14日のTOHOの日にでも、と思ったけれども、14日は公演もあるし、ある意味ふと今日行ってきた。
久々に観るから逆に新鮮やったけど、やっぱさすがに睡魔があって、クリアには観れんかった。
新作じゃないとキツいかな。
そこで、改めて思ったのは、三葉も瀧も、ようは2人とも引っ込み思案な性格で、異性に対して積極的になれん、イマドキの草食系やねん。
けどそれが、入れ替わった相手の立場で、友達とどう接するか?を地でやったら、それぞれにデートができたり告白されたりと、上手く行っとる。
元に戻った、友達関係もそれなりに進展しとるし。
だからこそそれぞれに友達を連れて、それぞれ2通りの冒険が成り立っとるんやな。
私がつねづね言うとることでもある。
自分のことを考えるのは難しい。悩んでまう。
けれども、相手のことを考える、これは難しくない。
だから、友達をつくって、お互いに相手のことを考え合ったらええねん。
あと、糸守に組紐が伝わったの、彗星の流れるさまが組紐の描写に繋がっとったけど、彗星の流れるさまを、目で見てもそうやし、歴史的に時代を繋げてきたという意味でも、組紐(結び)という文化は重要やったんちゃうか。
おばあちゃん(一葉)がことさらに”結び”について言うとるのは、そんなことが内的なイメージにあったんちゃうかと思う。
しかしそれにしても、そんな運命の片割れが、それぞれ東京と飛騨に住んでいるっていうのは、ビミョーかなあ。
イマドキの草食系の男女に対して、目の前の好きなヒトに向かって、さあ!というような主張を、ホンマはしたいとこなんやけど、それが東京と飛騨では難しい。
とくに女の子なんか、「近くのヒトではなくて、遠くに運命の王子様がいるのだろう」とか思うてまうんちゃうか?
そこの、観客の側が持つはずのギャップまでは吸収できてないんちゃう?
それを考えると、夢で入れ替わったのは実は幼馴染だった、みたいなほうがええかもやけどなあ。
そこまで考えたら、たとえば瀧も先祖は糸守出身だったことにしたらええのか。
けどそれでは、糸守に隕石が落ちた事件を、瀧が知らんはずはなくなるしなあ。
ヒトを説得する、というのと、恋愛と、実はほとんど違わない。
言い換えたら、恋愛上手の者がする説得には具体性があるけど、恋愛したことがない者の説得は抽象的理屈的で、ようは前者が上手で後者はヘタクソといえる。
活動家には一人身の者が多くて、それ自体は悪いことではないけど、恋愛の想像ができないところはマズいかなあ・・・ それよりも運動だ!とか言っている人々が結婚している場合もあるけど、理念で共闘できたから結婚するという単純なものではなくて、本気でお互いに恋に落ちた実感があるかどうか、というのは大事と思う。
まあ、それはええか。
あと、前にも指摘したかもやけど、ドアが閉まる描写って必要なんかなあ?
なんか意識的に描いてあったけど、私はウザいと思った。
あと、隕石が落ちるときの”ガーン”(みたいな)音、アレ必要?
いや、必要としても、なんかあの音は違う気がする。
ラストで、画面の真ん中に”君の名は。your name.”って出て来るのもなんかあざとらしくて、私の感覚とは違うと思った。
”千と千尋の神隠し”以外のすべての作品を上回る興行成績らしいけど、当然のようにこうしたほうがよかった、というところはある。
人物の走る描写とかヘナヘナやと思うし。
そういえば、作画監督の安藤雅司ってジブリでけっこうな地位やったなあと思って検索したら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E9%9B%85%E5%8F%B8
”耳をすませば”ではなくて、併映の”On Your Mark”ではじめて作画監督になって、・・・・先日ASKAがまた覚せい剤使ったとかで再逮捕さたけど・・・・
私がなんで名前覚えとるかというと、”近藤喜文の仕事 動画で表現できること (スタジオジブリ) 責任編集:安藤雅司”という本を作ったからやな。
https://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%96%84%E6%96%87%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B-%E5%8B%95%E7%94%BB%E3%81%A7%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8-%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%96%84%E6%96%87/dp/B00Q9U2Q6G
コレ、近藤喜文さんが亡くなって、安藤雅司さんが責任持ってジブリが自費出版したんかな?
