歴史的な『クソゲー』として必ずその名が挙がる『たけしの挑戦状』が発売から今年で30周年だという。
今回確認するとなんとフライデー事件翌日の発売だ(笑)こんな事はすっかり忘れていた。
このゲームに関してなら、当時ボーヤで最初から最後まで事の成り行きを見ていた。
そこで当時の事を思いだし、つらつらTweetしていたら長くなったので、こちらにまとめて書くことにした。また自分で一旦整理しておきたい気持ちもある。
発端はグレート義太夫がファミコンにハマっていると聞いた新し物好きの殿が、ファミコン本体とその「ハマっている」というタイトル『ポートピア殺人事件』を用意させた。
四谷四丁目サンミュージック裏のマンションパレエテルネル住まいの頃だ。
義太夫から簡単に説明を受けながらゲームをはじめた殿は、やがて義太夫を質問攻めにしながら夢中となりハマり込んで行った。連日、仕事を終えるやマンションでゲームをやっている、という具合に。
ただし今から思えば「ハマっている」と言っても1週間程度の話だった。
そしてゲームを進めるそばから「こういうのはどうだ?」「ここがこうなら面白いな?」とゲームをしながら自然にアイディアが次々と浮かんできている様子で、ネタ帳であるノートにも色々書き留めていた。
やがて殿は「面白いゲームが出来そうだ。どこかで作ってくれないかな」と言い出すようになっていた。
当時の殿は、次々に頭に浮かぶ様々なアイディアを片っ端から形にしたがるほどエネルギッシュだった。
そこへほどなく『北の屋』でゲーム会社との初顔合わせの場がセッティングされた。
今回、当時の事を自分なりに調べた。自分も誤解していた部分かもしれないが、そもそも太田プロが当時、ゲーム会社にコネクションがあったかと言えば実に疑わしい。
今まですっかり、殿の意を汲んで太田プロがアレンジしたと思い込んでいたが、実際は元々タイトーからゲーム企画の話が太田プロに持ちかけられており、そこへ殿も「ゲームを作りたい」意志が菊池さんに寄せられ「渡りに船」とばかりに、かなり乱暴ながら場を持ったのかも知れない。
太田プロとしては結論、ビートたけしのゲームが発売されれば良いだけの話だったろう。
そこに問題があったとすると、タイトー自体はキャラクターと名前だけを借りるつもりで、ゲームの企画は既に用意していた。しかし殿は殿で自身の企画があり、双方の目論見は全く別だった事だろう。
当時、アイドルの名を冠したゲームタイトルは少数ながら存在していたが、タレント系の本格的なRPGはなかった。
北の屋の座敷に集った面々は、スーツを着た幹部と思しき社員が5、6人と、そんな彼らと明らかに毛色が違い、スーツの着こなしもゆるい制作側のメンバーが2、3名の総勢10人程度と、正直多すぎると思った。
名刺を受け取ったが前者が「タイトー」で、後者が「セタ」とあった。
事前には「タイトー」と聞いていたので「“セガ”なら知ってるけど“セタ”?」と思い、そのせいで今日までその名を記憶していた。
自分の目からはスーツのメンバーは「せっかくあのビートたけしに会えるのだから」と半ば立場を利用して来てしまったように見えた。
顔を合わせ、挨拶もそこそこに、そこから猛烈な殿のプレゼン兼独演会が始まり、スーツの面々はまるで話について来られず、きょとんとしていた。
そこへラジオ同様、高田先生の無責任で軽薄なあいの手が乾いた声で絡む。
しかしたった一人だけ身を乗りだし、殿と丁々発止とばかりに「じゃこう言うことですか」と立て板に水の如く提案もしつつ対峙していた制作側の人物がいた。
恐らく「セタ」のディレクターだと思うが、カジュアル系のスーツにティアドロップ・フレームのメガネと強めのパーマヘア。もしかするとヒゲもあったか。風貌はクリエーター然としていた。
ともかく反応がよく、時折投げかけられる殿の冗談もキッチリ受け止めて笑っていた。
或いは殿のプレゼンにすっかり魅せられ、感応し引き込まれていたのかもしれない。
プロといえば中には「ゲームを分かってませんね」とばかりにシロウト扱いの姿勢を滲ませる者もいるが、彼は「なるべく希望を形にしよう」とばかりに大きく頷き、時折再確認をしながら、真摯に耳を傾けてくれている。
頭の回転と感覚が良いことは、傍からみてもよくわかった。殿の企画の常識を超えた面白さを完全に理解出来ているのはこの人物だけだった。周囲の様子との落差からもそれが一層際立っていた。
今思えば彼はいったい何者だったのか?
