傷つくとなればそれは重大な問題となります。
「私が嫌いだからやめろ!」で済むはずの簡単な話が、多くの人が自身の好き嫌いを表明することが恥ずかしいことだと思っているのかそれを倫理や社会のルールで覆い隠して「嫌いな人だっているんですよ?!」にしてしまうせいで、それは他人を無差別に傷つける不用意な発言となっているのです。
お察しの方もいらっしゃるでしょうが、私は同性間の恋愛が描写された創作などが大好きです。
しかしそれらに触れるにおいて、個人の好き嫌いならともかくそれを倫理の皮に被せた形での悪逆で振り回されるのはもう勘弁してほしいのです。
たしかに倫理は大多数の人間の好き嫌いの感情を以てして自然と決定されるものです。しかし現代社会は少しずつマイノリティに対して寛容になってきています。
私たちは少なくとも性自認や性指向といったセクシャリティの問題については、自身の好き嫌いを倫理に転向するのを止めるべきときが来ているのではないでしょうか?
・さいごに
あるテレビアニメに関わる方の自作品についてのツイートに以下のようなものがあります。
この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。
— 久保ミツロウ (@kubo_3260) 2016年12月8日
佐藤さんの該当ツイートで言及している作品とこの方の言及している作品は全く別物であり、描こうとしているテーマも、放送時間帯も、対象年齢も全く違います。
しかしこの方のツイートと比較すると該当ツイートについて「もっと良い書き方があったのではないか」という思いを拭うことができません。
先程同性間の恋愛が描写された創作が好きと書きましたが、しかしカミングアウトすれば私は少なくともいわゆる同性愛の当事者ではないと今のところ認識しています。
私の詳細な性自認・性指向についてマジョリティかマイノリティかまでを言及することは避けます。仮にマジョリティであったとしても自身のセクシャリティを大っぴらにしない権利はあるはずです。
そういった意味で当事者に比べれば同性愛への偏見や差別で感じる痛みは微々たるものです。
しかし当事者ではない私にとっては、同性間の恋愛を扱った創作に触れたり、それを扱ったりすることは「当事者でもないのにその話をするなんて失礼だ」という言葉と常に隣り合わせのものでもありました。
正直に言えば「こんな生きづらい世の中に誰がした」という気分です。
シスヘテロの恋愛しか受けつけないシスヘテロとして生まれ育つことができたらもっと生きやすかったのでしょうが、今更そうもいきません。先程も書いたとおり好き嫌いの感情は、それを表現するかは別にして、それ自体否定しようのないどうしようもないものです。
誰が誰を好きになるといったことももちろんですが、誰が何の恋愛に心を踊らせても、それは真に平等な世の中であれば全く咎められることはないと思うのです。
そもそもマジョリティ・マイノリティというセクシャリティの区分が「差別されなかった側・されてきた側」という以上の意味合いを持つべきではないとも思います。人の性の在り方はもっとグラデーションのように認識されるべきで、仮にマイノリティと呼ばれる方々への差別や偏見が解消されても、セクシャリティというものがその種類によって区分されている限り、その区分に漏れる方への新たな差別や偏見が始まるだけでしょう。
今回の子供向けアニメの件に限らず、あらゆる作品・発言・その他媒体において無自覚に表現されるありとあらゆるしがらみがもし少しずつでも是正されていったとしたら、もう少し面倒事の少ない世の中がやって来るのではないかなと思いました。
わざわざ述べるまでもない愚痴をあけっぴろげに書いて大変恥ずかしい気持ちでもあるのですが、以上が私が佐藤さんの当該ツイートをきっかけに考えたことになります。
もういい加減こういうことに疲れた。楽になりたい