ISBNコードもなくて、書店にも出回ってないけど、私は通販で買った。
流山の家にそのままにして、私はドイツに亡命してそれっきりやから、どこにいったかワカランけど。
大西弘子信用にならんと思って、いっちゃん重要なもの
は伊達娘にあげたけど、いまになって考えたら正解やなあ。
冊数出とる本は、少々高くなっていても、カネさえ出せば買えるからなあ。
こう書いたら、私も”君の名は。”と全く関係ないわけでもないように思えてくるよなあ。
しかし改めて考えると、”君の名は。”は、空前のブームになった”もののけ姫”さえをも超えたんやな。
現代人のココロをよく捉えたというしかない。
たとえば、瀧が就職に悩むところなんか、映画”何者”ともオーバーラップするけれども、コレはコレで若者のリアルやねん。
企業にどうやって入社して、さらにそこでどうやって媚びて、どうやって人生を、結婚して、家族をつくって、それなりに生きてくか?
それが若者のリアルな悩みやねん。
そこに繋げたからこそ、これだけヒットしたともいえるやろ。
私は、権力者に媚びてくだけでは、子孫の代がどんどん酷い生活になるだけやと言って、敢然と立ち向かっている。
私はきっと、そのへんの活動家よりも何倍も信念が強いと思う。
信念が強いのを知っているからこそ、権力は私を怖れている。
権力は私を怖れているけれども、味方のほうがまだまだ私を怖れてない。
「君達には分からないのかね。あの若者の中には100人のマリウスがいるということを」
というのは、スッラの言葉か。検索したらこういう経緯やな。
http://worldbiography.blog62.fc2.com/blog-entry-27.html
その処罰者名簿には若き日のガイウス・ユリウス・カエサルの名も連ねられていたが、周辺から助命の嘆願が相次ぎ、処罰者名簿からしぶしぶ外した。その時はスッラは周辺に「君達には分からないのかね。あの若者の中には100人のマリウスがいるということを」と言ったと伝えられる。カエサルの非凡さを最初に見抜いたのは皮肉にも政敵スッラだったのである。カエサルには民衆派指導者だったキンナの娘との離婚を条件に処罰対象から外す旨の条件が示されるが、カエサルはこれを拒否、小アジアへ逃亡する。
”民衆派指導者だったキンナの娘”と結婚していたカエサルは、その離婚を拒否した、その事実は、カエサルはすなわち民衆派やったんや。
そして、共産主義という言葉ができる以前であるとしても、民衆派であったということは、それはすなわち我々がいう共産主義となんも変わらんハズや。
あるとき誰かが発明したからといって、それ以後そいつの言うとることだけが正しいのではなくて、その発明者が発見できんかったことを、昔のヒトが発見しとることが往々にしてある。
ある学説を前の学説が覆す、というのは、人類史を均して見たとき、往々にして起こり得るハズやけど、どうも人類の大勢はそれが理解できず、近視眼的に、新しいもののほうが正しいとついつい思うてもとる。
なんかだいぶハナシが脱線したけど、新海誠がスッと宮崎駿に並べたのも、宮崎駿がさほど描こうとしなかった、現代の若者をスッと描いたところが大きいと思う。
そういう意味では、個人的に、熊徹はまるで私と思っている”バケモノの子”における細田守も、現代の若者への肉薄という意味ではちょっと劣っていたのかなあ。
私がもし作品を作るとすると、こだわるつもりはないけど、せっかくなのでアイドルのリアル、アイドルになりたい子のリアル、みたいなものにするかなあ。
けど、それだけやと地味やし、地味でも”がんばっていきまっしょい”みたいな佳作はできるけど、完全創作でひねりを加えたいなあ。
”君の名は。”も”バケモノの子”も、私の想像を超えるストーリー展開やったんやし、それを超えるにはどうするかなあ。
まあ、あんま考えずに、シンプルな物語にして、あとは俳優に考えてもらう、と開き直って、”がんばっていきまっしょい”レベルの脚本のほうがいいか。
てか、AKBがこんだけ隆盛やし、”がんばっていきまっしょい”もモー娘。の掛け声になったくらい知れ渡っとるのに、
”がんばっていきまっしょい”をアイドルに舞台でさせる!という企画は出てきてないねんな。
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