調べると福津浩という人物がこのゲームの正式なディレクターであるが、彼に関して残されたテキストを確認する限り、北の屋の場にいたことだけは間違いないが、自分の人物像と完全な一致を見ない。
また、福津氏には果たして「セタ」の経歴も確認できない。
ゲームの制作なので他の外部スタッフもあるいは臨席していたのかも知れないが、自分には正確には同一人物であると断言はできない。
また、これは自分の憶測だが、タイトーの幹部社員は自社企画の話が、太田プロからしっかりとした趣旨説明がなされていなかったのか、話の流れが一方的な殿から寄せられるものになりつつあったことでひたすらに戸惑っていたのかもしれない。
ーー結局、北の屋が最初の企画会議とも言える場となり、その後は恐らくはそのディレクターが中心となり、殿から出された構想をまとめたものが企画の「タタキ」となって、殿と往復での内容確認が、速度感を踏まえつつ入念に繰り返された。
確認の場の殆どはテレビ局の控え室で、やがて具体的にゲームにまとまったものが出てきた。ファミコンカセットの端子部にむき出しの基板が差し込まれ、その先がPCらしき装置に繋がっている。
そこでは殿に実際にゲームを試してもらったり、キャラクターの挙動と絵の調子や色合い、展開、文字の入れ方と音楽の雰囲気などをチェックしていた。
殿には作品における画(え)とイメージがしっかり決まっているようだった。
横で聞いていると、普段は相手を「大変だろう」と気遣い「それでいいよ」となりそうな部分も、さすがに「自分の作品」との意識が強いせいか、希望をすべてしっかり具体的に伝えていた。
また、ファミコン本体の機能もあれこれ探り、コントローラにマイクがあるのを見つけると「これゲームの中で使えるの?」と確認し「じゃあ、本当は意味はないんだけど、もっともらしく歌を歌わせてさ、くっだらねー!」と、ユーザーがまんまと騙されコントローラーで歌う姿を想像し一人で笑いこけたり、ともかく「くだらなくて不条理」という一貫性でダンジョンを次々に設定していった。
実はゲームのCM撮影の段階でもスタジオ控え室でゲームのα版のチェックはまだ続いていた。
これらから分かるとおり、少なくとも「監修」などと言う関わり方ではなかった。控えめに言っても『企画構成』だろうか。
この場にも例のディレクターは立ち会っていた。この人物に感心したのは、他の良くいるタイプのように必要以上に殿に近づくことが無かった点だ。
控え室に顔を出し、あざとく挨拶に来ることもない。
タレントとしてのビートたけしにはさほど興味がなく、その本人が構想するゲームの完成にだけひたすら没頭していた真のプロフェッショナルだったのだろう。
CM撮影の頃にはほぼ一区切りがついたせいか、ふと見るとスタジオの片隅でスタッフと談笑しながら、今までの仕事に大きな満足を得たような笑顔を見せていた。
ーー30年経った今『たけしの挑戦状』を振り返るとまず「あのディレクターが造ってくれた」との思いが胸に去来する。
殿の意図をしっかり理解し、それを余す所なくゲームに落とし込んでくれた。
もし、このディレクターに「北の屋」で出会わなければ『たけしの挑戦状』は完成しなかったか、少なくとも形は別のものになったであろう。
その意味ではここでもやはり殿は「人」に恵まれたのだと思う。
『たけしの挑戦状』が発売されると殿は一定の達成感があったのか、もともと飽きやすい性格でもあり、以降ファミコンには全く興味がなくなり、触ることさえなくなった。
製品となった『たけしの挑戦状』も確か自身では一度もプレイしていないはずだ。
そもそも『ポートピア殺人事件』でさえ、結局最後まではやっていない。
ーーその後、軍団活動を離れ10年後ぐらいに、業界では有名なCAD/CAM企業と仕事をする機会があって、そこでは自分の背景を知る人物がいたせいか「“たけしの挑戦状”をディレクションした人間が社にいる」と名前だけ伺い「近いうちに会わせます」と言われたまま、その機会も結局訪れず、やがてこちらも名前も失念してしまった。
CAD/CAM業界とゲーム制作の世界は別物ではない。『たけしの挑戦状』発売後にゲーム業界を離れたキーマンがいたのかもしれない。
この人物こそが「あのディレクターだったのかもしれない」との思いがなくはないが、本日までこの確認が取れないままだ。もっとも福津浩氏に会えばそれもすべて分かるのかも知れないのだが。
現在「クソゲー」として誰もが知るほど記憶に残る『たけしの挑戦状』はAmazonでも中古ソフト市場でも売れた数が数だっただけにプレミアどころか数百円だ。
しかしこのありようが、ビートたけし的には何か最高の栄誉に思えてしまうのだ。