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筋トレをしろ。うつが治るから。

さあ、今がその時だ。さっさとやるんだ。

病気を、親の自殺をネタにすることについて

たのしい生活

お金や、PV数という「報酬」のために書くという人もいると思います。

もちろん、書いてお金が儲かって、PVも稼げて有名になり、セレブ生活を送るとか、そういうのは私だって憧れます。

自分より売れてる人のことは羨ましいなと当然思います。

が、何もなくても、機会が与えられなくても、私は多分書くと思うんです。

書くとき、観察者としての自分を強く意識するから、親が死んだり、病気したりしたとき、ギリギリで生きる選択をするだけの冷静さを持てたんだろうと思います。

ああ、自分は書きたいんだな。そういう自覚に至るまでの、10代の頃にもいろんなことがありました。親が離婚したり、ものすごく貧乏になったり、思春期の統合失調症になったりとかですね。家出もしょっちゅうしていたし。でも、その時は自分が一人しかいない感じがした。だからすごく苦しかった。

「書く自分」が生まれ、ちょっとずつ育っていくなかで、「ああ、これを文章にするとしたらどう書くかな」という視点ができてから、本当に辛い時は「これもネタ。ネタにできる。いっちょこの出来事をよく味わっておこう」っていう逃げ場ができたんだと思います。

だから、私は誰からも頼まれてないのにこういうところで書いています。それは自分のためっていうのはまずあると思う。

自分が楽になった方法について書き記しておくことは、あとで自分が見返して思考の経緯を辿れるのですごくメリットが大きいと思うんだけど(Googleにきいても、私のことは私にしかわからない)、それともう一つ。それとは別に、他人に道具を提供することが、自分が人の役に立って嬉しいっていう体験につながっていくことを私は知っているので、それがしたい。

人の役に立ちたいっていうのは本能に近い欲望だと思う。

 

こういうことばっかり書いてるので、自分の人生上の辛かったことについて、「それをネタにして表現しているのが、あざとい」という人に会ったこともありますが、そっちの方面を向いてると何も書けなくなるので、すみませんが無視させて下さい。

「この程度なら私も書ける」という人にも会ったことがあるけど、あなたの言うとおり、あなたは書けます。私はあなたの存在を脅かしません。あなたが書いて私も書くって言う世界がありうるんです。あなたも、ぜひ書いて下さい。