安岡明夫HP(yasuoka.akio@gmail.com)

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=チベットが近年、独立国であった事実はあったか<1>=
1.石濱裕美子氏は次のように述べる。

「一九一二年に(清朝が滅び)中華民国が成立すると、ダライラマ十三世はチベットが中国と別個の政体に属することを正式に表明するために、中国人を国境外に放逐し、一九一三年には独立を宣言した。これ以後の四〇年間、チベットは国際的な承認こそえようとしなかったものの、事実上の独立国家であった。しかし、一九四九年に中華人民共和国が成立すると、中国軍は東チベットに侵攻し、1951年にはラサに到達した。中国軍のラサでの駐留は、元々貧しかったチベットの経済を圧迫したため、中国軍とチベットの民衆との対立が深まり、ついに一九五九年に「チベット動乱」が勃発、ダライラマ十四世はインドに亡命し、チベットは中国に併合された」(参考文献1;p.425-426)。

「・・ダライラマにたいするノーベル平和賞の授与(1989年)には、国際社会がデモを軍隊によって鎮圧した中国政府を非難し、チベットを支配されても一貫して非暴力の姿勢をとりつづけるダライラマ十四世を評価すると言う意味合いがこめられていた」(同p.428)。

1.ここには実は、幾つもの問題点が隠されている。
第1に、1913年の「チベット独立宣言」とは本当に”独立宣言”だったのかと言う問題だ。「チベットは国際的な承認こそえようとしなかったものの、事実上の独立国家であった」と言うが、「国際的な承認」を得ようとしないものが「「独立宣言」なのか?そこには、そもそもチベットが「独立国」を名乗るには無理な事実があったに違いない。北海道や千葉県が勝手に独立したと称しても全く無効である。或いはリンカーンに反対して米国南部が勝手に奴隷制を維持するため「独立」しても無効である。国際的な承認と全く無関係に、勝手に自分達だけで内輪に「独立」を叫べば「独立宣言」だったと言う言い分は通らない。

そのことを如実に示す事件がある。山口瑞鳳氏は述べる。

「そのような経緯もふまえたうえでマクマホン(英国全権委員)によってシムラ会議が催された。チベットの独立は、もちろん中国の認めるところではなかったが、イギリスも従来の外交的経緯からチベットの独立を承認するものではなかった。一九一三年一〇月、しぶる中国から陳貽範(中国全権委員)を代表に迎え、チベット側代表シェーダワ=ペルジョル=ドルジェ(西蔵全権委員)を相手にしてマクマホンが(一九)一四年二月に示した案件はつぎのようであった。

中国のチベットに対する宗主権を認めたうえで・・その自治権を認め、ダライ=ラマの選定も含めて内政に干渉しない。・・

・・中国は・・この条約に調印しなかった」(参考文献2;p.614)。

ここでどうして英国が登場しているのだろうか?実は、ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった。

1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。

「…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文3;p.62)。

遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献4;p.784)。

この戦争の時、チベット兵は大量の銃を持っていた。訓練の差である(参考文献5;p.292-293)。

だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された(同p.328)。このずる賢さが成功した。英国は同じように第1次大戦前、中東で一方でユダヤ人に建国を認めてあげますといい、一方でアラブ人にも独立を約束していたが、甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ。

然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。

しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ(つづく)。

参考文献:
1.「中央ユーラシア史」(小松久男編/2005/山川)
2.「中央アジア史」(江上波夫編/1987/山川)
3.「チベット-その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
4.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
5.「ヤングハズバンド伝」 (金子民雄/2008/白水社)
6.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
7.「赤いチベット」(R・フォード/1959/新潮社)

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